雨上がりのキス —— 忘れていた愛の色
私の名前は美月。28歳、都内の広告代理店でクリエイティブディレクターをしている。
高校生の頃から絵を描くのが好きで、美大に進学。そこで出会った沙織とは卒業後も付き合いが続き、いつしか恋人同士になっていた。
恋人。その言葉を頭の中で反芻すると、いつも少し切なくなる。
最近の私たちは、すれ違いの日々。お互いに仕事が忙しくて、一緒に過ごす時間が激減していた。
携帯の画面に映る沙織からのメッセージは、「今日も遅くなりそう」という内容ばかり。私も同じだったけれど。
そんなある水曜日の夕方、突然の夕立に見舞われた。
「あぁ、傘持ってくるんだった…」
オフィスビルを出たところで、空からバケツをひっくり返したような雨。急いで近くのカフェに駆け込んだ。
窓際の席に腰掛け、雨に濡れた街を眺める。光と影が交錯する都会の風景は、私の心模様そのものだった。
「ねぇ、美月」
突然、背後から聞こえた声に振り返ると、そこには沙織が立っていた。
「え、なんで…?」
「心配したから。いつも遅くまで働いてるって聞いたから、傘持って迎えに来たの」
沙織は少し照れくさそうに笑った。その笑顔を見るのは久しぶりのことだった。
「座っていいかな?」
彼女が向かいの席に座ると、テーブルの上でそっと手が触れ合った。小さな電流が走るような感覚。
二人の間に流れる時間が、少しだけ歪んだように感じた。
カフェの窓から見える街の風景も、いつもと違って見える。雨に洗われた空気が、現実と幻想の境界線をぼかしていく。
「最近、ごめんね。忙しくて」
沙織の言葉に、私は首を横に振った。私だって同じだから。
言葉はなくても、沙織の目を見れば全てが分かる。それが私たちの関係だった。何年経っても変わらない特別な絆。
カフェで過ごした時間は、不思議なほどあっという間に過ぎていった。雨音をBGMに、二人は他愛もない会話を楽しんだ。
「あ、雨が止んだみたい」
沙織の言葉に、私も窓の外を見た。確かに雨は上がっていて、湿った空気が街にまとわりついていた。
「少し歩こうか」
カフェを出た二人は、雨に濡れた歩道を歩き始めた。水たまりに映る街灯の光が、揺れながら美しく輝いている。
街路樹の下で、ふと沙織が立ち止まった。
「美月、最近ちゃんと伝えられてなかったけど、本当にあなたのことが大切だよ」
その言葉に、胸がキュッと締め付けられた。
沙織がそっと私の頬に手を添えると、時間が止まったかのような感覚。
彼女の顔が近づいてくる。瞳に映る私自身が、期待に震えているのが分かった。
沙織の唇が、柔らかく私の唇に触れた瞬間。
世界が色彩を失い、そして爆発するような鮮やかさを取り戻した。
唇と唇の間で交わされる無言の約束。
沙織の吐息が頬を撫で、甘い香りが鼻腔をくすぐる。温かく、しっとりとした感触が全身を包み込んだ。
キスは長くはなかったけれど、永遠のような一瞬だった。
離れた後も、二人の間には見えない糸が張り巡らされているような、そんな一体感があった。
「雨上がりのキスって、特別な気がする」と沙織が囁いた。
確かに。雨に洗われた世界は、二人だけの秘密の場所になっていた。
私たちの間に流れていた小さな溝が、このキスで埋められていくのを感じた。
これからも忙しい日々は続くだろう。でも、この瞬間を忘れることはないだろう。
沙織の手を握りしめながら、私は思った。
愛は、日常の小さな奇跡の中にこそ存在するのだと。
二人は濡れた歩道を歩きながら、久しぶりに腕を組んだ。
「あのさ、週末の予定はどう?」沙織が突然聞いてきた。
「特に入ってないよ。なんかある?」
「海に行かない?二人で。茅ヶ崎の海岸、昔よく行ったじゃん」
懐かしい場所の名前に、私は思わず足を止めた。
大学生の頃、私たちはよく茅ヶ崎の海に行った。そこで初めて手を繋いだのも、初めて「好き」と言葉にしたのも。
「行こう」即答した私に、沙織は満面の笑みを浮かべた。
「じゃあ、土曜日の朝に迎えに行くね」
当たり前のように沙織が言った言葉が、なぜか胸を熱くした。
私たちの間に流れる日常が、少しずつ戻ってきている気がした。
その夜、私はベッドに横たわりながら、久しぶりに絵を描いた。
芸術大学を出て広告の仕事に就いてからは、純粋に「描きたい」と思う気持ちが薄れていた。
でも今、描きたいものがあった。雨上がりの街で、私を見つめる沙織の瞳。
筆を走らせながら、私は思い出していた。
