⑥
聖樹とは、大女神テスラが魔王を倒す為に自らの肉体を犠牲にして作り出したものだ。
邪を払い、魔を浄化する効果は魔王を封印した以降でも重宝され、後の世、聖樹の術式を維持するために、百年に一度のペースで肉体を捧げる―――女神の選定が行われるようになった。
人類にとって非常な名誉である女神の選定は、世界で最も秀でた魔術師に与えられるものとなって、七回目の選定が終わった後のこと。
大女神テスラは王国に向けて、”次代の王の娘が女神の子となる”予言を下した。
それは―――守り人たちにとっても、実に、例外的な事だった。
「カタリの里は、傷病人を受け入れる場所ではない」
生者の命を蝕む白い霧。その奥に佇むは黒く焦げた巨木の果て。
カタリの里とは、女神たちの魂が宿る聖樹がある場所のこと。
そして、死者の世界からの魔や一部の魔物から聖樹を守る死者を、守り人という。
「帰りたまえ」
マイティアは、三度、此処(カタリの里)に送られた。盲目(守り人)に読ませるための文書を持たせて。
要は、マイティアの身柄をカタリの里に譲り渡すといった旨だ。ハサンによる虐待、いや、拷問じみた憂さ晴らしを家臣たちが止められない。女神の子を死なせる訳にはいかない。それでいて、ハサンが”納得”する場所に避難させたい。にっちもさっちもいかなくなった大人げない言い訳を丁寧な言葉で言い換えた文書だ。
「聖樹はまだ御身を呼んではおらぬ。
汝は幼過ぎる……女神となる魔術の域ではないのだ」
「しかし……」
守り人は、旧女神教団の神官兵の中でも秀でた才能を持ち、女神の守護に魂を捧げる事を決めた猛者たちだ。
彼らは半神となる者を定命たる守り人如きが目にしないよう盲目となる。いわば、人を超えた存在である神の姿を目に捉えてしまっては神の格が下がるから、という意味合いだ。そのため、彼らの格好は一様に盲であり、フードに目隠し姿でいる。
また、聖樹を維持する使命と同様に、女神の使命を全うさせる役目も持っている。だからこそ、彼らは幼いマイティアを女神として迎えるのを躊躇っていた。
女神になるということは、名誉であると共に、過酷だからだ。
魂は聖樹に宿る前に浄化を受けて、俗世の記憶を失うことになり、肉体は聖樹に取り込まれて失うことになる。
それは、女神としての”生誕”ではあるが、人としての”死”でもある。
加えて、女神の使命は肉体を捧げた後に始まる。魔王復活によって滅びゆく世界を救いの道へと導く重要な役目を、彼女は果たさなければならない。
この場合、10歳にも満たない、ぼろぼろな少女が、だ。
「なにより、この有様では……」
女神の子マイティアはろくに喋れない様子だった。身体の傷も深く、誰かが言葉を発するたびに震え出している始末だ。
こんな状態の女神の子を引き摺って、肉体を失わせ、記憶も奪い、魂を悠久の定めの虜囚にするなど、よもや蛮族の所業だ。
しかし、先の通りに彼女を帰してしまったら、殺されてしまうかもしれないし……。
「死んでしまいますよ」
「うむぅ……」
「…………。」
ドサッ。
守り人たちが判断を迷っている間に、マイティアは遂に、その場に倒れ込んだ。
空腹と脱水、目を瞑っても眠ることの出来ない睡眠不足……蓄積した疲労や疼痛も助長し、地面に頬を着けて深い呼吸をする。そこへ命を蝕む白い霧の冷気が追い打ちをかけているのだ。
(どこにもいけない……戻れない……。
私……この、まま……お姉 ちゃ ん )
そして、彼女は気を失った。もう一生、目覚めない事も覚悟して。
「……ここ は」
しかし、マイティアは目覚めた。比較的健やかに。キレイな目覚めであった。
それとどことなく湿っぽい……。
周囲を確認すると、彼女は―――なんだかべとべとする青白い液体の中に浮かんでいて「ひっ!?」思わず”飛び跳ねて”しまった。
「え、あ、えっ」
とても体を動かせる状態ではなかった筈なのに、何事もなかったかのように手足が軽い。霜焼けて腫れあがり、傷の残っていた腕や脚は、よく見れば痕が見えるものの、元の肌色に戻っていた。
「い、たたた……」
ただ、折れた肋骨もとい、背中の引き攣りは残っているようだ。それでも、青白い、少し粘稠性のある液体に身体が浸っていると痛みがみるみると引いていく。不思議な感覚だった。
「カタリの、里……?」
頭上に見えるのは、女神経典に描かれる神々しさとはかけ離れた、焦げ茶色に枯れ果てた巨木、そして、教え訊いていた通りの、巨木の太い根をくり抜いた俗物の一切ない質素な居住空間。
マイティアがいるのは、巨大な木の幹から湧き出る樹液の泉になっているところだった。つまるところ、彼女の傷を癒していたのは、この巨大な木の樹液───聖樹の樹液ということだろう。
「お目覚めになられましたか」
手摺と棒を使って器用に階段を降りてきたのは、若い声の守り人だった。
他の者と同様に、フードに目隠し。声と背丈ぐらいしか違いがない。
「本当に死んでしまう手前でしたよ」
「……ご、ごめんなさい」
「理由を、今一度お教えいただけますか?
