第56話 発狂
「あなたは……魔族が、魔物化の変性術をかけられた人であったということに、驚きや躊躇いはなかったの?」
大神殿のテラスで茶を嗜むバーブラに、マイティアは緊張した面持ちで話しかけた。
「そもそも、あなた自身が何者かってことにも」
「ふむ、驚きはあったのだろうな」
足を組み、指を組み、少し遠くを見つめながら、バーブラはふー、と息を吐いた。その息が白く染まらないことに物惜しさを感じているかのよう、彼の表情には哀愁が漂う
「だが残念なことに、他の者と異なり、俺には人であった頃の記憶はない。
唯一残っていたのは、王にならねばならない使命感や責任感といったところか」
「王にならなければならない……?」
「曖昧な話だろう? 俺も言葉にならんのだ。もどかしいものよ」と、バーブラは笑い、それに、と続けた。
「魔物化の変性術というものが、解けない魔術であることは魔女から聞いて知っている。
俺はどのみち元には戻れん。であれば、俺が魔族と人の垣根を超えた王となり、国の安寧を作り出せばよい。そう考えればいいことだ」
「……その割にはポートに攻め入ったのね」
「ハッハッハ! 王になったからには領地を増やし、天下統一を目指すものだろう?」
「だからって足元から掬われてちゃダメじゃない」
そのとき、はた、と、マイティアは自分が笑みを浮かべていることに気づき、同時に、バーブラがキョトンとした顔をしているのにも気が付いた。
「ごめんなさい、出過ぎたことを言ったかしら……」
「フ、構うな。首を縦にしか振らん奴よりも貴重な“ご意見”だ。続けてくれたまえ」
「すみませんでした」
そんなやり取りをしていた、その日のことだった。
神都の上空に映し出された魔法陣を仰ぎ、テスラは不敵な笑みを浮かべた。
「お前、何をした」
「あら、わからないだなんて、あんたの予知夢も錆びついてんじゃない?」
魔王はテスラの首を絞めつけるが、ラタの顔に変化は見られない。
テスラの存在のせいで予知夢が絡み合い、未来が変わってしまっていて、魔王にも魔法陣の結果がわからなかった。それにしても何故笑うのか、何がおかしいというのか、魔王には理解し難い状況だった。
「いやッ!」
「!?」
そのとき、マイティアの悲鳴があがった。
「バーブラ?! 何をしている!」
振り返ると、マイティアを守っていたはずのバーブラが彼女に爪を立て、襲い掛かっていたのだ。
「助けに行かないと殺されるわよ、あの娘」
「……っ、何処まで落魄れたんだ」
魔王はテスラの身体を遠くへ投げ飛ばした後、マイティアの下へ駆けつけ様、バーブラに一撃を加えると、バーブラはゴロゴロと受け身を取ることもなく転がっていった。
「大丈夫か?」
「ネロス……! バーブラが!」
よろよろと立ち上がるバーブラの目は焦点が合っておらず、飢えた獣のように涎を垂れ流しながら、マイティアに牙を向けるさまはまるで品性がない。言葉を話し、戦略を立て、優雅にお茶を嗜んでいた今までと別人のよう、理性を失っているかのようだ。
「きゃあああああ!!!」
神都のあちこちからあがり始める悲鳴と爆発音。
その音楽を背に、テスラはさも楽しげに鼻歌を歌う。常に何かに不満を持っているかのような女が、今度はひどくご機嫌になって高らかに声を上げた。
「血肉を貪り食らう獣よ、その本性を曝すがいい!
さあ祈り手共! その手で獣を狩りつくせ!」
その言葉の意味を
(魔物化の変性術に何かを働きかけたのか―――まずい……!)
直感的に察した魔王は、マイティアを連れてその場から離れようと試みるも
「そのまま逃がすとでも思ってる?」
テスラと比べれば、魔王は機動力がない。狩人の目をしたテスラから、マイティアを抱えて逃げるのは不可能に等しかった。
不利なにらみ合いが続く。その間にもバーブラはよたよたと迫りくる。
「しっかりしてバーブラ!」
見かねたマイティアがバーブラに声をかけるが
「ウゥゥゥ」
唸り声をあげるだけで、反応がない。しかし、マイティアは続けた。
「あなたは王になりたかったんじゃないの?!
本気で魔族と人が共に暮らす世界を模索していたんじゃないの?!」
「いくら説得しても無駄よ、魔物化の変性術の組成を完全なものにしてやったんだから。
そいつらはただの獣に成り下がったのよ」と、テスラは嘲笑う。
「獣に成り下がる? どうしてそんなことするの!?」
「どうして? アハハハハ! どうしてですって?? 頭おかしいんじゃないの?
人でもなく、魔物でもなく、半端者の魔族とやらが人の真似事をしていらっしゃるから、この国の人々は困っているんでしょうよ。
戦闘技術のある統率の取れた魔物、加えて、意外と支配下の人々に対応が好評だって言うじゃない。
元の生活よりも楽だ、なんて、こんなふざけた話がある? だって魔物なのによ?
だから、理由ときっかけを与えてやったの。魔物を倒す理由をね」
「な んてむごいことをッ―――彼らは人だったのに!」
「魔物化の変性術が解呪可能であると前提にして話しているようじゃない、あんた。
じゃああんたにその術式が組み立てられるの?」
マイティアは口を噤んだ。出来るわけがなかった。
「八竜に願いでも込めてみる? 無理ね。あのエゴイスト共が一般市民を救う術なんか教える訳がないわ」
「―――バーブラ、お願い 戻って
あなたはこんなところで死ぬべき人じゃない!」
「お、お、レは……、グゥゥ」
「!?」
バーブラは頭に爪を立てながら衝動に抗う様子を見せた。わずかに言葉を発している。
「ちっ、組成にほつれがあったか―――」
その様を見て、テスラは攻撃態勢に入るが
その彼女の視界を、小さな黒が横切った。
チリーン。涼やかな鈴の音が響き渡る。
「ゼスカーン様がお呼びです」
その猫は、モルバノの洞窟神殿で見かけた、ゼスカーンの使い魔だった。
「使い魔如きが」
「にゃおん」
テスラの雷魔術が容赦なく使い魔に放たれるが、使い魔は転移魔術を用いてそれを回避。そのままマイティアたちの下に来ると
「移動するです」
使い魔の言葉を聞き、マイティアはネロスの手を取って聖樹の魔力で無彩色の魔力を打ち消し―――転移魔術でバーブラごと転移した。
「逃がしたか……、まあいいわ。
当初の目的は果たした。あとは……。」
テスラは、その場にラタの身体を残して消えた。
ぐーすかと寝息を立てて眠るラタが起きた頃には、外は土砂降りの雨が降りだしていた。