③
ネロスは一人で山を下った。
涙は枯れ果て、耳も鼻もスッカリと赤みを失った。ぼんやりと熱を持つ腫れぼったい目元を擦るが
『そろそろおねむの時間ですよ
さ、歯を磨いてください』
いつも明るいベラトゥフの声は聞こえてこない。
ずぬっ……ぬかるんだ地面に裸足が沈み、彼は俯いていた顔を上げた。
以前から何度も見下ろしてきた、山の麓にある小さな村。キヌノ村だ。
ベラトゥフからは、行っちゃダメと言われていた場所。5軒ほどの茅葺き屋根の家、畑の野菜を老人たちが一つずつ丁寧に収穫している。
そのうち一人のおばあちゃんが、耳を真っ赤にして鼻を啜る、継ぎ接ぎパンツの男の子を見つけると
「あらまあらま、どったん」
農具を置いて小走りに駆け寄ってきた。
「どこさ子かね? トトリの子か?」
「・・・・・」
「こんな格好で山さ歩いとったん? もうすぐ夜だってのに……なあ、寒かろ?寒かろ? わしらの家に来い。な?な? イノシシ汁ば残っとるんよ。温めてな、食わせてやるばい。ぽかぽかするでな」
おばあちゃんは何も言わないネロスの手を引き、自分の家に連れていった。
「うまか?」
「うまか? うまかうまか!」
残していたらしいイノシシ汁を温め直し、振る舞うと、俯いてしょげていたネロスは顔色をめっきり変えた。うまか!と何度も元気に声を張り上げ、空っぽな胃の中にイノシシ汁をいっぱいに流し込んだ。
「おっかあ、おっとおば、どこさね? タタリ山で迷子になったとかい?」
「???」
おばあちゃんの強い訛り。
ネロスが顔をしかめ、首を傾げる様に気付いたおばあちゃんは、意識的に話し方を変えた。
「おかあさん、いるか?」
「いないの」
「おとうさんば?」
「いないの」
「一人で? 山さ入ったとね?」
「ベラがいるの」
「ベラ? おかあさん、おとうさんとは違うね?」
「ベラは女神なの。木だけど」
女神様ぁ? おばあちゃんは目をまん丸と開くが
「戯言ばい。山の子さ関わるな」
隣の部屋で縄を編むおじいちゃんの声が鋭く居間を貫いた。
ネロスにはおじいちゃんの言葉の意味が判らなかったが、彼の苛立ちと不満だけは感じていた。
「ええのよ、気にせんで」おばあちゃんがそう言うと、彼女はネロスにベラトゥフの事を色々と訊いてきたので、ネロスは正直に、素直に応えた。
「ベラさ女神様ば、ネロスの面倒をみとるんか?」
「うん」
「そうかいそうかい。まるでおかあさんみたいだねえ」
「女神だよ」
「そうねぇ、けど、お前さんをこーんなに立派に育ててくれたんやろ?」
「うん」
「例え血が繋ごうてなくとも、そりゃ、かーちゃんだべ。ネロスを育てた立派なおかあさんだべさ」
「……そうなの?」
「お前さんは愛されとったんに違いなか。
人さ赤ん坊ば、一人で育てるなんか大変とよ。それに、なんてったって木ばい! んのにネロスば、こないに大きくなってん」
「けど、ぼくは……死んだんだって。
ベラがぼくを生き返らせたの」
おばあちゃんはネロスの言葉の意味を完璧に理解できていた訳ではなかったが、和らげに相槌を打ち、ネロスにただただ優しく微笑みかけた。
「ネロスや、お前さんは女神様に愛されたんよ。お命をな、貰うたのよ」
「だけど……だけど、ベラは、あやまったんだ……ごめんって言ったの。わるいことしたらあやまるって言ってたのに。あやまったの。
なんで? ぼくを助けてくれたこと、わるいことなの? ダメなことだったの?」
「んな訳あるめえ、のぅ、謝る必要なんかねぇもんなぁ。
ネロスきっとな、女神様ば、優しい御方さね。かーちゃんすんの大変たい。疲れとっただけとよ」
「…………。」
「かーちゃんさきっと、ネロスが帰るのを心配して待っとるけん。
今日はもう遅いけんな、明日、女神様んとこ帰ってやんな。な?」
ネロスは鼻を赤く染めていき、目に涙を浮かべた。
それを見て、おばあちゃんはネロスをそっと抱き寄せた。
雨風に晒されない屋根の下、小さな囲炉裏の横。他の生き物に触れただけではない、顔を埋めて眠ってしまいそうな、人肌の心地よい温もり。
ネロスはぎゅーっとおばあさんに抱きつき、声を出して泣いた。
その日の真夜中
泣き疲れて眠ってしまっていたネロスは
「!?」“奇声“で飛び起きた。
