〜変わり出す日常〜
ぼた雪の舞う、十一月の午後の空。
鉛色の雲は枯れはてた山々と妙なコントラストを織りなし、僕の視界に広がる景色は寂しい冬の装いをしていた。
十一月の天気にしては珍しい朝からの雪で、左右にある稲の刈り終えられた田んぼには、目に分かるくらいの雪が積もっている。あぜ道にも踏み固められた氷のような雪が積もっていて、僕は転ばないように慎重に歩いていた。
「――痛ったぁい!?」
後ろから倒れる音と声が聞こえたので振り向けば、この季節だっていうのに短パンを履いた小学生が視界に飛び込んできた。
「だ、大丈夫?」
すぐに駆け寄って手を貸そうかと思ったけど、ふと僕は考えて、ちょっと悪戯をしてみようと決めた。
右の膝を怪我したみたいで、血を滲ませてるその子を見て、僕は精神を集中させる。背中から『アレ』を生やすようなイメージを想像すると、学ランの背中部分が徐々に盛り上がり、着込んだ服の下を這いずる感触が本物となる。
両手の袖口から出たアレを近づけてやると、その子は一瞬凄く驚いた顔をしたけど、すぐに不機嫌極まりないような顔をして僕を睨みつけた。
「……何してるの、凜斗兄?」
「いや、ちょっと驚かそうと……ごめん、柚子ちゃん」
三歳年下の幼なじみに窘められて思わず謝り、袖口から出たアレ――『触手』は、しょんぼりとするかのように地面に垂れてしまった。
柚子ちゃんはへの字口のままランドセルから絆創膏を取り出し、膝の傷へと貼る。
ツインテールにしている茶髪が微妙に型くずれしてるのに気付いたので、僕は触手を引っ込ませて柚子ちゃんに近づき、自分の手でそれを直してあげた。
茶髪と同色の目が何してるのと聞いてきているようだったけど、なぜか言葉で聞かれる事はなかった。
「ん、何?」
マフラーに埋まった柚子ちゃんの口元が動いた気がしたので尋ねたら、今度は無言で殴られてしまった。
ーー小さな山を背負うように建つ母屋、少し離れた場所に蔵と離れ座敷がある。無駄に大きい門の前で柚子ちゃんと別れ、僕は壁に備え付けてある小門から中に入った。
風情とか四季とか色々テーマがあって作られた中庭らしいけど、僕には興味がない。たまに池の鯉に餌をやるくらいで、感激したりはしないものだ。
屋敷も同じで、生まれた時からこの大きさなので、周りの友達から大きいやら立派やら言われても、どうにもピンと来ない。
唯一、この生まれた時から変わらない日常と、違うものを挙げるとすれば――
「凛々(りんりん)、帰ったのか。ならばまずはこの許嫁たるワシに、挨拶するもんじゃぞ」
「……ただいま、クチャロ姫」
「クーちゃんで良いと言ったじゃろうが。親愛の情は愛称からじゃぞ?」
……この人の事であろう。
縁側でどてらを着込んだ『異星人』に言われても、なんか説得力に欠ける言葉である。
大体凛々って、僕はどこぞのパンダですか?
「クーちゃんはそんなところで何してたんです? 昨日みたいに、平行世界と多次元的宇宙の相互関係でも考えてたんですか?」
昨日何となしに尋ねたら二時間ばかり話を聞かされた。内容の理解はまったく出来なかったので、この発言は単なる嫌味である。
「そんな無利益な事を考えて何になるんじゃ? 全宇宙において、子供は難しい事を考えなくていい権利を有しておるのじゃよ。それより今日は――」
なら昨日は一体と突っ込む前に、クーちゃんが縁側から裸足で僕に近付いてくる。
太陽の光は見えないというのに、キラキラと光る長い金髪。浅黒い肌は真っ白なワンピースと対照的で、どてら付きだと言うのに、何かドキッとする。
僕や柚子ちゃんより低い身長なのに、ルビーのような瞳に見つめられると僕は緊張してしまう。
「今日は、いかにして凛々に触手姦をしてもらおうか思案しておったところじゃよ」
熟れた果物のような甘い匂いが鼻をつき、少しでも動けば触れ合う近さにクーちゃんの顔がある。
ショクシュカンの意味は分からないけれど、この表情の時のクーちゃんが何を考えているかは、大体分かる。
この二週間で、大体分かるようになった。
「駄目です、無理です、というか嫌です」
「なぜじゃ!? 触手といえば一度は男が夢見る性の玩具。伸縮自在に硬度自在、太さも多種多様。しかも粘液には催淫剤の効果もあって、性欲旺盛で多感な中学生なら両手を挙げて喜ぶ代物じゃろう!!」
「どこの変態ですか!? ぼ、僕はこんなのに寄生されて困ってますし……それに、いきなり許嫁とかも困ってるんですからね!!」
このやり取りは昨日の寝る直前、夜這い(クーちゃんがそう言っていた)に来た時もしている。
けど言わなくちゃならない、違う、言いたいんだ。
「僕はっ、迷惑してるんです!!」
僕の興奮した気持ちを感じとってか、背中から触手が生えてきたのが分かる。三日くらいはその感触に違和を感じていたけど、それ以降はなぜか違和感は無くなった。
クーちゃん曰く、身体に適したからだろうとの事だった。
「僕は、その、まだ恋愛とかもした事ないのに、いきなり触手に寄生……し、しかも“異星の姫様を触手を用いて妊娠させる”なんて……日本の中学生を買いかぶらないで下さい!!」
――そう、始まりは二週間前。瞬きも許されないくらい、唐突だった。
毎週楽しみにしている洋画劇場を観ていたら、突然夜空に光がほとばしり、轟音と共に光の玉が裏山へと落ちた。町の消防団の人達とお父さんが見に行く時に、無理を言って僕も付いていった……それが間違いだった。
爆発でもあったみたいに山肌は荒れ、木々はなぎ倒され、その中心に黒い岩のようなものがあった。
その岩にヒビが入って光が漏れたと思った瞬間、僕は意識を失った。
そのまま三日三晩寝ていて起きてみれば――この状態である。
触手に寄生、異星人のお姫様、その、初……の、相手。
田舎の中学生が背負うには、かなり重いというか不可解極まりない事態だと思う。
「何を言うかと思えば、このツンデレめ」
けれどこのお姫様は、まったくもって分かってくれない。
