⑲
時は少し遡り、ラタたちが魔王の方へ向かい始めていた頃。
魔王から受けた傷も治りきっていないハルバートは一人、天竜山脈の奥地に隠された城、王城アストラダムスに戻ってきていた。
今や深淵に沈んでしまった旧世界から竜の島へ移住する為に使われた方舟でもあるアストラダムスには、オーラディアから持ち込まれた貴重な品々が幾つか遺されている。ハルバートはそのうちから魔王を倒すために役立つものん探りに来たのだ。
「魔王が兵器アビスと同じ構成ならば……奴にも通用する手段を、先人たちは必ず遺してくれている筈だ……」
吹雪に包まれ、氷の城と化したアストラダムスの地下深く。擦り切れたフォールガスの紋章、抽象化した鷹の描かれた壁に向かい、王のみが教えられる秘密の呪文を唱えると
ゴゴゴ……分厚い壁が扉のように開かれた。
〈お前が今の王か〉
「!」
宙に漂う幾つもの光の玉に照らされる、色褪せない黄金の山と無数の遺物が並べられた巨大な宝物庫。その中央の止り木にいる一羽の鷹と思しきものが人の言葉を流暢に話した。
その鷹は六足で、羽根は雪のように白く、竜のような尾をしなやかに揺らし、光り輝く金色の目でハルバートを射抜いていた。
「お前は……まさか、ファルカムか?」
〈まさしく。私がファルカムだ〉
ハルバートは息を呑んだ。八竜に仇をなしてきたフォールガス一族に対して唯一温情をかけてくれたファルカムを、彼は裏切ったも同然であり、ファルカムの視線から目を離すことが出来なかった。
しかし、鋭くはあるが温かみのある目をファルカムは向ける。
〈そう緊張するな。私はお前たち一族と共にある者。お前の罪を裁くのは私ではない〉
「…………。」
ファルカムからそう告げられるも、ゴルドーによって一族を根絶やしにされたハルバートは、八竜への信頼を無くしており、ファルカムについても、きっと自分を誑かすつもりなのだろうと疑っていた。
〈今日はここに手掛かりを探しに来たのだろう? 魔王を倒す為の術を〉
そんなハルバートの疑心さえも理解しているかのように、ファルカムは語り掛けた。
「そうだ。己が罪を償う為に来た。邪魔をしてくれるなよ」
ファルカムはハルバートの不敬な態度に笑みを浮かべると、長い尾で一つの遺物を器用に掴み、すっ……と、ハルバートに差し出した。
それは人の顔ほどはある黒い円盤状の石盤であり、幾つかの宝玉と魔法陣が彫られている代物だった。
「これは、封印術?」
〈竜の島にはない魔石、黒曜石の原盤。そこに封印術を刻印したものだ。この術式を使えば、八竜と融合した魔王の魂でも封じ込める事ができる〉
「あくまでも封じ込めるだけ、か」
〈そう、殺すことはできない。八竜は不滅だから〉
「魔王からモーヌ・ゴーンの魂を引き剥がす手段はないのか?」
〈私の口からその方法を教えることはできないよ〉
ハルバートは黒曜石の原盤を手に取ると複雑そうな表情を浮かべた。
黒曜石の原盤に刻まれた術式が八竜と融合した魔王の魂でも封印できるというのなら、その術式を複製すれば、八竜たちを封印することも事実上可能なはずだ。自分たちをも危険に晒すような代物を、八竜への疑心に満ちているハルバートに渡したことが、彼には信じられなかった。
(私は、信じるべきなのか……?)
