悪役令嬢とかよくわからないけれど婚約者が大好きです
「はっ」
いつも通りの平凡な朝。少女はちょっと間抜けな声を上げながら、豪華な寝台から飛び起きた。
「思い出した!」
昨日の夕飯、ではない。少女が思い出したのは”前世の記憶”だ。
あまりにも広い広い宇宙。その中にある、ミルキーウェイとも呼ばれる天の川銀河。さらにその中のオリオン腕に位置する、太陽系。すいきんちかもくどってんかい……その”ち”にあたる地球という星。地球に浮かぶ、小さな小さな”日本”という島国に少女は住んでいた。
その国には魔法が存在しなかったが、今少女が住んでいる国よりもずっと科学技術が発展していた。戦争は無く平和な治世が続いていて、人々もゆとりのある生活を送っていた。そして科学技術の結晶である”ゲーム”という娯楽があったりもした。平和ボケした日本人が刺激を求めて冒険に出るゲーム、社会に揉まれて溜まったストレスを発散する癒しゲーム、現実には到底いない様な『イケてるメンず』と恋愛できるゲームなどジャンルは様々だ。
「そうそう、私はニホンに住んでいて……?」
あまり出来が良くない少女の頭は、記憶がだいぶあやふやだった。日本語の発音すら忘れかけている。
「こう言う時って確か”あくやくれいじょう”だったとか”もぶ”だったとか思い出すのではなかったかしら」
少女は腕を組んでうんうん唸った。そもそもあくやくれいじょうやもぶだったと思い出したところでどうなるのかもいまいち覚えていない。横に主人の奇行に戸惑っている侍女が立っていることにも気がついていない。
「私げーむとかはしない方だったのよねえー。まあ、いいわ!」
潔く諦めて二度寝しようと布団に潜った少女は、侍女と布団の奪い合いに挑んであっさり負けた。
「もう少しだけでいいの……寝かせてちょうだい」
「リアーヌ様! ダメです! これ以上は本当にまずいです、遅刻です!」
リアーヌは最後の切り札として大きな紫眼をうるうるさせるも、侍女の悲鳴にかき消される。それでもなかなか寝台から降りようとしないリアーヌ。その時寝室の入り口にあたる扉の元に、タイミングを図ったかの様に侍女の救世主が現れた。
「リアーヌ、まだ寝てるの? あんまり遅くなると僕も先に登校しなきゃいけなくなるけど……」
その声を聞いたリアーヌは目を輝かせて寝台から降りると、ネグリジェ姿のまま走りだす。そして、侍女の静止は聞かずにその腕に飛び込んだ。
「おはようございますレオン! 私、前世の記憶を思い出したのよ!」
「へえ、それは凄いね。馬車の中で詳しく聞きたいから制服に着替えて来てくれる?」
リアーヌは「わかったわ!」と満面の笑みで素直に頷いた。布団を手に持つ侍女と、レオンを寝室まで案内した侍女も顔を見合わせて、頷く。その瞳は「ナイス! 殿下を呼び込んでくれてありがとう」「そっちこそ、布団を剥がしておいてくれてサンキューな」と言っている様で、信頼が見えた。
*
プリンセスラインのブレザーに膝上のプリーツスカートという未来的な魔法学園の制服を着こなしたリアーヌは、この国の王太子であるレオンに手を取られて王家の紋章が印された馬車から降りて来た。
「ニホンでは馬車のかわりに”くるま”とかいうのに乗って移動するのよ。馬はいないのに、馬が七十匹いるくらいだったり、何百匹もいるくらい早く走るくるまもあるの!」
「それ、馬車でやったら馬が互いにぶつかり合って大変なことになるね」
若干適当感がいなめない説明をするリアーヌもだが、ニコニコ笑顔のレオンの返答も大概だ。
