L3
ふう
三 プロットを作らない俺
普通、小説を書くとき、小説でなくても、まず設計図を作ることから始まる。よく言われていることは『設計図』を作るのに時間をかけ、『書く』のには時間を使わないだ。
だが、俺の場合は全く逆!!! 俺は設計図を作るのに時間をかけないというより、設計図を作らず、いきなり書き始める。
俺の書いた作品に設計図のある作品は皆無。俺の作品は、俺自身が偏差値をつけると、七十台ばかりだから、設計図がなくても、面白くはなるのだ。
俺は設計図を一切書かず、いきなり書き始めるから、『無計画執筆』と言ったりするが、小説とは教養書とは違う。だから、設計図は不要なのだ。
どういうことかというと、もし、俺たちが現実で未曾有のファンタジー世界に入り込んだら、何かを考えて行動するだろうか。いきなり、魔界にいったとしよう。
「ここは魔界だから……」と言っている間に魔王ベルゼブブに殺されるかもしれない。はたまた天使に保護されるかもしれない。『予測できないだろ?』 予測できないものを考えるなんて馬鹿馬鹿しいのだ。だいたい、魔界にいって、いきなりアガースラが口を開いているかもしれないし、サタンが海を泳いでいるかもしれないのだ。
俺の執筆方法はまず、計画を立てず、自分自身を未曾有の世界に入れることから始めるのだ。なお、設計図を作らないといったが、俺は常日頃から材料は作っている。俺の一日の四分の一を占めるのが妄想で、常日頃から「こんな世界だったらさぞ面白いだろうな」などと妄想しているので、面白い世界が常にある。精神が普通の人はそんな妄想はたぶんしない。俺が魔王になって世界を支配するまでの道筋などを日ごろ、妄想で楽しんでいるのだ。もしかしたら、妄想が一番好きなことかもしれない。つまり、日ごろからの妄想の鍛錬で材料はたっぷりある。後は気が向くままに材料を引っ張り出すのだ。必要に応じて、材料は変化できるように、妄想で鍛えてある。
そして俺の場合、設計図がないから、その場その場でキャラクターになりきって、世界を歩かせるしかない。目の前は作者も分からない世界というわけだ。そこをキャラクターが切り開いていく。モンスターが出てくるかもしれないし、車がやってくるかもしれない。電車が吹き飛んでくるかもしれない。チンピラにからまれるかもしれない。一寸先が闇。これが俺の創作方法なのだ。
だいたい、皮算用といって、勝手に小手先の設計図を作ったところで、意味はない。教養書などのものならそれもいい。だが、小説は『世界』だ。世界の設計図を書くなんて馬鹿馬鹿しい。世界は切り開いていくものだ。人間が作れるものではない。
さて、俺はそのようにキャラクターになりきって、妄想を楽しむわけだ。俺の頭の中にキャラクターをおいて、そこから世界を切り開かせる。どこに行くのかは分からない。
キャラクターが動くということは、いわば、脳内アニメーションが始まるということだ。そう、俺の小説は『原作がアニメ』なのだ。まず、キャラクターが脳内で動く。それを文字化していく。それだけだ。設計図のない世界を徐々に進んで、最終的にアニメになり、それを文字にする。クズは『ご都合主義がどうのこうの』というらしいが、『世界はそもそも創り主のご都合で創られている』しかも、そのキャラクターがどんな行動をするかは誰にも分からない。不良にからまれて、殴り飛ばすかもしれないし、寝技に引き込むかもしれないし、ハンマーで殴るかもしれない。
ようは『面白ければそれでいい』わけだ。「テーマ? プロット? 全部糞食らえだ。世界にテーマだと? 地球にテーマだと? 宇宙にテーマだと? テーマなんて取るに足らない人間が編み出したくだらないものだ。世界にテーマなどない。相対的で、誰から見ても同じであって違うのだ」そんなことだから、作者の場合、小説は世界そのものと考えている。人によってすべてが変わってくる。あるひとつの物語を取り出すことはしない。世界を馬鹿にするなというのが作者の気持ちなのだ。
