俺は信じられない 上
「ねえ、超能力って信じる?」
春休み最終日の午後、大量の食料品が入ったエコバッグを手に門扉に手を掛けた処で、俺は唐突に見知らぬ年上の女の子から話しかけられた。
ちょっと……いや、正直言ってかなり可愛い。
たぶん俺の姉ちゃんと同じぐらいの年齢かな。気の強そうな二重の大きな目が、まるで挑むように俺をまっすぐ見つめていた。
さらっさらで真っ黒なショートボブ、ばっさばさの長い睫毛に形の良いキリッとした眉の黒が、彼女の白い肌を引き立てている。
かなり大きめの着古されたモスグリーンのフリースを羽織っていて、長すぎる袖口から指先がちょこっとだけ出ているのも、これまたあざといぐらいに可愛い。
いつもの俺だったら、超能力を信じるか? だなんてふざけた質問されたら、おかしな新興宗教の勧誘だろうなと無視してそのまま家に入るところだ。
でも、彼女の可愛さに目を奪われてしまっていたせいで、ついうっかり正直に質問に応じてしまっていた。
「俺は自分の目で見たものしか信じない」
「見れば信じるの?」
もちろんと迷わず頷くと、彼女は、ぱあっと嬉しそうに微笑んだ。
まさに花開くような眩しい笑顔に狼狽えながら、俺は慌てて言葉を足した。
「あ、でも、イリュージョンかどうかの確認はちゃんとするからな」
「だよね。――あ、お兄ちゃん! この子、超能力を信じてくれるんだって!」
突然大声を出した彼女が、隣家の玄関の扉を開けて出てきた青年に声を掛ける。
それでやっと俺は、彼女が引っ越してきたばかりの隣家の一員だと気づかされた。
「お隣さんだったんだ。えっと……確か、御崎さんだったっけ?」
リフォームを終えたばかりの隣家の真新しい表札に出ていた名字を告げると、少女はにっこり笑って頷いた。
「そうよ。あたしは御崎美香、高二。こっちは兄の俊介。大学生」
「こっち言うな。あと片付けさぼるな。――俊介だ。お隣さん、これからよろしくな」
ゆったり歩み寄ってきた俊介の腕に、美香が腕を絡めて抱きつく。そのごく自然な一連の動作に、この兄妹の普段からの仲の良さが伺えた。
「ども。貴史、中三です」
「中三? ああ、ついこの前まで中二だったんだね。それなら、まあ、超能力を信じていてもしょうがないか」
――リアル中二病なんだねぇ。
そんな生温い心の声が聞こえたような気がする。
「いやいや違いますから。中二病じゃないです。俺は自分の目で見て、それが現実だと確認できたなら信じるって言っただけですから」
「なるほど。スナフキンのほうか」
「は?」
なんだろう。なんだかよくわからないけど、またしても、なにか生温い目で見られているような気がする。
「お兄ちゃん、スナフキンって、ムーミンの?」
「そう。『僕は自分の目で見たものしか信じない。けど、この目で見たものはどんなに馬鹿げたものでも信じるよ』って、スナフキンの有名な名言なんだ」
「いやいやいや違いますから。俺、スナフキンをリスペクトしてないです」
「そう? 砂川だけにスナフキン贔屓なのかと思ったけど」
「……違います」
だじゃれか? だじゃれのつもりなのか?
