第65話① 約束
『あなたの子供を作ることが私の使命なの』
ルークの脳裏に、強気な女の煙が香る。
彼の妻レミアはやめろと言っても聞かない頑固な愛煙家で、いつも煙草の苦い香りを纏っていた。
『死地に向かうというのなら、尚の事』
彼女は王都から遠路はるばる神国のニーノ港まで飛んできては、女神騎士団の新たな長となったルークに詰め寄って
『拒まないわよね? 今更』
レミアのニヤリと含んだ笑みが、今は遠い。
『私は、レミアとハサンの娘で……』
レミアの、そして、自分の面影のあるマイティアがそう口にしたとき、ルークは驚愕した。
(そんな筈はない……レミアは……、俺の子を産んだのではないのか?)
同時に、ハサンに対して怒りを覚えた。
よりにもよって何故レミアを娶ったのか。これは自分への当てつけなのかと。
(マイティア……お前は俺の……、……)
だが、言い切れない。証明仕様がなかった。ハサンがレミアを冒していないと言わなければ。
それに、今更になってマイティアにどう切り出せばいいというのだろうか? ルークは困惑した。“お前は俺の娘だ”、と言い張ったところで、彼女はそれをどう受け取るのだろう?
(言えない……こんな姿で、俺はマイティアを抱きしめてやれない)
魔物を表す四本の指、長く鋭い角、人間あるまじき姿。加えて、鬼将バーブラとして犯してきた悪行の数々。血に汚れたこの手で、どうして愛しき妻の子に触れようものか。
それなら、せめてもの遠くででもいいから、彼女の安全を見守れる場所にいれさえすれば……それ以上を望めないものと、ルークは思っていた。
だが、衰弱し、弱り果てた彼女を見て、遠くで空しく拳を握っているだけ。ルーク、いや、バーブラに出来ることは、それだけだった。
「なんだ……一体、何が起きている」
大書庫に留まるようにと言うゼスカーンの説得を無視して、大神殿の外へ出てきたルークは、だだっ広い平野の如く破壊された神都の街並みを見て呆気に取られた。
空は割れ、暗闇が滝のように流れ落ち、青い月が出ている。その下で、巨大な黒い化け物が徐々にその姿を煙に変えていく。
「! あれは」
そして、その奥に、彼はマイティアの姿を見つけた。
彼は知らず知らずに走り出していた。
だが、彼女は―――。
「うああ、あ、ああ……っ」
核となっていた黒曜石の原盤を失った兵器アビスは、形を保つことが出来ずに崩壊し、人の形に戻っていた。
瘦せ細り、焼け爛れ、醜悪な顔。剥き出しの歯肉。全身に刻まれた魔法陣は白熱し、その身を焼き焦がしている。そう長く持たないだろうと判る状態だ。
「……ばれ」
「なんだって?」
「くたばれテスラよ……! お前のせいで何もかも失った!何もかもを! 許さぬ!許してたまるか!」
「…………。」
ジュスカールは呪詛を吐いた。だが、ラタはジュスカールの魔渦巻く激しい憎悪の中に、悲しみを含んだ嘆きがあるのに気が付いた。
「魔族に日々の生活を奪われ、怯えて暮らすしかなかったこの20年……策はないかと模索し続けた20年を!
嘲笑うように女神は微笑み、無責任な術式を託され! そのせいでどれだけの犠牲が出たか!」
その言葉の最中にも、ジュスカールの肉体はみるみる炭化し、壊れていく。
「貴様もだ! 魔王を封印し、その力を我が物とした私を何故討った!?」
「魔王の力は誰かが私用に使っていいものじゃないからだ」
「そんな理由でか?! 貴様は何もわかっていない! それだけの力を持っていながら、何も背負ってなどいないなど以ての外だ!
