第43話① 今となっては遅いこと
マーガレット・ジル・スイレン
その女は、ナラ・ハ最後の女帝であったが―――その地位に見合う女ではなかった。
マーガレットは、ナラ・ハで最も有力な一族、スイレン一族族長の娘で、若くして五つ星の高等魔術師となったものの……特筆すべき経歴は、それぐらいだった。
弁論術など持っておらず、努力もせず、怒りっぽい。意地っ張り、自信過剰。そのくせ、責められればすぐに人に助けを求める。人望などはない……そんな女だ。
ただ、マーガレットでも国の運営には困らない程、優秀な部下が彼女には沢山いたし、大きな問題に直面した時は、代々国を陰から支え続けた、頼りになる相談役がいた。
黒の賢者───トンプソンだ。
彼は、マーガレットの相談役であり、彼女の”自慢の夫”でもあった。
魔術師協会会長も務める多忙なトンプソンの”反対”もあったのだが、代々、ナラ・ハの帝に嫁ぎ/婿入りするファウスト一族の伝統に則り、彼らは結ばれた。
ただ、誰しもの予想通り、トンプソンは仕事三昧だった。マーガレットとは子供一人残す気がないかのように、彼は日夜仕事に追われていたし、そうある事を望んでさえいた。
マーガレットは致し方ない、と、トンプソンの多忙を許していたが、その実、大きな不満を感じていた。それは徐々に、しかし、確実に、彼女の心を冒していった。
そんな寂しさを紛らす為か、マーガレットはとあるセイレーンの神官を虐めたりもした。国の端っこの荒れ地に追いやるなどして、真面目が馬鹿を見る様を楽しんだ。
そんな折、ゲルニカがこの世界に現れた。古の英雄の名を冠したドワーフだ。
歴史上の人物と同一人物かはわからなかったが、その名に恥じないカリスマ力と、それを存分に悪用した支配力を持った化物だった。
ナラ・ハと友好関係を築いた地底国の女王トールが無残な最期を遂げたと聴いた直後には、ナラ・ハの属国だったシェールが地底国に落とされ、あっという間にナラ・ハの足下までゲルニカが這い寄ってきた。
マーガレットはトンプソンを頼った。いや、泣き縋った。
自分が外交を怠ってきたせいで、王国の王子に喧嘩売ったせいで仲はあまり宜しくないし、神国に頭を下げるなんて以ての外だ。何処も助けてくれないし、ゲルニカと言葉でやり合うなんて、自分に出来る訳がない。
トンプソンは多くの仲間を使って、戦争が起こらないように動いてくれた。ゲルニカとの会談もすぐ傍にいてくれた。神国と王国が蜜月な関係になっていく中、ナラ・ハが孤立しないように、”鷹派”の王子ルークとも取り合ってくれた。
だから、マーガレットはいつもの通り、虎の威を借りる狐の如く、背筋を伸ばして玉座に座っていた。彼が全てやってくれる。自分は此処にいればいい……いや、寧ろ、仕事ばかりで傍にいてくれない彼が自分の横にいてくれるなら……いっそこのままでも、とさえ―――。
だが、そんなある日、マーガレットを呼ぶ声があった。
お前が必要なのです、と、囁く女の声。しくしくと泣く女の声。
最初は毛嫌いしていた。マーガレットは自分より弱い女に厳しく当たるから。
ただ、『お前は満たされていないのですね』『私も満たされないのです』『悠久の孤独に耐えられない』『愛の味を知ってしまったばっかりに』そう溢す何者かの声に、いつしかマーガレットも共感するようになり……その者は、彼女の唯一の”友”になった。
やめろ! その声に応えてはならない―――!