妹に似た顔立ちはかなりのイケメンなのに残念な人だな。
「砂川じゃなく砂川です」
「へえ、そうなんだ。あたしも砂川さんって読んじゃってた」
「先に教えてもらっていてよかったよ。今日の夜にでも、お宅に引っ越しのご挨拶に伺う予定なんだ。出掛ける予定とかない?」
「大丈夫です。えーっと、そちらのご両親が気まずい思いしないよう先に教えときますけど、家は母が病気で死んでて父子家庭なんです。あと、俺の上に高二の姉の沙織がいます」
母が死んだのは俺が小学六年の時。
既に三年近く経っていて、ある程度はその死を乗り越えているつもりだ。それでも下手に気遣われると当時の色んな気持ちがぶり返しそうだから、なるべくあっけらかんとした口調で我が家の情報を伝えた。
「わかった。それも伝えとくよ。ところで、君のお姉さんって北高?」
「いえ、東高です」
「ああ、進学校の方かぁ」
「美香……さんは?」
「美香でいいよ。あたしは学力が足りなくて、北高に転校することになってるの」
「ここらで産まれた奴はだいたい北高か産業高校に行くよ。うちの姉ちゃんはちょっと特殊なんだ」
東校は公立では県内一の進学校で、県内の中学生達のごく一部の上澄みの生徒だけが行けるところなのだ。
「頭がいいんだね。羨ましいなぁ。……あーでも、同じ高校だったら一緒に登校できたのに。残念」
「ああ、それだったら貴史くんと一緒に登校したらいいんじゃないか。貴史くん、二中なんだろう? 確か北高の近くだったよね?」
「そうですけど……」
二中と北高は比較的近所で、徒歩で五分程度しか離れていない。だから登下校の際には中学生と高校生が通学路に入り乱れている状態になる。
そこを美香のような目立つ美少女と一緒に登校したりしたら、友達に見つかって絶対にからかわれるに決まってる。
そういうのは鬱陶しいから、できれば遠慮したかった。
「中学と高校じゃ始業時間が違うし、こっちに合わせるのは気の毒だから止めといたほうがいいですよ」
「あ、ちょっと……」
じゃあ、これでと、俺は慌てて家の中に逃げ込む。
待ってと呼び止める声がしたが聞こえないふりだ。
隣家の美少女と仲良くなる機会を自分から捨てるのはちょっと……いや、かなり惜しかったけど……。
◇ ◆ ◇
翌日は朝から雨だった。
新年度のはじまりが雨だなんてついてない。
家から中学までは距離にして約2.5㎞。晴れた日は自転車通学だが、雨の日は徒歩だ。
以前はカッパを着て自転車を使っていたが、濡れた落ち葉でうっかりスリップして転倒し怪我をしてから徒歩に切り替えた。俺は別に怪我くらい平気だったけど、雨が降る度に心配性の姉ちゃんが不安そうにそわそわするのを見ていられなかったのだ。
雨が振る日は普段より三十分早く起床しないといけないが、姉ちゃんがそれで安心するならなんてことない。
大きな声で言うつもりはないが、俺にはシスコンのけがあるのだ。
俺達姉弟の母親が病に倒れたのは、ちょうど俺が小学校に入学した年だ。そこからは入退院の繰り返しで弱っていく一方だった。
姉ちゃんは、病床の母親の面倒と仕事で忙しい父さんの代わりにずっと俺の面倒を見てくれた。自分だってまだ小さくて不安だっただろうに、ぐずる俺を宥めて、きちんと日常生活を送らせて厳しく躾けてくれた。
だから俺が今、それなりに真っ当に育っているのは姉ちゃんのお陰だ。
母親が側にいない俺達姉弟を可哀想に思った父親の、超絶甘やかし攻撃に姉ちゃんが断固として抵抗してくれていなかったら、きっと俺は我が儘なデブ男になっていたに違いないのだから。……いや、これはマジで。
そんなこんなで俺は姉ちゃんには頭が上がらない。
「姉ちゃん、おはよー」
「おはよ。寝ぐせ、学校行く前にちゃんと直しなさいよ」
姉ちゃんが通う県内一の進学校である東校は県庁所在地にある。
家からだと徒歩と電車で往復三時間以上かかるから、当然姉ちゃんの朝は俺よりずっと早い。こうして朝に顔を合わせることができるのも、休日と雨の日ぐらいだ。