ところで、作者の好きな小説はあるのか? という話だが、実はけっこうある。ただ、作者の好きな作品というのは『最終的に脳内にアニメーションまたは実写で形作られたものの質』で決まる。作者は心理描写とか内面描写とかそういうものが何ページにも渡る作品は大嫌いだ。だから、ほとんどの小説が嫌い。多くが行動と会話だけで創られているものが好きなのだ。だから、村上春樹の小説は好きで、三島由紀夫の小説は嫌いとなる。
俺の作品は、まずアニメから始まる。アニメが出来た時点で、効果音もBGMもキャラクターの声も固有のもので決まる。だから、文字化できない情報があるのが残念でならないのだ。文字化できるのはせいぜい、場面だけ。ということは、それ以外を創るのは『読者』なのだ。場面と言っても、かなり端折ってあるから、『読者』の質で決まることになるのだ。読者が優秀だともとのアニメーションにかなり近づけることが出来るが、ダメだとダメだ。特に文学好きな60^{x}に弄ばされる読者の場合、文字がすべてだから、もはや論外というわけだ。ためしに、ある奴に貸してやったファンタジー小説がある。単巻百万部いった唯一のライトノベルだと言ったのだが、ある奴の評価、『小学生が書いたみたいだ。もっとまともな本を読め』だ。
三島由紀夫の『金閣寺』を借りた俺の評価。『なんだこれは!』それを実写化すると、ただ起きて、学校にいって、どもって、寺に行って……ではないか。要するに『文学人間』はそういうものがすごいらしのだ。中身の本質はどうであれ、飾りがよければいいのだ。性格が悪くても、イケメンならオッケーというわけだ。数学で言うと、エッセンスはどうでもいい。問題の解き方がすべてなのだ。なるほど、文系というのはそういうものなのか。
ところで、小説を評価して褒め称えている馬鹿がいるが、『小説は評価できない』ことを忘れていないか。賞の選考では、「この小説はこうだ」と言うが、それは『選考したものが認識できたもの』に過ぎない。賞というのは『選考委員』が評価したものだ。選考委員が変われば、全く違ったものになる。『小説とは0から100までどの評価もつけられる』ことになる。数学の答案なら、『どこを減点の対象にすべきか』を論理で万人が納得する。せいぜい、1点か2点の差しか出ない。小説は0から100まで色々なのだ。
例えば、小説の神様なんて言われている作家がいる。俺から見れば、『小説界にはもっといい小説を書く人がいる。そもそも、アマチュアですら、底辺に位置するレベル』だった。つまり、神様呼ばわりされる一方で、アマチュアですら、底辺だというものもいるのだ。そういうと、『お前はわかっていない』というものもいるが、それこそ「わかっていない」なぜなら、相対性理論が小説では簡単に成り立つのだ。『立場を変えれば、その小説の質は容易に変わる。小説に絶対なんてない』よって、自分にとっての『芥川賞や直木賞』を探す必要があるのだ。
なお、いい文章とは何か? 俺のいい文章とは『誰でもわかる。すぐ想像出来る』ことだ。いい文章はショートセンテンスで、一文一義と一文二儀を主体にしているものだ。より短く、より少なく。すぐ分かって、抽象的でないもの。
60^{x}から抜け出せない人間は抽象が好きだ。俺は大嫌いだ。言語とは抽象を具体にするものだ。それなのに、また抽象に戻してどうする。数学や物理学で抽象は許されない。小説でも抽象は許されない。抽象度の高い文章=下手な文章。受験の評論=抽象的=下手糞。受験国語の評論とは『下手糞な文章が選ばれて、それを具体的にしてあげる』という作者への『冒涜』の意味が挙げられる。だから、国語は早く消滅させて『論文』という科目に変えろと、教育委員会に何度も言っているのだ。
