④
「お前は女神になるために生まれてきたのだ」
霜のついた石畳の立体、天井からぶら下がる鎖に吊るされているのはマイティアだ。
「その崇高な意義を、誠心誠意、フォールガスの名に恥じぬよう果たさなければならない」
バシィン! 鞭が小さな背中を打つ度、マイティアは泣き喘いでいる。
背中も胸も腹も蚯蚓腫れだ。赤いところ、紫なところがモザイク状になっている。
バシィン! 彼女は爪先も地につかない小枝のような足を振り、鞭を握るハサンを蹴る。
すぐに小鹿の足は別の男に握られ、革の足枷を嵌め、重い鎖で地面に繋げられてしまう。
「慶んでその命を捧げるのだ……。
これは大変な名誉な事なのだぞ……マイティア。
その魂に、女神に託された使命の重みを刻みなさい」
そんなことはわかっていると、泣きながら何度も頷いている。
もうやめてと、息を荒げながら何度も口にしている。
背中を、腰を、腿の裏を、脹脛を、爪先へと伝う血の滴が、地面に落ちる。
極寒の中で引き延ばされた手足は腫れ上がって変色し、浮き出た肋骨の内側、心肺の波打つ様が皮膚の上から見えている。
「いいや、お前は何もわかっていない。疑ってさえいる。
さもなければ泣かぬ。お前の頬を伝うのは死を恐れる涙だ。苦痛を耐える涙だ。
生きたいから泣くのだろう? 自由を欲して泣くのだろう?
だから、戻って来たのだろう? カタリの里から。
お前は逃げてきたのだろう?」
「ち、ち…が、う……に、にげ、て……な、い」
ピンと張った横腹に硬い鉄鞭がめり込む。鈍い音が二度、三度。
「助けなければならないのだ! お前が! 民を! 俺を!
今も飢え苦しみ、恐怖に震える民を! お前が救い、導かねばならないのだ!
これは苦行である! お前が女神となる為の修行なのだ! お前の為なのだぞ!
これ以上! 王族の名に恥をかかすな!」
細い首を握り締められ悲鳴が消えるも、涙は止まらない。
幾度水桶に頭を沈めても涙が止まらない。
幾日も水を抜かれても涙だけは止まらなかった――――。
血が石畳に飛び散って 零れる涙が赤く滲み 投げ打たれる水で押し流される。
漏斗を喉に押し込まれ 水と、泥状の食物を腹に落とされる。
地面に転がされ 霞む意識に、経典の8条と12条(女神の献身と贖罪)を説かれる。
焼き鏝で背が爛れても 剥がれた爪先に針を刺されても 骨が折れるまでぶたれても
彼女は―――当然の如く―――ずっと泣き続けた。
泣くことしか出来ないのに、それさえするなと言う。
どうしろというのか?
マイティアの苦痛は寒さに溶け、虚しさだけが心に積もっていった。
「マイティア……お前はいい子だ。やれば出来る子である」
吊るされて半月ほど。
何かの限界を超えたのだろう、マイティアの目は虚ろを向き、赤く渇いていた。
「それでいいのだ……」
鼓膜にこびりつく王の言葉の度、虫の息を通すだけの喉が震える。
生きたままケダモノに貪られたかのよう、骨が透けて見える肩を、王は冷たい、震えた手で撫でた。
「お前の命は、この国の、世界の為に捧げる、贄である。
努々(ゆめゆめ)、その役割を、骨肉血魂に銘じておくのだ」
そして、渇いた彼女の前に、一粒の飴をみせた。
虚しく響く腹の音、縦に割れた唇が小さく開く。
爪程の飴が歯を擦りながら口の中へと押し込まれ、舌の上に乗ると
長く失っていた甘の味を鮮烈に思い出させた。
口に含める食事そのものいつぶりだったか。
甘く煮詰められた菓子など何年ぶりであろうか。
己が罪を悔い、償い、果てた罪人に最期、一匙の蜜が与えられ、魂が浄化されるという女神の慈悲の如き、一滴。
ただ、その一粒は、味わおうとするにはあまりに小さく、間もなく舌の上で溶けた。
嚥下するまでもなく、口の中で消えた幻……甘い残滓だけを飲み、腹に巣食う虫がうるさく泣き喚く。
彼女の飢えと渇きは王にも届いていただろうが
「医術師の下へ連れて行け」
王は彼女を石畳に置いて去り、戻らなかった。
最期に飢餓を満たしたいと願うことすら、きっと許されないのだろう。
「体力が回復次第、再度、カタリの里へ連行せよ」
父は彼女を、贄だと言いきったのだから。
神に捧げる供物―――だと。
マイティアは諦めるしかなかった。
何もかも諦めるしか……涙を止めることができなかった。
「ミト!」
シルディアは、行方不明となった妹を一日中探し回った。修道院の中や王城の中を。しかし、マイティアは何処にもいなかった。せっかくの誕生日も祝い合うことも出来なかった。
マイティアがハサン王に会いに行ってから一月後のこと、その日も血眼になって妹を探す姉、その前に現れたのは、一匹の大鷹だった。
「シャル……」
「ホズ?」
その喋る鷹は、マイティアと契約した鷹王、ホズだった。ホズは低く悲しげな声で、主人の姉を医療棟へと呼び出した。
既にそこは何度も探した場所であったが、シルディアはホズを疑うことなく、彼の背を追うように医療棟に向かった。
そして、辿り着いた。
ベッドの上で寝かされる、一月ぶりの妹の匂いを。薬の香りに負けそうな、弱々しい匂いを頼りに、周囲の手を振り払ってシルディアはマイティアを抱き寄せた。
その瞬間に、妹の体の異変を姉は悟った。
痩せ細った彼女の手足は凍傷でパンパンに腫れあがっていて、身体中には薬草を染み込ませた包帯とガーゼが何重にも巻かれ、動かないように固められている。髪はガチガチに絡み、呼吸は弱く、浅い。
「なんで?どうして!? 一体護衛は何をしていたの?!タナトス!?
