遠い思い出
遠い思い出
例えて言うなら、星の王子さまに出て来るボアの絵の中身が見えても見えなくてもどうでもいい。そういう上滑りな童心を失った連中に認められず馴染めない為に職を転々とする俺は、四十五歳で無職になって到頭、再就職に行き詰まった。それで仕方なく地元のハローワーク(以下T所とする)へ行くことにして初めて職業相談をした職安職員に、「四十五歳というともう幹部の人間になっていなければいけない歳ですがねえ。」と言われ、それが幹部どころか首ですかと暗に言っているのがありありと窺えたので非常に辱められ、首になった人間にそんな事を言ったら恥ずかしい思いをさせ、職業相談へ行き辛くさせ、益々絶望的にさせる事になるのに何で再就職を斡旋する人間がそんな物言いをするんだ!と甚だ不服に思った。
剰え俺は一回目の失業認定日にT所へ行った際、駐車待ちの車が駐車場に溢れ返っているので駐車場が空くまで順番待ちをしていると、女の職安職員がT所社屋二階のバルコニーから其の求職者の車でごった返す様をせせら笑いながら見下ろしているのを目の当たりにしてしまったので人間が改めて嫌になり、こんな連中に職業相談をしたら亦、辱められるに違いないと益々就活に消極的な心持ちになるのだった。
それでも俺は渋々就活を続け、T所へ職業相談に何度も行って何度か最初に自分の相手をした職安職員が相談役になったが、最初、相手にした時の様な嫌味な事は一切言わず慇懃に応対する様になった。
けれども俺はこの職安職員を見るにつけ最初に思い切り求職者に赤っ恥を掻かせる言葉を一発お見舞い申して求職者の弱味をしっかり握っておいてから自分は内心ほくそ笑みながら気持ち良く仕事を進行しているという気色がありありと窺えたので慇懃無礼に思えてならず、T所へ職業相談に行って、この偽善とはっきり顔に書いてある職安職員が相手の時は他の職安職員の誰よりも嫌悪感を覚え忌々しくて仕方がなく就活する意欲がこの偽善者と会う度に萎えて行くのだった。
けれども俺は三回目の失業認定日にT所の待合所で椅子に腰掛けて呼び出しを待っていると、三尺の童子が自分の所に寄って来て実に天真爛漫に微笑み掛けてくれたので、「何で大勢座っている中で特に俺を選んで俺の所に寄って来て俺に微笑み掛けてくれたんだろう。もしかするとこの子は俺の童心を、大人には見えない俺の内面を心で見抜いたのかもしれない。」と思って嬉しくなり童子と微笑み合っている間、心が和んで人間に希望を見出せた。が、それも束の間の事で童子の母親が寄って来て童子の手をさっと取り俺から遠ざけてしまったので、「さっきの童子もやがては俗物になるだろう。」と思った途端に失望し、就活する意欲が更に萎えて行くのだった。
徒でさえ俺は就活に出掛ける時に近所の人間に会うと、冷笑され、それを見るとどうにも腹の虫が治まらなくなって思わず突っ掛って行って警察沙汰でも起こし兼ねない危険性が有るのにT所へ行ってからもこんな思いをするのだから就活する意欲が萎えるのも無理からぬ事であった。
幾ら自尊心も羞恥心も感受性も乏しい俗物であっても首になって就活しなければならない憂き身になって笑われたら、そりゃあ腹も立つし不快な気分にもなるが、「笑われてもしょうがない。自分だって逆の立場になったら笑うし人間なんてそんなもの。」と普段からほとんど諦めているので悲憤慷慨するまでには至らないが、俺は、「本当に出来た人間なら憂き身になった人の弱味を見ない様にするし、仮令、見ても決して笑わない。それに引き替え、憂き身になった人の弱味を敢えて見て而も笑うなんてそれこそ下種の極みだ!卑劣だ!不正だ!不道徳だ!」と悲憤慷慨するから就活に支障を来し兼ねず、尚更、消極的になる訳である。