その二人の光景は既に学園の日常風景。特に咎める人も注目する人もいない。そして、その前に一人の少女が仁王立ちで現れるのもいつもの展開だ。
「王太子殿下、おはようございます。リアーヌを借りますね」
「おはよう!キャロライン」
小柄な体を少しでも立派に見せようとない胸を張る少女は、レオンを睨む様に見ていた視線をすぐ横にいるリアーヌへとずらす。
「おはよう、リアーヌ。今日もとってもかわいくってとっても大きいお胸だね。大親友のあたしに少しだけ触らせてくれるよね?」
ワキワキと動く手の前にあまりにも無防備なリアーヌをレオンが慣れ切った動作で後ろに隠した。
「おはよう、キャロライン嬢。リアーヌをくれぐれもよろしくね」
「ええ勿論です。この魂にかけてリアーヌのHカップは守ります」
竜巻の様なスピードでツインテールを揺らしながら去っていくキャロラインと引きずられる様なリアーヌを、どうにも不安が拭えないまま見送った。途端にニコニコ笑顔が消え失せて、アイスブルーの瞳も相まって冷たさすら感じる真顔になる。
そのまま歩みを進めたレオンが物陰に入った途端、どこからともなく黒装束が現れた。そしてタイトルのない分厚い一冊を懐から取り出す。それを受け取ったレオンはブックマークの挟んであるページを開いて、びっしり書かれた文字に素早く目を通した。
「……ありがとう、引き続きよろしく」
再び黒装束に返されたその本には、よく見れば『リアーヌ報告書』と書かれていた。レオンとリアーヌの二人が婚約したその日から続けられる毎朝と毎晩の報告。その報告書は彼の執務室に転がっている下手な報告書よりもずっと詳しく、事細かにリアーヌの行動の一つ一つが書き記されているのだ。
ストーカーここに極まれり。
*
「リアーヌ、いつになったらお胸を触らせてくれるのかな?」
「別に私はいいのよ。でもレオンがダメって言うから、ごめんね」
「クソっ、あの変態ストーカー王子……え、じゃあ王太子殿下には触らせてるの?」
「そ、そんなことするわけないじゃない。恥ずかしいもの……」
白い肌を真っ赤に染めて可愛らしく俯くリアーヌを前に、キャロラインは年頃の女子にあるまじき顔で鼻血を垂らした。周りで二人の応酬を盗み聞きしては一喜一憂していた男子生徒たち、時々女子生徒も鼻血を垂らした。
「だ、だめだよリアーヌ。そんな顔公衆の面前でしちゃ……」
制服の袖で躊躇なく鼻血を拭うキャロラインを見ながら、リアーヌは首を傾げた。
「この水色のロングツインテールといい、桃色の瞳といい、”ひろいん”にするならキャロラインよね。ええ、見た目だけなら」
「よくわからないけど、すごく馬鹿にされてることだけはわかる」
複雑な顔をして、それでも少し幸せそうなキャロラインをよそにリアーヌは腕を組んで考える。
「ひろいんがキャロラインで、”こうりゃくたいしょう”はまずレオンと、それからアナトルにエリクあたりかしら。それで、レオンの婚約者の私はあくやくれいじょうね」
意外と詳しいリアーヌ。げーむはしないタイプだったが、”らのべ”は嗜んでいた模様。それでも顔はどこかウキウキした様子で、真剣味が全く見られない。まるで観劇前に席についてオペラグラスを握りしめている時の様だ。
「がんばってね、キャロライン。でもレオンはだめよ」
「うん、リアーヌのお胸を触るためならなんだって頑張るね」
全く噛み合わない会話がひと段落ついたところで、丁度鐘が鳴って講義室に教授が入って来た。本日一限目の二人の時間割は必修科目の”魔法学II”である。先ほど別れたレオンは二人より一つ年上、”応用魔法学”を取っているはずだ。
