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第001話 傷だらけの異世界転移

 黒い焔が、拳を包んでいた。


 振り下ろされる棍棒を、もう避ける余裕なんてない。


 だけど身体が勝手に動いていた。考えるより先に、拳がゴブリンの顔面を捉えていた。


 黒い焔が醜悪な顔を包み込み、肉が弾ける。


 返り血が頬を濡らすが、それでももう怯まない。


 ——死ねない。

 こんなところで死ぬわけにはいかない。

 おれの邪魔をするな。


 この黒い焔が何なのかは分からない。

 なぜ自分がこんな場所にいるのかも、まだ理解できていない。


 ただ一つだけ、確かなことがある。


 すべては、あの日から始まった。




 ◆◇◆◇◆◇◆




 玄関のドアを開けた瞬間、花菱(ハナビシ)エミルの足が止まった。


 真っ暗だ。

 いつもなら夕飯の支度をしている時間帯のはずなのに、味噌汁の香りも、包丁がまな板を叩く音も、テレビの雑音すらも何もない。


「……母さん?」


 声をかけても、返事はなかった。

 代わりに聞こえてきたのは、奥のリビングからの異音。


 ヒュウ……ズズ……ヒュウ……。


 壊れた笛みたいな、か細い音。


 ドクン、と心臓が嫌な音を立てる。嫌な予感なんて言葉じゃ足りない。


 手のひらに汗が滲んで、気づけばクリアファイルが足元に落ちていた。中に入っていたのは三社分の履歴書。


 今日、十年ぶりにまともな面接ができて、「うまくいったかも」と報告するはずだった戦果だ。


 それを拾うことも忘れ、靴を蹴り捨てて廊下を走った。


「母さんッ!」


 リビングに飛び込んで、息が止まった。


 フローリングに広がる、赤黒い血の海。

 その中心に、今朝「頑張ってね」と背中を押してくれた母が沈んでいた。


「母さん……!」


 膝から崩れ落ちるように駆け寄り、震える手で母の身体を抱き起こす。真っ白だったブラウスが、見る影もないほど血に染まっている。


「どうしたんだよ、これ……何があったんだよ……!」


 掌に伝わるぬめりとした感触。生温かい血が、指の間から止めどなく零れ落ちていく。鉄錆の臭いが鼻を突いて、思考が真っ白に染まった。


 ——止血だ。止血しないと。どこを押さえればいい? 傷口はどこだ?


 分からない。どこをどう触っても、血が溢れてくる。


 三十五歳。無職。引きこもり歴十年。

 アニメやゲームの知識だけは腐るほど詰め込んできた。医療ものだって散々見てきた。なのに現実の血は、画面の向こうのそれとはまるで違う。こんなにも生温かくて、こんなにも手に負えない。


「救急車……そうだ、救急車!」


 血で滑る指でスマホを取り出す。

 だが、画面が母の血で汚れ、タッチパネルがまともに反応しない。


「動けよ……クソッ、動けって……!」


 必死にシャツの裾で画面を拭う。指が震えて、何度も誤タップを繰り返す。

 やっと「1」を押せた。次は「1」、あと一つ——。


「エミ……ル……」


 消え入りそうな声が、名前を呼んだ。


「喋るな! 今すぐ救急車呼ぶから! すぐ助かるからさ!」

「もう……いい、の……」


 母の手が震えながら持ち上がり、スマホを持つエミルの手に触れた。


 氷みたいに冷たいのに、なぜかその感触だけが温かい。


「あんたが……いてくれて……どうか……生きて……幸せに……」


 血の泡を吐きながらも、母は笑っていた。


 ——なんで。

 なんでそんなこと言うんだよ。


 この十年間、一度だって働かなかった。部屋に引きこもって、母の給料を食い潰してきた。

 今日面接に行ったのだって、自分のためじゃない。このまま母さんが年を取って死んだら、天涯孤独になるのが怖かっただけだ。最後まで自分のことしか考えてなかった、どうしようもないクズだ。