しかし、マーガレットがトンプソンに”友”のことを話すと、普段は穏やかな彼の態度が一変した。
”友”を捨てたくないと言うマーガレットの頬を、彼は引っ叩きもしたのだ。
どうして? 満たされない この飢えをもたらしているのはあなたなのに―――。
マーガレットの孤独は強まるばかり。”友”は”親友”へと変わり……。
トンプソンが、かつて、マーガレットが虐めたセイレーンの神官と”師弟”関係であることを知って―――”親友”は、マーガレットの”悪魔”に変わった。
トンプソンの出身、ファウスト一族が代々守るという黒の黙示録。
マーガレットが、そこに封印された”悪魔”を解き放ったのだ―――。
「足りない……足りない……」
脈動する泥状の山から、呻き声がする。
溢れかえる血の海に横たわる伸ばされたままの舌、人の腕のような手は、しかしながら、骨がない―――伸び縮みもしない短い触手のようだ。
そんな腕も舌も、細長く大きな図体も絶えずどろどろに溶け出す破壊と再生を繰り返している。
黒ずんだガラス玉のような目玉たちは天を向いたまま動かず、細長い蛇のような身体に対して垂直に裂けた巨大な口と並びの悪い歯は、あうあう、と、空気に溺れる魚のように喘いでいる。
「足りない……足りない……足りない」
「申し訳ありません……エバンナ様……」
「足りない……血肉が……足りない……」
レンス・タリーパの、吹き抜けの大広間で、八竜と同じ名を持つそれは最早、生ごみのように散乱していた。
魔王の攻撃を受けたからだ。
八竜を殺す、魔───”深淵”の力を持つ、魔王の攻撃をくらったから、神であるエバンナの本体(魂)が深く傷ついた。その魂を保つべく、シェールの死体で掻き集めた血肉で補強を試みたのだが、仮初の肉体でも毛ほどの慰めにもならないようで、エバンナは苦しそうに喘いでいた。
「全て差し出して……」
「エバンナ様……もう”子ども”たちもおりません。
エバンナ様……もうすべてを、私のすべてをあなた様に差し出しました」
「差し出して……」
「エバンナ様……もう、私しかおりません……。
もしくは……。」
エバンナ自らが回収した、人骨。
ピクリとも動かない骨。他人事のように眠る骨。
だが、これはエバンナにとっても猛毒だ。取り込もうとすればきっと、エバンナの弱った魂ではひとたまりもないだろう。
肉塊は嘆く。おうおうと咽び泣く。
「ティラータ……」
神は死なない───その概念が覆された力を前に、エバンナは死に恐怖し、怯え、”かつて愛した女”の名を呼んだ。
彼女は、かつてこの世で最も美しいと言われていた一族の、一人だった。
だが、自分たちの美しさに傲慢不遜となっていた彼女の一族は、黄金の竜ゴルドーの怒りを買ってしまった。その結果、黄金の髪は醜い蛇に変えられ、その尊顔を見る、己も含めたすべての者を石化させる呪いを受けてしまったのだ。
当時、八竜同士の争いで傷ついたエバンナは、八竜それぞれを祀る大水殿に逃げ込み、傷を癒していた。そこへ現れたその女は―――顔を覆い隠す石仮面をつけた、みすぼらしい様相で現れ、一族の仇でもあろう八竜を献身的に介抱した。
呪いを解いてほしくて恩を売っているのか?と尋ねると、彼女は自分たち一族がかつて犯した罪を反省し、外見ではなく、世界で最も内面の美しい一族と呼ばれるようになることを純朴に願っていた。それを聞いた神はいつしか、その女に初めての感情を覚え……女もまた、人の姿を模した神のそれに応えるようになった。
だが、神が愛した女は、蛮族によって、大した理由もなく狩られた。そして、よりにもよって穢したその頭を、八竜の御前に供物として捧げられた。
例えそれが、別の八竜に唆された結果だとしても。
神が初めて感じた愛。しかし、それは惨たらしく抉り取られ、ポッカリと神の心を穿った。
エバンナは、心の穴に雪崩込む憎悪を、人を、他の八竜を滅ぼすことに向けた。
エバンナの中にあるのは、今も昔も彼女だけ。
だから当然。
マーガレットは悲鳴を上げた。
「そんな……っ、どうして……? どうして私の名前じゃないの!?
エバンナ様! 私はあなたの為にすべて捧げました!
どうして!?! 私を愛してくれないの!?