宇宙船らしい岩のような物の中にいたお姫様とお付きの人達の話によると、ある星と星間条約を取り決めする際、その星の王子様らしい触手のお嫁さんとして、クーちゃんことクチャロ姫(本名は長くて忘れた)が選ばれたらしい。
妊娠のための……その、それをやるにあたり、触手は何かに寄生しないと駄目らしく、その適性のある生物を探そうとしたら、宇宙船の故障で地球に墜落したそうだ。
しかも偶然(僕にしては不運のなにものでもないけど)触手に適性がある者が見つかり、宇宙船が壊れた事もあり、このままこの地球で既成事実を作ろうと考えた。
……まったくもって、笑えない。
僕が寝ていた三日間でクーちゃん達と父さん達との契約は成立し、それから二週間、クーちゃんが僕の家にいるという訳である。
「良いか、よく考えてもみるんじゃ。ワシは茫々の星と条約を結ぶ、例えるならば勢いある上場企業のような星の王女じゃ。ワシの美しさは十の太陽系でも見つけきれんと言われており、まず凛々では会う事すら叶わぬ相手じゃよ。そんなワシの処女を触手有りとはいえ奪えるのじゃ、光栄に思う事はあれど、嘆く必要などないじゃろう?」
「だから、僕はまだそういうのに興味がないんです!」
クーちゃんと距離を開けながら、僕は玄関へとにじり寄る。クーちゃんがまた変な行動をしない内に自室に籠もりたいけど、玄関までは遠い。
「しかし性的好奇心と肉体的欲求がないとは言い切れんじゃろ? 触手の王子も……まぁ自我があるかは分からぬが、凛々の興奮と血に大きく反応するみたいだし、それにワシらの身体的特徴が同じなのも運命と思わぬか? だから欲求に身を委ねてみるが――」
「嫌です! とにかく僕はクーちゃんと、え、エッチな事する気はないんで、もう諦めて帰ってください!!」
急いで走って玄関に辿り着き、靴を脱ぐと二階への階段を上がる。
縁側にいたクーちゃんから何かされると思ったけど、幸いな事に何も無かったので、僕はよろけながらも階段を駆け上がった。
「……それが出来れば、苦労はないんじゃ」
その時小さく呟いたクーちゃんの声は、なぜか耳に残って離れなかった。
「はぁ……」
何とか自室までやって来て鍵を閉めると、僕は盛大に溜め息を吐いた。
最後に呟いたクーちゃんの言葉も気になるけど、今は自分の身のほうを心配したい。というより、疲れた。
「何で、僕なんだよ……」
「それは凜斗様に適性があったからでございます」
「ってうわぁああ!?」
床にへたり込んでいた僕の目の前で、ベッドの布団が盛り上がり勢い良く捲れたと思うと、中から見知った人が姿を現した。
エプロンとカチューシャと肌の白さ以外、黒で染まっているクーちゃんの侍女、ミツキさんだった。
「み、ミツキさん? 僕の部屋で一体何をしてるんですか?」
出来るだけ冷静に、でも実際は冷や汗を流しながら愛想笑いを浮かべる。
ミツキさんがどんな仕事をしてるのか僕は知らないけど、ただこれだけは言える。
……身体のそこら中に刃物を隠してる人は、下手に刺激しないほうがいい。
「……違います」
「え?」
ミツキさんはベッドを降りると(当たり前のように土足だった)目の前に立ち、いまだ立ち上がれていない僕を無表情で見下ろしている。
ポニーテールに纏められた銀の髪に、簡素なメイド服。
同級生の女子より身長は高く、何となく高校生っぽい年齢に見える。色白の肌に反抗するようなルビーみたいな瞳はクーちゃんと同じで、唇の赤さだけが妙に大人っぽかった。
「ミッちゃんと呼ばれないと、親愛の情を感じらずに気分が悪いです」
「ごごごごめんなさいミッちゃん!?」
言う事は、まさに子供っぽすぎるんだけども……。
愛称で呼ばれた事に満足したのか雰囲気が和らぎ、ミッちゃんは潜っていたベッドに腰掛けると隣をポンポンと叩いた。
「情事の際に寒くないようにと温めておきました。姫とヌプヌプするには適温になっていますよ」
「何その擬音!? こ、心遣いは嬉しいんですけど、僕にはその気は全然無いというか……」
「……自信が無いのなら、私で試してもよろしいですよ?」
「うわわわわいきなり脱がないで下さいっ!? 試すとかそんな、そんな事するわけないでしょ!!」
胸元のボタンを次々開けるミッちゃんの手を何とか止め、露わになっている白くて大きな谷間を見ないように、僕はミッちゃんに背中を向けるように立った。
「本当にもう、勘弁してください! 僕にそういう事をする気は無いんですから」
「恐れながら凜斗様、これはもう個人的な感情など関係ない事なのでございます。寄生した触手の王子はなぜか貴方から離れようとしないし、無理に離せば命に関わります。本当なら未開拓惑星の住民に見られた場合、その者達は消されるはずなのに、凜斗様が寄生された事によりそれが免れました。貴方には、姫を孕ます以外の選択肢は残されていないんですよ」
「そんな……だって、僕は何もしてないのにっ」
「……姫も、好き者だから頼んでるのではありません。そう決められたから、自分に与えられた命令だから、あの方だって本当は――」
「――よい。それ以上は言うな、ミツキ」
「!! あれっ鍵掛けたのに!?」
ミッちゃんの隣にはいつの間にかクーちゃんがいて、外見に似合わない大人びた視線でミッちゃんを見つめていた。
何だか凄く辛そうな表情に見えて、僕は何となく、顔を背けてしまった。
「お父様が決めた事じゃ。ワシの感情など関係ない、これは母星の為……皆の為なのじゃから」
「……姫」
「クーちゃん……」
……よく考えたら、僕よりクーちゃんの方が辛い立場にいるのかもしれない。
触手のお嫁さんなんて普通に考えても嫌だし、知らない星の知らない男……僕なんかと、そんな事したくないだろうし。
本当なら、自分の星に帰って普通に恋をしたいはずだ。
なのに自分への命令を忠実に守り、この家で、知らない場所で、クーちゃんは――
「あの、クーちゃん?」
二人が黙り込んだので声を掛けてみるけど、返事は返ってこなかった。落ち込んたのではと心配になって、クーちゃんの華奢な肩に手を置こうとした――瞬間。
「ふっふふ捕まえたぞ!!」
………………え?