この里に来なければならなかった理由を」
そう言われると、マイティアの脳裏に「 」鮮烈な光景が浮かび上がった。
バシィン! 石牢に響き渡る鞭の音とハサンの怒号が。
「ご、ごめん な さい……わ、私の つ、つ都合で、迷惑を か、かけて」
マイティアの呂律が回らない。手は震え、顔色が青くなり、呼吸が荒くなっていく。
「わ、わた、しが、た、たすけてって、たすけてって言った、思っ、ちゃったから―――お姉さまがっ! お姉ちゃんが!」
ガッ。
守り人は焦点の定まらないマイティアの両肩を掴み
「まずは深呼吸をしなさい」と、優しくも力強く指示した。
「え え?」
「目を閉じ、考えを無にして……深呼吸しなさい」
「……、……。」
「考えることをやめなさい。瞼の裏を見ようともしてはいけない……悲鳴を上げる自分の鼓動に寄り添いなさい」
守り人の言うとおり、深呼吸をひたすらに繰り返す。
まだ続けるのか? そう考えたことすら見抜かれ「考えることをやめなさい」と、言われても続けて……。
どのくらい時間が経ったのか、分からないまま…………。
「少しは落ち着いてきたか」目を開けると、マイティアの呼吸は正常に戻っていた。
「君の状況は理解できた───今も。考えてはいけない。
目を開けたままで考えることをやめられないのならば、目を瞑りなさい。
君の魂は深く傷ついている。その上、君自身がその傷を抉ってしまっている。まずは、それをやめなさい」
「…………。」
「人の考え方を容易く変えることは出来ない。だから、今だけは考えることをやめなさい。少なくとも今だけでも……そうしなければ、君の傷はいつまでも癒えない」
そう言うと、守り人は腰のバッグから予備の目隠しを取り出し、マイティアに差し出した。聖樹を薄く切って作り出した目隠しのようで、強い魔力が込められている。
「しばらく目隠しを貸してあげよう。嫌なら、すぐに外しても構わない。
ただ、自分の心の中で過去を思い出してしまったり、自分を責めるような言葉が浮かんだりしたら……目を瞑りなさい。
君は賢いが、まだ幼く力のない子だ。君を取り巻く環境を、君の力で変えることはとても叶わないだろう。
それ故……目を瞑りなさい。
自分の弱さを許しなさい。君に、何の罪はないよ」
その言葉を受けると、目隠しをしたマイティアの目から
「うっ……ううっ」
瀕死になるまで泣くなと言われ続けた目から、ぽろぽろと大粒の涙が零れ出した。
姉たちの惨状を目の当たりにしても泣けず、涙が枯れていたと思っていた目から、止め処もなく溢れ出してきた。
だが今は少なくとも、それを咎める者はいない。
だが今、涙を流す彼女を抱き締めてくれる者も、ここにはいない。
マイティアはわんわん泣き出した。声を出して泣き喚いた。
マイティアの涙が少しだけ収まってから
「……私の名はウィリアムス。君の名を聴いてもいいかな?」
「わ、たしは、マイ ティア……フォール、ガス……」
「フォールガス……ああ、そうだったな。王国の……」
ウィリアムスは何かを言いかけたが、それ以上のことを口にはしなかった。
「この場所は特殊な領域だ。君がいた時間とは流れが違う。」
数時間が経ち、マイティアの感情もだいぶ収まって来た頃、ウィリアムスはカタリの里の事を彼女に教えた。
カタリの里は、臨界と呼ばれる生者と死者の世界の狭間にあり、そして、死者の世界に近い側にあること。
時間の流れが歪んでおり、ここでの一年が外の一秒であったり、ここでの数分が外の十年となったりする可能性があること。そして、それはこの空間から出る瞬間に決まること。
「出る場所を間違えたら……私、数十年後の世界に出てしまったりするの?」
「そうだ」
「そう……だけど、あなたたちには、わかるのね……」
「わかるとは?」
「今まで、私を追い返して来た時、ほとんど時間はずれていなかったから……」
10歳にも満たない子の優れた洞察に、ウィリアムスは舌を巻いた。
「……参ったな、すぐにバレるとは」と零すと、僅かにマイティアは笑みを浮かべた。