「四元素を元とする四属性は組み合わせによって全く異なる性質を持ち、使い方も大きく異なる。組み合わさったことによってできる属性のことを複合属性と呼ぶが、複合属性を使いこなすことはとても難しく——」
長々と語られる言葉と黒板に書き連ねられた文字列を理解することを早々に諦めた二人は、こそこそと小さな声で雑談に興じていた。
「複合属性って難しいんだって。でもレオンは氷属性が一番得意よ? 確か……」
「火と水ね。まあ、あの氷みたいな目だしね、適合属性は目を見るのが一番わかりやすいって言うし」
「じゃあ、紫の私はなにかしら」
「うーん。リアーヌはそもそも魔法が苦手じゃない」
「ええっ、魔法が苦手だと適合属性もないのかなあ」
「そんなことはないと思うけど…………ゲッ」
リアーヌは「カエルみたいな声ね!」と言おうとして顔を上げたところ、流石の彼女も顔を歪めた。あまりに雑談に熱中して周りが見えていなかった二人の前に立っていたのは、お察しの通り先ほどまで教壇に立っていた魔法学のルドワイヤン教授だったからである。冷静になってみれば、周囲の生徒も皆二人に注目している。
「……」
顔を青くして、体を震わせる二人。教授という割には二十代前半ほど、かなり若そうに見えるルドワイヤン教授だが、有志の生徒達によって作成された学園内の怖い先生ランキングでは常にトップを競う程だ。
睨む様な目つきの前に震える二人は、まさに蛇に睨まれたカエル。そのまま数秒経ったところで、ルドワイヤン教授は音もなく振り返って教壇へ戻っていく。その途中二人にしか聞こえないほどの声で「リアーヌ・クライン、キャロライン・ハラディル、放課後研究室で」と言ったのを聞き逃すことは、残念ながらできなかった。
*
廊下で二人手を取り合いながら震える様を、誰もが「お気の毒に……」という視線で眺めて行く。必修科目でやらかしてしまった二人の所行は二学年の全員が知るところとなり、他学年である一年や三年にまでも広まっていた。
「さっきの二人、最高に面白かったよ」
突然脈略もなく後ろから降って来た声。それは当然今しがた講義が終わったばかりの二学年の生徒のもので、その中で二人に気安く話しかけられる人物は限られてくる。
「アナトル……私たち真剣なの。真剣に震えているの」
それでも笑いを堪える様な表情をしながら壁にもたれかかっているアナトル。
彼の制服は皆のものと同じはずなのに、着崩され、小物を足され、縫い直され、もはや原型を留めていない。多少の改造は皆していることで、特に女子生徒はスカートの裾を伸ばす者が多いが、ここまでしている生徒はアナトル以外にいない。派手な赤い髪の内側は黒く染められていて、僅かに覗く耳にもピアスがある。はっきり言って”ちゃらい”彼はこれでも由緒ある公爵家の嫡男だ。
「わかってるよ。あのルドワイヤン教授だもんね。で、なんて言われたの?」
「放課後、リアーヌと研究室に行きます」
今度は声を上げて笑った。そのあまりにもな行為に、リアーヌとキャロラインの二人はむくれる。
「そりゃあ災難だ。あの時は俺も隣のやつと話してたけど、目を付けられたのがリアーヌちゃん達でよかった」
そういいながら、アナトルは目を横に向けた。それに気が付きながらも素通りしようとした”隣のやつ”のブレザーの首元を掴んで止める。襟が首に引っ掛かった様で咽せていたのでリアーヌが慌てて止めようとするが、咽せていた本人がその腕をはたき落として、まだ咳をしながら乱れた襟を直した。