 そんなろくでなしの息子に、「幸せに」だなんて。


「おれ……おれさ、ちゃんと面接受けてきたんだ。小さな会社だけど、面接官もいい人でさ……多分、採用してもらえると思うんだよ。だから……だから、もうちょっとだけ——」


 返事は、なかった。


 ただ母の唇が微かに、本当に微かに、笑みの形を作った気がした。


 ヒュウ、と細い息が漏れる。

 母の身体から、力が抜けた。


 そして、二度と吸うことはなかった。


「……母さん?」


 揺さぶっても、反応はない。


「母さん!」


 頬を叩いても、まだ温もりの残る身体を強く抱きしめても、返ってくるのは沈黙だけ。


「ああああああああッ!」


 獣みたいな声が、自分の喉から飛び出した。


 ——おれのせいだ。

 もっと早く帰っていれば。

 もっと早く働いていれば、こんなボロアパートじゃなくて、セキュリティのしっかりした場所に住まわせてやれたのに。


 いや、違う。


 そもそも、おれが引きこもりになんかならなければ。


 就職に失敗したとき、母さんは何も言わなかった。会社を辞めて部屋に引きこもったときも、何も言わなかった。十年間、文句ひとつ言わずに飯を作り続けてくれた。


 ——『エミル、ご飯できたわよ』


 毎日、ドア越しに聞こえたその声。おれは返事もしなかった。母さんが風呂に入った隙に、こそこそとリビングに行って、冷めた飯を一人で食った。


 ——『いつでも待ってるからね』


 ある日、ドアの向こうからそう言われた時も、何も答えなかった。


 なんで怒ってくれなかったんだよ。

 なんで「いい加減にしろ」って、「働け」って、「出ていけ」って、そう言ってくれなかったんだよ。

 そうしてくれたら、おれだって……。


 本当に?

 本当にそれで変われたのか?


 ……嘘だ。

 変われなかった。変わる勇気がなかっただけだ。

 母さんが優しかったから甘えた。怒らなかったから逃げ続けた。

 結局、全部おれの弱さだ。おれが、母さんを殺したんだ。


 後悔と絶望がぐちゃぐちゃに混ざり合って、頭がおかしくなりそうだった。


 その時。


 カツン。


 玄関の向こうから、硬い靴音がした。


 ——誰だ?


 涙で歪む視界の端で、開けっ放しのドアの向こうの気配が動く。

 廊下を、誰かが走り去る足音。


 帰宅直後の記憶がフラッシュバックした。

 アパートの廊下ですれ違った男。フードを目深に被って、顔は見えなかった。この辺りでは見かけない風貌で、あの時はセールスか何かくらいにしか思わなかった。


 ——あいつだ。

 あいつが母を殺したんだ。


 根拠なんてない。

 だけど、直感が叫んでいた。間違いない、と。


 悲しみが、一瞬で煮えたぎる憎悪に塗り替わる。


「……殺してやる」


 母をそっと床に寝かせ、立ち上がる。

 ふらつく足を叱咤しながら廊下を走り、血濡れの手でドアノブを掴んだ。


 その瞬間。


 カッ!


 世界が、白い光に包まれた。


「え?」


 足元の感覚が消えた。重力が消えた。

 何が起きているのか分からないまま、ただ光の渦に呑み込まれていく。


 ——待て。

 あいつを追いかけないと。逃がすわけにはいかないんだ。

 遠くへ行く前に……!


 意識が遠のく中、必死に足を動かそうとした。

 だけど身体は言うことを聞かない。


 視界が白く染まり、そして、意識が途切れた。




 —————




 最初に感じたのは、土の匂いだった。


 コンクリートでも排気ガスでもない。湿った腐葉土みたいな、濃い生命の匂い。


「……っは……!?」


 ガバッと上半身を起こす。


 視界に飛び込んできたのは、見たこともないほど青く澄み渡った空。そこに浮かぶ、やけに眩しい太陽。さっきまでいたはずの木造のアパートも、血の海も、何もない。あるのは見渡す限りの草原だけだ。


「どこだ、ここ……」


 夢か?