それは夢の中の音。それを理解するために彼は頭の中で記憶を整理してから、物音を立てずに外へ出て、空を見上げた。
赤い月の形。夢の中と同じ、夜が嗤う下弦の月。
いつの間にか掛けられていた毛布を剥がし
「………」
眠っているおばあちゃんを横目に拳を握り締め、縁側からネロスは外に出た。
「子供が真夜中に外に出てどうしたんだ?」
その声は、村の外から聞こえてきた。
魔物除けの案山子の前で、赤いフードを深く被った大人。暗闇が赤いフードに纏わり付いているかのように、下からでも顔は覗き込めない。
ネロスは顔をしかめ、案山子を挟んで赤いフードを睨み付けた。
「まものは出て行け」
「……初対面の者を魔物扱いとは、失礼な子供だな」
「お前“ら“魔物は……ぼくが通さない!」
「このガキ……!」
赤いフードの内側から赤い触手が伸び出し、その先に生えた大きな目と、人を食い千切らんばかりの黄ばんだ牙が赤い月明かりに照らし出される。
更に、フードの中からは大きなトカゲのような見た目の最下級の魔物が五体も這い出てきて、頭のほとんどを占める大きな一つ目でネロスを睨みつけてきた。
「なんだ、震えているじゃないか」
ネロスの手は汗ばみ、震えていた。
それを見て、そいつはニタニタと口角を上げた。
「怖いのか?」
「こわくない」
「なんだなんだ、強がりか? ケケ、可愛いガキだな」
「お前らはたおせるってぼくは知ってる。だから、ちっともこわくない」
「あ? クソガキが……そこまで言うならこっちに来いよ。
可愛がってやるぜ……お前の目ん玉でよ」
近くに落ちていた農耕用の小さいスコップを拾い上げると、ネロスは案山子が守る囲いの外に出た。
「馬鹿なガキがッ! 死ね!!」
奇声を上げた魔物は無数の触手を伸ばした。何十本もの黒い触手が意思を持っているかのようにネロスに突っ込み、彼を捕えようとする。
だが、ネロスは金属製のスコップの先端で抉り切る様に、次々と触手を切り落としていった。
「ゲッ!?」
舐めてかかった触手の三分の一を失い、魔物は驚いて伸ばした触手を引っ込め、代わりに最下級の魔物五体に飛び掛からせたが
ネロスは両手でスコップを握り、力尽くで一つ目のトカゲ頭を次々に叩き潰していった。
その隙、切られた触手の先を鏃のように尖らせ、ネロスを刺し殺そうと魔物は触手を突き出した。
だが、ソイツの半分ぐらいしかない背丈に込められている、ネロスの不可思議な力で、触手の合間を縫うようぐんぐん魔物の懐へと近付いていく。
スコップの鋭利な先端が横薙ぎに魔物の目を狙う強烈な一撃。それから反り返るよう身を捩った魔物の「グギッ!?」触手を掴んで強引に手前へ引き寄せると、ネロスは魔物の牙ごと大きな口元を小さな拳で殴り飛ばした。
「グゲエエ!!」
大人の胴体を容易く引き千切る牙が子どもの鉄拳に容易くへし折られ、魔物は小さな化物に震えあがった。
見た目はただの子供なのに、身体能力はかなり人離れしている。魔物を強く睨みつけ、前へ出る足を決して止めようとしない様は、死の恐怖を感じていないかのようだ。
「ななななんだお前―――なんだお前はっ!? 人間じゃないのか!? 魔物なのか!!?」
「お前らなんかといっしょにするな! ぼくは―――まものなんかじゃない!」
「ヒッ!」
懐に飛び込み、振り上げるスコップでパチンッと魔物の目から赤い血が飛び散る。そのまま、振り下ろして止めを刺そうと手首を返したとき
「なんばしよっと!?」
「あっ! 来ちゃダメだよ!」
村の人たちが騒ぎの音に気付き、駆けつけてきた。
「魔物じゃ!」「魔物ば子どもを襲っとるけ! 助けに行かば!」次々にその足で魔物除けの案山子を乗り越えてきてしまう。
「ダメだ来ちゃダメなんだ! もどってよ!」ネロスがそう声を荒げて村人たちの方へ駆け寄るも───ビュゥウウウ! 突如、赤い突風が村へと突き抜けた。
「うわああっ!!」
走るネロスよりも早く吹き抜けた突風は、彼の背中を切り裂き、スコップを切り落とし、魔物除けの案山子を引き裂き
村人たちを切り刻み、村の入り口の門を切り落として────土埃と共に細切れな血肉が容赦なく舞い上げ……干していた稲の上に血の雨を降らせた。
倒れ込むネロスの眼前に広がったのは“予知夢通りの光景“───彼は唇を震わせた。