「まったくもって純情可憐な童貞少年じゃのう、ワシが落ち込んでおると思ったのか? 優しいだけじゃ女をものに出来んぞ!」
「ななな! ってぇミッちゃん何してるんですか!?」
「ズボンとパンツの両方を脱がせようと四苦八苦しております、ポッ」
何て人達だ、押しても駄目なら引いてみろって事なのか!
いたいけな僕の気持ちを返してくれっ、あと童貞と言わないで!!
「ぜっ……たいっ! 脱がせ、ませんよぉ!!」
「ひゃっ!?」
「!?」
興奮した僕の気持ちに呼応したのか触手が飛び出し、僕に被さるようにしていた二人に絡みついた。
突然の事に驚いている二人の隙をついて、僕はその、大人の二の腕程もある触手で二人を宙に張り付けにした。
「くっ、よもやここまで触手を使えるとはのぅ。しかし触手姦ルートらしくなってきたぞ」
「初めてが3Pですか、凛斗様も好きでいらっしゃいますね」
「すっごい不穏な会話をしないでください!?」
途端、触手から垂れる透明な粘液の匂いが部屋中に充満し、僕の意識は霞みがかかったように朦朧となる。
蛍光灯によって光る、粘液に濡れた赤土色をした触手。質感はイカやタコのそれに近いのに、触れると毛虫のように柔らかく、微妙に暖かい。
これは縛る用としてよく使っている触手だけど、僕が出せる種類は他にもまだある。
……ただ、人前で見せられる外見がこれくらいしか無いのだ。先が割れてたり血管やイボイボが浮き出てたり細いのが何本も重なったり……うん、考えるのをよそう。
グロテスクな見た目には、さすがにまだ馴れてない。
「と、とにかく部屋から出て行ってもらいますから! ていうか毎度毎度同じような事させないでください!!」
「姫、この粘液には催淫効果が無いみたいです。ですから舐めても意味がないかと」
「なんじゃと! まさか粘液の効果も操れるようになっておるとは、やはり何も知らない初日にやる事やっておけば……」
「寝込んでた僕に何する気!?」
もはや脊髄反射並の突っ込みを入れたら、待ってましたとばかりにクーちゃんが笑う。
しまったと思った直後、小さな口は開かれた。
「もちろん、セック――」
「やっっめぇぇぇええーーいっ!!!」
――僕ら三人のではない大声が轟いたのは、まさに奇跡のようなタイミングだった。
声と同時に僕の身体は前方へと押され、というか蹴られ、顔面から畳にダイブをしてしまった。
痛みと衝撃で触手もビックリしたのか姿を潜め、戒めの解かれたクーちゃんとミッちゃんは上手に着地した。
だけど、表情はとても不満げなものをしている。ぶつけた鼻を押さえながらそんな様子を見ていると、先ほど僕を蹴り倒した人物が怒声をあげた。
「ちょっと! 前も言ったけど凛斗兄をイジメないでよ!! その権利があるのは私だけなんだからねっ」
「ヒドいよ柚子ちゃんっ!?」
夕方、門の前で別れた柚子ちゃんがいつもの短パンTシャツ姿になってベッドの上に仁王立ちしていた。
扉の鍵は掛かってるはずなのにと聞こうとしたら、まるで地の底から響かせたようにドスの利いた声をクーちゃんが発する。
聞いた瞬間、怖くて泣きそうになった。
「小娘……ワシの簡易ワープ装置を使うとは中々にいい度胸をしてるのぉ? 朝日を拝めなくしてやろうかガキんちょがぁっ!?」
「ふんっ、人の幼なじみにちょっかい出す淫乱なんかに言われたくないよ! いいから凛斗兄を元に戻してよね!!」
「だぁれが戻すか馬鹿たれ。凛々はワシの婚約者に決定したのじゃ、お主こそ諦めたほうが身のためじゃよ。何たって美の権化のようなワシが――」
「私よりチビが何言うのよ」
……一触即発っていうのは、まさにこういう事を言うんだろうか?
