第57話① バーブラ
『私は大女神を殺すために女神になる』
何処か聞き慣れた……声高な女性の声。
『それが八竜の導きだから』
『あなたはどうする? 私を止める?』
『同じ八竜信者として、神の御言葉をどう捉えるかしら?』
『ふふ、信じてる。
あなたの国が出来たときは、私が平和に導いてあげるわ』
『要らないですって? よく言うわチャーシュー麺
だってあなた、売られた喧嘩はすぐ買っちゃう人じゃないのよ』
『あなたも信じてみてよ、私のこと。
役に立ってみせるから』
薄暗い空間で、バーブラは目覚めた。
「う、ぅぐ」
被された麻布をめくり起き上がるが、激しい頭痛と吐き気に襲われ、ふらついた。更に虚脱感、無気力さと続き、追い打ちの疲労感によって立っていることもままならず、彼は座り込んだ。
「俺、は……何を、していた……?」
打撲痕だらけの体に、ぷらりと下がるチェーンに通された欠けた指輪。
万力で締め付けられるような頭痛の奥にある記憶を引っ張り出そうとするが、上手く記憶が繋がらない。声の女性が何者だったか、まるで思い出せない。
重い頭を上げて周囲を見渡すと、岩壁に囲まれた大きな洞窟の中で、女神教の教会の様式で飾られていた―――使い古しの白と金の布、祭壇に置く盃も古く、数百本もの小さな蠟燭の溶け残りが赤い絨毯を覆いつくしている。
「あ」
そこに、水桶を持ったマイティアが現れると、彼女はバーブラを見るなり泣き出しそうな表情になり、慌てて目元を拭う仕草を見せた。
「大丈夫、ですか?」
改まったような物言い。
しかし、それはバーブラも同様だった。
「…………!」
彼はマイティアの姿を見るなり驚いた表情になった。記憶の中にしかといた筈なのに何故気付くことができなかったのか、目を見開き、口を半開きにして、佇んだ。
しばらく沈黙が続いた後で
「……マイティア、お前こそ大丈夫か?」
「え」
バーブラはマイティアを気遣った。彼女の顔から血色が抜けているように見えたからだ。
これに面食らったマイティアは「え、え、あ、はいっ」「?」しどろもどろな反応を見せた。
「少し……驚いている、だけで……す。はい……」
少しして気を取り直したマイティアが、バーブラが眠っていた時のことを話した。
神都の上空に魔法陣が浮かび上がった瞬間から、バーブラは正気を失い、他の魔族たちは人々に牙をむき始めたこと。
ゼスカーンの使い魔が転移魔術を使ってマイティアたちを助けてくれた後で、バーブラに掛けられていた魔術の治療を行ってくれたこと。
「あなた様の指輪が治療に使えたみたいで……ただ、かなり抵抗なされて……だからその……体が痛むのなら……私たちのせいです」
「いや……九死に一生を得た、ようだな」
役割を果たしたように欠けた指輪を指で撫でる。
「……あなた様以外の魔族たちは、まるで魔物みたいに暴れ回り、人を襲いました」
マイティアは言葉にし辛そうに
「人々はレジスタンスに助けを求めました。魔族を倒してくれるようにと……。
外では魔族狩りが起きています……私たちには止められようがなくて」と、涙を滲ませながら続けた。
バーブラは血が滲むほど拳を握りしめた後、自分の頬を叩いた。
「魔法陣の発動範囲は基本的にさほど広くない筈だ。まだ狂っていない魔族が残っている……彼らと合流しなければ」
「え、それは待っ」
「やめた方がいい」
先走るバーブラの前に立ち塞がったのは
「お前は」
「私はゼスカーン。あなたの部下に殺され、使い魔に魂を宿した男だ」
男の声を放つ、オッドアイの黒猫だった。
土砂降りの雨の中、魔王は一人、フードを深く被り、気配を消してモルバノへと出ていた。
「…………。」
外の至る所で山になった魔族の死体が積み上げられていて、レジスタンスと思しき連中が魔族に好意的であった人間たちを拘束して、解放したモルバノの収容施設へと送り込まれていった。
また、ニーノ港に到着した船からは、封印術の鎖をかけた獣人たちが列をなして地下施設へと運び込まれていっていた。恐らくはシェールからの船だろう。セルジオの魔物化を受け、獣人たちへの懸念が増してしまった故に、シェールから追い出されてしまったのかもしれない。