 いや、頬を撫でる風の感触も、尻に感じる土の冷たさも、あまりにリアルすぎる。


 何より。


 視線を落としたワイシャツには、べっとりと赤黒い染みがこびりついていた。


 間違いない、母の血だ。

 乾き始めて黒ずんだそれが、あの地獄が夢じゃなかったと突きつけてくる。


「早く戻らないと……!」


 慌ててポケットからスマホを取り出す。

 画面には血がこびりついているが、なんとか起動している。


 画面の左上には「圏外」の二文字。


「くそ……!」


 分かっていた。ここは日本じゃない。そんなこと、この景色を見れば嫌でも分かる。


 それでも、指が勝手に緊急通報の番号をタップしていた。何かに縋りたかった。


 呼び出し音は、鳴らない。

 当たり前だ。当たり前なのに。


「ああ……っ!」


 やり場のない怒りがこみ上げ、地面を何度も殴りつけた。

 ゴツ、ゴツ、と鈍い音が響いて、硬い土くれが拳に食い込む。関節から血が滲んだ。


 痛い。

 だけど、そんな痛みなんてどうでもいい。


「あああ……ああ……ああああああああああっ!!!!!!!」


 やり場のない怒りは、やがて自分自身へと向かった。


 衝動のまま顔に手を伸ばし、爪を立てて肌を掻きむしる。

 もっと痛みを。この罪を塗り潰すほどの、もっと強い痛みを。


「おれが死ねば良かったんだ……なんでおれが生きてるんだよ……!」


 就職なんて考えなければよかった。家にいれば守れたのか?

 いや、もっとまともな人間に育っていれば良かったんだ。


 もう、どうだっていい。

 このままここで朽ち果てて、獣の餌にでもなればいい。それが今の自分にできる唯一の……。


 その時だった。


 うなだれた拍子に、胸元で何かが揺れた。


 首から下げた、不格好な手作りのお守り。

 今朝、母が「久しぶりだから緊張するでしょ」と、照れくさそうに渡してきたものだ。


 ——『これ、私が作ったの。出来栄えはあまり良くないけど……面接、頑張ってね』


 震える手で、それを握りしめる。

 安っぽい布の感触が、母の手のぬくもりを思い出させた。


 ——『どうか……生きて……幸せに……』


 母の最期の言葉が、脳裏に蘇る。


 ——幸せになれ、だって?

 こんなおれが?

 最後の最後まで迷惑かけて、守ることもできなくて、情けない姿しか見せられなかったおれが?


 無理だよ、そんなの。


 ……でも。


 ここで死んだら、母さんの最期の願いすら裏切ることになる。


 泣いて、喚いて、悲劇の主人公気取りで朽ち果てて……それで終わりか?

 ずっとそうやって逃げてきたんじゃないのか。

 都合の悪いことがあれば部屋に引きこもって、現実から目を背けて、「どうせおれなんか」と言い訳ばかりして——。


 違う。

 違うだろ、花菱エミル。


 お守りの紐が千切れそうなほど、強く握りしめる。


 ——あの男だ。

 母さんを殺したあの男に、同じ苦しみを味わわせる。

 復讐を遂げるまでは、死ぬわけにはいかない。

 悲しむのは後だ。後悔で潰れるのは、全てを終わらせてからでいい。


 ゆっくりと立ち上がった。


 足はまだ震えている。十年の引きこもり生活で衰えた身体は、立っているだけでも辛い。

 それでも、歩かなければならない。


 この見知らぬ世界で生き延びて、必ず元の世界へ帰る方法を見つける。


 母の仇を討つために。

 そして、もう二度と、大切なものを失って後悔しない自分になるために。


 その時。


 ガサリ。


 背後の茂みが、不自然に揺れた。

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