「アナトル! ……リアーヌ様、キャロライン嬢、おはようございます。アナトルがご迷惑かけたようで、すみません」
ネクタイを整えてからこちらに綺麗な礼をした。強引に会話に巻き込まれたエリクは、アナトルの友人とは思えない程品行方正で、おまけに眉目秀麗だ。
リアーヌは「大丈夫」と意味を込めて首をぶんぶんする最中で、先程の授業で凝り固まっていた首がいい具合に癒されるのを感じてやめ時がわからなくなった。最後はキャロラインが白刃取りの要領で止めてくれた。
「こほん……エリク、おはよう。今のは決して私の首がおかしくなったわけではないのよ。ただちょっと、誘惑に負けてしまっただけなの」
「そのくらいわかってますけど……誰の誘惑です?」
「えっと、キャロラインかしら」
とばっちりを受けたキャロラインは、先ほどのリアーヌに負けず劣らずの勢いでツインテールを振り回して否定した。そして、また誘惑にはまって今度はリアーヌが止めようとしたがうまくいかず、顔面に手が刺さったキャロラインは蹲って悶えていた。
「……兄上に報告しておきますね」
「ひ、ひどいっ! あたしは何もしてない、ただの被害者なのに!」
エリクに兄上と呼ばれ、キャロラインに恐れられるその人物は、何を隠そうあのレオンである。
二人は異母兄弟の関係にあり、年子のエリクは第二王子である。甘い顔立ちのレオンに比べて、切れ長の目を持つエリクの顔貌はあまり似ない。が、父王譲りの黒髪はそっくりだ。
そして、リアーヌがこうりゃくたいしょう候補に挙げたことからも分かる通り、レオン、アナトル、エリクの三人はとてもイケてる面を持つのだ。そのため今四人の元にはとても視線が集まっていて、リアーヌはもぞもぞしている。
「ん、リアーヌちゃんどうした? 俺の顔に何かついてる?」
「目と、鼻と口がついてるわ。あと眉毛」
そんなこんなでくだらない会話をしながら廊下を歩き、途中でキャロラインと別れた。残った三人は、皆同じ教室を目指して歩く。
「リアーヌちゃんが”帝王学”を取っているなんて意外だね」
勉強苦手そうなのに、とは言わない。言ったアナトルは勿論、エリクもそれに同意して意外そうにしていた。
「去年までは取っていなかったんだけど……やっぱり、王宮で受ける王妃教育だけじゃ足りないと思って。レオンは本当に凄いから、追いつけるとは思わないけれど役に立てるくらいにはなりたいの」
可愛らしい笑顔で気恥ずかしそうに微笑んだリアーヌをみて、二人は複雑な気持ちになりながらリアーヌの頭上で顔を見合わせた。というより、睨み合った。
「ねえ、あの変態ストーカー王子はやめて俺にしない? 王家に嫁ぐよりはずっと気楽だよ」
「へんた……それ、キャロラインも言っていたけど、何か合言葉みたいなものなの?」
変態ストーカー王子のあの異常な行動は、もはやリアーヌ以外の全ての人間が周知している。ダメ元でさらっと求婚したアストルは、やはりさらっと流されて密かに肩を落としていた。
「……リアーヌ様は知らなくとも大丈夫ですよ。むしろ、理解しないでください」
首を傾げるリアーヌは、前世の記憶の中に大したものはない。自分の年齢、趣味嗜好、家族構成すらもいまいち覚えていない。そんな彼女はストーカーという言葉の意味も覚えていなかった。
皆が大好きなリアーヌの心の平穏は無事です、今のところは。
*
一人でとぼとぼと廊下を歩くリアーヌの顔には、もろ「裏切られたー!」と書いてある。それは、遡ること数分前。
