第86話 闘技場へ
クリスタから連絡があった。
もうすぐいいタイミングがあるので、残りの者も転移してこれそうだと言う。宿舎に残っている人質はおよそ五十人。先に脱出した百人についても、今のところはまだバレていない。
しかし全員逃げて宿舎が空になってしまえば、程なく気付かれるだろう。そうなると今度は剣闘士の方に危害が加えられるかもしれない。今はもう人質がいないのだと、少なくともそれを彼らに伝えなければ。
逃げてきた者たちをまとめているセラフィーナにこの場を預け、俺とアルは闘技場へと向かうことにした。
「ああ。ここは私が引き受けよう。武器や物資はどうする? 男たちのために残して埋めておくほうがいいのかい? それとも私たちが運んでいこうか?」
「男たちには別ルートで逃げてもらうつもりだ。城壁内の宿舎の者が全員脱出したらここの転移陣は壊す。武器も物資も、できるだけ持っていってくれ」
「わかったよ。ところで、今から男たちの所に行くってことは、荒事になるんじゃないのかい? 今から来る元気なのを何人か手伝いに回そうか?」
「いや、それはいい。なるべく秘かに忍び込むつもりだ。人数を増やして騒ぎを起こしたくない」
「そうかい。まあ、あんたらなら大丈夫だろう」
セラフィーナは左手を上げて了解すると、出発を控えた最後の組の者に指示を与えに行った。
「じゃあ行くぜ」
「後は頼む」
「まかせな。あんたらも気を付けるんだよ」
フードを深くかぶると、城壁沿いの空き地に繋がる方の転移陣で、クララックの街へ戻った。死角になっている場所から、そっとあたりを窺うが、幸いそばに人はいない。
今回使う五組の転移陣には作った順に番号を付けてある。この転移陣は一番で、クリスタとポチが侵入した転移陣は五番だ。
一番のこの場所が最も人目につく可能性があったので、胸をなでおろす。
アルと二人、言葉も交わさず、路地をすり抜けて大通りに出る。途中数人とすれ違ったが見向きもされなかった。
大通りは早朝とはがらりと様相を変え、多くの人々でにぎわっている。俺たちが向かっている闘技場の入口もすでに観客に開かれて、中では剣闘士たちが魔物と戦い始める頃合いだ。宿屋街とはかなり離れているので、速足で人の波をすり抜けていく。
闘技場の入口は、今はまだそれほど混雑はしていない。中からは時々ざわめきと歓声が起こっているが、この時間だと小型の魔物との腕慣らしのような戦いだろう。闘技場が盛り上がるのは夜なので、人々の多くはまだ外の大通りにいた。
街角では芸人が技を競い、流行りの歌を聞かせる詩人の前には人だかりができている。
『リクさん、アルさん、聞こえますか?』
クリスタの声がした。
「ああ。聞こえるぞ」
『これで、人質は全員街の外に脱出しました。私とぽちさんも街の外の転移陣の所にいます』
「そうか。こっちは闘技場前だ」
『イデオンに避難するのはセラフィーナさんが引き続き指揮してくれるそうです。彼女に任せて、私とポチさんは二番の転移陣の方に移動します』
二番の転移陣は闘技場の近くに作った。ちょうど俺たちが今いるところのすぐ近くだ。
転移先は五番の転移陣から南に少し離れた場所にあるが、歩いてもすぐに着く距離だ。クリスタとポチはそちらに移動してもらい、闘技場から脱出できたら案内することになっていた。
「了解」
『五番の転移陣は今から破壊しておきます』
「いいぞ」
『お二人の作戦の成功を祈ります』
転移陣には安全対策として機能を停止できる仕組みが最初から書き込まれている。陣の一部に過剰に魔力を流し込むと、そこから壊れていくのだ。
これでもう、城壁の内部には入れないが、逆に転移陣を使って追ってこられることもなくなった。
あとは、脱出が発覚する前に剣闘士たちに事情を伝えればいい。そしてうまくいけばそのまま剣闘士たちも、二番の転移陣を使って街の外へ。
「行こうか」
「ああ」
闘技場の入口には警備の兵士が立っている。
あらかじめ買っておいたチケットを見せて、彼らの間をすり抜けるように奥に入った。
一般市民のための席は闘技場の西半面だ。後ろの席ほど安く、一番高い所にある観客席からは舞台は本当に小さくみえる。しかもそこに行くまでに階段をかなり登らなければならない。
最前列は一般市民の中でもある程度の権利を持った富裕層向けで、舞台を間近に見ることができる。もちろんそんな席は俺達には買えないが、中段あたりならば旅行者でもそれなりの金額を支払えば入れる。俺達が買ったチケットは中段の、貴族席から最も離れた西側の席だ。
席に向かう途中、階段の陰の目立たない位置に扉があった。
「ここだ」
「へえ。こちらからは入れるが中から開けることはできねえんだな」
扉は閂で閉じられている。鉄でできた閂は丈夫で重く、普通は一人で外すのは難しいだろう。
通路に人がいない時を見計らって、さっと外す。
「扉に鍵か」
「そりゃそうだろうな。ちょっと待ってな」
鍵穴に向かってアルが何かすると、静かに扉が開いた。
「器用だな」
「まあね。こういうのは昔から得意なのさ。ところでリク、この奥から本当に剣闘士の宿舎に入れるんだろうな」
「ああ。少し遠回りだが入れる」
「じゃあさっさと行くぜ」
閂は外したまま扉の内側に隠して、最初からなかったもののように装う。鍵は内側からアルがもう一度かけた。
「この程度の鍵は簡単なんだよ。もう一回開けることになっても、たいして時間はかからねえ」
扉の内側の通路は薄暗く、不安を掻き立てるようなムッとする臭いが充満していた。
ここは普段は使われていない扉らしく、よく見れば床には足跡が残るほど埃が降り積もっている。狭い階段を下りていくと、階下では通路が広く、足音にグルルっという唸り声が混じり始めた。キツイ排泄物と血の臭いに頭が痛くなりそうだ。
「ギャアオウウウウッ」
「おー、怖っ」
アルが肩をすくめながら檻のそばを通る。
「ふざけるなよ、アル。あまり騒がしくなると兵士が見に来る」
「へいへい。リクはちょっと真面目過ぎるんじゃねえのか?」
「見つかって無駄に戦いたくはない」
「ふーん。俺はどっちかと言うと、暴れてえんだけどな。ま、もう少し我慢するか」
階段を数階分下り、今いるのは闘技場の最下層。ちょうどステージと同じ高さにあるこの部屋には、剣闘士たちが戦う相手、大小さまざまな魔物たちが蠢く檻が、いくつも並べられていた。