論文とは何かを論じた文章で、この作品のような手当たり次第に書いているものとはまた違う。この論文こそ『国語力』なのだ。そして、ビジネスでは『論文』の力が重要だ。今ではこの力が不足しているから、『規制すれば犯罪が減る』とかうたって『法律を改正している』が、論理もくそもない。規制すれば犯罪が減るなら、その正当性を挙げないといけない。その正当性が全く示されないままに進行する資本主義は恐ろしいものがある。
論理力がないものが何かを管理するのは怖すぎる。そして、論文では『抽象』は許されない。具体以外に許されないのだ。こうだからこうである。とならないといけないのだ。
いい文章とは「私は映画館に行きました」だ。「私は心を震動させる輝きと音に満ちた館に行きました」は下手糞だ。「向こう側が見えるぐらい透き通っている」「一度そこに吸い込まれると、こっちもあっちも分からない。深さも感じられない。まるで何もないのだ。向こう側が見えているのに、実際には違うという不思議な以下略」
「猫が走ってきた。かなり速い」「蚤が跳ねるように猫の足は動き、一瞬電車が通り抜けるような映像が思い出される以下略」「目の前に球形の物体が見えた。フワフワと置いている」「見えたものは球。質量に錯覚を覚える。まるで浮いているよう以下略」
ショートセンテンスで、後は多くを読者の想像に任せるものが文章として優れている。勝手に補足して、しかもしれが想像に結びつかないものは下手糞。
文豪の八割は文章が下手。児童文学作家は文章がとてつもなくうまい。彼らこそ一番文章がうまいのだ。イソップ物語の小説を読んでみなさい。多くを想像に任せているのに、分かりやすく、しかもすぐ想像に結びつく。今の小説はそれを書くプロ作家の文章が下手すぎて、読むのがきつい。俺はアニメや実写を作ることに長けているからすぐ分かる。想像に結びつかない文章ばかり書くものがいる。名前は出さないが。「たまにすごく想像に結びつく文章をかける人がいる」こっちも名前を出さないが、そういう人に『第一の文学を担ってほしい』
色々言ってきたが、俺の創作方法は『設計図を作らず、世界を切り開く手法』で文体は『児童文学作家』のもので、『一文一義と一文二儀』が主体で、『想像に直結しやすく、多くの情報を読者に任せる』もの。60^{x}人間にだけはなりたくない。無限性を持ちたい。常に。
世界を切り開くと、アニメや実写になり、それを文字化すれば、俺の小説になる。だから、『俺の小説はノベライズ』とも言える。
妄想(材料集め)→アニメ→小説と続くわけだ。教養書と違い、小説は思考力や想像力というより、経験をただ繋ぎ合わせる力のように思う。後は運だ。いいものも悪いものも運によって出てくる。
経験と言ったが、実社会の生活も経験だし、妄想も変わらず、経験だ。ボーっとしているのも経験だし、飯食って寝るだけのニートも経験だ。
経験がないというのは『勘違い』に過ぎない。誰でも経験がある。実際は経験を利用していないだけに過ぎないのだ。普通の仕事だと、経験の『2パーセント』ぐらいしか使わないが、小説を書くと、『80パーセント近くを使う』ボーっとしていた時間がもったいないなんて発想はない。それも変わらず、経験だったからだ。
経験を繋ぎ合わせれば、無数にネタは出来るし、自分の妄想だから、自分には楽しい。リア充は実体験を繋ぎ合わせるし、リア充でないものは妄想の体験を繋ぎ合わせる。社会に出ていないと小説がかけないというのは『それこそ妄想』だ。かけないことはない。問題は書こうと思わないだけだ。だいたい、正常な人間は小説を書こうなんて思いにくい。すごく恥ずかしいことだからだ。AVに出るとか、売春とかそんなものよりもっと恥ずかしいことだ。そんな恥ずかしいことをするには、半ば特定のプライドを捨てておかないといけない。プライドは常に一定だと思う。プライドをPとして、p(1)、p(2)……p(n)とすると、P=p(1)×p(2)×……p(n)だ。
p(1)が下がると、p(2)が上がるといった感じだ。つまり『プライドを捨てても、他のプライドが上がり、プライドは常に一定である』
ということはプライドを捨てた人間であっても、Pは同じ値。捨てても、別のプライドが上がるのだ。