この様に俺は俗物の卑劣な精神から生み出される些細な不正不条理も見逃さず感じ取り憎悪するので就活する事が非常に困難を極めていた。それで、「不正不条理を見抜く事も感じ取る事も出来ず知らぬが仏で陽気でいる愚鈍な人間の方が却って就活するにも仕事をするにも積極的になれて旨く行くものだ。」と重ねて不正不条理な物を感じて動もすると就活する事に怯み勝ちになるのであるが、「自分は生きて行く価値の有る人間だ。」と信じているから必死に自分を奮い立たせ就活を続け何度か面接を受けてみた。それは普通の求職者の何十倍も屈辱を伴う努力に違いなかったが、中々採用には至らなかった。
そんな中、今日も今日とて求職相談をする為、ハローワークを訪れ待合所の椅子に座って呼び出しを待っていると、如何にも風采の上がらない三十代位の男性が九十九髪の六十代位の女性を同伴して俺の方にやって来た。
俺はこの二人を一瞥して、これはきっと親子だと察知した。すると二人は俺の横の空いている椅子に腰を下ろし、会話を始めた。話の内容から矢張り男性が女性の息子で求職相談をする為に訪れ、女性が男性の母親で息子の付き添いの為に訪れた事が分かった。そこで俺はこの男性をとんでもなく情けない人間と鑑定した。にも拘らず、こうなったのは彼の運命なのだろう、彼は内心、彼なりに恥ずかしい思いをしているのだろうと思いやり、彼を見ようとする事は弱味を見ようとする事と同然だとして敢えて彼を見ない様にしたのである。
これ程、殊勝なこの俺が報われない方が可笑しい。神が報いてくれたのか?それとも新たな試練の始まりか?この日の求職相談の末、或る派遣会社(以下N社とする)で面接を受ける事になり、その結果、登録して貰うに至った。
それから一週間後に俺はN社からの紹介で一件、職場見学をさせて貰ったが、職場の工員達を見ただけで尻込みしてしまい、やっていけそうもないと判断して断った。その亦、一週間後にN社から、「幾つか仕事を紹介しますから来てくれますか。」と電話連絡が来たので、ほとんど期待してはいなかったものの藁にも縋る思いでN社に行ってみた。すると今まで俺に応対していた人材仲買人ではないのが出て来てこう言った。
「実は今日はね、あなたが今の儘では何処へ行っても採用されないから面接のやり方やコミュニケーションの取り方を指導しようと思います。色々今まで言われた事が無かったであろう、きつい事も言いますけど良いですか?」
俺は断ると仕事を紹介して貰えないと思ったので仕方なく、「はい。」と首肯すると、そいつは「面接のマナー」という手引書を差し出し、「まずこれを読むように。」と言って俺に渡し、続いて名刺も渡して、「読み終わったら私を呼んでください。」と指示して奥の部屋に入って行った。
俺はまず名刺を見ると、営業本部部長とあったので、あいつがここの幹部か、道理で名乗りもせず、いきなり不躾に偉そうに言えた訳だと思い、手引書を読む前に、まあ、そうだろうなあ。自分でも分かってはいるんだけど、つまり、あいつは、明るく装って印象を良くしないといけないのに四十五にもなって、そんな事も出来ないのかって言いたかったんだろうけど、あいつら俗物どもはそういう事を何の抵抗も無く平気で出来ても、俺はどうしても上辺を重視して上辺で人を判断しようとするやり方に準じて上辺を装って気に入られようとする自分に罪悪感と嫌悪感を抱くから出来ないんだ、嗚呼、あいつの指導を受けると分かっていたら絶対来なかったんだが・・・と思い、どうせ今まで言われた事ばかり書いてあるだろうと思いつつ手引書を開いて読んでみると、案の定、今まで言われた事ばかり書いてあると思った。更に目を通してみると、面接のマナーについて足りない部分を補うのは有益だと思ったから指導を仰ぐのに前向きになったが、コミュニケーションの項目の中で一つ気になる件が有って、「楽しい時に笑顔になる。