その迷いに答えるよう、ファルカムは語った。
〈お前には王にたる正義がある。この戦いの果て、やがてその正義は正しさとなり、お前はこの雪と氷の大地の新たな王となるだろう〉
「まさか。私はもう……」
〈お前を貶めた者が誰か、真実を知るのだ、フォールガス。
私は王の帰還をいつまでも待っているよ〉
ファルカムはそう告げると翼を広げ、風に吹き消えるよう姿を消した。
『生まれてきた赤ちゃんがなんで死ななきゃいけねぇんだ! 何の罪もねぇじゃねぇかよ!』
雷の止まない大嵐の日だった。
ラタは、その日初めて”兄弟喧嘩”をした。
『この島には50人しか生きられないんだ! それがゴルドー様がお決めになられた、私たちが守り続けなければならない戒律なんだ!』
それは頭の奥底に沈んでいた記憶。ラタがずっと忘れていた、キキ島で暮らしていた頃の会話がぼんやりと、瀕死のラタの脳裏に浮かび上がる。
『かつての罪を贖う為に、私たちは生きて償い続ける必要があるんだ、ラタ』
『止めるな兄貴! ゴルドー様ならきっと話せばわかってくれる! 赤ちゃんを差し出す必要なんてない!』
黄金の竜ゴルドーが住まう白塔へと直談判しに向かおうとする若かりし日のラタを、兄のハルバートは顔を真っ赤に染めて必死に押さえ込もうとしていた。
空も海も既にゴルドーの怒りを表すかのように荒れている。そんなときに、ゴルドーの気に障るような事をしでかせば、ただ一人しかいない肉親(弟)の命を奪われるかもしれないとハルバートは恐れていたのだ。
そして、兄の恐れは現実のものになる。
〈新たな生命を祝福したくば、お前がこの島から出て行けば良い。出来るものならな〉
黄金の竜ゴルドーはフォールガス一族に一切の寛容さを持っていなかった。例え無垢な正義心からの意見にさえ、神は耳を傾けず突き放した。
キキ島はいわば自然の監獄島だ。島の周囲の海流は複雑にうねって渦巻を形成し、且つ、人をも餌にする海竜の住処となっている。加えて、一番近い陸地へもかなりの距離がある為、飛翔の風魔術を使った飛行も魔力切れに陥る可能性が高い。外に出ることは死を意味する。
『じゃあ俺が外に行けばいいってことだな! オッケー!ゴルドー様最高!』
〈あ?〉
だが、ラタは真っ直ぐと、嬉々として暗い海に向かって走り出した。ハルバートの手を振り払い、桟橋の上を駆け抜け、その先端に立ち───笑みを浮かべたまま振り返った。
『じゃあな兄貴! みんな!
俺は外の世界で頑張ってくるぜ!』
『待てラタ!!!』
ラタは一切後腐れもなく、自ら大海原へと身を投げた───。
(そう、だ……俺は……、”この島”に、生まれて……海に)
テスラの助力によって魂を穢していた深淵が浄化されるも、未だボロボロな身体を震わせながら立ち上がったラタは、懐かしい風景を見回した。だが、その風景の中からは人の気配がすっかりとなくなってしまっていた。
家族がいない訳も分からないまま、ふと唯一記憶の中から変わっていない巨大な建造物へと視線を向けた。
キキ島にいた頃、白塔への立ち入りは禁じられていたし、白塔の入り口は魔術によって固く閉ざされていた。
だが今、まるでラタを招き入れようとしているかのように、白塔の扉は開かれていた。
「ゴルドー様……」
ラタが身体を引き摺りながら白塔に近付いていくと、開かれた白塔の内部が空洞で、天も地も吹き抜けである様が見えてきた。
飛翔の風魔術で身体を浮かし、ふらつきながら白塔の中に入ると
ォォォーン。
下から上に向かって吹きつける風がラタの身体を塔の上へと押し上げていった。
そして、塔の中の遥か上に張っていた白い雲の層を突き抜けると、ラタは雲をしっかりと踏みつけ───初めて”八竜”に謁見した。
〈この塔は我が聖域。
踏み入れられたことを名誉に思え〉
雷で象られた竜、ゴルドーはかつての虜囚を見下ろした。
〈魔王を救うと抜かしたな、勇者よ。
その力で倒すこともままならない奴が〉
「……ああ、言ったよ。
今も、その言葉を曲げる気はないぜ……」
ラタはゴルドーの視線から逃げることなく、ボロボロな身体でも真っ直ぐと神を見上げた。
〈何故救う必要がある?