小説を書くにはあるプライドを下げて、あるプライドを上げないと苦しい。読むのは誰でも羞恥なく可能だが、書くとなると、羞恥が圧倒的になる。羞恥がなくなるようにプライドを捨てなければならない。
ところで、俺は小説以外にも、ゲームの企画も作っている。自分の創ったゲームを『頭の中で毎日プレイしている』脳というのはそれがハードになってくれる。自分の創ったゲームを脳に入れて、プレイする。けっこう楽しめる。俺の作ったRPGなどはもう200時間ぐらいプレイしている。新作も続々脳内に保存している。
俺という人間はもはや、肉体を生かす手段さえあれば、人生を楽しめる状態になっている。とはいえ、データを入力するワードはほしいし、掲示板やホームページのあるインターネットはほしい。なくてもいいが、あったほうがいい。ネットのブログや掲示板の書き込みは店に売ってある小説などより数百倍面白い。特に掲示板の書き込みは面白すぎる。誰が書いているか分からないが、コテハンをつけている奴がいて、そいつの書き込みが面白い。エンターテインメントを齎している人たちだ。
だから、ネットはあったほうがいい。なくても、楽しめるが、あったほうがいい。ということは楽しい人生を送るためには『肉体を生かす手段』さえあればいい。
生かすためには金がいる。この金をいかに得るかが問題なのだ。まあ、それはおいといて、小説を書いたり、ゲームを作ったりするのは面白いことだ。だが、一番やりたいことはアニメを作ることだが、俺は絵が下手で自分を満足させることが出来ない。時間もかかるから、十分満足できる小説やゲームの企画を創るだけにしている。
野望
さて、このように小説を書いたり、ゲームを創ったり、掲示板で過ごしたりするのが俺の好きなことだ。お酒を飲んだり、リアルで人と話したり、人の多いところに出かけたりすることは至極嫌いだ。俺は買い物ですら、通信販売だ。
食料ですらネットで買うMRPやウエイトゲイナーが主体だ。実験したことがある。半年の間『MRPとウエイトゲイナーだけを取り入れて生活する』というものだ。結論から言うと、何の病気にも掛からず、生きていた。何度か下痢になることはあったが、それも一時的なものだった。たぶん生水のせいだと思う。一月の食費を換算すると、約7120円だった。水に混ぜるだけだから光熱費は掛からない。週末断食と組み合わせれば、5500円を実現できるかもしれない。体がもう少し小さくて、女だったら4000円台も可能だった。生きるためには何より、衣食住の中でも食だ。テント生活でも、食があれば何とかなる。食を安くし、テント生活をしつつ、日本中を旅してみたいとは思う。
俺には野望がある。それは『妄想の中に墓場を作る』という圧倒的困難を極める道のりだ。『墓を想像するだけなら誰でも出来るが、そこに入ろうとするためには精神世界に自分の世界を築いておかないといけない』それをするのに一生をかける。世界を創らないといけない。人それを神様と呼んでいる。俺は神様という職業に就くのだ。それが野望で、そのためにはもっと精神世界を考えないといけない。
脳というものにヒントがあると思って、脳科学の最先端を見たのだが、『そもそもの方向性が翻弄されたものの思考と分析だった』ので、精神世界の解が脳にないことを証明した。科学というと絶対的なものに感じるかもしれないが、そんなことはない。あくまで、我々が認識している『現実』でのみ成り立つものでしかない。ここが重要だと思う。俺は現実と言うのは、脳が感じているものだと思うんだ。どうして、妄想の世界では現実と違った理論を持ち込めるのか。それは、『現実でない幻想でその理論が正しいこともある』からではないか。ちょっと複雑だが、我々が見ている現実は幻想から見れば『幻想』で、幻想から見た幻想は『現実なのだ』。だから、脳がもし『幻想を現実と感じれば、幻想が現実である』ということになる。視覚は脳で感じるものだ。見えているものは脳が認識した現実でしかない。仮に、脳が幻想を認識すれば、それが『現実』だ。すると、現実離れしていることが『まったくの正論になりえる』わけだ。今後、物理学が発達すれば、もしかしたら、翻弄されている現実をひとつ抜け切る可能性はある。現実のシステムを破ることの出来る場所が精神世界である気がしてならない。自然科学で、世界の解明は不可能。世界を『完璧に解き明かすためには数学か幻想のどちらかの発展が不可欠だと思う』