誰がこんなことしたの?!」
「ハサンだ」
「!? どういうことなのレバスじい!」
150センチ程の上背で、小柄。長い直線的な髭、白い長髪を団子状に結わいた人間の老人。雪を凌ぐ王都農村部の黒い菅笠を被り、仕込み刀の入った杖を突く―――元老院の一人、鷹派の老レバス。
彼はこの一月の間に何があったかをシルディアに話した。
ハサンの、自分の娘への信じられない扱いに、シルディアは拳を震わせた。片割れを痛めつけた怒り、その者が父であることへの悲しみが胸の中で溶け合い、言葉にならない感情が涙になって込み上げて来る。
「ミト……今まで、何処にいたの?」
「氷廊監獄らしい」
シルディアは息を呑んだ。
王都東門第二地区にある、重犯罪者を収容する地下監獄、氷廊監獄。
冬季には石畳が凍り付き、収容された囚人のほとんどが冬を越すことなく獄中死するため、此処に移される事は、死刑よりも苦しい死とされている。
その場所で、ハサンは、娘の”我儘”を躾けるため、鞭を振るったという。
そして、それは続く、と、レバスは淡々と口にする。
「体力が回復次第、再びカタリの里に輸送される。だが、恐らく結果は同じだろう。ここまでされて嘘だと吐かないのだからな」
「当然じゃない!
ミトは嘘なんてつかないわ!」
「ハサンはそう思っておらぬ」
シルディアはマイティアに頬を寄せた。乾いた皮膚、痩せこけて、冷たい妹のほっぺたに触れる。
「……ねえレバス、私、なんだってやるわ、お願い……。これ以上、ミトに苦しいことさせないで」
そう懇願するも、レバスは「わしには成し得ぬ」と首を横に振った。
宰相率いる執政機関とは独立し、王への助言を行う機関、元老院の一人としてセルゲン王に多くの進言をしてきたレバスだったが、鷹派である為に、女神派筆頭のハサン王下では発言力が乏しくなっていた。
加えて、手塩にかけて育て上げた王子ルークが消息不明となってしまい、かつての威勢は鳴りを潜め、今は専ら、四人の娘たちの保護者のような立場になっていた。
「私を何とでも使っていい! だからお願い……何か、何かやれることを、教えて……」
シルディアの悲痛の嘆願に、眉間に深い皺を寄せたレバスは、しばらく考えた後……周囲に誰もいないことを確認し
「ならば、実験に付き合ってもらおうかの」と、その内容の触りを話した。
「記憶の、抽出?」
「魂を通じて脳の記憶を抽出する仮説だ。これが可能ならば尋問の必要がなくなる」
「やだ、暗部の話だった」
レバスは元老院の一人であると同時に、王国暗部の長でもあった。それは今も変わらず、国に仇をなす政敵は、身内であろうとも斬り捨てるのが彼の、彼らの仕事だった。
そんな血なまぐさい仕事柄、あれば便利だと考案された訳だが、その術者と被験者がおらず頓挫していた研究なのだという。
「この魔術が完成できれば、マイティアの潔白が証明できるだろう。
だが、当然、危険が伴う。魔術というものは、未完成である状態が最も恐ろしいからな」
詳しい話は場所を移してからだ、と言われたシルディアは
「……ずっと傍にいるからね……お姉ちゃん、必ずあなたの力になるから」と、耳元で囁き、むぎゅーっとマイティアを強く抱き締めた。