第17話 勇者の夢
ホズへの報告を済まし、激臭のする邪魔な蔦を斬り続けて鈍ってきたナイフを研ぎながら、不気味な森の前で見張り番をしていたときだった。
「うう、うー……ううっ やめろ やめろっ くるな 黙れ! おまえなんかにたよらないッ!」
「え……ネロス?!」
突然彼の呻き声がして、しまった!魔物が何処かから入り込んだのか?!と慌てて寝床に戻ると「わっ!」ネロスの方から外に飛び出してきた。
「たよってたまるかっ ちくしょう……! ぼくのなかからでていけ!」
飛び出してきた彼は完全に目を瞑ったまま頭を抱え、私の脇を通り抜け、木に頭からぶつかろうがお構いなく、千鳥足で夜の腐海へ向かう。まるで魔の森に呼ばれているかのように、吸い込まれるように。
私は急いで彼を羽交い締めにして引っ張るが、私の踵で地面が削れた。どれだけ踏ん張ろうと女の力では、加減をしない男を止められない。
「このっ!」
崖を上り下りする用のグラップリングフックをポーチから取り出し、カラビナをネロスのベルトに嵌めてから、近くの木にフックを投げた。
「ふぐぅっ!」
バギッ!と脆くなっていた木にフックがめり込み、ビンッ! 勢いよく引っ張られたウェスト部分がネロスの腹にめり込んだ。彼の歩みは流石に止まり……腹を押さえて蹲った。
「ごめんなさい 私の力じゃ止められなくて……」
すぐに彼の元へ駆け寄ると、彼は大量の脂汗に塗れていた。息も荒く、瞼の隙間から垣間見える瞳も細かく震えている。彼の汗も動悸もひどく、震えが止まらない。
恐らく原因は予知夢だろう───見張りを替わった後、彼が眠りについたのを私も確認していたから。
「大丈夫?」と声をかけるが、彼は私の方を見ると更に不安そうに顔を歪ませ
「何か見えたの?」と訊いてみるが、彼は首を横に振り……顔を手で覆ってしまった。
「ミ ト……、僕 は、勇者 勇者だから きっと……そうすべきなん…だよね ? そうだよ ね 」
語尾は上がるが、詳細を語ることはない。彼は私に答えを求めてはおらず、ただただ不安に対しての同情を求めている。
彼特有の、正夢となる“悪夢”を前に、彼は拭いきれない不安で圧し潰されそうなのかもしれない。
「どんな夢を見たのかは、訊かない方がいい?」
「……言葉にしたくても、なんて言えば伝わるのかわからないんだ
見えたのは、細切れで……赤くて、痛くて、苦しくて……じゃましてきてっ!」
「わかった わかったわ、もう言わないで もう訊かないから。
此処じゃ魔が多い……一端、見張り台まで戻りましょう」
ふらつく彼に肩を貸し「ふぐっ」容赦なくのし掛かる彼の体重にぃ堪えきれずちょっと足を引き摺らせながら引っ張り……どうにかこうにか見張りに使っていた岩場まで、連れて来た。
しばらく呼吸が荒かったが、深呼吸を心掛けているうちに少しずつ、ネロスは落ち着きを取り戻し始めた。それでも汗と動悸は止まらない。
「ごめんね……恥ずかしい…ところを 見せちゃったね……」
「大丈夫? 何かしてあげられる?」
「大、丈夫……あれなん、だ 多分、貯まってきたせいなんだ……此処は濃いから。ベラが、いないから……」
顔を抉ってしまったあの時と同じよう、彼の顔色は土気色になっていた。しかし、血の気のない割にひどい熱だ。触れれば火傷しそうなほど全身が興奮状態になっている。
予知夢に魘される彼を見るのは初めてだったが
「今までは、ずっとベラと一緒だったものね」
ネロスも、そうだね、と頷いた。
彼女がいたときは、ネロスの魔の量を調整し、彼を慰め、励ましてくれていたのだろう……。
頭を捻り、女神不在で悩む彼に、何か私に出来ること……。
「勇者になることは、あなたが自分で選んだことなの?