世界は数学で解明できるものなのか、それとも幻想と自然科学を結びつけることで解明出来るものなのか、俺にはさっぱり分からない。ただ、言えることは、物理学のすべてはあくまで、脳が認識した『現実』で成り立つものでしかない。いわば、箱庭の中で見えたものを分析して、『真理』としているに過ぎない。
馬鹿らしいと思うかもしれないが、科学というのは単なる見えたものの考察に過ぎない。もし、重力の性質が違うものに映れば、それが『常識』になる。
『現実を見ろ』というものがいるが、その現実は『他方で幻想かもしれない』
俺の野望はその『現実』を疑問に思ったときから始まった。
「どうして、俺は俺の心が見えるのか。どうして他人の心は見えないのか」
自分で感じることは自分で分かる。暑い、寒いといった感じだ。だが、相手のことは分からない。これと『どうして、人は現実離れしている事実を想像できるのか』という不思議を組み合わせれば、『現実がいかに不完全か』がわかるだろう。
俺は現実も科学もすべて『ある一部の場所で成り立っている法則を並べただけ』としている。そこに幻想を組み合わせることが必要不可欠だと思うのだ。
現実と幻想、科学と数学。これらをすべて組み合わせたとき、ようやく、人は『神』を具体的に見出すことが出来ると思う。
科学と数学および現実は一部の天才に任せるとして、まだまだ不完全な『幻想』を自分のやり方で考えてみて、それを結びつけ、20年先には、神になろうと思う。そこまで生きていたらの話だが。
そんな話をすると、常に出てくるものが『死』だ。死とは他人の目から見て、人が動かなくなって、生き返ることのない状態だ。では、死んだ本人から見た『死』は何か?
自然科学を駆使しても分かっていないものだ。脳に何か意味がある気がするのだが、どうしてもわからない。幽霊というものも不思議だ。親などの話を聞くと、存在する可能性は高いが、科学的に『幽霊』がどういうものなのか、現時点では分からない。
「幽霊などいない」というものもいるが、神が決めた死の意味が深ければ、幽霊にもシステムがあるはずだ。
俺の予想だが、死は死んだ本人からすると、現実を失うことだと思う。つまり、現実を失った瞬間、全く異なる認識が生まれるのではないか。そして、その認識では、現実とは全く切り離されたところに生まれる。量子論によると、原子より小さな素粒子が構造上の最小単位だ。これと空間を考えたとき、認識が別のところに移ることを普遍的に見ることが出来るのではないか。つまり、死んだ瞬間、別の認識が生まれる。恐らくは記憶もすべてまったく違うものになっているから、前の自分は綺麗さっぱり忘れているのだろう。
人間は自分の肉体を動かしていると思っているが、そうではなく、そう見えているだけなのかもしれない。一種の認識に過ぎないのなら、『死』はただの認識転換ではないのか。
はっきり言って、幻想的だが、幻想と現実をうまく折り合わせないかぎり、世界の理を理解することは出来ない。
仮に、幻想が現実の理を分解して、歪に組み立てなおしたものであるなら、やはり『現実』がすべてになり、この死の理論もなくなる。だが、現実がすべてなら、そもそも分解して考えられるような世界構造にはならないはずだ。もっと機械的なものになるはずだ。
俺は幻想と現実を科学に結びつけるために、妄想をしている。もし、ある理を見出した瞬間、認識が変わるとすれば、それは異世界へのワープなども現実として成り立つことになるのだ。