これは誰でもそうなれますし自然に出来る事ですが、苦しい時、辛い時、悲しい時にどれだけ笑顔を作る事が出来るかが大切なんです。」として上辺を装う事の重要性を説く、これには俗物らしさを感じて、やっぱりそう来るかと思ったが、そう説いていながら先を読んで行くと、「相手と円滑にコミュニケーションを取る為には相手の腹の中を探るより先に自分の腹の中を曝け出す事が必要である。」と矛盾した事を説いているのである。そう説くのであれば、苦しい時、辛い時、悲しい時に其の思いを曝け出せば良いという事になるから思い切り暗い表情を素直に出せば良いという事になる。それなら僕も納得して失業中で失意のどん底に居る訳だから無理に明るくせず、暗い儘、面接を受けて、それでも失業中という事を考慮して暗い事を問題にせず、「長者の万灯より貧者の一灯」で形式よりも誠意が大切なのだからと上辺を装わないのと同様、発言にも誠意が感じられると評価して採用してくれる会社なら、「櫝を買いて珠を還す」で中身の真価を見抜けないばかりに誠実な者を採用せず、上辺の明るさに惹かれて口先ばかりの不実な者を採用する会社より数段、天晴な会社だと思った。
そんな思いやりが有って理解が有って上辺より中身を重視する会社は上辺の明るさを重視する風潮が此の世にしっかり根付いている限り生まれっこないのであって延いては此の世を退廃させてしまうのである。
何しろ上辺の明るさを重視すると人々は薄っぺらになり他人を評価するに当たっても中身を見ようとせず上辺の現象ばかりに囚われ、自分に対しても、「どうせ相手は上辺の現象ばかりに囚われ心の中の本質は見えないのだから明るく装って誤魔化しておけばそれで良いのだ。」とこんな了見に落ち着いてしまうのである。そして恐ろしい事に俗物はそう完全に割り切っていて状況に応じて笑顔を平気で作れるのである。これが俺にはとても真似出来ない所である。
「ものの中身は目では見えない。心でなくちゃよく見えない。」と星の王子さまの中でサンテグジュペリはキツネに言わせているが、俗物は人を中身で評価しようとせず上辺で評価しようとするから中身を見る心が育まれないのである。
そんな上滑りな俗人が作り出す俗世の付き合いについて言えば、互いに親切を装った上で時に巧言令色を以て、時に二枚舌を使って、時に佞弁を振るって、時に言を構えて、時に詭弁を駆使して、時に誣言を弄して、時に美辞麗句を濫用して、時に外交辞令の御世辞を並べ立て、時に三味線を弾いて、時に臭い物に蓋をして、そうして所々で下らん冗談やお追従笑いや愛想笑いや虚しい笑いや陰気臭い笑いを交え、といった具合に手を変え品を変え、ありとあらゆる卑しくもさもしくも狡くも悪しくもある方法を使い、結局、本心を噯気にも出さず韜晦した儘、本心には一切触れずに遣り過ごし、同調するのが実体で、一方的にどちらかがレトリックを尽くす付き合いは有っても互いに真実を求めてディアレクティケーの技術を用いながら侃々諤々、丁々発止と渡り合う付き合いは素より肝胆相照らすなぞという誠意ある付き合いは皆無に等しく実に薄っぺらでへらへらしていて嘘で塗り固められた、信用の置けない物ばかりで成り立っているのである。
だから現実と理想を混同した様な矛盾した指導を誠しやかにする幹部と付き合っていて俺は顔を引き攣らせながらぎこちない笑顔を自嘲的に作らざるを得ない苦境に立たされるのである。
俺はT所を後にした帰りの道中で俄雨に遭ってずぶ濡れになったが、すっかり絶望していたので構わず、そのまま歩きながら詩を詠むように沈吟した。
人間の偽る姿が露骨に映る俺の心は
沛然と降りしきる雨に冷え切ってしまう
だから遠い思い出に浸りたくなる
子供の頃に触れた温かなものに
それは確かに信憑性があった
あのぬくもりは真に優しさがこもっていた
俺はその時、疑戄の念なぞ抱く筈はなく
そんな感情を知る由もなかった