すっかり気持ちも落ち着いて(二人に気圧されてのほうが正しいかもしれない)、触手の出る気配はまったくない。
このまま二人がいがみ合うのは凄く駄目な事だと思うけど、ただこの場を逃げ出せるのなら……。
「二人共、ごめんっ」
「逃がしませんよ、凛斗様」
――小声で謝って逃げようとした瞬間、気配を隠していたのかすっかり忘れていたミッちゃんに捕まえられた。ていうより、凄い力で抱きつかれた。
「あっ!? ちょっと凛斗兄に何するの!!」
「でかしたミツキ! このまま3Pに持ちこむんじゃ!!」
「うぷぷぷぷっ!?」
ミッちゃんの大きすぎる胸に挟まれて僕の呼吸は停止の一歩手前になる。
更に手足をクーちゃんや柚子ちゃんに引っ張られ(視界は谷間で埋まってるが予想は外れてないだろう)千切れるんじゃないかと思うくらい、痛い。
さっきの触手の出した粘液の匂いで朦朧としてた意識はブラックアウト寸前、命の危機を察してか触手も現れだし……僅かに残った意識でもう駄目と思った瞬間、粘液の制御が失われた。
触手の説明を受けた時、一番最初にコントロールできるように特訓した匂い……催淫効果が、発動してしまった。
「なっ、何――」
「この、匂いは……」
「…………っ」
あんなに暴れていた三人の動きが急に緩慢になり、僕に触れている皮膚から熱を感じる。
僕だって同じで、粘液の匂いで身体の内側から熱が湧き起こり、下半身のある部分に集中していくのがはっきり分かった。
なのに意識はますます朦朧とし、まるで全てのどんな事も許されるような気がして――
「っんん!」
埋まっていたミッちゃんの谷間を、なぞるように舐めた。
玉のような汗を舌ですくい取り、白く滑らかな肌を何度も舐め回す。
たったそれだけで僕の理性にヒビが入り、ミッちゃんの吐く息には熱がこもり出した。
「…………」
頭の中では停止の命令を大声で叫んでいるのに、僕の身体は神経を切ってしまったように勝手に動いていく。
ふと視線をミッちゃんの谷間から外せば、クーちゃんと柚子ちゃんが頬を染めながらこっちを見つめていた。
柚子ちゃんは戸惑った表情、クーちゃんは期待したような表情。どっちも潤んだ瞳で見てくるから、僕はたまらない気分になり、両袖から出ていた触手を二人の口元に持っていった。
「……舐めて?」
我ながら何というお願いだと自己嫌悪しながらも、やはり身体は言う事を聞かず、そればかりか二人が素直に触手に顔を近付けたのだ。
柚子ちゃんとクーちゃんは恐る恐る舌を付け、粘液を喉を鳴らして飲み込むと……唾液に妖しく光る舌を使って、ゆっくりと触手を舐めだした。
とても美味しそうに舌を動かし、触手と舌の間で糸をひく唾液は粘液と混ざり、鼻腔をくすぐる匂いを発する。
ピチャピチャと動物が水を舐め飲むような音が部屋に響き、僕の繋ぎ止めていた最後の理性の糸はその瞬間、音を立てて千切れ飛ん――
「ほりゃっ!!」
「ぐぎゃんっ!?」
――突如頭に落ちた衝撃。星空のように瞬いた視界、全身を突き抜ける、今まで生きてきた中でベスト5に入る痛み。
「夕食だって呼びにきたら……何とか間に合ったわね~」
僕の意識が痛みと衝撃によって消し去られる寸前に聞こえたのは、溜め息混じりの母さんの声であったーー
――僕は、宙を漂っていた。
いや、もしかしたら落下しているのかもしれないし、浮上しているのかもしれない。
そんな不安定な感覚が身体全体を包みこみ、抗う事ができずに僕は、その暗闇の中を漂っていた。
『我の力は他者を陵辱するものではない』
声は、いつもの抑揚ない調子で話しかけてきた。
いや、僕は返事をしないんだから、これはただの独り言なのかもしれない。
『我は生きている、我にも自我がある。我とて……恋が、したい』
僕は、答えられない。答えきれない、どうする事も……できないから。
『我は、貴様に、なりた――』
声を全て聞き終える前に、僕の身体は急に重量を取り戻したように輪郭をはっきりしていき、暗闇は一瞬で光に溢れかえった。
「う……ん」
「ん~、やっと気が付いたみたいね、凛斗」
目蓋を開けると、ぼんやりと天井の木目や梁が視界に映る。徐々にしっかりしていくと、それが僕の部屋ではなく居間の天井なのだと理解できた。
「あれ? 僕――痛っ!?」
仰向けに寝かされていた身体を起こそうとしたら、頭の先から足の指まで一気に痛みが走り、僕はまた畳に突っ伏してしまう。
そっとつむじ辺りを触ったら、案の定腫れていた。
「母さん……お願いだから手加減してよね……」
「あら、あれでも手加減したわよ? 大体フライパンごときでタンコブ作るなんて弱いわね~。凛斗、フライパンを凹ますくらいの頭になりなさい」
それはどんな石頭だと心の中で突っ込み(今は口に出す元気すらない)、痛みに堪えながら辺りを見回した。
僕の部屋にいたあの三人の姿は、居間では見あたらなかった。
「あの三人なら裏山に行ってるわ。触手の粘液で変なスイッチが入ったからね、それを静めるのは宇宙船じゃないと出来ないらしいの」
