歩道橋奇譚
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
うわー、なにあの歩道橋。つぶつぶ、見て見て。
道路にまたがって、両方の歩道につながっているのはいいわよね? でもさ、両方の階段降りたところに、横断歩道が横たわっているって……どうなのよ。
向こうに渡りたいなら、横断歩道で信号待ちすればいい。わざわざアップダウンのある歩道橋使うなんて、信号待ちしたくない人くらいじゃないかしら? 自転車乗せられるようなスロープもないしね。
歩道橋って、撤去するのに条件があるみたいね。12時間で利用者が200人未満とか、通学路に引っかかっていないかとか。
かつては経済を促進させる車をガンガン走らすために、歩行者を避難させたという歩道橋。それがいまのバリアフリー社会じゃ、昔ながらの階段のみって作りがかえってアダになっている。高齢者や身体障害者にとって優しくない、街中の「バリア」になってしまうなんて、本来の役割を考えたら皮肉すら感じるわ。
でも、「本来」なんていうのは、作って使う側である私たちが、勝手にそう思い込んでいること。ひょっとしたら歩道橋自身、ひとつの場に居続けたおかげで、別の「立場」を手に入れているかもしれない。
私も歩道橋をめぐって、おじさんからちょっと不思議な話を聞いたの。興味あったら、聞いてみないかしら?
おじさんが暇を持て余していた、大学生のころの話。
おじさんは身軽な小旅行を趣味にしていて、ひとりで出かけることが多かった。誰かと一緒も楽しいのだけど、どうしても相手に合わせなくてはいけない部分もある。
どこを歩き、どれほどの時間をかけて、どんなものを見たり食べたりするのか。そのひとつひとつに縛りが生まれるのを、おじさんはとても嫌っていたの。
ちぎれた雲のように、思うままに漂っていきたい。おじさんはつねづね、そう思っていたみたいなのよ。
そのおじさんが、とある山のふもとに差し掛かったときのこと。
道の左右にそびえる木立が、ところどころでその枝をおじぎさせている。歩道にかかってくるそれを避けながら、涼しげな道を歩いていたおじさんの目の前に、歩道橋が姿を現したの。
でも、その歩道橋は形が妙だった。おじさんの右隣には車道が伸び、その向こうにも歩道が存在する。なのに目の前の橋は、その通路と階段を対岸へ伸ばしていないのよ。
道から道へ。おじさんの進行方向と同じ、ただ一方へ向けて、階段式アップダウンロードを提供しているの。
おじさんはそっと下から回り込んで歩道橋を見上げてみる。歩道橋は「てっぺん」の真下の大きな柱一本に支えられるのみ。その支柱は町中の電柱のようなカバーをつけられることなく、薄い緑色の肌をさらしながらも、さびひとつ浮かんでいないいで立ちだったとか。
おじさんは改めて、階段部分を眺めてみたわ。
一段一段、蹴込み板部分の表面塗装がはげて、無残なこげ茶色の中身をはだけさせている。おそらく、めくり上がったところへ、雨水その他の汚いものがこびりつき、中身が傷んでいくのを助けたのでしょう。
踏板に当たる部分も、滑り止めはほとんど取れてしまっている、そのくっついていたであろう跡も、わずかにしか浮かんでいない始末だった。
多くの人に踏みしめられて消えたのなら、橋にとっても望むところだと思う。けれどおじさんがこうして橋を観察している間に、通りかかった人たちは、いずれも橋を無視して、その下を歩いていく者ばかり。ここを渡るどころか、目を向けようとする気配すらない。
もはやこの橋に、どれだけの価値があるのかと、おじさんは感じたそうね。
武士の情けという奴かしら。「ならば」とおじさんは、あえてこの歩道橋を使ってやろうと思ったみたい。
来た道をいったん引き返し、歩道橋の階段の前へ。その一段目の蹴込み部分にしぶとく生える雑草たちを一瞥しながら、そっと足を運んでいく。
