第20.5話 最後の頁
「どっひゃぁ……どえらい目に、遭いましたなあ!」
コレットとリッキーの手を借りて、意識を失ったままのネロスを担いでナラ・ハの森の外へ 地底国の北端、ペテロの町まで来た。
「あなたも無事でしたか」
ペテロの町には、先に着いていたウロとも出会えた。
既に夜が深まっていて、診療所は閉まっていたのだが、ウロの知り合いということもあり、医者たちは緊急対応をしてくれた。
「―――外に、出てる……」
薬草療法や回復魔術が主流な世界にとって、刃物で病を切り抜き、縫い合わせるドワーフの医学は“荒療治”とされて、未だに他国では受け入れがたいものだった。だが、それが急を要する場合や、内側の傷には最も迅速に対応できると生傷の絶えない兵士たちの間では近年、受け入れられるようになってきていた。私もそれは知っていた。
だけど、流石に……みてられなかった。
力無く垂れた彼の右手に、焦げた聖剣を添えて……私は、再び痛み出した左足を引き摺って、外に出た。
紫色に変色し、パンパンに腫れあがっていた私の左足……教会の牧師に回復魔術を施して貰ったが
「左足を使って歩けるようになるには、数か月かかるでしょう。
しばらくは安静にしてくださいね」
数か月……そんな時間など、私には残っていないのに。
夜風に当たりながら、診療所のすぐ前にある寂れたベンチに腰掛け、包帯で太くなった左足をだらしなく放り出した。そして、重い頭を背もたれの縁に預ける。
数分歩いた先の宿屋まで歩く気力も残っていない……大きな溜息が漏れた。気張っていた空気が胸から抜けきって、萎れた風船のようにベンチにへばり付いた。
(あれは……、きっと ベラなのかな……)
聖剣に宿る女神、ベラと思しきエルフの言葉が頭の中で木霊する。
『もっと早く……この力を使うべきだったの……。
あなたたちを、こんな辛い目に……遭わせてしまった……』
あの場で、ゲドを氷漬けに出来る実力者がいるとすれば、間違いなく女神だけだろう。ゲドがあれで死んだかどうかは判らないが、私を含めた生き残った僅かな人は、奴の死を確かめる気にはなれなかった。
『聖剣とあんたたちが呼ぶ聖樹の枝切れにしがみついているこの魂はねぇ、大女神テスラと肩を並べた青の賢者ヤドゥフの孫娘、ベラトゥフのもの。
正当な魔術師の血統と、天賦の才を持ちながら努力もした、八竜に認められた魔術の変態 あんたたちとはスタートラインも伸び代も違う、それが、自称勇者が棒切れのように振り回す女神のレベルなのよ』
魔女の言葉は本当だろう。私たちを手の平で転がした魔女、そして、彼女が評価するベラが、女神の選定で競い合う本物の“候補者”なのだ……。
痛みと疲労も重なり、実力不足への拭えぬ不安が渦を巻き、胸の内で吹き荒れる。
目頭が熱い。いっそ酒が飲みたい。思考が腐る程飲んで、熟れた涙袋を搾り出して、不安の種を枯らしたい。嗚咽も弱音も、胸の奥で煮え滾る辛酸を吐き出してしまいたい……。
「足、治療して貰ったか?」
ふと声をかけられて、顔を上げると リッキーが私の前に立っていた。
「……世話になったわね」
「まあ、ランディに宜しく言っといてくれ」
ああ、そうだ ランディア姉さん。ハサン王四人娘の“次女”、腹違いの姉で……彼女は王都騎士だ。
「俺、昔は王都にいたんだ 王立の魔術学院。
アイツには結構パシリにされててよ」
「それはごめんなさい」
「あんたのことは、ランディからちょくちょく聞いてたんだ」
リッキーは何だか、口角を吊り上げてにやにして……。
「修道院の中庭で雪達磨100個作ってはしゃいでたんだって?」
は?
「雪合戦じゃ敵なしなんだろ?「待って」
国宝レベルの魔術書でドミノ倒しして「待って」
メイド連れて大水殿でカエル釣りしてたり「待って」
鎧に化粧させたり「ちょ」小鳥を追っかけて階段から転げ落ちたり「それは」修理中の壁の穴に突っ込んで抜けなくなったり「……」ぶふっ、してたんだろ?