「そ、そうなんだ」
それが何のスイッチかは聞かなくても分かる、というかうろ覚えだけど、僕は自分のした事を記憶していた。
「また、やっちゃった……」
一番最初に起こったのは、目覚めたその日の夜だった。触手や婚約者とかの話を聞いて気が動転した時、初めて触手が現れた。
クーちゃん曰わく僕の身体の中に細胞レベルで寄生した触手は、興奮状態やその他諸々(今分かっているのは血に反応する事)に反応し、別次元で形成されて現れるらしい。
そんな説明を受けても、その時の僕は急に身体から生えた未知の物体を見て混乱してしまった。
もちろん匂いの抑制も出来ないから、催淫剤の粘液に抗えず、そこにいたクーちゃんやミッちゃん、心配して来ていた柚子ちゃんも……あの時、母さんのシャイニングウィザードが決まってなかったら僕は大変な事をしてたと思う。
そう、今日もまた、僕は母さんに助けられてしまった。
「……何か、多感な中学生としては素直に感謝しきれないんだけどね」
「何言ってんの、あんたの初めて夢精したパンツを洗ったのは誰だと思ってんのよ。青くてイカ臭いのには慣れてるわ」
「さらっと凄い事言われた!?」
「……ただ私のパンツでアレをするなんて、さすがの私でも凛斗の将来を心配するわ」
「アレって何!? いや言わなくても分かるからっていうか変な捏造しないでよ母さん!!?」
何ていう事だ、僕の暴走を止める最後の良心(別に両親に掛けたわけじゃない)である母さんまでセクハラ側に回るとは、この家で僕が心を落ち着けられる場所は残ってないのか。
童貞中学生にセクハラは大ダメージものだと、理解してほしい。
そんな話をしていると、玄関の方から声が上がった。
気弱そうな男性の声を聞いた瞬間母さんは顔を輝かせ、僕に向けていた視線を瞬時に玄関へと変える。
「勇斗さんだわ!!」
勇斗――つまりは父さんの帰宅に目を輝かせ、文字通りすっ飛んでいって出迎えをした。
「やぁ凛子さん、ただいま」
「おかえりなさぁい勇斗さ~ん! 今日の晩御飯は勇斗さんの大好きなお刺身があるわよ~」
仲睦まじくというかラブラブというか……まぁ子供としては、両親の仲が良いのは嬉しい事だ、うん。
「や、ただいま凛斗。さっき凛子さんから聞いたぞ? 駄目だろう三人と関係持とうとするなんて。知り合い同士じゃ後が面倒だから、セフレはまったく知らない子にしなさい。そして最後は一人を徹底的に愛し抜くんだ」
「私はっ、私は勇斗さんを愛し抜いてるわ!」
「分かってるよマイハニー」
「…………」
……この、何というか、性に対して妙にオープンなところが無ければ良い親なんだろうけど。
触手や宇宙人を簡単に受け入れたのは心が広いとかじゃなく、ただ触手が見てみたかっただけじゃないのかと思ったりもする。
だって、
「しかし触手か。そんなものが僕にもあったら、きっと凛子さんをもっと悦ばせてやれるんだろうけどな」
「んもぅ、私は勇斗さんの指と言葉だけで充分気持ちよくなれるわ」
「あれ、なら僕の絞り出し袋と棒は要らないのかな?」
「いる! 勇斗さんの大きい口金から出るクリームで、私は毎日デコレーションされたいのぉ」
…………こうなると止まらない、ていうか止められない。
勝手に盛り上がって部屋に引っ込むのを待つか、後はひたすら無視しか残っていない。
だからだろうか、免疫のない方向に特化した触手に寄生されても、僕が人生を悲観したり自暴自棄にならなかったり、変な流れに身を任せたりしないのは。
「……お風呂、入ってくるね」
いや、それにはもう一つの理由があるはずだ。その事を知っているのは僕だけ、僕しか知らない――『彼』の想い。
知ってるって点で考えるなら、彼本人である触手も入るのかもな。
桃色空間と化した居間から抜け出し、無駄に広い廊下を進む。
土地も合わせて四百坪くらいあるらしいけれど、母屋はそんなに大きくない。と、自分では思う。
前に父さんに聞いたら、母屋は百坪もないらしい。倉や離れ座敷を合わせると分からないけど、家族三人(今はプラス居候二人)で住むには充分すぎる広さである。
「んっ――」
鹿の角や膝丈くらいの屏風や大きな壷とかが雑多に置いてある廊下、歩いていて突然きた立ち眩みに僕は顔をしかめた。
それが催淫効果の余韻と、触手を出した疲れの両方からくるものだと何となく理解し、疲れで重たい足を引きずりながら部屋まで進んだ。
縁側からの障子を開けると八畳の部屋が飛び込んでくる。三方を襖に囲まれた、ベッドと机とテレビ以外何にも無い僕の部屋だ。
そしてさっき、三人の女の子が暴れていた部屋である。
「……まだ匂いが残ってる」
自分には耐性が付いたのかどうか分からないが、僅かな粘液なら催淫効果に耐えられるようになった。
しかし長い時間や濃い匂いを嗅げば効果は表れるし、効果のある粘液を舐めれば一発で理性は吹き飛ぶだろう。
