第52話 心を開く
「ゼスカーンは黒猫を使い魔とし、その使い魔はどこかへと消えた。」
「…………。」
「ギースと戦闘し、重傷を負わせ」
「…………。」
「レジスタンスの一部と接触し、逃がしたと」
「…………。」
「そして、それを包み隠さずバカ正直に、俺に報告しに来てくれた訳か」
「…………。」
ピン、と、張り詰めた大神殿の書斎の中、膝をついて俯くマイティアの首がヒリヒリと熱を持ち始めているかのようだった。
恐怖で悴む指先を握り拳でなんとか隠し、唇を噛んで平静を装い、震えた足で千鳥足になりかけながら、結局、マイティアは戻ってくるしかなかった。彼女にはどこへ行く宛もなかったのだ。
「フフフ……素晴らしい」
「……へ?」
そんなマイティアの懸念を余所に、バーブラは実に余裕を持った態度で笑みを浮かべ、彼女の重圧を振り解いた。
「悪い報告ほど最優先に報告するべきことだ。
お前は俺の部下として相応しい行動をした。褒めてやろう」
彼女は思わず顔を上げ、ぽかーん、と口を開けて呆けた。
例えバーブラが、魔王を確保しておくため意図的に、マイティアの対応を緩めているのだとしても、今の彼女には関係なかった。仲間”だった”人の一言に、魔王が死霊である紛れもない事実に、傷心してしまった彼女には、バーブラの寛容さは得難いものだった。
「ゼスカーンの事は残念だったが、多少の進歩はあった。今までは使い魔に会うことすら叶わなかったのだからな。
それよりも問題なのは、レジスタンスがモルバノで目撃されたということだ。
あの地域は既にレジスタンスを掃討している。何処から虫が湧いてきたのか、発生源を早急に見つけ出さねばならんな……。
ああ、ギースの事は気にするな。
あの男は人魔族構わず新人に突っ掛かるのだ。その度見事に返り討ちにされる様は最早愉快なのだよ」
「……そ、そうですか」
「なんだ、この俺が、部下の失敗の一つや二つ、気にすると思っていたのかね?」
マイティアの顔に書かれているのだろう本音を見て、にやり、と、バーブラは頬を引く。
「俺には俺の矜持がある。魔族の王となる、俺の誇りがな」
「魔族の、王?」
そう、王だ―――バーブラはそう言って、玉座にしては質素な書斎椅子に深く腰かけた。
「王は民の上に成り立つ。故に、この国の民が俺を王として認めなければ、俺は王にはなれんのだ」
「……魔族の間でだけなら、既に信任を得られているんじゃ」
「魔族は人から生み出される。その人を虐げていては、国の基盤が揺らぐ」
足を組み、肘掛けに凭れ、頬杖をつく所作は、とても魔物には見えない。
「俺は人と魔族の共生社会を目指している。
そのモデル都市がトトリであったのだがな……フ、しかしまあ、勇者に何もかもを破壊される前から、そのモデルには破綻があった。
ヤンゴンは人望もあり、町を任せられるだけの力を持っていたが、如何せん大雑把なところがあった。奴の脇の甘さを突くように、ドッツェンたちは禁止していた食人行為を行っていた。
極刑の罰則をつけていても、愚かな事をする者はいるものだ。やらせない為の監視体制をより強固に作らねばならないのか、まだまだ考える余地はあるものだよ」
王となる為、国としての基盤を作らなければならない事をバーブラは饒舌に語り、マイティアはその理想に思考を及ばせた。
(……人と魔族が、一緒に暮らす社会。
そこでなら……私たちは生きられるのかな……)
魔王という存在であったネロスは、どうやっても既存の社会では受け入れられない。彼の手綱を引くマイティアも同様だ。加えて、彼女は女神の子の使命(呪い)が紐づけられている。ヌヌのように、彼女が女神の子と知っている者は、“よかれ”と思ってマイティアに死を求めてしまう。到底、マイティアもネロスももう、普通ではいられない。
だが、バーブラの言う理想の世界でなら、マイティアもネロスも”普通”でいられるのではないか? 勿論、マイティアが魔王の手綱をしっかりと握っていることを前提にしているだろうが、バーブラなら、魔王の力をぞんざいに扱わない筈だ―――マイティアは一定程度の信頼を、バーブラに寄せた。
「レジスタンスの……接触した一部の人の、少しだけ、情報を持ってます」
そして、彼女はそう切り出した。
「以前、知り合いだったから……」
「ほう」
バーブラは少し意外そうな顔をしたが
「俺がまともに見えたかね」
「……少なくとも、ベクトルが同じみたいです」
フ、と笑みを浮かべた。
「茶でも嗜みながら話を聞こうではないか」
タタリ山の麓にあるキヌノ村から東に数キロ。
深い森に隠される様に作られた真新しい地下道を通り抜けること一日。
「神国……数百年経っても大して変わんねぇな」
タタリ山を抜けた神国北部モルバノの山間部に出たラタと、神官たち。
「ポルコフ大神官、お付きの方もこちらのコートをお召しに」
シェールで出会ったジュスカールの言葉通り、トトリでポルコフ大神官という男性に会い、彼の顔を真っ青にさせる手形を見せ、一緒に神国へとやってきた。
「モルバノを支配するワドは凶悪な魔物です。奴の部下共々を刺激することのないよう、基地へと向かいましょう」
白と黒の信者服に合わせる白と金刺繍のコートに袖を通し、ラタたちはそそくさと街の方へと南下していった。
「な、なんだぁ?!」
そして、町に降りた途端、ラタは驚愕した。
「しっ! 静かに!」
「だ、だってよ……」
町の中を魔物が闊歩していたのだ。それも、人と一緒に。
(い、いや、魔物じゃなくて魔族か?!