沙織との出会いは美大の入学式。緊張で固まっていた私に、彼女が話しかけてきた。
「あなたの目、キラキラしてるね。何を描く人?」
その質問から全てが始まった。
私が内向的な性格で、誰とも深く関わらないタイプだったのに対し、沙織はオープンで社交的だった。正反対の二人が、絵を通じて少しずつ距離を縮めていった。
私が女性を好きになることに悩んでいた時も、沙織は言った。「愛は形じゃない、気持ちだよ」と。
夜が更けていく中、描き続けた絵に満足げな笑みを浮かべる。こんな風に没頭するのは何年ぶりだろう。
明日の仕事は早いけれど、今夜は特別だ。
スマホを取り、サプライズで沙織に送った。「描いたよ」というメッセージと共に。
すぐに返信が来た。「美しい…ずっと待ってたんだ、あなたが再び描く日を」
その言葉に、私は気づいた。
沙織は知っていたんだ。私がどれだけ自分の原点を忘れていたか。
そして、彼女は今日のキスで、私に思い出させようとしていたのかもしれない。
絵を描く喜び、誰かを愛する喜び——忙しさの中で見失っていた私の大切なもの。
週末の海。そこで二人の新しい物語が始まる予感がした。
土曜日の朝は、驚くほど晴れわたっていた。
約束通り沙織が迎えに来て、二人は電車で茅ヶ崎へ向かった。
「思い出すなぁ、学生の頃はよくこの電車に乗ったね」
窓の外を流れる景色を眺めながら、沙織が言った。
時折、私たちの肩が触れ合う。学生の頃と同じような距離感なのに、今はもっと深い意味を感じる。
「最近さ、美月はどう?仕事、忙しいんでしょ」
何気ない質問だったけど、私は少し考えてから答えた。
「忙しいけど…水曜日以来、少し変わったかも」
「どう変わったの?」
「また絵を描くようになったの。ただ自分が描きたいって思う絵」
沙織の顔に驚きと喜びの表情が広がった。彼女は何も言わず、ただ私の手を握りしめた。
沙織は知っていた。私が仕事のために自分の絵を犠牲にしてきたことを。
茅ヶ崎の海は、記憶の中よりも美しかった。
波の音と潮の香りが、懐かしさと新鮮さを同時に運んでくる。
「あのとき座った場所、覚えてる?」沙織が指さす方向に目をやると、小さな岩場が見えた。
「もちろん」私は微笑んだ。
あの岩場で、私たちは初めて手を繋いだ。勇気を出して告白したのも、あの場所だった。
二人でそこに向かい、座る。七年の時を超えて、同じ場所に戻ってきた感覚。
沙織はバッグから小さな紙袋を取り出した。
「開けてみて」
中には小さなスケッチブックと高級な画材セットが入っていた。
「沙織…これ」
「美術用品店の前を通ったとき、思わず買っちゃった。美月が再び絵を描く日が来ると信じていたから」
その瞬間、私は涙が溢れるのを止められなかった。
海を背景に、沙織は私の涙を優しく拭った。
「描いてみない?この景色。私たちの特別な場所」
私は無言でスケッチブックを開き、筆を走らせ始めた。
描きながら気づいた。沙織がいつも私を見守っていたこと。仕事に没頭する私を心配していたこと。
完成した絵を見て、沙織は小さくため息をついた。
「これが私の見ている美月。輝いている、あなたの目」
そこには、海と私たち二人の姿が描かれていた。現実よりも少し色彩豊かに、でも確かに今の私たちそのものだった。
「沙織、私ね…」言葉にしようとした瞬間、沙織の携帯が鳴った。
沙織の表情が一瞬で変わる。画面を見ると、彼女は申し訳なさそうに言った。
「美月、ごめん。緊急の仕事…」
*
「仕事、行かなきゃいけないの?」
沙織は苦しそうな表情で頷いた。「大事なクライアントから緊急の依頼で…」
そして彼女は言った。「でも、美月と過ごす今日を壊したくない」
私は少し考えた後、突然立ち上がった。「一緒に行くよ」
「え?」
「あなたの仕事場に。私もノートパソコン持ってきてるし、隣で自分の仕事をしながら待ってる」
沙織は驚いた顔をしたが、すぐに笑顔になった。
「美月らしくないね。昔なら『仕方ないね』って言うだけだったのに」
確かに。以前の私なら、ただ諦めていただろう。でも、今は違う。
「雨上がりの日に約束したでしょ。私たちの時間を大切にすること」
沙織の瞳が潤んだ。あの日のキスの意味を、彼女も同じように感じていたんだ。
一時間後、私たちは沙織の職場のミーティングルームにいた。
沙織は隣の部屋でクライアントと打ち合わせをし、私は持参したパソコンで仕事を進めていた。
窓から差し込む夕日が、不思議と雨上がりの日の光と重なって見えた。
