31マリサの通り名と不穏な噂
マリサの通り名について「凛として」の回の冒頭で少しだけ書いています。そう、アレね。
いったん提督の艦隊と離れたデイヴィージョーンズ号はニュープロビデンス島ナッソーに向けて帆走している。これも提督の指示であり、あらゆる海賊について詳しい情報を得るために戦後の海賊の討伐も視野にいれ、海賊の話は海賊に聞くのが良いと判断したからである。そののち、またジャマイカで提督の艦隊と合流することになっていた。
ナッソーと言えば海賊が事実上の自治を行っている島である。軍としてもなんとかこの海賊共和国に対して手をうたねばならなかったが、戦時中であり、まだ見送られていた。イギリスが本腰をあげてイギリスの海賊(pirate)の討伐にとりくむのは戦後の話である。
そしてナッソーはマリサにとって行きたい場所でもなかった。海賊になりたてのころと前回と訪れているが、どちらも『マリサの掟』によって男を傷つける羽目になってしまったからだ。とはいっても前回はその一件でフレッドに思いを伝えることができたのである。
「グリーン副長さんよ、まさかとは思うが海軍としてナッソーへ乗り込む気じゃないだろうな。そんなことをしたら俺たちは『海軍の犬』扱いされちまう。行くんなら軍であることを隠してもらわないとな、俺たちには俺たちの立場があるってもんだ。そこは理解してもらいたいものだ」
船長である自分より高位にたっているグリーン副長に対してしばらくはおとなしくしていたデイヴィスだったが、やはりいうときは言うものだ、そこは絶対的な権力者たる意地でもあるのだろう。
「心配をしてくれてありがとうと言っておこうか。その点は大丈夫だ。私は新米の海賊という役を演じよう。ナッソーでの交渉はデイヴィス船長がやってくれ」
グリーン副長が言うと連中から笑いが起きた。
「なんだなんだ……新米っていう面か?中年も過ぎた新米海賊はいまいちうま味がねえよ」
連中の一人が笑い飛ばす。
「何言ってんだ。それを言ったらデイヴィス船長も中年だ、俺たちも仲間だぜ」
連中は大笑いだ。
「まあ、海賊に年齢制限があるわけじゃない。とにかくうまくやってくれ。くれぐれも海軍の情報収集であることは悟られるなよ」
余裕の笑みで連中を手中に収めているグリーン副長。デイヴィスはこの海軍の男が乗り込んだことであまり表情を出さなくなった。
「では、アイアイサー!これでいいか」
やっとの思いで返事をするデイヴィスに続き、連中が頷く。
ニュープロビデンス島ナッソーへは『新米水夫』のグリーン副長をはじめ、連中も立ち寄ることになった。飲んだり騒いだり女を買ったりこれからの戦いの前に羽目を外すのも必要だろう。
「マリサはどうする?あんなことがあったら気が乗らないと思うが、大丈夫か」
意気揚々として船を降りていく連中を見送りながらフレッドが尋ねる。
「まあ、気が乗らないというよりも酒は飲まない女は買わないあたしが行く理由がないというところだ。もっとも……あたしには変な通り名があるからな、前回はそれどころじゃなかったけど、海賊なりたての頃にここでやってしまったことがあるんだよ。あのビッグ・サムはそれを知らなかったんだろう」
そう言ってほんのり顔を赤らめる。フレッドはそれが何を意味するものかわからない。
「通り名がつくほど覚えられているっていうことだ。暴れない程度ならビールの一杯くらいはいいだろう。母が言った言いつけを守っているのは素晴らしいとは思うが……息抜きも必要だと思う」
フレッドはそう言ってマリサの肩を叩いた。
「じゃ、あんたのお誘いに乗っていくとしようか。あたしの酒量を量っといてくれよ。暴れたら後始末よろしく」
いたずらっ子ぽく笑うとマリサはフレッドと連れだって酒場へ急いだのだった。
ナッソーにある酒場のひとつにグリーン副長とデイヴィス船長ほか、”青ザメ”の連中数名が席を同席している。その場の男たちは”青ザメ”の新顔に興味を持つ者がいた。
「おうよ、デイヴィス船長、新米の海賊か?新米にしちゃえらく目がするどい男だな。というか……どこかで会ったような気がするんだが」
そう言って男はグリーン副長の顔を覗き込む。
「いやいや、こんな顔はありきたりですよ。目が鋭いのは癖でね。気遣い無用で願いたい」