「何を喚き散らしている 情けないぞ」
「ゲゲゲッ! レグナム様!」
解けた赤い旋風の中から現れたのは、再びの赤いフード。ソイツは白銀の細長い爪にこびりついた血を、上等なハンカチで拭い「ふむ……」刃先を見つめて僅かに唸った。
バラバラになった村人の死体を無慈悲に数体転がして切り口を確認した後、ソイツは早足で村の外へと歩み出……背中を裂かれ、蹲る小さなガキを見下ろした。
「下級の噂など眉唾物と思っていたが、当たりかもしれんな」
呟くソイツの、業物の如き爪の刃は、観察して初めて判るほど僅かに欠けていた。
ネロスの背中の筋肉は大きく裂けて出血しているが、垣間見える背骨と肋骨には裂け目がなかった。老人とはいえ大人の骨がキレイに裂けていたのにだ。
「なんてことするんだ……っ! なんてことするんだ!おばあちゃんた」
ガッ! 声を荒げるネロスの顔面に蹴りが入り、地面を跳ねながらネロスの小さな身体が転がっていく。
「顔面も硬いとは
このガキ……骨に鋼鉄でも仕込んでんのか?」
「へ、へへへ、ざ、ざまあみろクソガキ!」
「雑魚は黙ってろ」
「ゲ、ゲゲェ……そりゃないっすよ、レグナム様ぁ
ヤンゴン様のテリトリーなのに……どうして他の親衛隊の方が介入してくるんすか」
「俺はバーブラ様の命令で偵察に来ている
ヤンは人徳こそあるが、大雑把な奴だ。お前みたいな雑魚が見張りをサボってガキと戯れに来ようが、咎めたりしないからな」
「ゲ……バレてる……」
だが、コレは確かに掘り出し物だとレグナムは呟いた。息を荒げ、咳き込む小さなガキの方を凝視する。
「ゲホッ……うぅぅ」
鼻が折れ、鼻血が流れ出て、ネロスの目がぐるぐると回り、酔う……頭を地面につけて、深く早く呼吸する。
この二人目の赤フード(レグナム)は、ネロスの力を大きく上回る存在である───それを、彼はこの夜に目覚めたときから知っていた。
ただ知っていても……おばあちゃんたちに襲い掛かる残酷な死の未来から背を向けてタタリ山へ帰るなど、ネロスには選べなかったのだ。
「く、そ……っ!」
ネロスは背中を庇うように低めに、四つん這いに飛び出した。恐怖で手足が震えていたが、おばあちゃんたちを何の容姿もなく殺した魔物にやり返さなければと幼心に覚悟し───槍状になったスコップを力一杯に投擲した が。
「ん?」
「ッ ェ!」
投げられたスコップは、構えていたレグナムを掠らず、自分には来ないと油断していた下級の魔物に向かい───鋭利に尖った先端が下級の魔物の小さな頭部(触手の根元)を深々と貫いた。
これに、レグナムは度肝を抜かれ、同時に舌を巻いた。
「倒せる者を確実に倒す判断……わかってるじゃないか、お前」
ネロスは逃げずにレグナムの膝辺り目掛けて低く突進し、足を折ろうと意識するも───「わっ!」赤いコートの裾からサソリの様な尾が現れ、飛び掛かる直前のネロスにブレーキを掛けさせた。
その隙、レグナムはネロスの顎を上へ蹴り上げ、浮き上がる彼の首を掴んだ。
「うぅ……っ お、ばぁ ちゃん、たち…を なん、で」
「何故? 虫を潰す理由と同じだ」
「む、し?」
「気持ち悪いんだよ」
ネロスの息は更に荒く、顔は紅潮していった。それは単純な怒りではなく、敵わない相手に対する恐怖も入り混じる、処理しきれない強い感情だった。
「うううう!!!」
首を掴むレグナムの手を解こうと、ネロスは力いっぱいに暴れたが……ビクともせず
レグナムはネロスの首を締め付けようとせず、品定めをするかのよう頭、顔、体、四肢を確認して……こう言い放った。
「まるで生きているかのようだな」
「!」
ネロスは勢いよく投げ飛ばされた。
太い木の幹に裂けた背中を強く打ち付け、激しく咳き込む。震えた手足で立ち上がろうとするが、その頭をレグナムに踏みつけられ、こめかみから泥濘んだ地面にめり込む。
「お前からは死霊特有の、濡れた土臭さが僅かに香っている。
しかし、お前はまるで生きているかのように心臓が動き、脈がある。見たことのない死霊だ。いや、半端者と言うべきか?」
「ぐうううっ!」
「おい、お前の“主人“はどこにいる?」
「主、人 ?」
「お前の魂の手綱を握っている死霊術士だ
近くにいるのだろう? 案内しろ」
