第86話 オーラディア
深淵を吹き飛ばした聖樹の枝の一本は、ベラトゥフの手によって聖剣の姿に変えられた。
十字の典型的なフォルム、飾り過ぎない彫刻、明るい陽射しに映える美しい銀色の刀身。だが、かつてベラトゥフが宿っていた聖剣とは、少し形が変えられている。
「いいんだね、ミト」
『あなたと共に戦える姿でいる方が良い』
「わかった」
ネロスが祭壇に突き刺さったままのその剣に手をかけると、王家の指輪から聖剣へと仄かな光が移ろい、浸み込んでいった。それが止まったのを確認してから、彼は静かに祭壇から聖剣を引き抜いた。
「魔力同期の仕方とか、教えておこうか?」
『大丈夫です……何となく、わかります』
ベラトゥフの目の前で、聖剣を自分の手足のように振り回してみるネロス。彼女が言うまでもなく既に魔力同期がされているようだった。
「流石は私たちの弟子ね、レキナ」
「みんな! 水平線を見てくれ!」
ちょうどその頃、パッチャ村の住民から声が上がり、皆が洞窟の外に出る。
嵐の過ぎ去った後の晴天。何処までも続く青い空。黒い海も雨も、割れた空も跡形もない。
そんな空に飛翔の風魔術で浮かび上がり、山の向こうに見える筈の暗い海を見ようとすると
「え!?」
そこには海が見えなかった。暗い海であったところに“雲が見えた”のである。
「空が……下にある……」
「なんてことだ……ヤドゥフ様の仰っていたことは真実だったのか」
この竜の島は、空に浮かぶ一つの大陸だった―――それが証明されたも同然だった。
パッチャ氷原に涼やかな風がさらう。その風に乗って、空を旋回していたスティールがパッチャ村に戻ってきた。
〈よくぞ成し遂げた。
これで深淵は遠く”オーラディア”の地まで消し去ることができたであろう〉
「オーラディア?」
〈この世界の事だ。竜の島は、オーラディアの空に浮かぶ一つの大地に過ぎない〉
そして、黒ずみも綺麗になった鈍色の翼膜を広げ、スティールはネロスたちに告げた。
〈方舟が起動し、地竜平原に錨を降ろしている。
その舟に乗り、自分の目で見てくるといい。この世界の広さを。
そして、オーラディアを深淵に呑ませた元凶、原罪アラナを探し出し、倒すのだ〉
「機関室の管理、ずっと続けなくちゃいけないっぽいっすね……」
高速で動き続ける白の心臓がかなりの熱を発しており、機関室が人が立ち入るには厳しい高温になってしまっているのだ。
「結晶樹の樹脂が溶けないといいけどな……」
「冷却用のクリスタルを補充するとか?」
「いや、冷却用の魔石も含めて、術式は今ので十二分に完璧なんすよ。下手に連結路を増やしても……、……」
ダッキーたちと打ち合わせをしていたリッキーの下に、見慣れた男が居たたまれない表情を浮かべて立っていた。
「ラッキー……」
少し前まで自信に満ち溢れていた顔だったが、今は目元の隈も濃く、げっそりと痩せこけた様子でいた。
「す、すまない……こんな筈じゃなかったんだ」
「じゃあどんな筈だったんだよ」
ラッキーとコレットが持ってきた青いオリハルコンのせいで、ドップラーが現れた―――例え気付かなかったとはいえ、その責任を果たさなければならない場で、彼は逃げ出し、どさくさに紛れて王城に避難していた。
リッキーは頭を掻き、言葉に詰まる兄を置いていこうと背を向けると
「お、俺は、モンジュを立て直そうと思って」と、ラッキーはリッキーに向けて弁明した。
「だから? 逃げてよかったと?」
「そ、それは」
「あんたよりクソ猫の方が幾分マシだぜ、緊急事態に日用品を“無償”で配って回ってんだからよ」
青いオリハルコンの件を聞くと、コレットは思いの外素直に弁償に応じた。ヤバいものだったという自覚は若干あったらしい。そこで踏み止まっておけばなどとは、結果論ではあるが、彼は彼なりに責任を果たすべきと考えたようだ。
「償う他ないだろ。謝るしかないだろ。許されなくても逆ギレすんじゃねぇぞ。
それ以外、俺からあんたに言うことはないわ」
「…………。」
弟にしこたま叱られた後、ラッキーは両膝をつき、額を地につけた。
「すみませんでした!!」
リッキーは兄の土下座に振り返らなかったが
「はあ……、ほんと、世の中真面目な奴が馬鹿を見るもんだ」
背中越しに、彼は兄を“また”許してしまった。今度こそ次はない、と思いながら。
「人間の姿に戻れるというのか?」
「はい。レキナの作った術式なら、それが可能であると」
ホロンスは喜びを露わにした。
シェールの代表ワンダと話をしにトノットへと向かったホロンスは、かつて魔族であった―――ブルーエルフのイェリネと再会し、魔族を人に戻す魔術が完成したことを知った。その術を使えば恐らく、ルークも元に戻れるだろうと。
しかし、ルークは顔をしかめ、迷っていた。
「俺がバーブラとして犯してきた罪は決して消えてはならないものだ。その象徴でもあるこの姿を、失くしてしまっていいのだろうか」と。
「しかし、ルーク様。これからシェールとの会談をするにしても、その姿では要らぬ恐怖を先方に与えてしまいまするぞ」
老中レバスがホロンスに追随する。
「あなた様を信じ、この城について来てくれた王国民の為にも、人の姿を取り戻すべきだと俺は思います」
「…………。」
少し考えさせてくれ、と、ルークはその場を後にした。
外の空気を浴びに、すっかりと雪が流れ落ちた中庭に出ると
「あ……」