どうして誰も私を見てくれないの!?」
知らない女の名前に発狂する”マグラ”に、グググ……肉塊の歯が剥き出されるが、ガラス玉のような目はマグラに見向きもしない。
「私を───いいように使って!要らなくなれば捨てるというの!? それが神の愛だというの!?それが無償の愛を司る神の言葉だと!?!
こんなの理不尽よ! 私は愛されなきゃいけない!
私のすべてをあなたに差し出したんだからあッ!」
その叫びも虚しく―――ぐわっ! 噛み付こうとのしかかる肉塊からマグラは「いやっ!」後退り「嫌よ!」息を荒げ「私はっ」逃げ出した。8つの足をバタバタと動かして逃げ出した。
絶対に勝てると思った戦いに、マグラは負けた。同士討ちさせて死体を増やそうと思っていたのに、人も魔族共もかなり多く生き残ってしまった。エバンナの復活も中途半端だ。何もかもうまくいかなかった。
残ったのは魔術を悉く弾く“死霊”だけ。マグラにもメイデンにもエバンナにも、その骨を動かすことは叶わず、周囲の何かを使って包み込むしか操れないもの―――。
ズルズルズル……蜘蛛の糸を付けて死霊(化物)を物理的に引っ張りながら、マグラは外に向かって駆け出していた。
少なくともコイツが魔術師に対して有効なことは確かめられたのだ。盾に使えばいい。きっとエバンナの魔術にだってコイツなら―――防げる。
「このまま───このまま終わらせてたまるもんですか! ちくしょう!私はまだ死なないのよ!!」と、レンス・タリーパから抜け出そうとした……が。
ボォオッ!「ああっ!」
マグラの身体は、外に出ようとした途端、何処からともなく身体が炎に包まれた。炎を消そうと床を転げ回るが、炎は消えるどころかますます激しく燃え上がっていく。
彼女の背中には、エバンナへの忠誠を示すための刺魔が焼印の如く浮かび上がっていた。全身を引き裂く激痛に悲鳴を上げ悶え苦しむが、それを慰める声はどこにもない。
ずずずず……肉塊の一部が、マグラの頭上で目を見開く。ようやく彼女は神に見向きされた訳だが……ガラス玉の目に映るマグラは、彼女自身ですら、部屋の端っこで引っ繰り返った小さな虫けらみたいだと思った。
「助けてっ助けてっエバンナ様っやだ!熱い!熱い!!
いやっいやっ熱い熱い熱いぃいいあああああ!!!」
「他人の空似!?!
いーやーっぱりッ! 瓜二つじゃねぇかい!」
ラタは大騒ぎした。トノットの広場から魔族たちを救い出して安堵の一息のすぐ後、彼は声を荒げて、他人の空似に指差した。
「ヤドゥフ!!」
「ちげぇよ」
青の賢者ヤドゥフ……かつて魔王を封印した勇者の仲間であった、スノーエルフ。
長身で、細身で、銀髪ストレート、翠の眼。そんな記憶の中の親友と、全くと言っていい程に瓜二つの若いスノーエルフの男が、ラタの目の前にいるのだ。見間違いなどではない。記憶違いでも何でもない。似ている。いや、本人だ。
だが、その男はすぐさま否定した。
「違う、俺はホロンスだ。ヤドゥフは祖父だ」
あまりにラタの押しが激しく、隠す気の失せたホロンスがそう漏らすと
「祖父?! つまり孫!? 孫だああああ!!!
可愛いく見えてきたぞォ!」更にラタの熱量は上がる。もう孫にはどうにもならない。
「人の家の前でギャーギャーと喚かないでくれる?」
ラタと、行き先が同じだったホロンス、そして、魔族たちが転移して来た場所は、レキナの家の前だった。
耕された緑地、煉瓦造りの外壁、煙突、素朴な家。その家主たる”若いセイレーンの女”が、顔を出した―――その途端、物々しい空気が魔族たちに走った。
「レキナ! この魔女がッ!」と一人が怒鳴り出すと一気に周囲も爆発する。彼らの鎖はまだ完全に外しきれてはいないから良かったが、それがなければ、皆がレキナに向かって爪を立て、飛びかかっていたことだろう。
それに対して「ふーん」レキナはあくびでもするように鼻を鳴らした。
「まだ生きていたんだ、醜い魔物共。
人の子攫って食べてそうな顔して洞穴でビクビクしながらずっと生きていただなんて……ひーふーみー……はあ、この数がなんとまあ」
「ん、だと―――ッ!」
「俺たちはお前のせいでなッ!!」
「なによ、一端に文句出せんの?