「ごっめーん! 急に家に呼び出されちゃって、放課後数分の猶予も無くて……だからもう行かなくちゃならないの。本当にごめん、じゃあまた明日ーっ!」
その場にいたレオン、アナトル、エリクの三人は、走って行くキャロラインの後ろ姿を問答無用で見送りながら真っ白な顔に口だけで笑うリアーヌを、心底気の毒そうに見ていた。彼女の言葉の真偽は追求しないでおこう。友情にヒビを入れたくはない。
ということで、必然的にリアーヌはルドワイヤン教授の研究室までの道のりを一人で歩いていたのだ。
現実は無情にも、思ったよりすぐ研究室にたどり着いた。こういうところで無駄に男前を発揮するリアーヌは、後回しにしても何もいいことはないと思い切って扉をノックする。
「入れ」
恐ろしさのあまり体中に悪寒が走るのを感じながら、すうっと大きく深呼吸をしてからドアノブに手をかけた。
「失礼しまーす……」
扉を開いた先は、まるで書庫の様に背の高い本棚に圧迫された空間だった。呆気に取られて見上げてみれば、その全てが魔法に関する本。ルドワイヤン教授が座っているだろう机が見えるが、そこにも山盛りに積まれた本と紙の束のせいで肝心の本人の姿は隠れてしまっている。リアーヌは猫の様に床に散乱している本と書類の間に足を置いて、なんとか進む。
しかし、リアーヌがいつまで待っても何も話しかけられることはない。ペンの走る音が聞こえるから、きっとそこにはいるのだろうが。もしかして、この空間で寿命をすり減らしながら立っていることが罰なのか……と思い始めた頃、開いていた窓から強い風が吹き込んで、机の上の本がどさどさと倒れた。
思わず目を瞑ったリアーヌが、風が止んでから恐る恐る目を開くと、そこにはルドワイヤン教授が居た。居たことには、居たのだ。きちんとペンも動いている。しかし、当の本人は目を瞑って、椅子に座ったまま器用に眠っていた。
「あ、あれ〜? このペン、魔法具だわ……」
術者であるルドワイヤン教授が眠ってしまったことによってみみずの様な線を書く道具になってしまったペンを置いてから、恐る恐る体を揺する。
「ルドワイヤン教授、朝ですよ〜。教授、寝坊ですよ〜」
リアーヌと違って寝起きのいいルドワイヤン教授は、直ぐに目を覚ました。意識が覚醒していないのかぼんやりしているルドワイヤン教授の顔を、リアーヌが覗き込む。
「教授、おはようございます」
「……ああ、リアーヌ・クラインか」
眉間にグッとしわを寄せてから、そこを揉み解す。机の上の惨状を眺めて何が起きたのか理解した様で、大きくため息をついた。
「キャロライン・ハラディルはどうした」
「彼女はずる……じゃなくて、家の用事で帰りました」
それを聞いても特に咎める様子もない。風によって散らばった本や書類を整理すると、また魔法具のペンと自分の手に持ったペンで何かを書き始めた。
「あの、私はどうすれば良いですか?」
ルドワイヤン教授は一瞬だけ顔を上げて不安そうにするリアーヌの方を見てから、また書類に向き直ってペンを動かす。
「クラインは授業中、適合属性について話していたな」
「は、はい」
やっとお説教が始まりそうな空気に、リアーヌも背筋を伸ばす。
「適合属性が目の色と合うというのは迷信だ」
「ええっ、そうなんですか?」
「レオンハルト・モンドンウィルのは偶然だろう。現に私も目の色は灰色だが、適合属性は地だ」
自分の目を見せる様にこちらを向いたルドワイヤン教授と目が合う。確かに、綺麗なグレーの目だ。
そこで、リアーヌはハッとして口に手を当てた。
(ルドワイヤン教授もこうりゃくたいしょうの一人かも!)