グリーン副長はそう言うとラム酒を注文し、男に振舞った。男は有難くそれを受け取り、一気に飲み干す。
「それはそうと、あのビッグ・サムは死んだぜ。マリサがつけた傷が深く止血がまにあわなかったらしい。場所が場所なら通り名通りだったのに惜しいことをしたな」
「その通り名の話は今はやめてくれ。それより、西インド諸島近海の海賊について情報を集めているんだが……実は俺たちも中途半端な海賊(buccaneer)じゃ思うように収益があがらないので、ここらで海賊(pirate)を目指していこうかと思っている。そこでだ、商売敵のスペインやフランスの私掠船や海賊の群れをあらかじめ知っておきたい。何か知っているか」
デイヴィスが男に話しているそばで新米グリーン副長が黙って話を聞いている。
「いやあ”青ザメ”がpirateに転向とはよほどのことだろうな。このところスペイン船が荷を満載して航行している。奴隷だけでなく南アメリカの植民地の金塊や財宝などだ。一隻で狙うより船団を組んでやっちまった方が確実だ。”青ザメ”が仲間に入るんなら統括している奴に話をつけておくがどうだ?」
男の話にデイヴィスはフッと笑う。
「まあ、いきなり仲間ていうわけにはいかねえよ。何せ俺たちの船は私掠船時代からの使いまわしでお世辞にもいい状態じゃあねえ。仲間に入るんならせめて5等艦クラスの船を準備してからだ。ところで、俺が聞いた情報じゃスペインだかフランスだか国籍不明の海賊の船団がこのあたりを荒らしているとのことだが、それについても何か知ってねえか。その商売敵を知っておかねえと俺たちも対策を立てる必要があるからな」
デイヴィスの話を受けると男はあたりを伺ってから小声で返事をする。
「そいつはスペインの海賊”光の船(Barco de luz)”だろう。まったくもって商売の邪魔ばかりしやがっていつかは海に沈めてやらねえとは誰もが思っているぜ。心しておけよ、うかつに手を出すな。”光の船”は裏でスペイン総督が手を引いている。奴らの中にはスペイン海軍が混ざりこんでいるからな。そういや、マリサはどうした?その総督はマリサを探しているという話だぞ」
マリサを知っている総督ときいてデイヴィスは表情が曇った。
「マリサを知っているならその総督はクエリダ・ペルソナ島のガルシア総督だ。一度捕虜になったことがあったからな……そのときは”赤毛”や”ミカエル”の手を借りて救出したが……なにかあきらめきれないものがあるのだろう」
「なるほどな、商売敵の目的の一つはマリサかもしれん……フフッ笑うぜ……ガルシア総督のアレをマリサが切りつけるかと思うとゾクゾクする」
そう言って男は笑った。そしてグリーン副長を見ると
「あんたも男の大事なアレを守っておけよ。マリサの通り名通り……」
そう言いかけたところへデイヴィスが口をはさむ。
「やめとけ、新米を不安がらせるな」
デイヴィスの言葉に男はフッと笑い、そして急に真顔になった。
「もし奴らの船団に遭遇しても手を出すな。一隻じゃ到底話にならないからな。海賊だということを悟られないように距離を置け。海軍じゃないから国家間の約束事は通用しないぞ……もっとも俺たちにイギリス海軍の後ろ盾があればできないこともないがな」
そう男が言ったとき、黙って話を聞いていたグリーン副長が目を光らせて言葉を返した。
「案外、イギリス海軍も同じ目的を持って動いているかもしれないぜ。これはおもしろいことになった」
そう言って再び男に酒を勧めた。男はまた酒を飲み干し満足そうに他の仲間と席に着いた。
「デイヴィス船長、マリサのことが心配じゃないのか。スペイン総督とスペイン海軍が秘密裏に動いているとすれば公にできない部分がある。和平を快く思っていない輩はいつだっているものだ。海軍ではない”青ザメ”の存在は大きい。作戦においてマリサの身の安全は私が行おう。まさかガルシア総督の御指名とはな」
グリーン副長の話を目を閉じたまま聞き、何か考え事をしているデイヴィス。そのままビールを飲むとため息をついてこう言った。