歩道橋は、片道およそ30段。半分上がったところで、踊り場のように少し平らな足場がわずかに広がり、すぐにてっぺんへ続く残り半分が続くの。
その後半部分に差し掛かったところで、おじさんは不意に出てきた薄い霧にまかれてしまったらしいわ。踊り場にいる地点では何もなく、後半一段目を踏んだとたん、降って湧いたとしか思えない、唐突さだったとか。
けれど足元が見えないほどじゃない。おじさんは構わず、ずんずん上がったわ。
上がりきったその場所には、やはり道路の向こうへ通じる橋はない。霧がかかって、汗をかき始めた手すりと落下防止の柵が取り付けられている以外は、一本の下り階段があるばかり。
おじさんはゆっくりと進む。滑り止めを失った階段の踏板も、かすかに湿って黒ずんでいた。実際、段鼻のあたりで一度足元が滑って、転げ落ちそうになったわ。濡れた手すりをすっかりつかめていなかったら、ケガをしていたかもしれない。
下る間も、周りの霧はどんどん増していく。すでに、あのおじぎしている枝葉たちの姿も確認できないのに、不思議と目の前の階段と地上をつなぐ道だけは、はっきりと見えている。
まるで霧そのものが、歩道橋の柵をまたぐのを避けているようだったって、おじさんは話していたわ。
やがて歩道橋を降りきったおじさん。その最後の一歩が地についた瞬間、周りの霧がぱっと晴れたの。
そこは、先ほどまで歩いていた道じゃなかった。かといって、まったく分からない場所じゃなく、むしろ見慣れたところだったらしいわ。
左手に一軒家が立ち並んでいる。右手にガードレールなしの車道が伸び、その向こうには延々と広がる田園風景。そこは、おじさんの通う大学からほど近い場所だったわ。
呆然としてとっさに動けないおじさんの背後から、猛スピードで走るバイクが追い抜いていく。以前に何度か見たことがある、友達の愛車だった。そしてノーヘルで髪をなびかせる後ろ姿は、これもまた紛れもない友達のもの。
信号のない道をどんどん飛ばし、遠ざかっていくバイク。その前方左手、いくつかある住宅たちの切れ目から、一台の真っ赤な車が飛び出してきたの。
おじさんが制止の声をあげた時には、もう遅い。バイクはすでに車の側面、おそらくは運転手側へ突っ込んでしまったわ。
ブレーキをかけた様子はない。この後、バイクは勢い余って宙を舞い、友達もその後を追って空中遊泳。車のサイドのドアーはひしゃげ、ガラスや部品の破片が道路いっぱいに散らばってい……かなかった。
バイクと自転車は衝突するや、ふっと消えてしまったのよ。ぶつかった音すらプッツリ途絶えて、残ったのはおじさんがバイクに追い抜かれる前に見ていた景色のみ。
初めから両者は存在していなかった。そういわれても納得できるほどに、現場にはガラスや部品はおろか、服の一片、髪の一本、血の一滴すらも残っていなかったらしいの。
おじさんが目をぱちくりさせると、そこは紛れもなく、自分が下ってきた歩道橋の下だったわ。先ほどまでの景色もなくなり、道のわきからも、またおじぎする枝葉の姿が見えた。
でも、先ほどまでと違うところがある。それは件の歩道橋の様子。
サビが浮き、滑り止めさえボロボロになっていたその傷み具合がウソのように消え去っていた。わずかな肌の「はげ」もなく、踏板の滑り止めたちは外れるどころか、その表面にいくつも薄い溝を浮かべ、真新しい品という空気をふんだんにまとっている。
蹴り込み部分に生えていた雑草たちの影すらなくなっていて、おじさんはキツネにつままれたような思いをしたとか。
帰宅したおじさんは、件の友達が行方不明になっているのを知ったわ。
家族には、「少し出てくる」とバイクにまたがって出発してそれっきり。主だった知人、友人宅にお邪魔していないことは、確認済み。
事故の報告もなく、友達はそのまま大学卒業を迎える日まで、二度と姿を見せなかった。
おじさんはもう一度、あの歩道橋を検分するべく、例の場所へ訪れたわ。けれど、その景色からは歩道橋だけが、きれいになくなってしまっていたとのことよ。