魔王は貴様にとって何者でもない。
寧ろ、貴様の命を奪った者であろうに〉
「つらそうだったからさ」
〈かつても貴様は赤子の命と己を秤にかけ、身を投げた。何故他人の為に命を賭ける?〉
「別に、死ぬつもりなんてなかったんだよ。俺は当時、生き残るって本気で信じてた」
〈勇者か、愚者か〉
「へへ……どちらかと言えば愚者かもな。
だけどよ、ゴルドー様も意外と、俺のこと気に入ってんじゃないの?」
ラタは血で汚れた顔で笑みを浮かべた。
〈馬鹿馬鹿しい……〉
ゴルドーはそれに何を感じたのか、己の強力な魔力を小さな球状に圧縮してラタに差し出した。
〈深淵は八竜の魂をも滅ぼす魔である。
今ここで魔王を止めねば未来はない。
ラタよ
テスラよ
貴様らを我が隷属と認め、我が魔力の使用を許可する〉
その言葉と共に、圧縮された魔力がラタの胸の中に吸い込まれると、ラタの中に、そして、ラタを通じてテスラの中に、ゴルドーの力が連結された。
そして、八竜(神)の力がラタの傷を瞬く間に治し、魔術の知識も技術もほとんどなかったラタに神の叡智を与えた。
「そうか……テッちゃんたちは、こんなに難しいことをずっとやっていたんだな」
魔術における天賦の才を後天的に手に入れたラタは、まるで手慣れているかのように”初めての”転移魔術を唱えて白塔の外へと出ると、地面に落ちていたオリハルコンの大斧を回収した。
『ラタ、動ける?』
「おう、もうバッチリよ」
そして、ラタは神国へと転移した。
ハルバートが黒曜石の原盤を掲げると、宝玉が煌めき
「!?!」
魔王の魂が周囲の魔力と共に黒曜石の原盤に吸収され始めた。
「なんだ? 何が起きている?!」
深淵によって竜化の魔術が解呪されてしまったヤドゥフは見たこともない魔石で出来た魔導具に目を丸めた。単に魂を封じ込める魔導具は数あれども、魔王のように八竜(神)の魂と癒合した魂を封じ込めるものがあるというのは、八竜たちにとって脅威となるはず。そんなものを人が所有していいはずがないと思ったからだ。
「これは、フォールガス王家がオーラディアから持ち込んだ、魂を封じる宝具だ!
この力があれば、魔王を封じ込められるはず……、!?」
だが、膨大な量の魔が邪魔して魂を吸いきれないらしく、想像以上に時間がかかった。
魔王は黒曜石の原盤に引っ張られつつもハルバートに向けて攻撃し始めた。
ハルバートは魔王の振り払いを回避するが
「うぐっ」
拳が空を切る風圧に突き飛ばされ、魔王から受けた以前の傷に反響する。
飛翔の風魔術のコントロールも効かず、宙に投げ出されるハルバートを「!」ヤドゥフがキャッチした。
「今はそれしか手がない! しっかり握ってろ!」
ヤドゥフに引っ張られ魔王の攻撃から回避するハルバートを仕留めるべく、魔王は彼らに向けて短い溜めの魔力砲を放った。
「ぐっ!」
ハルバートを範囲外に放り投げたヤドゥフは、魔王の魔力砲を真正面から防ぐ。だが、深淵で構成された魔力砲は容易く氷の壁を呑み込み、巻物から発動させた障壁の封印術をも貫通してヤドゥフの魔法障壁を侵し始めた。
(一体この力は何なんだ!? 魔力抵抗を無効化して一方的に呑み込んできやがる———)
魔法障壁を浸食しようと食らいついてくる深淵を逆手にとり、魔法障壁ごと魔力砲を僅かに逸らして身を捩る。ギリギリで魔力砲を空の彼方へ受け流すことに成功するも、両腕の肘から先が深淵に侵された。
「規格外だろ、くそが……っ!」
魔力管を通じて深淵が身体の中枢に流れないよう、両腕を即座に氷漬けにして壊死させるが———魔王は間髪入れずに、一発目よりも大きな二発目を放ってきた。
