第44話② ナラ・ハの決戦
レンス・タリーパは世界樹の城だ。宝石のような見た目の結晶樹に外壁を覆われたその姿は、類を見ない、世界で最も美しい城であると、エルフたちは自らの耳の如く誇っていた。
そんな美しい城の周辺には、”茨”があった。
世界樹の根、それが地表と地面を波縫いするように半径50キロメートルほどの広範囲を覆い尽くし、その表面には細かな鋸刃のような棘があり、有害な毒を滲み出している。
20年前までは、その棘の周囲に結晶樹が寄生し、棘を覆い隠してくれていたものの、復活したエバンナの瘴気により、結晶樹は灰色の泥濘に変えられてしまった。
残されたのは、有毒な棘のある茨(世界樹の根)の森。
そして今……八竜と人類が直接的に衝突する、歴史的な戦場と化していた。
「エバンナの首を取れェ!!
人類に希望を取り戻すんだッッ!!!」
シェール軍の兵士、魔術師協会の魔術師たちは一斉に
双頭の蛇に、そして、その蛇に、魔力の糸を伸ばしているマグラ(エバンナ)に、攻撃を仕掛けた。
それは大地を、二度と緑に戻らない炭に変えるほど苛烈で、跳ね返る爆煙と熱で手足を焦がす程だった。
「おん、ど、れぇ、ぇええ!!」
かたや、開幕で大きく差を開けようと飛び出したラタの不意を突いたのは、天地も左右も音の聞こえる方もひっくり返る強力な幻惑術だった。
立とうとすれば頭が地面に向かい、右手に力を入れたと思ったら左足が突っ張る―――脳の指令が全く違う方向に飛んで行ってしまう、行動不能状況だった。
「神経攪乱型の幻惑術は動いてはいけません!
傷も軽くないのですよ!」
「この俺がやらなきゃ誰がやるってんだ!!」
マルクスに止められても尚、ラタは頭を何度も地面に打ち付けながら、弱い電撃を自分に向けて放ってみるも
「ちっ く、しょう」
天地の引っ繰り返った視界は戻らず、腕に力を入れようとして背中が反りかえる始末。
マルクスがラタを抑えつけながら回復魔術を施すものの、傷の治りはかなり遅い。いや、エバンナの上位魔術の雨を直撃しておいて原形を留められているだけ、ラタの能力は群を抜いているのかもしれないが。
「うわああああああああ!!!」
悲鳴が空気を劈き、遅れて地響きと爆音が轟く。
相手は、神だ。いくらどろどろに弱っていても。
無限と思しき魔力から放たれる、魔術の嵐。
無詠唱、同時に五つの詠唱、魔法陣の空中展開、領域支配(一定空間の魔の掌握)、瘴気を放ち、あらゆる魔術を遮る樹根の盾さえ携え、その身を振り払えば、人など圧死する体格差。
そんな双頭の蛇から放たれるは爆発、爆発、爆発。立ち直る暇さえ与えない爆風と、連携を阻む黒い煙幕。幻惑術も兼ねた煙の中でシェール軍の軍人たちが孤立し、五里霧中。何も見えない中で永遠に響く仲間の悲鳴と、四方八方から飛び散って来る血。足下が血溜りに沈んだ者が次々に発狂し、自ら無策に双頭の蛇へとその首を差し出しに向かってしまう。
双頭のうち、樹根の竜を燃やそうと試みる業火隊の火炎も、肉塊の竜が放つ神の業火の前に呑み込まれ―――空を滑空する高等魔術師にマグラ(エバンナ)の放った糸が絡まり、双頭の蛇の尾によってハエのように叩き潰される。
異次元だった。ネズミ喰う飛竜の様な、覆ることのない一方的暴力が人類を襲う。鍛えてきた筋肉や戦闘技術など、培ってきた魔法障壁の知識などあったものではない。誰も彼も、エバンナと同じ舞台に立ってすらいないのだ―――絶望が、急速に感染していく。
「───ッ!!」
ラタはみるみる焦燥感に駆られた。断末魔が、自分を呼ぶ声に聞こえる。それなのに、不甲斐ない理由で動けない。勝負を逸った自分のせいで……そんな後悔が憤怒に変わっていく。
そこへ「うわっ!」エバンナの魔術がラタたちの元にも飛び火してきて
―――ジュゥン!