なんてこった! 普通に金出して鶏肉買ってる魔族がいるぜ!)
日常生活を既に共にしている様子だった。人々の顔に多少の強張りはあるものの、談笑している魔族と人もいる。
「おぞましい光景でしょう? 言葉を巧みに操る魔物共がこうして人間と同じ生活をしているのです」
「そ、そうだよな、そう見えるよな、普通は」
「???」
魔族という存在を知っているラタにとっては(そうか、確か魔族のうち、ナラ・ハを出て行った連中がいたとか言ってたな……)と、ただ合点がついただけだったのだが
ポルコフ大神官たちにとっては解せないのか、ラタの反応に訝しい表情を浮かべた。
その様を見て、ラタは頭を掻いた。
(しばらくこいつらの調子に合わせないとテッちゃんに会わせちゃくれねぇか……)
小一時間ほど異形な町の中を歩いて、ラタたちは大通りから一本離れた道の路地裏にある、小さな看板だけ掲げられた酒場の中へ入った。
シックなデザインの、カウンターだけ酒場で、店主はラタたちの到来に何の応対もせず、ワイングラスを拭き続けている。
「今日もお日柄で」
しかし、ポルコフ大神官がそう言うと「お帰りなさいませ」店主はワイングラスを置き、カウンター裏にある、カーペットの下に隠された落とし戸を開けた。その下には梯子が掛けられていて、地下へと続いていた。
「───れは死霊じゃった! 紛れもなく死霊でおじゃる!
それをミトちゃんは”ネロス”と呼んだんじゃぞ!?」
基地に入ると途端に聞こえてきたのは、マロ族の甲高い声。
「落ち着いてヌヌ」
「落ち着いていられるか! ミトちゃんは召喚術の才能はあった……踏み違えてしまったかもしれんのじゃぞ! 落ち着いていられるか!」
「来客よ」
動揺の収まらないマロ族の女性が呼吸を整えるのを待って、彼女の隣に立つ恰幅のいい大男は、ラタと同じ目線の高さから挨拶をした。
「ようこそポルコフ大神官。そして、シェールの英雄よ。
私はロウ・グランバニク」
「……ヌヌでおじゃる」
「俺はラタ。
さっき話していたのってもしかして、勇者のことか?」
「ネロスを知ってるでおじゃるか……?!」
「いや、その名前の男は知らんが、マイティアちゃんの事は知っている」
そして、魔王の事も、知っている―――。
そう言いかけて、ラタは口を噤んだ。
「ネロスは死んでしまったのか?
ミトちゃんは禁忌に手を出さざるを得なかったのか……? ヌヌは何も知らなんだ……」
「それは……」
ヌヌはマイティアが、”何らかの理由で死んだネロスに死霊術を使った”のではないか、と思い込んでいるだけでこの狼狽ぶりを見せているのだ。ラタ自身もそうだったように、よもやこの時代の勇者とされたネロスに魔王の魂が宿っていたなどと、とても受け入れがたいことだろう。
「答えの出せない話をしていても仕方ないわ。
今、私たちに出来る事をする他に、前に進む術はない」
そんな彼女を差し置いて、グランバニクはラタとポルコフ大神官に現状を説明した。
「私たちレジスタンスは今、神国の南部ユイフォートの東西を取り戻したわ」
「なんと! 既に東側も取り戻したのですね!」
しかし、グランバニクは顔をしかめ、神国の地図でモルバノの位置を片手でなぞった。
「ユイフォートではかなりの被害を出しました。それでも此処を取り戻したかったのは、神国の中枢である神都を奪還するため。
ユイフォートで散った仲間たちの為にも、次は此処、モルバノを何としても奪還しなければなりません……が」
「モルバノの奪還となると……そうか、ワドと戦わねばならないということか」
「ええ……つい先程にも対峙しましたが、奴はあまりに強い……」
グランバニクは基地の奥で呻き声をあげている仲間たちの方を向いた。
マイティアたちと”運悪く”鉢合わせしたあの後、グランバニクたちは親衛隊の一人に追われることになった。いずれは戦わなければならない相手であったとはいえ、戦う準備が万端ではなく、多くの犠牲者を出してしまった。
「しかし、今度はシェールの英雄がいますぞ」と、ポルコフ大神官はラタの背を押した。
その直後───「!」ラタはポルコフ大神官を突き飛ばし、グランバニクとヌヌは負傷兵の元へと飛び退った―――!
ドゴォオオン!! 地上から地下に向けての大きな爆発。
視界を塞ぐ土煙に映る幾重もの敵影と、重厚な足音。
「ロロベト、こちらワドだ。
”あの女の情報通り”、地下に虫の発生源を発見した。
これより殲滅する」
青い炎を纏う甲冑が、ラタたちを見据えていた。