それとも、女神から?」
思い返せば人付き合いの不慣れな私が乏しい経験から搾り出したのは、他愛のない質問だった。彼と女神の話はあんまり聞いてこなかったから、少しでも気が紛れればと思ったが……少しプライベートな事に突っ込みすぎた気もする。
彼は私の質問をゆっくりと噛み砕いてから、咄嗟に手元を確認しようとして……左手で空を搔いた。
「…………。」
何も触れなかった手を何処か寂しげに地に着け
「ベラには、秘密にして欲しいんだけど……。
少しだけ……弱音を吐いてもいい?」
彼を叱咤激励することは幾度かあったが、彼からハッキリと弱音を、と言われたのは初めてな気がした。
眉尻も口角も下がり、丸めた背と普段より垂れた眠そうな目、鼻は少し赤い。今までの、子供っぽい見た目でも自信に満ち溢れていた明るい表情とは打って変わり、自分に自信が持てない、暗めの面持ちで。
「聴くよ。いつも、聴いて貰ってるもの」
私が頷くと、勇者の仮面を外した彼は「ありがとう」僅かに微笑み、緊張していた身体の芯を抜くように溜息を吐いた。
そして、瞬きをした私の目に、何処の町でも一人か二人はいる、温和し気な青年が現れた。私の知っている勇者と同じ姿形をしているが、下級の魔物すら倒せなさそうな、まるで別人の雰囲気さえかもし出ていた。
「僕は……タタリ山で生まれたんだ。
山の7合目、壊れた岩屋の横、崖の下……岩場の切れ目、木の根が剥き出して、湧き水が溢れてて、苔と落ち葉に囲まれた小川が崖下へちろちろ流れていくところの……誰もいない、外からも見えない、窪んだ場所で。
そこに、お母さんだった人が落ちて、僕がお腹の中から出ちゃって───死にかけていた僕を、ベラは助けてくれたんだ。木の枝に宿っていた女神が偶々同じ場所にいたから、僕は助かった」
今まで語ってこなかった理由が即座に理解できるほど凄絶な過去を淡々と話しながら、彼は寂しそうに手指を何度も組み直した。
「以前、君に教えた……魔を引き寄せやすい僕の体質は、命を救ってくれたその魔術の副作用か何かみたいで……あれは結局、魔物を引き寄せやすいってことでもあるんだ。おまけに、僕自身も頭に血が上り易くて……なんて言うか、むしゃくしゃして痛みが判らなくなる。
だから、大きくなるまで人里に降りちゃいけないって言われてた。危険だから。迷惑をかけるから。ずっと寂しかったけど、その分、ベラはいつも声をかけてくれてた。
彼女の姿は僕にも見えないけど、すごくお喋りなんだよ。話がずっと止まらないんだ。ほら、聖剣から咲いてるあの花、ずっと動いてたでしょ? ちょっと忙しないところもあるんだけどね、すごく優しくて、御節介な感じかな。それに女神っていう、その、あー……厳かな雰囲気はまるでないの。うん、ないと思う。ただ、一つ訊いたら何十にもなって返ってくる物知りで、特に魔術にはべらぼうに詳しいんだ」
ベラのことを話すときだけ、彼はやわらかな笑みを浮かべ、ちょっと自慢気だった。むむ……僅かに嫉妬心がくすぐられたが、彼の口振りは至極真っ当な感情なのだとすぐに察した───。
「ベラはあの枝から動くことが出来なくて、枝を伸ばすのも大変みたいなのに、出来る限り人並みに、僕を育ててくれた。
ただやっぱり ベラも無理をしてて……僕は、ベラに心から安心して、笑って欲しかった。助けて貰った、育ててくれた恩返しがしたかったんだ。」
二人はきっと、“親子”なんだ────。
ネロスは、長い前置きを終えて、私の質問に対する答えを口にした。
「勇者になる、そう言ったのは僕だ。
大昔にあったっていう女神と勇者のお話をベラから聞いて、ベラが女神だったら僕が勇者になって悪い魔王を倒すんだって、ただ……子供の思い付きのまま、そう思った。
僕が勇者になったらベラは喜んでくれると思ったし、身体を鍛える目標にも、外に出るための口実にもなるから。
最初は猛反対されてたけど……ベラも一緒に戦ってくれる様になった。もしかしたら僕一人じゃ危なっかしくて見てられなかっただけかもしれないけどね。
そんなこんなで……彼女は残ってた力を使って、王国に予言を出してくれた。僕を迎えに来てくれた君が、女神の子であることはベラの予言で聴いててね、僕はワクワクしてたんだ。タタリ山とその周辺の森とか洞窟とかしか知らない僕が初めて見る世界で、初めて年の近い人と喋って、これからどんな冒険が待ち受けているんだろうって」
だけど……。彼は俯き