何者かの魔術とで相殺された……獅子の魔族ヨハネだ。
「地天右左の幻惑術だ───黒の黙示録に記されておる上位魔術よ」
ラタに向けられる破壊魔術を防ぎながら、彼に掛けられた幻惑術を理解したヨハネは
「3分だ。安静にせい、神経が捻じれるぞ」
「3分!? そんなに俺は動けないの――うぉろろおろろろおろ」
吐き出すラタの焦燥を理解しつつも「すまぬ、私にはその魔術を解く知恵がないのだ」とヨハネは悔しげに拳を握った。
「トリアス、ジュッペ、イェリネ、シェール軍に恩を売って来い」「了解」
「マルクス、彼を頼むぞ。決定打の一撃を出せるのは彼しかおらぬ。絶対に絶やすな」
「御意」
頭上でエバンナの攻撃を避け続けるワンダの代わりに、ヨハネは素早く指示を出した。ワンダの強みを活かすためだ。
実際、皆が避けるのもままならないエバンナの攻撃を引き付け、躱し続けている者はワンダだけだった。だが、彼女も誰かに気を回している余裕などなく、遠目からでも血汗にまみれ、息を荒げている。
ゴォオッ! そして遂に、ワンダの放った黒色火薬を使った物理学的な業火が樹根の頭を飲み込み燃え上がった。そして、魔砲の追撃が加わり、世界樹の根が大きく焦げ落ちて、空洞ができた。
両軍から歓声が響く。
エバンナはもう嗤わなかった。
「喧しい」
マグラ(エバンナ)は指先から絹糸のような細い糸を無数に放ち、軍人たちの首に絡まると―――耳を塞ぎたくなる音を立てて首が捩じ切れた。
そして、その首無しの死体がとある一点へと手繰り寄せられていき、ベチャベチャ、モルタルを雑に重ねていく肉塊が形成されると───そこに寄せ集めの”口”が出来た。
「カヒャ」
一瞬の詠唱。いや、詠唱とすら気付かない吐息。それだけで
「う
わ
あ
ぁ
ァ…
…」
突如切り裂かれる空間の隙間、開かれた死者の世界への入り口に、付近に構えていた魔術師たちが飲まこまれて、跡形もなく消えた。
「死者の世界への転移魔術だ!
あれに飲まれるな!!」
ヨハネの警告に皆が震え上がる。聞き取れない詠唱、瞬きの間で死者の世界行き。死。転移魔術だって凡人には難しい部類なのに、こんなもの誰が避けられるのか?と。
更に、マグラ(エバンナ)は次々と、両軍の死体を使って肉塊の拠点を作った。その拠点に”口”を形成させると、次々に「カヒャ」「アョヲ」「ィジェカ」聞き取れない詠唱を唱えだした。
「あの口を塞げ!!」
自衛能力も移動も出来ない肉塊の口は、魔術で容易に破壊できた。だが、狙う場所を決めさせるということは、マグラ(エバンナ)にとっては罠の張り甲斐があるというものだ。
「ひっ!」糸で足を絡めてへし折り「ぎゃあああ」そのまま魔術で肉種にして、近くの壊された肉塊から飛び散った一部を回収して新たな”口”を生成する。イタチごっこを続けているうちに両軍の数が減っていく。
「なんとしても勇者の感覚が戻るまでの時間を稼ぐのだ!
行くぞナッガ!」
ヨハネは蛇の魔族ナッガを連れて、マグラ(エバンナ)に向かって飛び出した。それをフォローするようにイェリネが茨の蔦でマグラ(エバンナ)へ先制攻撃を仕掛ける。
しかし、双頭の蛇は操縦者を庇うようにとぐろを巻き、四方八方、縦横無尽に死者の世界への入り口が開かれる。
「ぐっ!」
その吸い寄せに手足を飲み込まれても、一瞬の判断で自分の手足を千切ったイェリネは「我が手に豊穣を分け与えよ朽葉!」千切れた先端を地面に突き刺し、地面の中で無数に増殖した茨の触手でマグラ(エバンナ)の八本の足を絡めとる。
(八竜の冥利が使える者も残っていたか)
【八竜の冥利:賢者とまではいかないまでも、八竜を崇める祠の参拝等を行い、八竜に”名”を知られた信者が使えるギフトで、信仰する八竜に対して、貢物をすることで一定の効果、対価を得るもの。基本的に貢物は己の骨肉血魂を使用する。】
僅かよろめくマグラ(エバンナ)にヨハネたちは飛び掛かり、最も魔術の威力が通るゼロ距離を試みたが
「アョヲ」「!?」
ヨハネがマグラ(エバンナ)の右腕を抑え、ナッガがその首を刎ねようとしたその瞬間───ラタを行動不能にした幻惑術が二人に放たれる。
「「───っ」」
その場で膝から崩れ落ち、動けないナッガを肉塊の竜が喰らい、その身を噛み砕いた。
「く、そ―――くそぉおおっ!!」
ヨハネも、トンプソンに切られた傷口が開き、双頭の蛇によってイェリネも触手を引き千切られて遠くへ飛ばされ、ワンダは左腕を失くした。シェール軍の魔砲は全滅し、軍人たちの四割が死んだ。魔族の仲間も続々と死亡し、残された希望は―――。
「マルクス!!」
折り畳むように収縮した、手足の取れた焼死体、最早、触れれば粉々に砕けそうだった。
彼はラタを庇って、魔術の盾になって果てた。
「マルクス……お前さんの、献身を―――俺は生涯ッ 忘れやしない!!!」
ラタは、立ち上がった。
まだ1分程度しか経っていない。彼の感覚は元に戻ってはいない。
だが、あと2分も持つわけがない。今、ここでやるしかない!