それを考えると、クーちゃんと柚子ちゃんには本当に悪い事をしたなと思う。あんなに舐めたら……その……疼きはなかなか取れないはずだから。
再び自己嫌悪に陥りながら下着とバスタオルを抱え風呂場に向かった。母屋の端のほう、三箇所あるトイレの一つの隣にある風呂場は、まるでどこかの旅館のように広かった。
とりあえず脱衣場だけで、僕の部屋くらいの広さがある。浴槽に関しては旅館風呂そのもので、団体客でも泊める気かと突っ込みたくなるほど立派な造りをしていた。
服を脱いでいると、脱衣場に備え付けられた鏡の自分と目が合った。しばらくじっとお互いを見つめ、手を上げたり舌を出したり、力こぶを頑張って出してみたり。
『――おい、いつまでやるつもりだ』
不意に声が聞こえた。自分以外の人間はいないはずの場所で、誰にも聞こえない、僕にしか聞こえない声はもう一度話しかけてくる。
『我は風呂なるものは嫌いだと何度も言っただろう。水に身体を付けると粘液が落ちて、何だか落ち着かんのだ』
「清潔なほうが身も心もサッパリして気持ちいいよ? 王子が好き嫌いしてちゃ駄目なんじゃないのかな?」
僕は、いまだ風呂は嫌いだと駄々をこねる『鏡の中の自分』に向かって話しかける。すると鏡の中の僕は、今の僕の表情とは違う顔をしながらこう言った。
『触手族の王子とて、嫌いや苦手なものくらいあるわい』
そう言う鏡の中の僕は、いつの間にか様々な触手が色んな場所に巻きついていた。
皮膚を突き破るのとは違い皮膚の表面に不可視の穴が空いて、そこから構成された触手が出てきている。
と、これはクーちゃんからの受け売りだ。
「また……凄いなぁ」
『貴様が我の顕現を許さぬからな。別次元の中くらい、自由に手足を伸ばさせろ』
裸になった僕は、手ぬぐいを一つ持って磨りガラスの戸を開けた。
浴室は入り口以外透明なガラス張りの壁に囲まれた大人数用で、ガラスの壁には湯気によって水滴が張り付き、夜の闇を隠すように曇っている。
十人分はある鏡面台の真ん中に座ると、シャワーを適温にして頭から被った。曇った目の前のガラスからは唸り声が聞こえ、僕は苦笑しながらシャンプーを手に取った。
「こっちの僕が濡れたら、やっぱり別次元の王子も濡れるんだね」
『あ、当たり前だ。別次元といっても平行世界とは違う、いわば多角的視察と平面的推察によって疑似的に構成された、分かりやすく言えば手作りの紙箱のようなものである、しかも子供製。ここが多次元的宇宙の可能性も捨てきれないが、そうなると我の顕現に対する空間深度と歪曲の幅が説明できん。となればやはり平行世界や多次元的宇宙ではなく、単なる別次元と呼称した方が分かりやすいであろう』
「……は、はぁ」
説明をされてもまったく分からなかったので、気のない返事をしながらシャンプーを頭に付けた。途端、また鏡の中の王子が声を上げた。
『くっ! このしゃんぷうは何なのだ!? やたらとスースーして肌に染みて、粘液もどんどん落とされてしまう!!』
前から思ってたが、やはり王子(というより触手全般?)はシャンプーが苦手なようだ。もし口喧嘩になった時の弱味を見つけて、僕は密かに笑った。
――そう。僕は触手に寄生され、その寄生主たる触手の王子と話す事ができるのだ。
鏡のある場所限定で僕以外には聞こえないという、ちょっと精神を心配されそうな事ではあるが、紛れもない事実である。
一応鏡に映した僕の姿をクーちゃん達に見せて確認したから、予想とかではない。皆があると信じていない触手の自我を、王子の性格を僕だけが知っている。
多分それも、触手を今一つ嫌いになれない理由だろう。
「あぁあ……ふぅ」
一通り身体も洗った僕は、親父くさいなと理解しつつもそんな声を出しながら湯船に浸かり、畳んだ手ぬぐいを頭に乗せた。
先ほどの疲れがお湯に溶け出していくようで、その気持ちよさについ鼻歌も歌ってしまう。それを王子はまた煩いと怒鳴り……って、あれ?
「王子?」
癖である鼻歌に、いつもなら文句を言う王子なのに今夜は何も言ってこない。
もしかしたら湯で粘液が落ちすぎてどうかなったのかと思い、急いで湯船から上がろうとした時、
『……我は、やはり不要な存在なのかもしれぬ』
覇気のない声が、僕の頭の中だけに響いた。
「…………」
『元々我ら触手族は他の生物に寄生することで、初めて自我が形成される。我という存在が生まれたのは、貴様に付いた瞬間からでしかない……だが、我の誕生を喜ぶ声は、未だに聞こえぬ』
その声は淡々としているのに、一言一言が僕の胸に刺さっていく。王子の生まれた意味を考えるなら、やっぱり純粋に喜ぶ人はここにはいない。
母星なら、それこそ王子の誕生だから盛大に祝われただろうに、ここでの王子は、ただ『僕に寄生した触手』でしかない。
前にミッちゃんに聞いた事がある、何で触手のお嫁さんをクーちゃんがしないといけないのか、と。
その時ミッちゃんは、それが私達の星の王が決めた事と言い、こう付け加えた。