私はふと、スケッチブックを開いた。そして、描き始めた。
仕事をしている沙織の姿。真剣な横顔、集中している時の小さな癖、電話で話す時の手の動き。
気づけば時間が経ち、沙織が疲れた様子で戻ってきた。「お待たせ」
彼女の目が私のスケッチブックに止まる。「それは…?」
「あなたの仕事姿。描いてみたかったの」
沙織は静かにスケッチブックのページをめくり始めた。
そこには、これまでの私たちの物語が絵になっていた。
雨の日のカフェでの再会。街路樹の下でのキス。電車の中で手を握る様子。海辺で絵を描く私自身。
最後のページには、未完成の絵があった。2人で暮らす部屋のスケッチ。
「美月…これは?」
深呼吸して、私は言った。「沙織、一緒に住まない?」
大学卒業後、別々に暮らしていた私たち。仕事が忙しくなるにつれ、会う時間も減っていった。
「本当は水曜日、言おうと思ってたの。でも、雨に降られて…」
沙織は黙って私を見つめ、そして抱きしめてきた。温かい。
「美月、実はね」彼女はバッグから一枚の紙を取り出した。「これ、見て」
それは新しいマンションの契約書だった。二人分の名義になっている。
「え、これって…」
「私も同じこと考えてた。だから内緒で準備してたの。二人の新しい場所」
思わず笑いがこみ上げてきた。こんな偶然があるなんて。
「でも、仕事は?忙しいのは変わらないよ」と私。
沙織は微笑んだ。「それでいい。忙しくても、帰る場所が同じなら」
部屋を出ると、外は小雨が降り始めていた。
「また雨…」私が言うと、沙織は首を振った。
「違うよ。これは新しい雨。新しい始まりの雨」
そうか。最初の雨は私たちを再会させ、今日の雨は新しい一歩を祝福してくれている。
沙織が傘を広げ、私の頭上にかざした。「美月、行こうか、私たちの家に」
世界は雨に洗われ、全てが新鮮に見える。そんな中で交わした二度目のキスは、最初のものより深く、未来への約束に満ちていた。
——一年後——
私たちの新しい部屋の壁には、あの日描いた絵が飾られている。
忙しい日々は相変わらずだけど、帰る場所が同じなら、それは幸せの形なのだと気づいた。
そして今日も、窓の外では雨が上がり、美しい虹がかかっている。
<終わり>
あとがき
皆さん、こんにちは!『雨上がりのキス』をお読みいただき、ありがとうございます。
この物語は、忙しさに紛れて見失いがちな「本当に大切なもの」について考えるきっかけとして書きました。特に女性同士の繊細な愛の形を、雨という美しい自然現象と共に描きたいと思ったんです。
実は、美月と沙織のキスシーンを書くとき、めちゃくちゃ緊張しました 「単なるキスシーン」で終わらせたくなかったんです。二人の唇が触れ合う瞬間が、ただの身体的な接触ではなく、失われかけていた絆を取り戻す「儀式」のように感じられるよう、何度も書き直しました。
雨上がりの街の描写も、かなりこだわりました!。実際に雨の日に街を歩いて、水たまりに映る街灯の光や、濡れた木々の匂い、空気の質感までメモしたんですよ。少し変わった作家の習性ですね(笑)
美月の「絵を描く」という行為には、私自身の経験を重ねています。かつて大好きだったことを、忙しさや現実の中で手放してしまった経験、ありませんか? その喪失感と、再び情熱を取り戻す喜びを表現したかったんです。
執筆中に最も苦労したのは、美月と沙織の性格バランスです。互いに引き合いながらも、違いがあるからこそ成り立つ関係性を描くのは難しかった! 何度も二人の会話を書き直しました。でも、最後には二人が勝手に動き出して、私はただ追いかけるように書いていました。
あと、実は当初の予定では茅ヶ崎の海ではなく、山の温泉地だったんです。でも、私自身の思い出の場所である茅ヶ崎に変更しました。個人的な想いが詰まった場所だからこそ、リアルな描写ができたかなと思います。
読者の皆さんにとって、この物語が「日常の中にある特別な瞬間」に気づくきっかけになればいいなと思います。恋人との何気ない時間、友人との会話、一人で過ごす静かな時間...全てが特別な宝物になり得るんですよね。
最後に、いつも応援してくださる読者の皆さんに感謝します。次回作では、もっと大胆な女性同士の愛を描きたいと思っていますので、ぜひ期待していてください!コメント欄で皆さんの感想をお待ちしています!
雨の日も、晴れの日も、あなたの傍らに素敵な物語がありますように。