まとめると、俺は『アニメ』が好きで、小説は『脳内アニメのノベライズ』である。設計図を作らずに、実際に世界に接して切り開いていく。最終的に『神』を目指しているというわけだ。一般の人間の考え方からは大きく食い違っているかもしれないが、誰もが一度は感じることかもしれない。多くは現実に軌道修正するが、俺はそのまま突き進んだといった感じか。
作品について
俺の作品と他の作品の大きな違いは作り方だけではない。『普通の作品はある物語を書いているが、俺の作品は世界を書いている』
だから、俺の作品は『すべての作品が同じ世界で展開されている』ことになる。ひとつの概念にすべての作品が連なっている。例えば、俺の創る作品では、すべて『感情とエネルギーは同等』で『現実とは脳の認識に過ぎない』という法則に従っている。
E=mc^{2}=sf/f´が俺の作品で共通するものだ。cとf/f´は一定だから質量mとはsのことであり、気力と質量には関係があるということになる。
だが、fの値は絶対的でないから、mはfの影響も受ける。要するに、俺の作品では感情とエネルギーが同等で、さらには『絶対空間を次元が統制する』という法則に従う。
こういうふうに、たったひとつの世界にすべての可能性が存在することを意味している。世界を創るとはそういうことだ。
また、俺の作品には『選択肢』が存在する。恋愛ゲームでも選択肢ぐらいはあるが、そういうゲームでの選択肢では『人生が大きく変わる選択肢はわずかしかない』が『俺の作品の選択肢はすべてが変わってしまうものになる』
選択肢のどれをとっても、その場のシチュエーションが変わるというようなものがない。世界を変えるスイッチ、いわば決断なのだ。
たったひとつの選択がすべてを変えてしまう。そういうものが必要だと思ったのだ。選択肢はすべて『全く異なるエンディングを迎える』
選択によって物語が二つに分岐すれば合計で二つのエンディングが生まれる。多くても五つか六つのエンディングだ。それ以上多くすると、生産が追いつかない。
俺の作品は絶対引き伸ばしをしない。だが、読了時間は長ければ7500分になるし、全選択肢を取れば、30000分を超える場合もある。
だから、俺は『エンディングはひとつしか見ないように』と言っている、全部の選択肢を取ってはいけない。ただひとつの選択肢を選んで、それを読んで、その作品のエンディングはおしまい。別の選択肢を決して読んではならない。
これは俺の最後の作品が、エンディングをひとつずつ持っていることを前提にしたものになる予定だからだ。最後の作品で、ようやくすべてが分かるようになっていて、それに必要なものがひとつずつのエンディングなのだ。二つも見てしまうと、それだけで興ざめで積み上げたものが崩れてしまうことになる。
全部で、50の作品(小説834冊分)があって、49までの作品のエンディングを50で使うようになっている。だが、このうち、最初の27までを暗黒の27作品という。これは読んでも読まなくても、『他の作品に影響することはないし、たいして、キャラクターが不幸になることもない』だから、読まないようにして、28から49までを読んで、50に言っても差支えがない。最初の27作品はまだ妄想が不十分で、独立性が強いのだ。俺の作品の特徴は作品ごとでリンクすることにあって、隠し選択肢があることだ。それらが不十分なのが暗黒の27作品なのだ。AからZおよび、SSKT番号のものがそれにあたる。それ以降のSSKKやTSSKなどがリンクの力を持った作品だ。これこそが俺の作品になるのだ。
他にも違うところがある。一般の作品ではハッピーエンドが多いが、俺の作品は必ず、『バッドエンド』になるようになっている。例外はない。必ず、キャラクターが普遍的な立場で、不幸になるようになっている。