撒き散らされた深淵を身体に取り込まないようにするため、ヤドゥフは一切、魔力の回復が出来ていなかった。当然、魔力が魔に戻る際のエネルギーで構成されている魔法障壁を、一発目の魔力砲を逸らす為に使ったせいでヤドゥフを守る盾はもうない。
(はあ……まだ当分先のことだと思っていたんだがな)
一瞬の合間、まるで時間が停止したかのように、ヤドゥフの脳裏に言葉が過る。
〈その魂を捧げるか?〉
それは青の賢者であるヤドゥフが仕える八竜、銀青の竜スティールの声であった。
彼らの中で掛け合う言葉は特別なかった。それでも、ヤドゥフが抱く覚悟を、スティールはその魂から察することができたのだろう。
ずずず、ヤドゥフの額にスティールを表す魔字が浮かびあがると、彼は再び竜と化した。だが、今度のそれは魔術ではなかった。
魔王と比べれば小型な、鈍色の竜鱗を持つ首の長い翼竜———銀青の竜スティール、魂そのものである八竜の器として、その身を捧げた結果、”神その者”に彼はなったのだ。
〈ォド〉
人の耳には聞き取れないような詠唱で巨大な転移窓の入口を作り出して、迫りくる深淵の魔力砲を呑み込むと、魔王の背後に転移窓の出口を開き、魔力砲を撃ち返した。
自らの攻撃を背後から直撃した魔王は大きくよろめき、片足が外海に突っ込んだ。その瞬間、スティールの眼力によって海が凍りつき、魔王の足を挟みこんだ。
すぐさま魔王は氷を砕いて起き上がり、エバンナを無力化したときのように、スティールの魔を吸い取ろうと口を開こうとするも
「!?」
魔王の身体が高速で凍り付き、硬直し、ヒビ割れ始めていた。
スティールは空気中の水分を、あらゆる魔術を内包した氷の泡沫に置換し、地雷の如く魔王の周囲に散らしていた。ただでさえ、目に見えるかどうかというサイズの泡一つ一つが魔王の身体に触れることで割れ、魔法障壁が干渉しない0領域で魔術が発動する───その状態で、スティールの魔を吸収しようと魔王が空気を吸い込んだ為に、無数の氷の泡沫が魔王の体内に入り込み、体の内側で魔術が発動してしまったのだ。
凍結は魔王の魔力管を通じて浸潤性に身体の芯部へとみるみる伝っていき───。
バキィイイ……ン。氷魔術が魔王の身体の芯部まで浸潤した魔王の尾と右腕が落下した。
「これが……八竜の、力……!」
そして、魔王の力は黒曜石の原盤によって少しずつだが確実に削られていっていた。
あともう一押し。そう思われた矢先───。
「!!」
魔王は氷の殻を脱ぐようにして竜化を解き、人骨の姿となった。竜化の身体を盾に氷の泡沫と黒曜石の原盤から身を守り、地面へと降り立った魔王の足元に、転移魔術の魔法陣が浮かぶ。
〈逃がすか!〉
魔王を倒す最大のチャンスを逃さないよう、スティールが魔王を魔法陣の外に出そうと口を開いた───まさに、その瞬間だった。
雷光の速さで飛んできたラタの一撃が
魔王の顔面を捉えた。
「うおおおりゃあああああ!!!!」
遅れて轟く雄叫びと衝撃。
顔面を砕き、宙に打ち上げられた身体を振り抜く二撃目で、魔王は勢いよく吹っ飛び───キキ島へと叩き飛ばされた。
「ラタ……!」
黄金の竜ゴルドーの雷を鎧のように纏い、聖樹の魔力で武装したオリハルコンの大斧を振るう、人の限界を軽く超えた、尋常でない魔力の圧を放つ弟。その姿にハルバートは息を呑んだ。
「おう、”兄貴”」
「!」
ラタは兄ハルバートに軽く笑みを返した後
〈あのゴルドーが隷属化を許すとはな〉
舞い降りてきたスティールの声がヤドゥフと違うことに目を丸めた。
「ヤドゥフ、声変わりか?」
〈我が名はスティール。ヤドゥフは我に器を捧げた〉
その意味を真に理解していた訳ではなかったが、ラタは「そうか……無理させちまったな」なんとなくヤドゥフが人の姿にはもう戻れないのだろうと察した。
「今度こそ終わらせてくる」
