第85話 聖樹
パッチャ村に転移してきたネロスたち。
「───村が!」
「おぶっ」
だが、パッチャ氷原が一面黒い海になっていて、ベラトゥフは反射的に飛翔の風魔術を使い、身体が海に沈む前に空中で踏み止まった。
ネロスはそのまま黒い海に腰まで沈み、流れ込む魔に思わず意識を持っていかれそうになった。
「きっとみんなスティール様の洞窟に逃げこんでいるんだわ」
ベラトゥフは飛翔の風魔術を使い、ネロスは地道に黒い海の中を歩いて洞窟に向かった。
「あ! お爺ちゃん!」
「むっ」
「ベラトゥフだ!」
スティールの洞窟に向かうと、入り口で深淵が入り込むのを魔術で塞き止めているヤドゥフたちに出会った。
結界を一瞬だけ外して貰い、黒い海と共に中に入ると、ヤドゥフは
「ベラトゥフ、術式は取り戻せたか?」と、恐る恐る確認した。
「イエス!」
これを払拭するように元気よく返事をするベラトゥフに、ヤドゥフは僅かに表情を緩めた。
「急げ、ベラトゥフ。テスラの聖樹が崩壊してから、深淵の浸食が激しさを増す一方だ」
「アイアイサー!」
早速、奥の祭壇へと駆けていくが、彼らの目に飛び込んできたのは、深淵に冒され、翼の黒ずんだスティールだった。
「スティール様……! お労しや」
依然として眠ったままなのだが、その寝息は苦しそうでいた。
ベラトゥフは祭壇の棺に置かれたまま全く腐敗していないマイティアの身体と、その胸から生えている金色の双葉を確かめて
「魔力を練り上げるのに集中するわね……」
聖樹の召喚術に向けた準備に取り掛かった。
『これで……みんなを、助けられるんだよね』
ようやく言葉を紡いだマイティア。しかし、それは確認というよりも、もっと漠然とした不安だった。
「不安?」
そうネロスが聞くと、マイティアは黙り込んだ後で『私……』静かに口を開いた。
『わからなくなってしまったの……記憶が戻って、私が今まで何をしてきたかを理解してしまって……、……。
死霊術を使い、“魔王”と一緒にいると選んだことが……恐ろしく、怖くなってきた……』
ネロスの空虚な心臓がドクンと跳ねる。
彼女が今、彼を、魔王と呼んだからだ。
『ねえ……あなたは本当に、私の知る“ネロス”なの?』
もしかしたら、この問いに答えるべく、魔王はネロスに支配権を渡したのかもしれない……。
ネロスは深く息を吸うように胸を広げ、大きく頷いた。
「そうだよ、僕はネロスだ。
君と出会い、一緒に旅をしたネロスさ。
魔王とは、別の人格だよ」
そう嘘偽りなく、ネロスは答えられた。
マイティアはネロスの揺るがない真っ直ぐな視線に、心から安堵したようだった。
『よかった……あなたが、あのときの……あなたのままでいてくれて、ほんとうによかった。
そうでなかったら、わたし……、……』
死霊術を解いてしまっていたかもしれない……とは、彼女は言葉にしなかった。
マイティアは、ネロスとの短い旅の記憶と共に、女神の子としての長く苦しかった人生を思い出してしまった。それが“聖樹の苗”になる為に八竜によって仕組まれていたものと知った時の絶望感が今、彼女の心を追い詰めていた。
それではまるで、“死ぬ為に生まれてきた”ようなものではないか、と。
それに加えて、今までの記憶と共に記憶の坩堝に奪われていた、固い倫理観や正義感を彼女は取り戻してしまった。その心が、魔王の死霊術師となった自分の選択を───大罪を犯した自分を責め立てていたのだ。
「ごめんね、君をそんなに追い詰めていただなんて……」
『ううん、ネロスが謝ることじゃないの……私こそごめんなさい』
そう、悪いのはネロスではない。彼はずっとマイティアにとっての勇者でいてくれた。魔王と一心同体であろうとも、彼は今のところ、魔王としての悪事はしていない。
だから、彼女が蘇らせたのは魔王ではなく、“勇者”である。そう考えることが―――禁忌(死霊術)を冒してでも生きている理由、唯一の心の支えですらあった。