これは他人から見れば、「幸」より「不幸」のほうが、気分をよくするからだ。ニュースを見てほしい。不幸な事件を報道しまくっているが、それを見て、不快な気分になるものはほとんどいない。むしろ、楽しみながらニュースを見ている。
不幸は悲しいことだが、赤の他人からすれば、さほど悲しいことには見えず、むしろシロップの味になる。だから、人が殺されたとか、破産したとかニュースをいっぱい流しても他人が不快になることはない。むしろ、「ザマーミロ」となる。
逆に幸せなニュースを流すと、人は「不快な気分」になる。それは自分の周りがよく見えてしまうからだ。周りが幸せになると自分だけが取り残された気分になる。
明るいニュースは不幸を齎す。明るいニュースで「よかった」と言う人は『よほど幸せで人の気持ちも考えられないあくどい人間か、建前で言っているに過ぎない』贅沢な暮らしになり、苦労も苦痛も味わっていないものが「いいニュース」だというわけだ。
何をやってもうまくいかず、苦痛に耐えている人こそ、本当にすごい旅人で、立派な人なのだ。掲示板に行けば、出世した人を『叩きまくっている』コンプレックスを覚えて、ひたすら叩いているが、それは『幸せの格差社会』を消し去るために必要なことなのだ。もちろん、あまり効果はないかもしれない。
そういうコンプレックスを感じている人は、苦痛に耐えて、流離っている人なので、俺は旅人という言い方をしている。そういう人たちは不幸というものを背負って、社会を歩いているのだ。誰かが捨てた不幸を自ら背負って歩く立派な人だ。
幸せな人は他人に不幸を押し付けて、楽をしている馬鹿な奴だ。病気になって苦しんでいる人たちこそが、人に幸せを与えられる人なのだ。それを、社会はどういう態度を取っているか知っているだろうか? 上から目線で「可哀相だねえ」とか「元気出して頑張ってね」という感じにまるで馬鹿にしているのだ。
とはいえ、そんなことを言い出すときりがない。要するに、俺は『バッドエンド』にすることで、たとえ、妄想のキャラクターでも、不幸を背負わせる。悲壮感で努力をするが結局ダメだという感じだ。どれだけ努力を重ねても壁を越えられない人はたくさんいる。そういう人のためにもバッドエンド以外にはしない。
つまり、第三者の視点に立てば、ハッピーエンドはバッドエンドなのだ。例えば、学校で自分だけ忘れ物をしたとする。そのとき、先生が「忘れた奴は立て」と言ったとする。
一人で立つのは苦痛だが、誰かが立ったらどうだろうか。立ちやすくなる。二人立てばさらに立ちやすくなる。全員立てば、座っているほうが苦痛になる。
これと同じように、不幸がたくさんあれば、過ごしやすくなる。幸せがたくさんだと、幸せになれないものが精神をおかしくする。俺は絶対に不幸を集中させて、精神的苦痛を少しでも緩和させるようにしている。
人が人を殺したり、傷つけたりするのは『憎悪と劣等感』があるから。もし、人がぺこぺこと頭を下げたのならそれらはなくなり、そういう犯罪が減る。
周りにたくさん不幸を作って、不幸を緩和させ、犯罪減少に貢献する。俺はボランティア活動にこういうものがあればいいとおもっている。
車に乗って、「俺はこんなひどい目にあってきた」ということを全国民に叫ぶのだ。そうして不幸をたくさん撒き散らして、犯罪を減らす。
どんなに憎悪があっても、その相手が丸刈り裸足で家に来て、土下座をして、お金を差し出せば憎悪は消える。
そういうことなのだ。つまり、犯罪を起こさないためには、他人の不幸が必要なのだ。幸せだけを求める生活が一番ダメ。自分から進んで不幸をばら蒔く。それが必要。
お金がなくて、毎日100円で生きているというホームレスの話などをもっと聞くべきだ。そうすればいかに自分が幸せかわかる。
幸せになる方法は身の回りの不幸を探すこと。海外で探しても意味はない。身近なところで探す。周りの不幸を知れば、幸せなんて簡単に手に出来る。
幸せになるために幸せを求めてはいけない。不幸を求めているうちに幸せになれる。その一助が俺の役目なのかもしれない。絶対にバッドエンド以外にはしない。ただ、死というのはあまり不幸ではない。何をやっても結局ダメだったというのがいい不幸だ。