(この国は元に戻ってしまったか……)
国(女神教団)の意に反する個人を捕えて矯正し、それでも変わらないようなら奴隷化する。そして、他国の民や他種族の者を奴隷化して働き手にする。それが数百年前、魔王の記憶に残っている神国という国の在り方だった。
それからどれだけ国が変わってきたかわからないが、レジスタンスのしている所業を見れば、数百年経とうとも本質的には大した差異はなさそうだ。
(これがお前の導きだというのか、テスラ……)
魔族の監視下とはいえ、バーブラの支配下では、信仰や戒律、学習の自由を得ていたという。無論それは、この国の人にとって馴染みのない自由ではあっただろう。
何が正しいことかどうか、最後に決めるのは民だろうが、少なくとも、魔族を虐殺しなければならなかった理由としては、魔王の腑に落ちなかった。
テスラは何かに囚われている。それは恐らく、怒りの類だ。
カタリの里でネロスがテスラを殺しそびれた運命のねじれ、そのときから、テスラは目覚めたかのように動き出した。数百年と人に尽くしてきた人生への裏切りとも呼べる八竜の導きに対して、テスラが八竜への殺意を抱くとしても不思議ではない。加えて、魔王への殺意、魔王を蘇らせた者たちへの憤怒……何ら矛盾はない。
ただ、魔王にとってテスラは、恐ろしく強かな、最悪の敵だった。畏敬の念を覚える程に。
魔王からしてみれば、今のテスラは酷く”しょぼい”女に思えた。
倒してもいない相手を前に勝ち誇る様も
苦楽を共にしたラタを強引に支配する様も
術者を庇いながら戦う圧倒的不利な魔王を倒し切れない程の単調な戦い方も
罪なき民が大勢死亡するような浅知恵も
とても、テスラ・パタリウス本人であるとは思えなかった。
(だが、今はそれ以上のことはわからない……それこそ八竜に尋ねなければ)
魔王の見上げる視線の先、南の海の先、雨雲に隠れてぼんやりとしている巨大な建造物が映る。
白塔。
八竜の一柱、黄金の竜ゴルドーが住まう場所であり
かつて魔王が勇者ラタに討たれた場所。
(―――いけない、戻らねば)
脳裏をふと過る光景に急かされ、魔王は足早にマイティアたちの元へと戻っていった。
「お前の味方はもういないのだ」
湿った地下牢で鎖に繋がれたホロンスに尋問する拷問官はそう詰め寄った。だが、ホロンスはまるで口を開かず、黙ったまま空を見つめるだけだった。
「口を開けば楽になるぞ」バチン。
「…………。」バチン。
「ええい、往生際の悪い!」バ……
「やめなさい」
拷問感に声をかけたのは、グランバニクだった。そして、彼の脇をヌヌがすり抜け、鎖に吊るされたままのホロンスに駆け寄る。
「侯爵、こんな薄汚いところに来ていいんですかい? ジュスカール様とのお話はついたんで?」
「彼の尋問は私が引き継ごう」と、グランバニクが言うと、拷問官は自分の仕事を奪われて嫌そうな顔をした。
なかなか引き下がらなかった拷問官だったが「三日も使って一言も割らせられなかった」という事実を上司に報告させないためにもグランバニクが試してみる話に落ち着いた。
「20年で、随分と様になったじゃない」
グランバニクの声かけに、しばらく無言を貫いていたホロンスだったが、ふと力が抜けたように口が開いた。
「腰抜けだった頃と比べればな」
「いつも雑用ばっかり引き受けて、知識や技術はあるのにまるで前線に立たないし」
「ルビスやロロベトと一緒につるんで訓練をサボったりしていたこともあったでおじゃるな」
「熱苦しいんだよ、あの訓練」
「祈祷の時間では祈りの言葉を暗記しとらんで、口パクで」
「悪口ばっかりだな」
「どうしてバーブラの下についていたの?」
その問いに、ホロンスは口を噤んだ。
だが、それも無意味となってしまったと思ったか
「あの方は……」
彼は長く沈黙を貫いていた真実を告げた。
「ルーク・フォールガス」
「バーブラは、ルーク王子だ
王国、セルゲン王の息子……ハサン王の甥だ」