束になったところで私に指一本触れられないくせ、望みを叶えようともしない引き篭もり。どう考えたって穀潰し以外の何者でもないじゃない」
「お前がっ!お前が俺たちの姿を魔物に───ッ!」
「やめたまえ」
火と油を掛け合い、激しく燃え上がる憎悪の応酬に水を差したのは
「ヨハネ様!」「ヨハネ老!ご無事でしたか!」
トノットの町で、トンプソンが個別に倒した、獅子の魔族ヨハネであった。
彼は裂かれた腹の傷を抑えつつ
「レキナから、トト・ポロに代わる避難場所を用意してもらった。
イェリネ、子供とご老体はそこへ誘導してほしい」と、指示を出した。
「し、しかしヨハネ様───」
「逸る気持ちはわかるが……お前たちも休むべきだろう。
少なくとも今、彼女は味方だ……その理由は、後で語っても遅くはない」
「仇が目の前にいるのにですか!? またいつこんな機会に恵まれるかもわからないのに───!」と、牙を剥き出す魔族の前に
「じっちゃんの言う事きけぇ~」「そうだぞ!」「そうだそうだ~」
ヨハネの後ろからルター三兄弟が呑気に顔を出した。
「ルターの兄弟じゃない! 一体何処をほっつき歩いていたの?!」
「げっ! イェリネ婆さんだ!」「おばさん!」「ばっちゃん!」
「お姉さんと呼びなさい」
魔族の中でも最年少のルター兄弟が無事なことも加わり、長老のヨハネの言葉を渋々受け入れる魔族たちは
「この恨みを、俺たちは忘れないからな」
「フン、捨て台詞のボキャブラリ―が低いこと」
「何をっ!?」「よせ」
畑に唾を吐き捨てて、ルター三兄弟とイェリネに連れられ、新たな避難場所へと向かっていった。
「全く……人を煽るその性格、どうにかならんのか?」と、ヨハネが窘めるが、レキナの態度はヨハネに対しても変わらなかった。
「言われる筋合いなんて何一つないわ。
ご老体は腹が開いてんだから、大人しく寝てなさいよ」
「…………」
「ゴメンネー フカク キッチャッテ」
すーっ、と、レキナの足下から影が畑へと伸び、耕された土を巻き込みながら立ち上がる。それは大きな土塊人形となって、柵に立てかけられてあったバケツを首なしの胴体に被り、ヨハネたちを見下ろした。
「お前は手加減を学ばぬ男よな、トンプソン」
「トンプソン ハンセイ レキナ ハンセイ」
「反省する義理なんてない」
「タテマエ タテマエ」
「建前と人前で言うもんでないわ」
溜息を隠せないヨハネが魔族たちの背を追うように歩き出し、その姿が見えなくなると……レキナは、面倒臭そうに溜息をついた。
「先ずは感謝するわ。アイツら助けてくれて」
「素直じゃないねぇ、あんたも」
「はあ? あんなつまらない死に方されちゃ困るってだけよ。
もっと悶え苦しんでくれなきゃ私の憎しみが晴れないわ」
「違う意味で素直だった……」
家の扉を開けたレキナは「たらたら話してる時間はあまりないわよ」と言い
「トナーはおバカの相手して」
「イイヨー」「おバカですと?!」
「私は、”ベラトゥフの弟”に話があるの。あんたもそうなんでしょ?」と、ホロンスに目を向けた。
彼は緊張気味に頷いた。
「……お手柔らかに頼むぜ、神官」
2023/05/20改稿しました