他に特徴があるとすれば、『心理描写、場景描写、キャラクターの特徴に関する説明などが一切ないまたはかなり粗雑』という点。これは、小説を『作者と読者の共同作業によって作るもの』というものに則っている。作者は読者に助けてもらえないと何も完成できない馬鹿なのだという謙った考えでもある。
日本一は人間として残す
日本で一番たくさんの小説を書こうと思っている。書くだけなら50000冊は楽にいけるが、それだけでは小説にならない。小説である以上、エンターテインメントだ。だから、面白くしながら書かないといけない。
834冊なら、さほど難しいことではない。ネタを探しながら書いても、書ける量だ。もちろん、俺の知らないところで、もっと書いている人はいるかもしれないし、今後、もっと出てくるかもしれない。日本一になれば、人間としても十分だろう。
俺は日本一はおろか、平均を超えることすら、凄まじい努力を要した。だから、日本一なんて考えられない。小説を見出して、ようやく日本一に近づけた気がした。
この世界で一番になることは難しいことではない。書けばいいのだから。でも、自分にとって面白い作品で日本一はけっこう骨が折れる。仕事中に妄想して、仕事から帰ったら、書き始める。1時間に原稿用紙8枚書いても、8時間だと、集中力の低下などで、40枚が限度だ。それ以上書くと『自分にとって面白い作品にならない』
書くだけなら、50000冊が可能だ。だが、それでは日本一とはいえない。
とはいえ、自分にとって面白くても『自分の満足する作品』はまだ書けていない。小説の媒体では無理なのだろうか。他人の小説を読んでも、面白いと思うことはあるが、満足は無理だ。はまるということはない。
面白いものを創っているうちに、フッと満足できるものが生まれると信じて、書いている。日本一たくさんの小説を残せば、とりあえず、役目を終えたことにはなると思う。
日本一の作品を書き終えたときには何か催しをしようと思う。今はまだ考え付いていない。
あとがき
ただ、適当に言いたいことを書いただけのものだった。エッセイともつかないものだ。それでも、ここまで読んでくれた読者の忍耐力と愛は相当なものだ。最大の感謝を込めて、もてなしをさせていただきます。
何をしようかと思ったが、「ありがとう」以上に感謝を込めるものがなかなか見当たらない。そこで、俺の見つけたいい情報を公開しようと思う。ここまで読んでくれた読者のために『俺流速読術』を伝授したいと思う。
ただ、俺のこの速読術では、巷の速読みたいに、ページを見た瞬間読むというのはムリだ。俺の速読術は題して、三行同時に読むというもの。
1、まず本を少し目から離す。三行をパッと見る。(日本の書籍は40行なので、少しは目を動かさないといけない。1秒ぐらいは見ないといけない)すぐに目を離して、内容が頭の中に入ったか確認。入っていなかったら、もう一度。今度は内容を入れるように努力する。これを繰り返していると、いつしか、3行の内容を理解する癖がつく。3行を見て、内容が分かる。これは本当だ。目で追う癖がついている人はちょっと時間がかかるかもしれない。俺は最近、本を読まなくなったから、この力がなくなりつつある。
三行を数秒で理解し、また次の三行。そしたら、本が相当早く読めるようになるし、内容の理解は以前と変わらないことになる。三行だ。四行にすると、無理です。俺は四行を練習したが、無理でした。三というのがみそだと思う。すごい人はページを一瞬で見ることが出来るらしいが、普通は三行が限界。三行でも相当早くなるはず。
ただ、小説を読むときはやめたほうがいい。小説は能動的に読むべき。本格的に脳内アニメとかドラマを作りながら読んだほうが楽しめる。これは試してみてほしい。ただし、アニメやドラマが嫌いなら、しないほうがいい。
ふう




