第83話① 記憶の坩堝
「此処は……」
「王都の北方、樹氷の森の近くです」
物騒な喧騒から一転し、黒い雨に打たれるモノクロな針葉樹林に転移したネロスとベラトゥフ。
「カタリの里で、私の記憶を取り戻すことが必要なんだって、弟くん?が言っていたのよ」
魔術で作り出した氷の外套で黒い雨を避けつつ、ベラトゥフは小首を傾げた。記憶を失った彼女にとっては、ホロンスは弟かどうかも定かではないのだ。
「制限時間は大丈夫なの?」
そうネロスが尋ねると、ベラトゥフは胸を張って
「大丈夫! 木の人形から人体人形へと変わったので、実体でいられる時間が段違いなのです!」と、応えた。
ネロスがタイマラスに襲われている最中、ホロンスは急ごしらえで人体人形を簡易錬成し、ルークからベラトゥフを預かり、魂を移し替えていたのだ。
『姉貴、あんたの失われた記憶が必要なんだ!
急ぎカタリの里に向かってくれ!』
しかしだ、ベラトゥフの眉間に溝が掘られる。
「けど、カタリの里がこの森のどの辺にあったかは……あのときはバタバタしてたから……」
胸に風穴を開けたマイティアのことで手一杯だったベラトゥフには、道順を記憶しているだけの余裕はなかった。無論、ネロスも同様だった。
手詰まりになっていたとき、ネロスの肩に乗っていた黒猫ゼスカーンが口を開いた。
「それならおまかせ下さい。
カタリの里への行き方なら、このゼスカーンが知っておりまする」
「あらま! 助かるわ猫ちゃん!」
「にゃおん」
黒猫ゼスカーンの先導で樹氷の森を進む二人、その最中で
『ベラの記憶を戻す方法があるのなら……私の記憶も戻せるのかな』
マイティアは不安そうに吐露した。
「昔の記憶を、取り戻したい?」
彼女の記憶は、必ずしも楽しい記憶だけではない。ハサンに虐げられた苦しい記憶も一緒に取り戻してしまうことになるだろう。
『……出来るのなら。
怖いけど……私を、取り戻したいの』
彼女の声は震えていた。
ネロスは彼女を慰めるように指輪を撫でた。
「この辺のはずです」
ゼスカーンがそう指摘した場所には、結露とは違う、白い霧がまるで何かを隠すかのように駐留していた。魔力の印を持つ者、そして、死する者だけが通れる臨界だ。
「霧……か」
手にこびり付く大量の血。冷えた石のように固まったマイティアの身体。頭が飽和するほどの焦燥感が惹起され、ネロスは思わず身震いした。
「私はここでお待ちしております」
「ああ」
ネロスとベラトゥフは一呼吸おいて意を決し、霧の中に飛び込んだ───。
「これは……!」
瞬きの後、彼らの視界に映ったのは―――赤い炎に覆われた聖樹だった。
「な、何が起きたんだ?」
「お、大女神様が……大女神様が聖樹を……!」
現れたネロスたちに驚くこともなく、守り人たちは狼狽していた。中には腰を抜かしている守り人までもいた。彼らの視線の先にいたのは……。
「テスラ……!」
「久しいわね、ベラトゥフ……そして、魔王」
王城にも現れた、あの大女神テスラがー――何食わぬ顔で二人を出迎えた。
「無益な戦いになるわよ」
当然、二人は臨戦態勢になった。いつでも大女神を倒せるように。
守り人たちも慌てて大女神を守ろうと武器を構え始めたが、テスラは彼らを制した。
「魔王が私を操っていたアラナを追い詰めてくれたお陰で、私は彼女から解放されたの」
「その言葉を信じろって言いませんよね?」
「なら、あなたたちの記憶を取り戻す方法を教えてあげると言ったら信じるかしら?」
ネロスとベラトゥフは目を丸め、互いに顔を見合わせた。何故、この女はこちらの事情を知っているのだろうか、と。だが数秒後、その訳をネロスは察した。
「予知で、何もかもお見通しという訳か」
「暇だったのよ」
「暇だったから???」
テスラはふん、と鼻を鳴らした後、ピクリと中途半端に長い耳を立てた。
「ボル・ディア・ガルパ。記憶の坩堝、死者の記憶が抜け落ちた先。
そこから自分たちの記憶を正しく取り戻すの」
そう告げた途端、ネロスとベラトゥフの視界の先に、黒い渦巻のようなものが現れた。それはいくら近づいても届かない程に遠いようで、手を伸ばせば届いてしまうような、距離感の狂った代物だった。
「死者の世界は認知の世界。記憶の坩堝という存在を知ったあなたたちの前に、その存在が現れる」
つまり、記憶の坩堝という存在を知らなければ、永遠に辿り着けなかったというわけだ。
まだ気を許す事が出来ないベラトゥフは唸りながら、口を尖らせた。
「……死者の記憶が抜け落ちた先って、そんなの、人類みんなの記憶が集まったらどんな容量になるか」
「ええ、この圧縮次元から正しく自分の記憶を取り戻すのは不可能に近いわ。
だけど、ゲティ・ジャンヌ、記憶の坩堝の再現魔術で奪われた記憶は、坩堝に引き裂かれるものよりも断片が大きい」
記憶の坩堝の再現魔術、それが言わば、女神の子が受ける俗世との関係を断つ”清浄化”のことなのだろう。
「理論上は、って感じっすね」
「それでもやるんでしょう?
聖樹の召喚術の為に」
そう言って、テスラはネロスから少し横を向き、見えない筈のマイティアに目を合わせた。
「“ファルカム”によって聖樹の種を植え付けられた身体」
『!』
「そして、八竜によって改良された聖樹の召喚術の術式を、ベラトゥフが使えるとなれば……この世界に蔓延っている深淵を遠ざけるだけの力が発揮される事でしょう」
「その話は本当なのか?」
「理論上は」
「そうじゃなくて、聖樹の種を植え付けたのはファルカムだったのか?」
聖樹の種を植え付けた、つまり、マイティアの胸を貫いた者のことだ。それがファルカムだとテスラは言っているのだ。
「ベラトゥフが私の暗殺に失敗したときから、八竜は“最後の女神の子が聖樹の苗になるように仕組んでいた“わ。何より、死者の世界に近いこのカタリの里でなら、八竜も手を出しやすい。
あなた、フォールガスの胸を貫いたのを、今の今まで私のせいだと思っていたの?」
「ああ」
「どうして敵が塩を送るような真似をすると思うのよ」
「何故塩を送るのか?」
唐突に差し込まれるネロスの無知に、テスラは困惑し、眉間に溝を掘る。慌ててベラトゥフがネロスに「これはですね―――」耳打ちして納得させる。
「……聖樹の種は、ネル・ファ、いわば光の樹の種子。光の樹は死者の世界にある、オールドーオール、輪廻転生、蘇生の為の架け橋のこと。
私が唱えた聖樹の召喚術は、光の樹の効果の一部を地上世界に届ける為の術だったけれど、今回必要となるのは、光の樹そのものを地上世界に顕現させること」
「光の樹の顕現……」
「よくよく、術式を間違えない事ね、ベラトゥフ」
「ぐぅ」
テスラは燃える聖樹の方を感慨深い表情で振り返った。
「この聖樹の火を篝火にして進むといいわ。
死者の世界は迷いやすいから」