『愛してるわ、ネロス……』
「僕もだよ、ミト」
ネロスが勇者である限り、マイティアは死霊術を解かない。
彼が魔王になるようなことがあれば、彼女はすぐさま、彼と同じ罰(死)を受ける。
それが、彼女が導き出した答え(正しさ)だった。
「聖樹が……」
ほわ……、それは穏やかな陽気のように光り出した。
マイティアの身体から生えていた、黄金の聖樹の苗が少しずつ、だが、目に見えて大きく成長し始めていた。
「ヤドゥフ様! これ以上はもちませんっ!」
「うむぅ……!」
ヤドゥフたちの悲鳴が上がった直後、深淵がバシャバシャと洞窟の奥にまで流れ込んできて、高台に避難している子供たちの悲鳴が上がった。
「お待ちどうさま!」
そのとき、カッと目を見開き、ベラトゥフが両手を広げる。その合図に合わせて、聖樹がマイティアの身体を呑み込んで急激に伸長し始めた。
その巨大化の勢いは怒涛で、即座に洞窟の天井に枝葉を突き刺して破壊し、流れ込んでくる黒い海を蒸発させながら根を広げていった。
「ぐぬぬぬぬぬぬぅぅぅううう!!!」
ドゴンッ! 力むベラトゥフの魔力を起爆剤にして、分厚い氷の天井をぶち抜き、黒い雨が降り頻る空が見えると
「! スティール様!」
突然スティールが目を覚まし、黒ずんだ翼を広げ、肥大化する聖樹の邪魔にならないよう空へと飛び退った。
「やばい!私たちも逃げなきゃ呑み込まれるかも!」
洞窟に雪崩れ込む深淵から得られる魔を餌に急激に成長していく聖樹。急ぎ、ベラトゥフたちも洞窟から避難する。それと同時ぐらいに―――あっという間に聖樹の伸び頻る幹が洞窟を破壊しながら、雲を貫く天竜山の高さを超え、遂にひび割れた空に枝葉が触れる。
パキィィーン!!!
触れてはいけないものが触れた化学反応のように、それは互いに激しく弾き合った。
世界中を震撼させる衝撃波が駆け巡り、皮膚を貫通する閃光が衝突部から放たれる。
その光が、黒い雨を、黒い海を、黒い空を粒子状にして消し去っていく。
だが、同時に巨大な聖樹もガラスの如く割れ砕けていき―――。
刹那、聖樹と深淵は相殺された。
「くっ……どう、なったんだ?」
眩い光の中、ネロスは
「!?」
マイティアの幻影を見た。
一緒に旅をした頃のように凛々しくも可憐な姿でいて、何も見えない程の光の方へとネロスを手招きしている。
「ミト……?」
ネロスはそれに吸い寄せられるよう、彼女に近づいて行った。
近づいていく度に、ネロスの中に入り込んでいた魔が抜けていき、骨である筈の彼の身体が肉付きを取り戻していく。
「これは僕の夢か? それとも……」
遂には、人であった頃の姿となったネロスが、マイティアの袂へと辿り着く。
「それでももう一度、君に会えてよかった……」
互いに自然と笑みを浮かべ合い、マイティアの手を握ったとき
「うっ」
光がネロスを包み込み、彼は彼女の手を握ったまま別の腕で目を覆った。
ゆっくりと強い光が遠ざかり、視界を開けると、そこはすっかりと天井がなくなってしまったスティールの洞窟の中で───ネロスは明るい陽射しの中に照らされ立っていた。
そして、ネロスの骨の手が握っていたのは、祭壇に突き刺さった、仄かに黄金色に光る一本の木の枝だった。
彼はすぐに察した。
(聖樹の枝……!)
きっと深淵との激しい衝突の際に弾け飛んでしまった枝の一本なのだろう。
「ミトの身体は……?」
聖樹の糧となってしまったマイティアの身体をネロスは探したが、跡形もなく消え失せていた。
『ネロス……』
「どうしたの、ミト」
『この枝に、私の魂が引き寄せられるの……私の身体だったからなのかしら』
手元を見ると、王家の指輪がチカチカと光り、マイティアは少し苦しそうに喋っていた。やはり魂は肉体に引き寄せられるもののようだ。
「……ベラ、お願いがあるんだけど」
「ん?」
ちょうど洞窟の中にやってきたベラトゥフに、ネロスは一つのお願いをした。
「この枝を、聖剣にすることは出来ないかな」