レグナムの言う、ネロスの“主人“が誰かを彼は理解し、頭を踏みつける足を退かそうとギーッと握りしめる。
「教えるもんか……! お前なんかに 言うもんか!」
「ならば、鳴かせるぞ」
レグナムは赤子の手を捻るように、ネロスを痛めつけた。
致命的にならないよう幾度も転がした。周囲に血が飛び、皮膚は変色し、鈍い悲鳴が静かな夜に響く。
しかし、周りを注視していても誰かが来る気配はない。感じるのは───小さな村の生き残りの老人たちが、家に引き籠もりながら2人の様子を窺っている、惨めな視線だけだ。
目を逸らしがちな哀れみ、厄介事を招き入れた部外者への怒り。少なくとも、奴らがネロスを助けに来ることなどはないだろう。
(爺婆共め……後でぶっ殺してやる)
レグナムは唾を吐き、ネロスへの攻撃を止めた。
「げほっ……げほ……、……」
咳き込み、涙を滲ませながら、よたよたとネロスは歩き出した。レグナムに徹底して立ち向かう訳ではなく、背を向けるようにだ。
その逃げて行く先に主人がいるのではないかと、レグナムはしばらくネロスを泳がせていたが、彼は森の奥に入っては……同じ場所を通った。レグナムを振り払おうとしている様だった。
「ガキが息も絶え絶えに逃げ回っていても助けに来ないとは、お前の主人は薄情だな」
「ち がぅ」
「そうか、お前の様なガキを死霊術の実験材料にするような奴という事か。より一層会いたくなってきたぞ」
「ちがう!」
「違うのか? ならば、つまらない追いかけっこなど止めて、俺に会わせてくれないか? お前の主人に興味があるんだ」
「いやだ!!」
背中を裂いた最初の傷が既に塞がり始めているネロスの回復力に感心したレグナムは
「うわあっ!」
フードの下から伸ばした鋭い尾で、ネロスの脇腹を抉った。
溢れ出る血を抑えるようにネロスは小さく縮こまり、激痛で涙を溢す。傷口を震える手で握りしめると、その手に自分の血とは違う緑色の液体がこびりついていることに気付く。
「俺の尾には、残念な事に絶妙に強くない毒がある。普通の人間の子供なら死にかねない量だが、死霊は潜在的に毒の耐性がある。お前は死なんだろう?」
抉られた脇腹がカーッと猛烈に熱くなっていき、ネロスは抑えきれない悲鳴をあげて、泣き出した。
激痛に喚くその声に、レグナムは満足げに周囲へ目を配ったが、その期待に反して誰が来る気配はない。抉った傷口を蹴って、更に声を上げさせるが、周囲の静けさは変わらない。村人のめぼしい動きもない。
「…………」
レグナムは、すーっと静かに夜の闇に紛れて消えた。
激痛に苦しむネロスが森の奥でただ一人取り残され……彼はそのうち気を失ってしまった。
夜が明けてしばらくして……ネロスは森の奥で目を覚ました。
鬱蒼とした木の葉の隙間から見える曇天の空、ぼんやりと見えた予知夢のピースを整理しようと記憶を遡っていく途中で
「はっ!」
彼は慌てて周囲を見渡した。
遭遇したことのない、全く歯が立たなかった化け物……レグナムが近くにいない事を確認し、ネロスは深く安堵した。そのまま脱力して体の重さを土に溶かし、自分の弾む鼓動に耳を傾ける。
激しく弾む鼓動が収まってから、ゆっくりと身体を起こすと……ネロスは自分の体を確認した。持ち前の回復力であらゆる傷は瘡蓋になっていたが、毒が残っているせいなのか眩暈と吐き気が治っていない。息を吸う度に頭を抓られているかのような頭痛も残る。筋肉がギシギシと軋み、体がひどく重い。
(ベ ラ……)
ネロスはタタリ山を見上げ……、何度も躓きながら、山を登っていった。
タタリ山の3合目近くまで登ったところで、ふと振り返ると、ネロスの目に真っ赤なキヌノ村が映った。
「……ごめんな さい……」
ネロスは魔物を引き寄せやすい。だから、村に降りることは危険なの────ベラトゥフがしつこく口にしていた“危険“の意味を、彼は身を以て痛感し……ぼろぼろと涙と嗚咽を溢した。
親離れもままならない幼い子にはあまりに堪え難い、圧し潰されそうな不安と、心を埋め尽くす罪悪感を解かす答えを……彼は縋る思いで求めた。
ネロスの帰るべき場所……家と呼ぶにはあまりにお粗末な、雷によって縦に裂かれた大きな老木の空洞。えぐられた木の中に刺さった一本の聖樹の枝。