そう宣言すると、ラタは自ら転移魔術でキキ島の上空へと移動した。
砂浜に突っ込んでいた魔王はよろよろと立ち上がり、割れ砕けたままの顔でラタを見上げた。
「ファウスト、ゲルニカ。てめぇら聴こえてんだよな」
聖樹の魔力による浄化が魔王の回復能力を阻んでいるのか、ボロボロと骨の破片が地に落ちる。
「覚えてろよ。コイツが受けてきた苦痛の分、てめぇらに絶対ぇ払わせてやるからな……!」
ラタがオリハルコンの大斧を振り上げると、魔王は深淵を周囲に放って牽制しつつ、自らを蝕む聖樹の魔力を塗り潰して回復し始めた。
だが、ラタは構うことなく深淵の中に突っ込むと、突撃してくるとは思っていなかったらしい魔王に大斧を叩きつけた。
右の鎖骨が裂け、肋骨を砕く一撃に堪らず魔王は片膝をつく。左の手でラタに掴みかかろうとするが、ラタは即座に転移魔術を使って魔王の背後に移動すると、魔王の背骨を>の字に折り曲げた。
堪らず吹っ飛び、転がる魔王が態勢を整える前に、転がる先に転移したラタが畳み掛ける。
バキィン。遂には、ラタの攻撃を防ぎきれずに魔王の右腕が砕け散った。
「!?」
だが、魔王もやられっぱなしではなかった。
魔王が地に足をつけた瞬間、その影から巨大な蛇が現れ、ラタに噛みついてきたのだ。
ラタは咄嗟に身を捻ってそれを躱し、影蛇を切り裂いてみたものの手応えなくすり抜けた。しつこく追ってくる影蛇から離れるべく、仕方なく一度ラタは空中へと飛び上がる。
「この魔術、ファウストのか!?」
『いいえ、恐らくあのときエバンナを取り込んだから、その力を利用しているのよ』
ラタが攻撃を仕掛けない間に、魔王の身体は少しずつ回復していっていた。ただ、その速度は確実に遅くなってきており、砕けた右腕はまだ復活していない。
『エバンナの力を使いこなす前に魔王を叩くわよ』
「おう」
ラタは再び飛び出した。雷魔術と転移魔術を駆使して魔王の反応速度を超えた一撃一撃を確実に、そして、回復させる暇を与えないように畳み掛ける。
魔王は元より素早くはなく、防御力に特化した存在だった。あくまで魔王が脅威だったのは、ほぼ全ての魔術を封じる魔法障壁や魂を汚染する深淵。そして、魔術に対するカウンターである反転魔術だろう。だが、その防御の要を突破さえ出来れば、少々手強いただの死霊でしかない。
先程まで魔王の魔に翻弄されていたラタが影響を受けなくなったのは、彼がゴルドーの叡智によって魔術を自在に使いこなせるようになったためであった。ラタの魔力管理に注力する必要がなくなった分、魔力操作に余裕の生まれたテスラが───魔王の強みである魔法障壁を貫き、深淵による魂の汚染を防ぐ───分厚い聖樹の魔力の結界を作り出していたのだ。
強力無比な魔の鎧を無力化され、丸裸にされた魔王を、ほぼ一方的に攻撃していたラタだったが
『───ラタ?』
手足は砕け、胸骨は裂け、背骨はヒビ割れ、骨盤は歪み、頭部は陥没し、虚ろな目でいる───身体中ボロボロになっても一向に魂が解放されない魔王に、ラタは唇を噛みながら涙ぐんでいた。
「もう死霊術を解けよ……!!
勝負はついてんじゃねぇか!」
魔王にさせられた”彼”のことを思えば、ラタはもう終わりにしてやりたかった。しかし、彼は攻撃の手を緩めることはできない。魔王が回復してしまうからだ。
「戦争を止めたてめぇらが正しいのかどうかなんて馬鹿な俺には分からねぇ!
だが、コイツが何したってんだ!?
死者の世界でコイツはずーっと苦しんでんだぞ! 自分の名前を覚えてさえいねぇで!」
死霊術を解かれなければ、魔王の魂は解放されない。魔王の身体がほぼ無限に自然回復する不死身であることを考えると、解呪しか救済方法がなかった。
「てめぇらに良心の一つ残ってんなら!