「今や”青ザメ”はあんたの指揮下だ。俺がどういおうとグリーン副長が思うようにやればいい。言っとくが、マリサが気を許している男はフレッドだけだ。あんたがマリサを守ろうとしてもあいつはそれを断るだろう。あんたが考えているような女じゃねえよ、あいつは。それは連中もナッソーの古株も知っていることだ」
「それはさっきの男が言っていた通り名の話か」
興味深そうにグリーン副長が言う。
「まあ、その話はマリサも嫌がるからあんたが想像したらいい。さて、俺は眠くなったから船へ帰るぜ。留守番している連中と交代だからな」
デイヴィスはそう言って席を立ち、グリーン副長はそのまま周りにいる海賊たちの話に黙って聞き耳を立てていた。
同じころ、デイヴィス達が立ち寄った酒場と離れた場所にある、宿屋と酒場が一緒になった店が騒がしくなっていた。そこはマリサがビッグ・サムと騒動を起こしたあの店である。安宿であり、娼婦も男たちと一緒に飲み、そのまま商売を始めたり賭け事をしたりして夜を過ごしている。今日はあのマリサが再び現れたということで余計に賑やかだ。
「お、おめえが勝つってわかってたら俺は貧乏にならなかったのによう、海賊稼業でせっかく儲けたのに悔しいったらありゃしねえ」
黒い髪を後ろに結んでいる海賊の男がマリサを前に嘆いている。テーブルの向かいにはマリサがすでに9杯目のビールやラム酒を手にし、けらけらと笑い転げていた。その隣には後悔の表情をしたフレッドがマリサをいさめている。
「ふははは……。うるせえってんだよ!そんなことに有り金賭けんなよ。あたしに文句を言われてもこまるじゃないか」
そう言いながらゲラゲラ笑い声をあげるマリサにフレッドはおろおろしているばかりだった。
「おい、あんた、あのときにいたんならあたしの上半身見ただろう?あたしは高いぜ、見物料よこせ……ふはははは……」
マリサはそう言って今度はラム酒を注文する。
「マリサ、やめておけ、飲みすぎだぞ。……母に言いつけるぞ」
フレッドは思わず本音が出る。
「いちいちあんたもうるせえな……今日は飲んでもいいって言っただろ?今日は飲むよ、今まで我慢したんだからな。……大丈夫、ここにあんたのお母さんは来ないよ。あんたが黙っていればいいじゃないか」
マリサは完全に目が座っていた。そして注文していたラム酒が来ると一気に飲み、ゴブレットをドン!とテーブル上に置いた。
「……見物料だなんてそりゃあ詐欺だ。俺は見てない……見える位置じゃなかった。こっちこそ有り金賭けたんだから金返せ!」
海賊の男の理不尽な要求はマリサの沸点を刺激し、マリサの顔色が変わった。
(まずい……)
フレッドは早くマリサを連れ出そうと肩に手をかけたが時すでに遅く、マリサはフレッドの手を払いのけ、椅子から立ち上がるとテーブルの上に乗った。
「そんなに見たかったら見せてやるよ、よく見ておけ!」
そう言ってシャツを脱ぎ捨てようとしたとき深酒のせいでマリサはふらつき、テーブル上から転げ落ちた。
ガラガラドターン!
テーブル上の皿やゴブレットがなだれ落ち、壊れてしまう。
立ち上がろうとしたマリサだったが、足元がおぼつかず、何度も倒れそうになる。フレッドはマリサを起こし、右手を自分の肩にかけた。
「すみません……弁償します」
そう言って店主にお金を出す。呆れた顔の店主はお金を受け取ると
「こんな酒乱はマリサが初めてだよ……もうこの店に出入りしないでくれ。騒動は厄介だからな」
と言った。周りの海賊や娼婦たちも口々にこう言ったのだ。
「今やマリサの通り名は『酒乱のマリサ』だ、昔の通り名よりこっちが妥当だな」
昔の通り名も恥ずかしくて口に出せないものだったが、この通り名もまた不名誉な通り名として残るのだろう。そんなことを考えることもなく、マリサはフレッドの肩を借りて船へ帰ることになった。
ナッソーでの情報収集が終わればいよいよ敵と対峙することになるだろう。数々の歯車がかみ合って回っていく。戦争が和平へと進む中で海戦に挑まなくてはならないこの不条理さ。その中でウオーリアス提督とグリーン副長の思惑が静かに”青ザメ”を包んでいったのだった。
昔の通り名は放送コードに引っかかるかもしれないのでご想像にお任せします。
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