「これは私の考えだが、適合属性は目の色よりも……どうした?」
「イエ、なんでもないです」
リアーヌは自分の天才的な考えに酔いしれるあまり、ルドワイヤン教授の話がもはや説教ではない、というツッコミを入れる仕事をすっかり放棄した。
天才的とは少し、いやかなり大袈裟だが、リアーヌの発想はそう大きく外れていない様に見える。いつもは恐ろしい目つきに目が行くばかりで顔の印象が定まってしまうが、少しの会話でその恐ろしさがだいぶ払拭されたリアーヌが改めてよく見てみれば、確かにイケている面なのだ。
「リアーヌ」
手で口元を隠しながらニヤニヤしていたリアーヌは、目の前にそのイケてる面が近づいて来ていることに気がつくのが遅れた。
「る、ルドワイヤン教授?」
「……その呼び方は他人行儀だな。ユーインでいい」
他人行儀も何も、あなたとマトモに会話をしたのは今日が初めてです。
「ユーイン、教授?」
ユーイン教授は満足そうに笑った。その顔を見て、リアーヌは軽く衝撃を受ける。だって、ユーイン教授は鉄仮面と言われるほど表情の動きが乏しい方で、一年以上講義を受けているリアーヌだってあの顰めっ面しか見たことなかったのだから。笑顔は疎か、怒っている顔も悲しんでいる顔も想像できない。
「適合属性は自覚することは難しいのだが、ある程度魔法の心得がある者であれば他人の適合属性を測ることはそう難しくはない」
驚いて呆けていたリアーヌだが、はっと我に返ってこの状況はまずいのでは、と思い直す。リアーヌは部屋の真ん中の、ユーイン教授の机の前に立っていたはずなのに、いつの間にか本棚まで追い詰められている。目の前には様子のおかしいユーイン教授が居て、しかも積み上げられた本のおかげで窓からも死角の場所。
「あの〜私そろそろお家に……」
「そうだな……リアーヌの適合属性は」
ユーイン教授がリアーヌの髪を一房取って、口付ける。
リアーヌは心の中で(えふぇうえあうえぇ〜!?」くらい変な悲鳴をあげていた。リアーヌは頭の中身は少々残念だが、王太子の婚約者に選ばれるほど高位な貴族の令嬢なのだ。異性とここまで近づいたことなど、婚約者であるレオン以外と経験はない。ダンスだってずっと身内と踊っていた。
「ユーイン教授……?」
リアーヌが恐る恐る視線だけで見上げると、少し驚いた様なグレーの瞳と目があった。すぐにすっと細められたその目に射抜かれたと思ったら——
「ルドワイヤン教授? 何されているんですか?」
突然第三者の声が入ってきた。リアーヌは慌ててその声の主に飛びつく。やっぱり”彼”は”救世主”だったのだ!
「レオン、あの、その、これは、何でもないのよ。少し不都合があっただけ」
そう言った後のレオンの視線は何故かユーイン教授のものより恐ろしく見えて、思わずバッと視線を逸らす。
「あ、ユーイン教授、今日はこれでお暇させていただいてもよろしいですか?」
なにを考えているのかわからないいつもの表情に戻ったユーイン教授は、先ほどの様なおかしな様子はない。またいつもの顰めっ面で机に向かいながら「ああ」とだけ言った。
*
研究室を出たすぐ後に、リアーヌはがっしりと肩を掴まれて凄い勢いで頭を揺すられた。
「研究室で何があったの? 大丈夫だった? 変なことされてない? もう、リアーヌは未婚の女性で尚且つこんなに可愛くって綺麗で魅力的なんだから、僕以外にはもっと警戒心を持って……」
「私、平気だから、レオン……」
「嘘だよ、こんなに顔色が悪いじゃないか」
それはあなたに揺すられて、吐き気を催しているからなのですが……。リアーヌはこの物語のヒロインとして、そして知らぬ世界のあくやくれいじょうとして、これだけは決してやってはいけないという使命感に駆られてレオンの手から逃げだした。
危うく、なんとかインとかいう不名誉な称号が付くところだった。安堵したリアーヌがいまだに歪んで見える世界の中で頭を押さえていたところ、視界いっぱいに魔法学園の男子生徒の制服で覆われる。
「ともかく、無事でよかった……」
背中に回る腕と、心地よい温かさと、いい匂いに包まれて抱きしめられているのだと理解した。すこし戸惑ったリアーヌだったが、ふと見えたレオンの表情に根負けして自分も腕を回す。
「レオン、大好き〜」
ふふふ、と笑いながら言うリアーヌは控えめに言って可愛かった。そう思ったのはレオンも同じこと。
「リアーヌ……っかわいい、ね」
「そうかな? ふふ、ありがとう」
この二人はすっかり忘れている様だが、ここは魔法学園の廊下である。他の場所と比べてしまえば人通りが少ないところではあるが、この時間帯まだまだ通る人はいる。偶然にも二人を直視してしまった哀れな通行人たちは、いそいそと存在感を消して通り過ぎてから、砂を大量に吐き残していった。