黒い雨によって腐ってしまった花たちの根を抜いているサーティアとランディアに出会った。
「ど、どうも……」
ランディアはもじもじして、恥ずかしそうにルークに挨拶をした。
「……お前たちの親のことを、レバスから聞いたか」
ハサンが死亡した知らせとともに、彼女たちはレバスから“本当の”親のことを聞かされた。そして、シルディアとマイティアの父親がルークであることも知らされたのだった。
「……なんか、すごく騙されてきたって感じが強くて、怒りが湧いてくるっていうか」
「そうだろうな」
「一方で納得もしてんだけど……本当の両親は、とっくに死んじゃってて……」
言葉に詰まるランディアの背を、サーティアが撫でる。
「お前たちの長く過酷な務めは終わった。マイティアが無事にやり遂げたからな。
苦労を掛けた。これからは自由だ。」
「そう……じゃなくて」
「その……私たち、シャルとミトの、姉でいていいかな?」
「ああ。二人も喜ぶだろう」
そう言った直後、ルークはサーティアとランディアの目がもう一つ言いたいことがあると訴えているのを悟った。
彼は一度迷ったが「俺で良ければ」と、ルークが腕を広げて胸を開けると、二人は一度互いに顔を見合わせた後、赤い顔をして、もふ……と、“父親”に抱き着いた。
(そうか……俺は、この娘たちの“父親”でなくてはならないのか)
女神の予言とハサンの薄情さに振り回された四人娘。
自分はバーブラであった頃の贖罪に奔走するべきとルークは思っていたが、彼を唯一無二の父と頼るサーティアたちのことを考えると、バーブラの姿でいるのは彼女たちに酷なことではないか? 彼の冷え切っていた胸に人肌の熱が籠る。
「よくぞ今まで辛抱してきたな」
そう撫でてやると、二人の目に薄っすらと涙が滲み出ていた。
「これは一体……どういうことだ!?」
シェールの北、地竜平原に浮かんでいた王城アストラダムスから、ラタは“空の下”を覗き込んだ。
黒い空が、北にそびえ立った聖樹の眩い光によって砕け散り、シェールや神国の街を呑み込まんとしていた暗い海が、空の海へと変わった。白い雲海の下を覗けば、何処までも続く水平線上に広大な大地が幾つも見えてくる。
「ムスティーア大陸、まさかこの目で見られる日が来るとはな」
「お、タイマラス」
異空間から姿を現したのは、何処か不服な顔つきのタイマラスだった。
「竜の島がエルフ誕生の地とすれば、眼下に見える広大なムスティーア大陸は、人間誕生の地だ」
そう説明して、眼下に見える大陸を覗き込む。
「太古の昔、深淵に呑まれそうになった人類が、王城アストラダムスを使い、空にあった八竜の住まう神の大地、竜の島に移住してきた。
その際、八竜との盟約により、人々の記憶からオーラディアのことが消されたと言われている」
「オーラディア……? へぇー……いやはや、よく知ってんなあ。
お前はどうしてそこまで知っているんだ?」
「時空魔術師が、私が初めてではないからだ」
「???」
チカチカチカ、タイマラスの胸の近くで点滅が起きる。アッヴァが何か言いたげなのだろうか、タイマラスはそれ以上言うことはしなかった。そして、一人、飛翔の風魔術で空の向こうに飛んで行ってしまった。
「自由な奴だなぁ……」
「こんにちは」
「ん?」
ラタもタイマラスを追ってオーラディアの空へと飛び立とうかな、と思っていたとき、何者かに声を掛けられた。
ラタの下に現れたのは、マイティアと同じ顔をした、双子の姉シルディアだった。
「マイティアちゃんのお姉さんだっけか? こんにちは」
シルディアがふふ、と微笑む様を見て、ラタはちょっとだけ頬を赤らめた。
「八竜様があなたに導きを伝えなさい、と、私に仰っておりまして。是非とも聞いていただきたいのですが」
「ああ、聞かせてくれ」
「“原罪アラナに悪用される前に、ムスティーア大陸の兵器アビスを破壊せよ”と」
ラタは息を呑んだ。
兵器アビス―――それは、神国でジュスカールがその身を使って作り上げた古代の兵器であり、黒曜石の原盤を用いていたとはいえ、魔王を上回るほどの力を有していた。その兵器が、ムスティーア大陸にも存在していると、八竜は言ったのだ。
「この導きの意味は私にはわかりかねますが、確かにお伝えしましたわ」
「おう、ありがとな」
(やっぱりまだ原罪アラナが絡んでいやがる……。
ネロスたちはアラナを倒したわけじゃなさそうだ)
「それと、今まで妹を守ってきてくれてありがとうございました」
「ん? ああ、いや……礼を言われるようなことはしてねぇよ」
それに……と、言いかけて、ラタは口を噤んだ。
マイティアが死霊術を使うのを止めてあげられなかったことをラタは悔いていたからだ。
(だが、もし今回アイツがいなかったら、俺はあと数カ月で死ぬ筈だったんだよな……)
それどころか、ドップラーの攻略方法が分からずに詰んでいたかもしれない。今回、魔王がいたことによって助けられたと言っても過言ではないのだ。
(それもこれも全て八竜様の手のひらの上、か……)
ラタは大きく息を吐き、背中にオリハルコンの大剣を背負い、城の縁へと移動した。
まだまだ終わりじゃない。八竜の導きは今も続いている。
「行かれるのですね」
「ああ。もしネロスが来たら……“先に”行ってるぜ、と伝えておいてくれ」
「ご武運を」
とん、と、城の縁から飛び上がり、ラタはオーラディアの空へと下降していった。
~第四部・完~