コイツを楽にしてやってくれよ!!」
ごしゃ。
ラタの悲痛な叫びも届かず
死霊術が解かれることないまま
魔王の身体は限界を迎えた。
腰椎が砕け、上下半身が真っ二つに分かたれた魔王は、ラタの足元に力なく散らばった。
そして、魔王の身体から小さな影蛇がぬるりと顔を出すと、影の中に潜り消えていった。
『エバンナの魂を保持出来なくなったんでしょうね』
「…………。」
魔王の回復能力が極限まで落ち込んでいることを確認してから、ラタはしゃがんで魔王の陥没した頭を擦った。骨は最早、ラタが触れるだけで崩れてしまう程に脆くなっていた。
それでも未だに魔王の眼窩には虚ろな目が灯ったまま、指は微かに動き続けている。
「ラタ!」
そのとき、スティールの背に乗って海を渡ってきたハルバートがキキ島へと降りてきた。
「本当に、魔王を倒してしまうとはな……」
「倒してなんかいないさ。
死霊術が解かれないせいで、コイツはまだずっと苦しんでいるんだ」
「……ならば、これを使うべきだろう」
そう言って、ハルバートは黒曜石の原盤を取り出した。首を傾げるラタに、ハルバートが黒曜石の原盤の効果を説明すると、ラタは顔を真っ赤にして怒り出した。
「封印するだって?! ふざけんな!
そんなことをしたらコイツの魂はどうなる!?
ずっと苦しいままか?
一人で? 永遠に?
こんな救いのない終わり方があるか!? あっちゃいけねぇよ!」
「それ以外にどんな手がある?
お前が魔王の元を離れれば、魔王は再び力を取り戻しファウストたちに利用されるだろう。それをよしとするのか?」
「───兄貴! あんたに良心の呵責が少しでもあるんだったら! 魔王を生み出した責任取って奴らをぶっ飛ばしてきたらどうなんだよ!」
「責任は取らせる。当然、ユニバーシュにも、私自身に対してもだ」
ハルバートは躊躇いもなくそう言い切り、ラタを黙らせた。ハルバートが意固地になったときはてこでも動かなくなることを、ラタは覚えていたのだ。
「だが、現実問題として、ゲルニカはともかく、私にはファウストを殺す力がない」
「それは」
「それに、ゴルドーが言っていた筈だ。魔王の魂は赤月の竜モーヌ・ゴーンと癒着していると。そして、死霊術から解放されれば、深淵と呼ばれる魔が溢れ出すだろうと」
深淵。ラタも何度も苦しめられた、恐るべき魔。それがこの世に溢れだすようなことがあれば、世界は終焉を迎えるだろうことは、容易に想像出来た。
「他に方法はない。少なくとも今はな」
ラタは握る拳を震わせ、奥歯を噛み締めた。そんな彼に、テスラが囁く。
『ラタ、魔王の魂を封印することは、その魂を救う他の方法を模索する時間が出来るということでもあるわ』
「……だからって」
『考える時間が私たちには必要よ。
その為にも……魔王を』
この場にいる者たちは皆、魔王を倒したラタに決定権を委ねている。
だが、ラタは動けなかった。
“一人の人生”、ひいては、世界の命運を左右する重要な選択に迫られていることも然り
皮肉なことに、忌むべき”四人の王”と同じ問題を突きつけられていることに
ラタは……何が”正しい”のか、わからなくなってしまったのだ。
(どちらか選ぶことすら出来ねぇ俺は……奴ら以下に、なっちまうのか?)
「 つかれ た 」
ふと、ぽつり、と……掠れたか細い声で、”彼”は呟いた。
「……そうだよな、疲れちまったよなあ……」
“彼”の掻き消えそうな声に、堪えていた涙腺が崩壊し、ラタは大粒の涙をこぼした。その涙が骨の頬にぽつりぽつりと落ちていく。
「約束するよ……もう二度と、お前さんに死霊術なんか使わせねぇ。
俺がお前さんの魂を救う方法を、見つけてみせるから……」
だから……、そう言いかけて、ラタは言葉に詰まった。嗚咽を漏らし、涙を拭って……穏やかに語り掛けた。
「だから……少しだけ、眠っていてくれ」
黒曜石の原盤の宝玉が仄かに光り、魔王の魂を吸い込み始めてまもなく……。
骨の眼窩から灯火が消え失せた。
遺された魔王の身体は、ラタが触れた瞬間に崩れ落ちるように灰になり
嵐の止んだ穏やかな風によって攫われていった。
こうして、勇者ラタは魔王を封印した が———。
ラタは、勇者として歴史に残ることを拒んだ。