――触手族の繁栄のため最も繁殖力が強いものを王子とし、こちらの姫と夫婦にする。条約を結ぶために、触手の王子も姫も道具として扱われたのです。
もしかしたら、王子は母星にいても今と変わらなかったのかもしれない。
タイミングと繁殖力の強さによって王子へと奉り立てられ、見知らぬ世界へ放り出された。
そう考えると、クーちゃんもだが王子の事も不憫に思えてならなかった。
「僕は……」
『やめろ。表面だけの慰めなど、愚弄以外の何物でもない』
僕の発言を許さず、王子は疲れきったような声を出した。きっと、皆に悲鳴を上げられる度に彼は苦しかったんだと思う。
だって、人間や触手とか関わらずどんな生き物であれ、他者に最初から嫌われて平気なものなんて、いないはずだから。
嫌で、嫌で、でも王子は触手でいる限り、多分皆から好かれる事はない。
これは、外見の関係しない好意は存在しないって明言されたようなものだった。
覆す事は、王子にも僕にも不可能だろう。
「……僕は、王子と話せて楽しいよ」
――だからこそ、僕は王子の性格もちゃんと見ようと思った。
「僕、あんまり学校に友達いないから……突然で強引だけど、クーちゃんやミッちゃんといたら退屈しないし」
王子の声を聞く事のできる僕だけは、王子の全てをきちんと全部、見ようと思った。
「それに王子も、自分勝手で威張ってて人を見下したように喋るけど……本当は凄く傷付きやすくて、一週間前に僕が転んだ時も、凄く心配して、優しくて――」
『……褒めているのか貶しているのか分からぬな』
「こうやってすぐ軽口を叩くところも含めて、僕は王子と出会えて良かったと思うよ」
確かに、大変だけど。
先を考えると、落ち込む事もあるけど。
僕はこの状況に、一種の充実感を持っているんだ。
『……口から出任せを』
「そう思うのは王子の勝手だ。でも僕は、落ち込んでる“友達”に本当の事を言っただけだよ」
『…………友、達、だと?』
湯船からだと鏡の中は見えないが、王子の声を聞いて驚いているのがよく分かる。
実際僕も、こんな事を言うなんて思ってなかったから凄く驚いていた。
「うん、友達――僕と王子は友達だ!」
最初は小声で言っていたが、段々と僕は声を大きくしていった。
僕だって明言したのだ、僕と王子が切っても切れない友達同士だという事を。
一心同体……あっ、何かちょっと上手い例えだな。
『友達か……友達、か……ふむ、悪くはない響きだな』
「素直じゃないなぁ」
『――ふっ、それが我の性格よ』
王子はどうやら機嫌を直したようで、というより上機嫌になって笑い出した。何が楽しいのかは分からないが、沈んだ気持ちじゃなくなっただけでも良かった。
友達の役に立てて、本当に良かった。
「さてと、そろそろ出よ――」
「うむぅ、まだ身体がフラフラするぞ」
「凛斗兄め……身体を綺麗にしたら速攻でパイルドライバー食らわしにいってやる!!」
「……ポッ、なのです」
…………え?
もしかして、いやもしかしなくても、この声は。
「しかし凛々はどこに行ったんじゃ? 靴はあったから出掛けてはいないようじゃが、部屋にもいなかったし……ガキ、な、なかなかの胸をしておるのぉ」
「ふんっ、私があんた何かに負けるわけ――ななな、何なのその二つの西瓜は!?」
「ポッ、なのです」
――――完全に、あの三人だ。
「どどどうしよう王子!?」
『おお落ち着けっ、さすがに奴らも貴様の服に気付くだろうから、大丈夫なはずだ!』
「そ、そうだよね、焦って損し――」
「あれ? 何で凛斗兄の服がここに?」
「なんじゃ、凛々もずぼらな奴じゃのう。汚れをそのままにしとくとは、どれ、ワシが片付けてやって……」
「姫、顔がエロ親父のようになっています」
「はっ!? なら私の浸かったお湯に、次は凛斗兄が……くふふふ」
…………気付いたんだけど全然気付いてなぁぁーーいっ!?
服があるんだからお風呂に入ってるって気付きそうなものなのに、もしかしてその服が昨日の物とか思ったのか!? えぇっ、何であの三人は気付かないんだよぉ!!?
「ヤバいヤバいヤバい殺される!!」
主に柚子ちゃんのパイルドライバーで殺されてしまう!
ってもう磨りガラスの向こうに肌色の人達と褐色肌の人が見えるんですけどぉぉっ!?
「はっ! 僕がいる事を大声で知らせればっ」
『その瞬間柚子に技を決められ、クー達に迫られるな。逃げ場は無し』
……駄目だ! 皆の憩いの場を血生臭い桃色空間になんてしちゃ駄目だ!!
『仕方ない、貴様に新しい触手の使い方を教えよう』
「っそ、それで危機を脱せられるの!?」
『あぁ、頑張ればな……一か八か、やるか?』
この場合、やるしか選択肢は残ってない――うん。
「王子、教えて!!」
『うむ、ではまずは――』
王子の手短な講義を聞き終わった瞬間、磨りガラスの戸が開けられた。
よし、やってやるんだ僕!
無事に生きてる喜びを掴み取るんだ、僕!!