「僕が思っていたよりも、世界はとっても難しくて
僕はそんなに強くなかった」
目を潤ませて、嗚咽を漏らした。
「ショックだった……魔物を倒したらみんな喜ぶと思ったのに、後先考えていないと怒られるし、その通りに厄介事が立て続けに起きて……ベラの忠告を無視して大怪我して、予知夢まで見えなくなって、情けない隙を見せてベラが盗まれて、ようやく予知夢が見えるようになったって君に喜んで伝えたかったのに……僕が眠っていたうち、僕らを庇ってエルフのおじいさんが殺されていた。
僕は……予知夢の通りにすることが“正しく”て、予知夢は“最善の答え”だと思ってた。そう導かれているんだと勝手に思ってた……だけど、そうじゃないんだね……君の言う通り……僕はちゃんと、考えて戦わないといけない、後のこと、みんなのこと考えて戦おうって……そう思い始めた矢先だったのに。
悪い、夢を見た……。
とてつもなく嫌な予知夢だ……こんなに胸が苦しくなって、つらいものを、今まで僕は見た事なんてない。
慣れないことをするから? けど、このまま同じ事をしていたら僕は、取り返しのつかない大きな過ちを犯すかもしれない───ミト、僕は、どうしたらいいんだろう。どうやったらあの光景を見なくて済むの? この力をどう使えばいい? 僕は勇者にはなれないのかな。
───僕はこの夢を、捨てた方がいいのかな?」
私も 毎晩のように怖いものを見る。
この目に焼き付いた過去が瞼の裏に投影されて……そのうち意識を失い、朝を迎えるのが常だ。
目を瞑る度に脳裏を擦るあの光景を見たくなくて、瞼を閉じる事すら怖くて堪らなかったときもあった。
だから、余計な事など思い出さないように、考えることすら忘れるぐらい……私はいつも誰かにこうして“欲しかった”───。
「 ミ ト……?」
────突然のことで、彼はきっと面食らったような顔をしているかもしれない。
引き攣った頬、喉を擦るように吸う音、胸が萎んで吐き出る蒸気、汗臭さと、雨で濡れ始めた地面の匂いが、手に染みついた聖樹のツンとした清涼感で包まれている。
悪夢に怯える小さな子供の様に縮こまっていた蒸れた背中に、未来への漠然とした恐怖を、冷えた私の体温で融かすよう手を置く。
戸惑う彼の手が宙を彷徨い───いいよと囁くと───彼の指がゆっくりと、私の存在を確かめるように私の背中に触れた。触れた指先から熱が漏れ、一瞬強張った肩が解けるように緩んでいった。
「壊れちゃいそう……君はこんなに小さかったのか」
彼はしれっと怖いことを言う。ただ、鉄板のような身体を持つ彼からしたら、私は硝子細工の様なものだ。変に力を入れたら粉々に壊れる脆い硝子。私はとっくに無機質で、ヒビ割れた不良品の様な身体だから。
私の鼓動を彼の胸に合わせたまま、少しだけ……もう少しだけ……。
「その命と、未来を垣間見せる予知夢は、きっとベラがあなたに授けてくれた大切なものだから……捨てちゃいけないと私は思う。
あなたの予知夢は、勇者になれるようきっと導いてくれるはずよ。あなたがその“夢”を追い続けるのなら」
「夢を 追い続ける?」
「例えどんな未来が待ち受けていようとも……諦めないで、夢の続きを探して。
……それと、もう少し自信持って。あなたは充分、強い人よ」
我ながら、随分と背伸びした事が言えたものだと思う。夢を見なくなった私にはもう捨てた言葉なのに。それとも今……私が“夢をみている”から思い出したのか。
すっ……身体を離してみると、先程は血の気が失せた土気色だった顔は、ちょっとだけ、熟した果実のように火照った顔をしていた。垂れていた目は円らに、耳から頬まで化粧したかのようにピンク色で、気持ち鼻の下が長く見える。
僅かではあるが、分厚い灰色の空から赤みが失せ、光が薄く透け始めているのだろう。きっと夜が明けたのだ。
「さあ顔を拭って、切り替えてネロス。
ベラを取り返しに行きましょう。
あなたの大切な人、きっと首を長くして待ってるんだから」
彼は何度も瞬きをして、何度も頷き……大きな両手で顔を拭う。
短く息を吐き、眉間に皺が寄るほど強く目を瞑り、瞼の裏を幽かに照らす光に応えるよう、面を上げる。
見慣れていた勇者の顔だが、幾分少し、大人びて見えた───。
「……また、弱音吐いちゃうかもなぁ」
「人前ではダメよ、シャキッとして」
「急に厳しい」
───気がしたが 気のせいかもしれないわ。
2022/8/5追加しました