すっかりと日が落ちた頃
絡まり合う太い根を梯子のように登りきり
「……、……」
慎重に周囲を確認した後、ネロスは、そっ……と、老木の中を覗き込んだ。
今までと変わらない、不自然に地面に突き刺さった、一見は変哲もない枝。
それを見た途端、目と鼻の奥がキューッと熱くなっていき……ネロスの褐色の瞳はうるうると潤みだした。
「……ベラぁ 」
『……おいで、ネロス』
姿はずっと見えないが、いつも通りの、優しい声が聞こえてきた。
それに堪えてきた色んなものが爆発し、ネロスは老木の中に這い上がり―――――
「そうか此処か お前の巣穴は」
「!?」
直後、背後に現れた気配───ネロスは後ろから首を鷲掴みにされ、持ち上げられた。四本の指が喉に甘めに刺さる。
「何者かが住んでいるとするにはお粗末だが……此処にお前の“主人“がいるのか?」
「はなせっ! はなせよぅ!」
『いやっ ネロス! どどどうしてこんなところに最上級の魔物が……!』
レグナムはベラトゥフの存在に気付くことなく、ネロスを高くもたげて声を張り上げた。
「出て来い死霊術士よ! さもなければこのガキがバラバラになるぞ!」
『死りょ―――やめて なんで 子供になんてことするのクソッタレ!! この―――ッ』
ベラトゥフは怒りを顕わにしたが、すぐに自分の置かれている状況を理解し、絶望した。
最上級の魔物・レグナムの耳に、ベラトゥフの声が聞こえておらず
聖樹の枝に宿る女神の気配にも、奴は気付いていなかったからだ。
仮に、ネロスがベラトゥフの存在を伝えたとしても、レグナムはたかが木の枝を“主人“とは認めてくれないだろう。ネロスが“嘘“をついているのだとみなされれば───いや、何も言わなくても―――ネロスの赤黒く変色している脇腹や全身の瘢痕化した無数の傷口を見れば、ベラトゥフはすぐさま、これから起こるだろう惨劇を察してしまった。
せめてもの自分が代わりになれれば良かったが、ベラトゥフの魂が消えればどのみち、術者の死亡でネロスも道連れにしてしまう。
『ネロス! そいつを私の近くに寄せて!!』
ベラトゥフは動きも魔力も制限されている状態だ。だが、至近距離から不意を突くことができれば、レグナムを倒せる可能性が万が一ぐらいあるかもしれなかった。
だが、ネロスは何も言わなかった。一人でレグナムの手から離れようともがくばかり。
そして、レグナムも一向に現れない“主人“に対し、舌打ちをした。
「自らの保身の為に出て来ないか……そうかそうか」
「ぐえっ」『ネロス!』
レグナムはネロスを、ちょうど目印のように突き刺さっていた聖樹の枝にめがけて投げつけた。その威力が強すぎたせいか――――今までネロスには抜くことが出来なかった聖樹の枝が、ゴッ、と地面から離れて、ネロスと共に地面を転がった。
「おいガキ、泣き叫べ。助けを乞え。
そうしないのなら、一本ずつ指を切り落としていくぞ」
それでも、ネロスは何一言も声を出さなかった。ただ苦しそうに喘ぎ、聖樹の枝を手元に引き寄せるだけ。
ベラトゥフはネロスに回復魔術を唱えようとしたが、彼は枝の上に覆い被さった。まるでレグナムの目からベラトゥフを遠ざけようとするかのように。
『ネロス―――ごめんね 怖いよね 痛いよね……』
ネロスの体は酷く震えていた。
小さな体を激しく打ち付ける鼓動が、聖樹の内腔を響かせる。
ベラトゥフは温度すら分けてあげられない幻で、敵わない相手に戦い続けている彼を抱き締めた。
『何の為に私、女神になったのかな……私の勝手で蘇生させてしまったあなたすら満足に守ってあげられない―――こんな無責任なことってないもの……』
誰にも伝えることも出来なかったベラトゥフの弱音、幻の涙がネロスの身体を擦りぬける。
『勇者の死霊術を解くわ、ネロス……。
このままあなたを苦しめるだけならいっそ……私が、あなたを楽に……してあげなきゃ、いけないんだから……』
ギュッ
そのとき
ネロスが、聖樹の枝を強く握り締める力を
ベラトゥフは感じた。
掴んで離そうとしない、是が非でも離さない……そんな意志さえ籠もっているかのような、本能的な力。
ネロスは、縋り付くような涙声で―――言った。
「―――おかあさん たすけ て」
「おかあさん?