「此処で、君が取れる食事は一つしかない。
聖樹の樹液のみだ」
「聖樹の樹液……私の体を、癒してくれたもの?」
ウィリアムスは胸で十字を切ってから、マイティアが浸かっている聖樹の樹液を汲み上げ、差し出した。
それを受け取り、マイティアは何とも歯痒そうな顔をした。
「生者である君がこの過酷な空間で生き延びるには、この樹液が必要だ。
さもなければ、肉体が死者の世界の冷気に当てられ、いずれは壊死してしまう。」
「……あなたたちの食事はないの?」
「我々は既に死んでいる身だ。魂と、仮初の肉体だけの存在。魔力だけで動く人形と変わりないのだ」
変化するマイティアの視線を悟ったウィリアムスは
「嘆く事など何もない。我々は望んでこうなったのだ」と告げた。
その言葉に俯いたマイティアは
「望んで……いた、のよ……わたしも」と、掻き消えそうな声で呟いた。
「みんなを、たすけるために命を、捧げるって……死んじゃうんだって、わかってて、覚悟も、あった……王族として、勇者の、一族として……。」と、小さな拳を握る。
「だけど……わたし 魔術の、才能もなくて……早く女神になれって急かされて……、……。
わからなくなっちゃったの……自分の覚悟が……どこかに消えちゃったみたいで……。」
胸の中に抱いていたはずの勇気。
自己犠牲という名の献身。善意。
当然、それに見合う感謝が与えられて然るべきだと、女神を神と崇め、その力に頼る誰しもが思うはずだ……その筈だった。
だが、実父(ハサン王)がマイティア向けたのは焦燥と怒りだった。死を覚悟している娘への謝意も、悲しみもなかった。彼は国のこと……いや、国を守る自分自身のことしか見えていなかったのだ。
「邪な気持ちを抱えたまま女神になっていいの?
それすら記憶を失うから問題ないの?」
決定的だったのは、マイティア自身への拷問よりも、姉たちへの暴力だろう。
しかも、マイティアの知らぬところで幾人かの家臣たちも王の乱心に晒されたともいう。
此処までされて尚、揺るがぬ覚悟を持てと?
骨肉血魂を民に捧げる勇気を持てと?
「このまま記憶を失ったら、きっと……。
ウィリアムス……私は……何も残らないよ……。
守り人はそれでいいの……? 木偶の坊が女神になったって、何ができるのか……できることがあるなら教えてよ……。」
凡人な9歳がかき集めてきた知識しか残らない女神など、一体何の役に立つというのか……? 魔術の才能も乏しい、幼すぎると言ったのは守り人なのに。
マイティアは目隠しを濡らしながら、誰も払拭してはくれないのだろう不安を吐露した。
「…………。」
ウィリアムスは口を開くも、言葉を発さずに呑み込んだ。
少女の手よりも遥かに大きい手でさえ抱えきれない重りに縛られた彼女には、どんな言葉も慰めにはならないからだ。
大女神の予言が、今の彼女には呪いになってしまっている。
それを解く術を……少なくとも、ウィリアムスは知らない。
「……マイティア、君の意志がどうあれ、君の体と心の傷が治るまでは、カタリの里に居る事を皆が同意した。」
「…………。」
ウィリアムスは一度、拳を握り……、口を開いた。
「もし君が望むのならば、君は一度、外に出るべきだ」
「……え?」
「外に出て、今一度、覚悟を取り戻すべきだ」
もう二度と何処へも行けないと思っていたマイティアの顔に困惑が滲む。だが、その魂に、ほんのひと握りの光が宿ったのを、盲目のウィリアムスは見逃さなかった。
「……私、そのまま戻ってこないかもしれないよ」
「君が守りたいと思ったものがこの世界にまだ残っているのなら、君は必ず戻ってくるだろう。
それに、君は大女神に予言された女神の子だ。心配はしていないさ」
「だ、だけど……」
「ああ、そうだな……これは俺の気の変わらないうちの話だ。俺はすぐに自分の言ったことを忘れる。」
そう言われるがいまいが、マイティアの答えは決まっていた。
「先ずは君の怪我と、心の傷を治すこと。
そして、自分一人で戦う力を手に入れること。
具体的な話はその後だ。」