吐き気と憤怒を抑え込みながら早口に
「我は黄金の竜が導きし隷属我が道を阻むものには天誅が下るぞ」と、ラタは一息に捲し立てる。
八竜魔術を発動させるための二段階詠唱───エバンナは、それがカウンターで発動するものだと当然分かっていながら、魔術を放った。
「脳天ぶちまけやがれえええええ!!!!」
ラタは返しの言葉を省略して、神鳴りの招雷を放った。
ズガガガガガガガガガガガッッ!!!
それは、エバンナの放った魔術の嵐を食い破りながら―――しかし―――樹根と肉塊がとぐろを巻き、マグラを覆い隠した砦を前に……シュゥゥゥゥ……と、掻き消えてしまった。
決定打にならなかった。
かつて魔王を倒した勇者が誇る───最も瞬間火力が出る技なのに、だ。
エバンナはわかっていたのだ。
感覚を取り戻しきれていないラタに
返しの言葉を省略せざるを得ないようなタイミングで魔術を放てば
発動した中途半端な八竜魔術の
焦らせるために放った魔術で減衰された威力が
樹根の竜の盾で十分掻き消せる程度になることを───。
「くっ、そ……!
これでも倒しきれねぇってのか!?」
八竜魔術の消耗は当然激しい。息を荒げ、一秒でも早く魔力を回復させようと試みるも、そんな猶予をエバンナは与えない。
「勇者よ、その魂を私に差し出すがいいッ!!」
「───っ」
下手に逃げる事も出来ず、ラタはその場で立ち尽くし、暗黒の炎が肌を焦がしていく感覚を味わうしか――――。 。 。
ピ ィ ― ィ
それは突然、啼った。
乾いた空気に響く、猛禽類の鳴き声のようだった。
仰ぎ見る視界の上の方、ふと、小さく細く、白い何かが映る。
矢だ。 一本の矢。 研ぎ澄まされた鏃。 尾羽のない、純白の一矢。
それはまるで走馬灯の流れ星の如く―――どの場所で、誰の目にも煌々(こうこう)と進み……その間、誰も”呼吸もせずに”その様子を立ち竦んで見守っている。
時空を歪ませるほど速すぎる一撃は
風を縫い込むように回転しつつ、吹き荒び―――
醜い肉塊を射貫いた。
ド ヒ ュ ン !
純白の矢が肉塊に触れた途端、肉塊の竜は洗剤を垂らされた油の如く分解され
連れてきた暴風で肉塊の竜が原型を留めない程に飛び散った!
「な―――」
「う そ」「なに」「だれ?」
双頭だった蛇の頭一つが突然吹っ飛び、樹根の竜は狼狽え、飛び散る白い霧状の魔にマグラ(エバンナ)も慌てて身を引く、困惑の空気。
それをひゅるると切り裂いて、バチッ! 地面に刺さった矢に描かれた転移魔術の魔法陣が発動する。
現れたのは、二人だ。
一人は、中性的な顔立ちのスノーエルフの男。
そして―――。
「───癖毛、金髪……痩せて、北方顔」
ジュニアの脳裏に、ランディアの言葉がビビビッと過る。
若い人間の女。
か細い手に握られていた、召喚武具らしき白銀の弓が光の泡となって消えた。
「黒紫の竜エバンナ神、お初に拝謁いたします。
このマイティア・レコン・フォールガス……一矢報いに参りました」
そう言い切る彼女の藍色の目には―――覚悟が示されていた。