ふ、ふふ……ははは! まさかお前を蘇らせたのは母親なのか? これは傑作だ!
親のエゴで死んだ我が子を死霊術で蘇らせたか!? そのくせに子の危機に姿を見せもしないか!
まさに嘘偽りの愛情、いや、それ以下のどす黒い悪だ、いいぞ、反吐が出る。
まさかお前、不自然に突き刺さっていたその枝を母親代わりにでもさせられていたのか? 嗚呼、なんて哀れなガキだ……同情心まで芽生えてきたぞ。
親というのは子を自分の都合で作る。一時の快楽か、はたまた吐き捨てられた絶望かでな。そして、手に負いきれなくなればすぐにガキを捨てようとする。町角の隅、森の奥、谷底へ捨てていく。誰かに拾われてろくな人生を送れることを祈っているだのと言い訳を添えてだ。
一人残され、飢え、凍え、孤独に死んでいく子の無念、親への憎しみによって侵された……善悪の故も知らぬ幼い魂から生まれた魔物は、愛に飢える。
無意識で無垢な独占欲、戯れるように人を殺すカワイイ悪魔にな」
レグナムはそう嘲笑い、蹲っているネロスに一歩ずつ近づいていく。
「またとない機会だ、ガキ、お前は魔物にしてやろう。
そして、自分の命を冒涜した母親を含め、人に復讐してやればいい。
何も悩むことなどない。どのみちこの世界は遠からず我々魔族の手に落ちるのだか────」
すっ……と、何かに吸い寄せられるような感覚がして、レグナムは足を止めた。
「なんだ……この違和感は」
身も心もボロボロな筈のガキがゆっくりと、一本の枝を杖代わりのようにして、身体を起こしていた。そればかりか、みるみるうちに赤黒く痣になっていた怪我も、切り傷さえも、煙を立てて塞がっていく。
『ごめんね……って、私、謝ってばっかりだね
ただ……二度と、この力をあなたに使わせたくなかったの……。
だけど、そうよね……“生きたいよね“
死にたくないよね 当然よ 当然なんだ
あなたが生きる事を諦めていないのなら―――この手綱を、私が手放しちゃいけないんだ』
ズズズ……目に見えるほどの歪みが、ネロスの身体へ向かって続々と押し寄せ───血が湯立つ程の高熱で筋肉は膨れ上がり、骨は不気味な音を立てて厚く、太く変形していく。
「ふぅ……ふゥゥ……ッ!」
鼓動は荒れ狂い、口から溢れ出る大量な魔力を含む蒸気はまるで瘴気そのもの。顔は真っ赤に紅潮し、血走る目がレグナムを真っ直ぐと捉える。
「お前、俺の魔を取り込んでいるのか!?」
「ぶっコロしてやる……ッ!」
声変わりしていない筈の喉から出る、低い威嚇。今にも飛び掛からんばかりに血の気の多い獣の手綱を引く様、ベラトゥフは聖樹の枝越しにネロスの手を握り返した。
『大丈夫、大丈夫よ。落ち着いて、ネロス……。
私はここにいる あなたの手の中に』
そう諌めると同時、ベラトゥフは聖樹の枝を変形させた。
細かな枝分かれを一つにまとめ―――葉を落とし、武器として運用できるよう、長く、鋭く……さながら剣の如く、自らを研ぎ澄ました。
『いくよ、ネロス……あなたの本当の力を見せつける時よ!』
2022/12/22改稿しました