人は見た目によらないな、マイティア様よ」
「姉さんひどいわ 作れた雪達磨は98個なのに」
「それは最早100個だろ」
「こ、子どもの頃なんて誰だってそれぐらい作るじゃない」と同意を求めたが、リッキーは全く頷いてくれなかった……そんなバカな……。
「雪達磨と雪合戦で遊ばない王国民が存在するの???」
「そんな哀しい顔されましても」
雪国遊びを嗜まないという王国民を信じられない顔で見ていると
「姫さん、本当は帰りたくないんだろ? 王都に」
あまりに唐突で、面食らった私は「わかった気にならないでよ」強い言葉で突っぱねたが、リッキーは何処か確信を持っているかのように平静だった。
「当然、本当のところは俺なんかにはわかんねぇし、わかりたくもねぇ。
宗家分家に、流派だの親族会議だのと、うちのお家事情だけで毛根が死んでんのに、王族様のドロドロなんざ耳から受け付けねぇわ」
技巧派一門として世界に名を馳せるモンジュ一族、独自技術を固持する彼等にも当然、様々な事情があるのだろう。それはわかるが。
「俺だったら、是が非でも王都に帰らねぇってだけさ。
修道院から引き摺り出され、難癖つけられて幽閉されて、クソ親父から虐待を受けてんのに、周りから杜撰な扱いされて……なんでまだ帰れる“勇気“があんだよ」
ランディアから、どれだけ聞いているのか知らないが
「無責任ね ほんと無責任」
きっとリッキーは気に掛けてくれただけだったろうが、私はそんなことも思い至らず、突沸的に声を荒げた。
「もう、この話は終わりよ 終わりにして」
彼の厚意を踏み躙り、私は黙りこくった。
遂には誰もいなくなった場所で一人……書き続けてきた日記を額に当て、何も彩られていない、端の丸くなった表紙を涙で濡らした。
もう終わりなんだよ。
この旅の続きなんかないわ。
私の足は折れてしまった。ネロスに背負わせるわけにはいかないの。
ホズに言って、迎えに来て貰うしかない。
なんて迷惑な家出だ。
世界の命運差し置いて、自分の思い出作りの為に数か月旅行して、その旅の思い出でこの日記一冊すら埋められなかったというのに。何をやっているんだと、泣けば泣くほど意味が失われていく気がする。
王都騎士のランディア姉さんなんて、きっと今も戦い続けている。絶え間なく襲い来る、病を胎む魔物の大群を前に、数多くの仲間を失いながら人々の毎日を守り続けているんだ。
それなのに……私は此処で、何をしているんだ?
何がしたかったんだ……?
迎えに来た騎士はきっと苛立っていて、私に唾を吐き、私が涙ぐむまで説教するのだろう。
嗚呼っ、手間を掛けさせやがって。こっちは命懸けでドップラーの大群から王都を守り、時間稼ぎをしているのに、あんたは記念旅行に行って帰ってこないなんて非常識にも程がある。この無意味な時間で、一体どれほどの人の命が失われたか、思いを馳せた事はあったか? 明日食べるものの心配もせず、雨風凌げる温かい部屋で生きてきたくせに、王族としての責任感がないのか? だいたい……そもそも……くどくど……タナトスだったらそう3時間は言い続けるだろう。
そう言われ続けても、私は言い訳の出来ない矛盾を抱えて此処にいる。
解ってるんだ……この旅が記念でしかないことぐらい。それも、最期には失う記憶であることぐらい、解ってた。
わかってたけど……。
私には、孤独な夜を堪える、縋りつく記憶すらもほとんどなかったんだ……。
奪われることが判っていたから、何もさせて貰えなかった。
ある日を境に、理不尽に私は檻の中に閉じ込められ、逃げてくれるなと、心が折れるまで檻の中で鞭に打たれ続けた。
そんなことされなくたって、女神にならなきゃいけない理由なんて嫌というほど判ってたのに、背中に消えてくれない傷が理不尽に増える度、背負わされた使命の理由が、わからなくなっていった。
私の血溜まりを踏みながら、私の嗚咽と悲鳴に耳を塞ぎ
私の血に染まった手で、女神に救いを求める───奴らを
どうして私が 救ってやらなきゃならないのか───?
『僕はね、君が女神になる事を望まないよ
君の目はもう、僕の予知夢よりも先の未来を見据えている
女神にならなくたって、君はみんなに頼られるほど強いんだから
君が女神になる事を嫌だと思うのなら、それでいいと思う』
『その上で、君が協力してくれるのなら
僕らは君と肩を並べて、戦っていきたい』
トトリからポートまで……怒涛に過ぎ去っていった日々が終わり、気張っていた芯が抜けて崩れ落ちた私に、ネロスはそう言ってくれた。
彼の言葉が、ただただ嬉しかった。
未来を見る彼が、勇者が、そう言ってくれたと……心強かった。
もしかしたら……、なんて 私は一縷の希望を抱いた。
それが私の心に差す光で、もしかしたら、一本道だと思い込んでいた私の人生に、別の道が見えてくるのではないかと、勝手に期待していた。
だが、その光は、女神が生み出した確かな道標ではなかった。
『僕は勇者になれないのかな 。
───僕はこの夢を、捨てた方がいいのかな?』
女神ベラは彼の活躍を、未来予知によって確信していた訳じゃないのだろう。育ての親であるベラに孝行するため、勇者になると言ったネロスに対し、一時は反対していたのだから……。
ネロスは、女神に予言された勇者ではない。
女神ベラにも限界がある筈だ。ゲドを凍らせるほどの力があるにも関わらず、それを出し惜しみする理由があって……魔女が褒め称える程の実力者ですら、黒く焦げつき、ヒビ割れた小さな枝にしがみつく魂で……。
ネロスなんて……魔に心身を侵されながら、必死に戦ってくれている────彼らは、身を削って戦っているのに。
彼の言葉に、勝手に縋っておいて、何が肩を並べて戦うだ。
共に戦うつもりならば、私に出来る最大限の事をするのが筋じゃないか。
彼等の奮闘に見合う献身を───ああ、そうだ 。
せめて
勇者の 道標として
この残り微かな 灯火を 焼べて……。
涙でよれた私の日記は、ここで途切れている。
残った僅かなページは空白のままで、栞代わりの日焼けた革紐の形に凹んでいるだけだ。
これから先は、失われた記憶。
私だった者の────最期の、残り火だ。
2022/8/20改稿しました