第39話② 忌み心な再会
マイティアの瞼の裏に現れたのは、おぞましい光だった。
『深淵……そう、この力を求めていた……!』
光の輪郭、聞き覚えのない女の声……それぐらいしかわからないが、感情を剥き出したおどろおどろしい声は、マイティアの朦朧とした意識を貫いた。
『神を気取る紛い物の蛇共に報いを!
私の愛を───奪った、報いを 』
恍惚から憤怒へ、そして、悲痛に……女の感情は激しく揺れ動く。近寄りがたい、とても正気とは思えない声色だ。
『深淵はすべてを呑み込む……この悲しみも、忘れることができるのよ……ハハ、ハハハ……』
涙声の呟き……女は泣きながら、また、楽し気に、物憂げに笑って……何かを慈しむように歌い始めた。
〽ねんねんころり ころころおねむり
ははのむねで おねむりなさい
ぼうやは いい子 ころころおねむり
乳飲み子を寝かせるような唄。子守唄を、女はずっと歌い続けた。
しかし、マイティアは強い違和感を覚えた。それは同時に、強烈な不快感でもあった。
赤ん坊が いないから───いや……。
女は マイティアを 見ていたからだ───赤く、飢えた目で。
✦ ✦ ✦ ✦ ✦ ✦ ✦ ✦ ✦ ✦ ✦
「う……ぅぅ」
マイティアは、気怠い体をゆっくりと起こした。
(また、だ……変な夢。
子守唄が耳にこびりついてる……。)
耳の中で木霊するメロディからなんとか意識を逸し、自分の置かれた状況を確認する。
マイティアは簡素な手術台のようなものに寝かされていて、身に着けていた革の防具は横の机の上に畳まれて置かれていた。
周囲を見渡すと……そこは、家の中で───恐らく、錬金術師の家だった。
数多くの錬金釜やすり鉢、土、植物から動物などの素材、瓶詰めになった目玉や内臓、白い液体で湯煎される血の薬瓶と、その昇る蒸気で燻される、黒ずんだ木彫り人形……。
周囲の壁に貼られたレシピ、床に積まれた角の丸くなった本、大きな黒板は術式の計算式でビッシリと埋め尽くされている。
日用品は最低限しか見当たらず、暖炉には灰が積もっているだけで、新しい薪は見当たらない。
静かな暖炉の前には、フードを深く被ったローブ姿の人が、長い杖を肩にかけたまま、ロッキングチェアでくつろいでいた。目につくのはその人だけで、ラタもホズも見当たらない。
「あ、あの」
自分一人だけで見知らぬところにいる……強張った声を掛けると、フードから少しはみでた細長い耳が、ぴこん、と、跳ねた。
「ずいぶんと遅いお目覚めね。
王子のキスがないと目覚めないものかと難儀していたところよ」
「……、”おばあちゃん”、ここは、どこ?」
嗄れた女の声、白いフードから覗く尖った耳の色は黒い。セイレーンの老婆なのだろう―――マイティアはそう思った。
「全く、可愛くないガキだわ」
「え……ええっ?」
しかし、何か気に障ることでも言ったか、老婆は突然舌打ちをした。経年で手に入れる寛容さなどまるでない、悪い意味で若々しい、使いこなされた舌打ちだった。
「私に会いに来たんだろ? 女神のなりぞこない」
「え? えっ……ええ!? まさか……っ!
あ、荒れ地の魔女!?」
荒れ地の魔女───レキナは、フードを外さないまま再び舌打ちをして
「まさかとは何よ」
動揺を隠せないマイティアを恫喝した。
「に、日記の中のあなたは……その、失礼ですが、若い女性なのかとばかり」
「失礼ね」
「ごめんなさい」
レキナは、すっ、と、サイドテーブルの上のティーカップをつまんだ。袖から現れた黒い手は骨と皮だけで、小さなティーカップの重さにすら震える、今にもポキリと折れそうな小枝のようだった。
「私のことはどうでもいいでしょう?
自分の置かれている状況もわかっていないアンタが、煩わしい男を引き連れて此処まで来たのは、あの”化物”の為なんだから」
化物───。
魔女の口から出されたその言葉に
「…………。」
マイティアは……指が手の平に食い込むほど、拳を固く握りしめた。
「……私と一緒だった男の人は、今何処に?」
「男共には力仕事を頼んだわ。だから、此処にはしばらく戻らない筈よ。
うるさい鷹も外でお留守番」
そこまで聞くと、マイティアの引き攣った頬が僅かに解けた。
「そう、よかった……あの蜘蛛から、一先ずみんな抜け出せたんだ……よかった」
それで?
レキナの耳がマイティアの質問を急かす。
(説明しなくても、もうわかっているんだ……この人は、私が知りたい事を)
マイティアはひと呼吸おいて、選び抜いた問いを投げかけた。
「───単刀直入に、お尋ねします……。
ネロスは、何処にいますか?」
そこでようやく、レキナはマイティアの方に顔を向けた。
フードの下からでもわかる、魔物を射殺す鋭い眼光、思慮深き眉間。
敵を前に一切の瞬きをしない衰えを見せぬ魔術師の目が、質問の重さを解していないだろう子どものあどけなさを、一片の容赦もなく貫いた。
「それはアイツが、“死霊”だって、わかってて訊いてんの?」
だが、マイティアの目に驚きはない。
寧ろ一度、目を瞑った後で
「彼が何者であるかは、私が決めます」と言い切った。
真実は、自分にとって都合の悪いことだろうと、マイティアは姉の反応から察していた。
日記に描かれた勇者の人間離れした身体能力、魔を引き寄せる体質、死にかけていたところを女神ベラに救われたというエピソードなどから、”ネロスが女神ベラの使役死霊である可能性”を導き出すのは───マイティアが日記の内容を客観視していたからか、カタリの里での記憶が部分的に惹起された為か───そんなに苦労はなかった。
そこに加わった、レキナの”化物”呼びは、彼女にとっては最後のダメ押しだった。
「そういう強かなところ、ホント嫌いだわ……”クソ王子”らしくて」
「クソ王子?」
しかし、その言葉の割に、レキナの口角はニヤリと上がり
「お目当ての死霊、意外と近くにいるわよ」と、聴き逃すぐらいサラリと問いに答えた。
「……、えっ!?」
「ただ、アレとイチャイチャするには、アンタは準備が必要なのよ」
「べ、別にそんなつも……、準備?」
レキナは灰皿に置かれていたキセルを持ち上げ、慣れた手つきで魔術の火を付け、咥えた。
フー……静かに広がる白煙。果実の様な甘い香りのする煙に包まれ、レキナの姿が見えなくなると
「吐いて捨てるほどある聖樹の魔力。
賢者モドキを”2人”も引き寄せる八竜の加護。
そこまで持ってるアンタに足りないのは───”知識と技術”。これ以上でも以下でもないわ」
「は……!?」
レースのカーテンを開くよう煙の中から、若く肉付きのいいセイレーンの女性が現れた。しかも、マイティアの鼓膜を揺さぶる嗄れていた声すらも、ハリのある声に変化している。死にかけている老婆が突然、目の前で、若返ったのだ。
まさに魔女だ───人の五感を弄び、愉悦に浸る。
ぽかんと開いた口が塞がらないマイティアを見下げる、高慢な表情には───幻惑術のドツボに嵌る彼女には想像すら及ばない知識と経験による―――確かな自信が滲み出ていた。
そして───。
「ねえ、お姫様」
魔女は、まるで、恋愛の話でもするかのように
「好きな男の為に 罪を犯す覚悟はある?」
2023/4/23改稿しました