〜失くしたもの〜
晴れ、というには些か頼りない日の光が差すある日の午後。
リノリウムの廊下から小走りの足音が聞こえたと思ったら、快活な声が病室に響いた。
「おはよう柚子! 今日も見舞いにきてやったぞ感謝するんじゃ!」
「うるさっ! そして恩着せがましいし! ……でも有難うね、姫さ――クーちゃん」
金髪のツインテールをまさしく尻尾のように振り回しながら、クチャロ姫は照れ臭そうに笑っている。
柚子も読みかけていた本を置いて、上半身ごとそちらを向いた。
「今日は元気そうじゃな、前は死にそうにヒィヒィ言っておったのに」
「ふん、いつまでも寝込んでなんていられないからね。早く退院して学校にも行きたいし、皆にも会いたいしね」
こちらも負けず劣らず快活な笑顔を向ける。
……ついさっきまで死にそうに喘いでいたのが嘘のようである。
「そうか、それだけ元気なら安心じゃ。安心ついでに良いニュースを持ってきてやったぞ。ミツキがやっとった後遺症用の薬じゃが、試作品が完成したらしい。何回か投薬実験をしたら、もう使って大丈夫だそうじゃ!」
後遺症用の薬、それは触手の粘液に神経系を侵され、禁断症状が出るのを抑えるものだろう。
日に何度か粘液を摂取しなければ狂乱してしまう柚子だが、薬があれば何日かおきに軽減されるはずだ。
治る可能性は……極めて低いようだが。
「そうなの? あ~あ残念だなぁ」
「なぜ残念なんじゃ? お主の身体は食事も取れぬ程変わってしまった。そのため栄養その他を点滴に頼るしかなく、更に運動機能にも一部支障が出て……全てとは言わんが、軽減されるんじゃぞ」
まるで姉が妹を叱るように口を尖らせたクチャロ姫に、柚子は小さく舌を出して反抗の意思を示した。
外見は違うが、この二人が姉妹に見えてしまうのは不思議だ。
「確かに不便だしキツイけど――でもそのお陰で、凜斗を独り占め出来るんだもん。ねぇ凜斗っ」
ニコッと笑う無邪気な顔が『我』のほうへと向けられる。
我も柔和な笑顔を作り、軽く頷いてみせた。
「ぬぐぐ、言っておくが仕方なく凜々を貸し出しとるんじゃからな! 凜々はワシの婚約者なんじゃからな!」
「凜斗お腹減った~。何か果物剥いて~」
「って聞かんかーい!?」
お見舞いの果物籠から桃を取って、やはり食べにくいなとバナナに変えた。
渡そうと柚子のほうを見たら、どうやら騒ぎすぎてナースに怒られているようだった。
まったく、こいつらを見ていると飽きないぞ……なぁ?
貴様もそう思うだろう、凜斗よ――
散歩の時間という事で車椅子に乗り、柚子はナースに押され外へと出ていった。
我とクチャロ姫は近くのベンチに座って、何の気無しに見つめている。
「……元気に振る舞えるようになっただけでも、良かったと言うべきかの。今回の事はワシの失態じゃ、あの子にも凜々にも多大な迷惑をかけたから……してやれる事は何でもしてあげんとな」
話し掛けてきたというより、独り言に近い言い方だった。
我は言葉には反応せず、手を振る柚子に振り返してやった。
「…………その後、凜々はどうじゃ?」
「…………」
多分、きっと、これを聞きたくて彼女は毎日病室に通ってくるのだろう。
あの日から何十回と繰り返した問いに、我も繰り返した答えを言うしかない。
「目覚める気配はない。深層意識の奥深くで眠っているのか、我の呼びかけには一度も答えた事はない」
「……そう、か。いまだお主は『王子』なんじゃな」
――そう、我は触手の王子。凜斗と融合し、共に戦い守った触手だ。
あの日、あの時……電磁波発生装置により我と凜斗の融合率は100%を超え、意識の混濁化が始まった。
既に精神の融合が進んでいたカイマ博士は自我が壊れ、廃人となった。
凜斗と我も、そうなるはずだった――しかし。
「……あの時、確かに凜斗の意識が沈んでいくのを我は感じた。それは精神の融合を回避しようとした生存本能だったのやもしれん……その瞬間から、我の意識が表層に出てくる事となった」
自分の……いや、凜斗の身体の手の平を見つめ、握って開く。
我は実質、この身体を支配していた……誰も、我自身も望まなかった支配だ。
「……結局、凜々は自分を犠牲にしてワシ達を守った。そんな事をしても、誰も望まぬというのに……誰もっ、誰が凜々のいなくなった事を喜べるというのじゃ」
彼女が求めるのは我ではない。
この身体、見た目ではない。
いくら姿形が同じでも、求めるものは凜斗であって我では……ない。
「ワシは諦めんぞ。どれだけかかっても諦めず、必ず凜々を取り戻してみせる。触手の王子よ、それまではその身体大事に扱ってくれ」
「……言われなくても、我も凜斗を必ず目覚めさせてみせる。このままでは寝覚めが悪いし、なにより……あいつを失いたく、ない」
これは、我の本心だ。
凜斗に再び会いたいというのは本心であり、そのための努力や労力も惜しまぬつもりだ。
だが……心の奥に芽生えているこの感情は何だ。
暗く澱んだ、触手だったころには知らなかった感情。
身体を持った事で、『皆と同じになった』事で生まれた、醜い感情。
我はその感情を考えないようにして、クチャロ姫を見た。
眉目麗しい姫は、しかし我には笑いかけてはくれない。
「ワシ以外に気づいとるのはいない……誰にも言うなよ、言ったら皆混乱するだけじゃからな。それじゃ、ワシは先に帰る」
「そこまで送ろう、演技でも仲の良いフリをしないといけないからな」
「…………」
固い表情のクチャロ姫をと共に、病院の入り口まで歩いていく。
隣を歩いているはずなのに、距離は果てしなく遠い気がした。
ーー世界が、変わった。
ーー姿が、変わった。
ーー心が、変わった。
変わった世界で、しかし我を必要とする声は、いまだ聞こえない。
少し伸ばせば届く距離なのに、我はその手を掴めない。
それは我が凜斗ではないから、必要なのは凜斗であって、我ではないから。
我は凜斗を目覚めさせる。
でもそれは誰の為だ?
他人の為か、凜斗の為か、我の為か?
答えがあるのかも知らず、それでも日々は過ぎていく。
凜斗の戻った世界か。
凜斗のいない世界か。
我には知る由もなく、世界は止まらず、動いていく。
「…………クー、ちゃん」
「ん、王子、何か言ったか?」
消え入るような声は、彼女の耳には届かぬまま、冷たい空への溶けていった。
いつの間にか太陽は雲で遮られ、晴れる気配は感じられなかった――――
~完~