ばたばたと出掛ける支度をしている姉ちゃんを横目で見つつ、俺はもさもさした髪に両手で触れてみた。生来の癖毛が湿気のせいで見事に爆発している。我ながら、まるで漫画だ。
これ直すのマジ面倒なんだよなぁ。
いっそのこと刈り上げてしまいたいぐらいだが、子供の頃の怪我でちょっとハゲてるところがあるからそれもできない。
「父さんは? 新学期の初日ぐらいは駅まで送るって言ってなかったっけ?」
「起きれなかったみたい。最近ちょっと疲れてるみたいだし寝かせときましょ。あんたが出掛ける時間になっても起きてこなかったら起こしてあげてね」
「わかった」
「それと、ちゃんとお隣さんに声を掛けるのよ」
「なんで?」
「今日から美香ちゃんと一緒に登校する約束をしてるんでしょ? 東京から引っ越してきたばかりで、友達もいなくてすごく不安なんだって。ちゃんと親切にしてあげるのよ」
「……わかった」
くそっ、やられた。
昨夜、お隣の一家が引っ越しの挨拶に来たとき、俺は顔を出さなかった。下手に顔を合わせて、昼間の話を持ち出され、学校に一緒に行こうとまた誘われるのが嫌だったからだ。
どうやら、それが裏目に出たらしい。
向こうは俺がいないのを良いことに、すでに一緒に登校することが決定事項のように姉ちゃんに話してしまったようだ。
こうなってしまうと、もう俺に拒否権はない。
朝の忙しい時間帯に話が違うとごねて、姉ちゃんを遅刻させる訳にはいかないしな。
早々に諦めた俺は、もさもさした髪をかきつつ、玄関まで出て姉ちゃんを見送った。
父さんを起こしてから、学校指定の鞄と傘を手に家を出た。
雨は強くもなく弱くもなく断続的に降り続いている。天気予報では午後から晴れると言っていたが、重苦しく垂れ下がっている雲に切れ間はなくどうにも疑わしい。
「……ったく、面倒臭いな」
隣家の門の前で立ち止まり、ぶつくさ言いながら呼び鈴を押した。
そのままそこでインターフォンからの応答を待っていたのだが、返事より先に玄関の扉が勢いよく開いた。
と同時に、ぽん、と明るいオレンジ色の傘が開く。
「おはよ、貴史くん! 迎えに来てくれてありがとね」
明るいオレンジ色の傘がくるんとひっくり返って、美香の嬉しそうな笑顔が見えた。
どうやら美香は、玄関先で俺が迎えに来るのを、しっかり出掛ける準備をした状態で、今か今かと待ちかまえていたらしい。
――東京から引っ越してきたばかりで、友達もいなくてすごく不安なんだって。
なるほど。一緒に登校するのが出会ったばかりの中坊でもかまわないぐらいに不安なのか。
俺なら、よく知らない隣人と一緒に歩くぐらいなら、ひとりのほうが気楽だけどな。
これは男女の差か、それとも性格の差か。
「おはよ。くんはいらない。貴史でいい。始業時間は高校のほうが二十分ぐらい後の筈だけど、早く到着してもいいの?」
「うん。始業前に職員室に行かなきゃならないからむしろちょうどいいぐらい」
「それならいいけど……」
女の子とふたりきりで歩くのがなんとなく気恥ずかしくて、俺はちょっとうつむき加減に黙って歩いた。
美香はそんなこと全然気にならないらしく、傘を傾け、俺の顔を覗き込むようにして話しかけてくる。
「沙織ちゃんの髪、綺麗な栗色のストレートロングで綺麗だよね。貴史のその髪はパーマ?」
「生まれつきだ」
「天パなんだ。お洒落でいいなぁ」
「よくないよ。雨の日は湿気で爆発して直すの大変なんだから」
「爆発するの? 面白そう。今度見せて」
その後も美香は、気後れすることなくきゃっきゃと楽しげに話し続けた。
なんて人懐っこさだ。
この人懐っこさなら、はじめての場所でもきっとすぐに馴染めるに違いない。不安に思う必要なんてこれっぽっちもないじゃないか。
他人事とはいえ、なんとなくほっとした。
会話は途切れることなく続き、そのせいか、いつもは憂鬱な雨の日の道のりがいつもより短く感じられた。
学校が近づくにつれ、徐々に増えてくる人の目が気になって仕方なかったけどな。