力には責任が付き纏うもの! 貴様の人ならざる力は、個人が気ままに振るっていい力ではない!」
ラタは目を細め、固く拳を握った。
ラタは、神に気に入れられた。力を与えて貰った対価に、彼は過酷な運命に巻き込まれている。
ジュスカールは女神に見捨てられた。人生を賭けて尽くしてきたのに、裏切られた。
もしゴルドーの気まぐれが違う方向へ向かっていたら、きっとラタも見捨てられていただろう。神の導きや加護を失えば、ラタはただの酒飲みに落魄れる。
だから、ラタにとってジュスカールの嘆きは、他人事のようには思えなかった。
「なら、俺が責任をもってこの国の安全を保障してやるよ」
ジュスカールの両腕がもげた。
「お前さんの次に、この国の事を考えてくれている奴だっているだろうし」
ジュスカールの両足が崩れ、ひび割れた身体が地面に落ちる。
「それなら少しはマシな気持ちで、あの世に行けんだろ? お前さん」
「―――」
ラタの言葉が最後まで聞こえていたのかは誰にもわからない。ジュスカールは、術式の反動で炭化し、粉々に砕け散ってしまった。
すると、ジュスカールの胸と一体化していた黒曜石の原盤から、勢いよく魔の気配が飛び出し、テスラの隣で眠る変形した人骨へと吸い込まれ―――禍々しい魔力を持って起き上がった。
「この私を取り込んだことによる憎悪への干渉を計算しておかなかったお前の負けだな」
『おのれ、魔王め……!』
魂が戻り、元に戻った魔王はそうテスラに勝ち誇り、口からどろどろと血をこぼし、息も絶え絶えの彼女を見下ろした。だが、その視線には痛々しい“マイティア”を思う悲痛な眼差しがあった。
そして「うおっ!?」魔王は突然仰々しく、ジュスカールの死体に手を合わせるラタのポケットに押し込められた指輪を強引に引き抜き、奪い取った。
「ひ、人のポケットに! なんて盗人猛々しい!」
「お前のポケットなんぞに入れられた“彼女”が不憫でならなくてな」
「なんだってぇ?」
奪い取った指輪―――元々マイティアのもの―――を右手の人差し指に嵌めると、指輪は息をするように光りだし、魔王の指を抱きしめるように縮んだ。
「テッちゃん」
ラタはオリハルコンの大剣を構え、テスラに差し向けた。
「説明しな、テッちゃん。どうして魔族たちを暴走させるような術式を託したんだ。さもなきゃ、俺は……お前を斬るぞ」
『魔王を差し置いて私を敵視するなんて……』
「ああ、するね。どんな理由があれ、ジュスカールたちを裏切ったのは確かだろ」
『ジュスカールの運命を狂わせたのは、魔王の方よ』
「人に責任を擦り付けるとは、女神の風上にも置けないな」
「話を逸らすな……“原罪アラナ”」
ゴルドーから教わったその名をラタが呼んだとき、“テスラ”の紅玉の目がカッと見開かれた。まるで意表を突かれたかのように体を硬直させ、ハッと息をのむ。
「私は……ここで、始末をつけ…な…ければ……!」
このとき、テスラは“一瞬の隙をついて”、雷の剣を生み出し「!?」ラタが止める間もなく自らの胸へと突き立てた!
次の瞬間。
「なに?!」
マイティアの身体から、シュワン! と、何かが吸い取られ、北方―――王国の方角へと飛んで行ってしまった。
後に残されたのは、雷の刃に穿たれたマイティアの身体。その体は、糸が切れたかのようにその場に崩れ落ちた―――。
「なんてこった―――マイティアちゃん!」
魔王はすぐさまマイティアを手繰り寄せるが、既にマイティアは事切れており、彼の手に生温い血がこびりつく。だが、裂けた胸を塞ぐようにして白金の芽が生えており、神々しい光を放っている。
「すまない、ミト……テスラを始末できなかったようだ」
「い―――いや、そんな、待て待て待て、何がどうして自害を―――っ!
それに術者のマイティアちゃんが死んじまったらお前も―――、……も?」
術者が死ねば、使役死霊も死ぬ。
しかし、魔王はピンピンしていた。まるで糸が切れる様子もない。
「???」
「嗚呼、何故だ……マイティア……どうして!?」
更にそこにルークが腹の傷を抑えながら駆けつけてきた。その顔は深い悲しみと、目の前で“自害された“というやり場のない怒りに染まっている。
「大神殿から出るなと言っておいただろうに」
「魔王! 貴様がいながら何故マイティアを守り切れなかった!?」
「彼女は長くなかった」
「ふざけるな! それが理由になるとでも思ったか!」
「落ち着け、先ずは私がまだこの世に留まっている理由を考えたらどうだ」
そう言って、魔王はラタのポケットから強奪した指輪をルークに見せた。
「王族の、指輪……!」
「ミトの魂は此処にある。彼女は真の意味では死んではいない。
彼女は死霊術で、この指輪に自らの魂を括り付けた。
彼女がこの世にまだいるからこそ、私はまだ存在しているのだ」
魔王の言葉の意味を理解したルークは「それを先に言え……っ」亡骸となったマイティアの身体を魔王から受け取り、抱き寄せた。
「…………。」
マイティアの身体を抱きしめるルークの目からは大粒の涙が零れ落ちた。その様はとても鬼将バーブラとは思えない程に弱弱しく、人間らしかった。
「お取込み中申し訳ねぇけど、あんたがバーブラか?」
その様を見つつも、大剣の剣先をスッとルークに向けるラタに
「そうだとしたら……俺を殺す気か?」と、ルークは問うた。
「お前さんがこれからどうするのかによる」
ルークはぎゅっと奥歯を噛み締め
「マイティアを埋葬するまで……。
この地ではなく、故郷に……王国に埋葬するまで、俺の処遇を待ってほしい。
その後ならば、好きにしろ」と、ラタの目に意志固い眼差しを差し向けた。
これに
「この地から去れ」
ラタは大剣を背に収めた。「“次”はないぜ」
「……その言葉、深く肝に銘じよう」
「私に剣を向けないのだな」
「ゴルドー様からお達しが出てるんでね」
「まさか味方になるとでも思っているのか?」
ピリ、とひりつく空気を裂くように、バサァ……狙いをすまして舞い降りてきた鷹、ホズは
「手荒い送迎に感謝する」
黒猫ゼスカーンを鷲掴みにして運んできた。
「俺はこの国を立て直してから王国へ向かう。テスラが向かったのは王国方面みたいだし、ドップラーってのがまだいるらしいからな」
「余計な約束をしたものだ。まあお前の好きにすればいい」
「向こうで会おうぜ。今度は味方としてよ」
「…………。」
魔王はラタとの口約束はせず、ゼスカーンの転移魔術で姿を消した。