十一月だというのに、今晩はとても暖かった。
とりあえず顔と、身体の両側は、まるで他人の身体を押し当てたように暖かい。
……まぁ、そんな感じなんだけど。
「どうじゃ凛々、暖かくて身体の一部が熱くなってくるじゃろう?」
「凛斗様、動悸が早いようですがどうしました?」
「……なんでもありまひぇん」
僕はなかば乗ってくるようにくっ付いてくるクーちゃんから身をよじり、胸をこれでもかと押し当ててくるミッちゃんから、往復ビンタで腫れ上がった顔を必死で背けていた。
お風呂の一件、顛末はこうだ。
王子が新しく教えてくれた触手の能力は、ずばり透明になる事だった。
ただこれは凄く集中力を使うらしく、人間のように大きいものが消えるには、相当の体力がいるだろうとの事。
僕はそれに了承し、精神を今までで一番集中させた。すると、触手に寄生された身体は見る見るうちに透けて、勢いよく開いた磨りガラスの戸から入ってきた三人がこちらを見ても、姿は見えていないようであった。
三人の姿を見ないように目を閉じ、壁伝いで僕は出口を目指す、感覚的にあと数歩で着くと分かった時――
――ふにゅん。
「ん?」
手を壁から離し正面を向いた瞬間、両手が何か柔らかいものに触れた。
いや、柔らかいのは表面だけで、掴むとすぐ固い板のようなものに指が当たる。
それに丁度真ん中には、何か突起物が……いや、待てよ。
「この明らかに小さいのは柚子ちゃ――」
「っぎゃあああああああぁぁぁぁああぁあっ!!?」
……その後は連打連打の往復ビンタ。真っ赤になった柚子ちゃんは鬼の形相で僕を叩き続け、遠くではクーちゃん達が、
「凛々め、意外と……」
「覚醒時は馬並、でしょうか?」
何とも訳の分からない会話をしていた。
柚子ちゃんに叩かれても匂いの抑制は何とか守り、また変な事態になる事なく(ズタボロにはなってしまったけど)お風呂の一件は過ぎた。
――と、思ってたんだけど。
「乙女の柔肌を見たんじゃ。その責任は重いぞ?」
「以下同文、なのです」
二人に言い寄られ、そして今の状況だ。
というか考えよう、このベッドに三人はキツいから。
「ふ、二人ともくっ付き過ぎ……」
「仕方ないじゃろう、ベッドが狭いんじゃから。ワシもくっ付きたくて……よっと、凛々にくっ付いてるんじゃない」
「そんな言いながら跨ったのは何で!? ていうかお尻が近いですってぇ何処に顔を近づけてるんですか!?」
「これが凛々本来の匂いか……ヤバい濡れきた」
何がだとは決して突っ込まないと決め、目の前のネグリジェから覗く、というか丸見えのクーちゃんのパンツのお尻から目を逸らすと、僅か数センチの距離にミッちゃんの顔があって驚いた。
鼻息で前髪を揺らしてしまうほどの近距離で、潤んだ唇がそっと言葉を紡いだ。
「……私の胸は暖かいですか?」
「そ、それはもちろんというか柔らかす――わぷっ!」
急に顔を引き寄せられると、僕の頭はミッちゃんの谷間へ特攻。ぽよんと例えようのない柔らかさに包まれ、また女の子特有の甘い匂いを嗅いで、もう僕の頭はクラクラだった。
「おっ、固くなってきたようじゃ――」
「うおっとぉぉぉぉおおっ!!?」
「きゃんっ、なのです」
あああ危ない危ない!? もう少しで男としてとても恥ずかしい事になる所だった!!
跳ね起きて二人共痛かったかもしれないけど、もうさすがに耐えられないよ!!?
「今日はここで寝ていいからっ……だから、その……ごめんなさぁーーいっ!!」
逃げるように、いや、確実に僕は逃げた。童貞中学生には刺激の強すぎる空間から、というかあの二人から。
幸か不幸か、ジンジンとする頬の痛みで頭はすぐに冴えてくれたので、怒って帰った柚子ちゃんに心の中でお礼を言った。
暖色系のオレンジの電球に照らされた廊下を走り(父さん達に考慮して静かにだけど)、庭に面した縁側まで来ると足を止めた。
心臓は音もなく僕の身体を強く叩き、板張りの廊下の冷たさに、今更ながら気付く。冬の、しかも夜の空気は殊更に冷え、パジャマ姿の僕は白い息を吐いて手に吹きかけた。
数瞬もせずに消える雪花を何となく眺めていると、庭の池からポチャンと水が跳ねるような音がした。
石階段に置いてあった下駄を履いてそこまで行けば、小さな蛙が一匹、悠々と池の中を泳いでいた。
「この時期に、珍しいな……」
冬といえば蛇と蛙と熊は冬眠するって言うのに、この蛙は目覚めるのが早すぎたのかもしれない。そして寝覚めの運動にひと泳ぎしようと、池に飛び込んだのかもしれない。
『どうした、変な顔をして』
「……いや、何かいいなって思ってさ」
蛙の作る小さな波紋に揺れながら、池に映った僕の顔の王子が話しかけてきた。僕はそんなに変な顔をしてたかなと思いつつ、さっき思った事を王子に話してみた。
『ロマンチスト、いや夢想家のようだな』
「それ、褒めてないでしょ? でもさ、何ていうか……蛙は寝てるだけなのが勿体なくなったのかなと思ってね。少しばかり早く目覚めて、いつもは見れない世界を見ようと思ったのかなって。その準備運動の場所に家の池を選んでくれたと思ったら、妙に嬉しくなって」
世界は、広い。それを見るのだけでも大変なのに、僕とかには宇宙も関わってきて、毎日休む暇もないくらいだ。
「昨日見上げた月と今日見上げた月は、ちょっとだけど確実に違う。単調で平べったい毎日も、蛙の飛び込みで波立って変わっていく。池は僕、なら蛙は――」
『……貴様の例えからは、そこはかとなく悪意を感じるぞ』
「気のせいだよ」
確かに、大変だけど。
先を考えると、落ち込む事もあるけど。
「王子やクーちゃんやミッちゃんのいる生活、僕は大好きだよ?」
池の水で身を引き締めた蛙は、どんな世界を見るのだろう?
地球を知らなくても宇宙の高さを知っている蛙は、僕にどんな波紋を残してくれるのだろう?
けれどもそれが分かるのは……まだまだ先になるはずだ。
「うぇっくし!!」
『このままだと貴様の見る世界は、熱でぼやける天井になりそうだな』
本当だ、このまま風邪なんて引いたら笑い話にもならない。
自室には戻れないので、仕方なく居間のソファででも寝ようと思い、僕は足早に縁側へと戻った。
後ろからは幕開けか幕引きに鳴るベルのように、また水音が響いて消えた――――
~変わり出す日常・完~