うっかり異世界に転生してしまった俺が、『モナリザ』を描いて一山当てるまでのお話。
憶えているのは、突然聞こえてきた「キキーッ!」という甲高いブレーキの音と、ヘッドライトライトの眩しい光。そして直後、全身を襲うとてつもない衝撃。
――ああ、俺は死んじまったんだ。
戸塚アキラは真っ暗な闇の中で、ようやく自分の身に起きた出来事を理解した。
享年27歳。信号無視のトラックに轢かれ、あっけない死にざまだった。
……思えば俺の人生って、何だったんだろう。
子供の頃は、まあよかった。
友達と一緒に外に出て遊んで、夕方になったら家に帰って大好きなテレビを見て、宿題なんか一日二日遅れて出せばいいや、なんて感じでそれなりに楽しい日々だったと思う。
特に好きだったのはアニメとか漫画とか特撮とかそんなもので、来週の放送が楽しみで仕方なかった幼い頃の俺は、早く明日が来ないかなーなんて思いながら日々を過ごしていた。
そんなこんなで順調にオタクに育っちまった俺は、大学受験の前日にすら深夜アニメを見るという大ポカをやらかし、まあ当然の結果として第一志望の大学には落ちてしまった訳だ。
俺はその結果にちょっぴり後悔したが、でもしょうがないじゃん。ずっと漫画で追っていたマイナーな作品が、ついにアニメ化するんだもん。こんなの絶対見ちゃうでしょ。
結局第二志望のFランにはなんとか合格できたので、妥協してそこに進学することにした。
でも、FランなんてのはFランだからFランって呼ばれてるわけで、そこを卒業しても、俺に用意された就職先はみんな真っ黒ブラックな企業ばかりだった。
こんなところに就職するくらいだったら、アルバイトで食ってくわ! と、俺はフリーター暮らしを始め、オタクとしてはそこそこ幸せな、人としてはなんだかなーという生活を今まで送ってきた。
……それも今日、死んじゃったんだけどね。
なんか、一通り自分の人生を振り返ってみて、悲しくなってきた。
とにかく何よりも、女成分が足りない!
思えば学生時代のオタク仲間も、みんな男だった。もちろん彼女いない歴=年齢だ。
とにかく一度だけでいいから、女の子と付き合ってみたかった。
次の人生があるなら、もうちょっと女っ気のある人生がいいな……
俺の意識は、深い奈落の底へ落ちていく……
目が覚めると俺は、小さな舟のようなものに寝転がっていた。
――あれ、俺死んでない……?
見上げる先は、見知らぬ天井。シックな雰囲気のいい感じな内装である。
一体ここはどこだろうか。とりあえず外に出てみようと体を起こそうとするが、なかなか上手く体が動かない。そしてその拍子に見えた自分の身体に、俺は驚愕する。
「あうあ、ばーぶー(なんだこれは!?)」
何だこのちっさくて丸い手! 声も上手く出ないし!
なんと俺の身体は、赤ん坊のものになっていたのだった。
すると、俺が寝転がっているこの舟みたいなものは、もしかして揺りかごなのか……?
確かに舟にしては水漏れしそうな木編みの仕方だし、よく見てみたら揺りかごそのものだ。
……俺はどうやら、赤ん坊に転生してしまったらしい。
って、まじかよっ! こんなの創作の中の話だけじゃないのか!?
衝撃の事実に、俺はビックリたまげてしまう。しかしそれも、段々と落ち着いてきた。
要するに、人生やり直せるってことなんだよな……?
オタクの人生、それも悪くはなかったけど、リア充になれるのならならせて頂きましょう!
お約束通りいくならば、俺にはすげーステータスとか、チートみたいなものが与えられているはず……!
「ばぶーばぶ、ばぶーばぶ(ステータス! ステータス!)」
しかし何度も唱えてみても、何も見えない。そうか、ステータス系の世界じゃなかったか……
だったら、チートに違いない!
「ばぶーば、ばぶーば(なんか出ろ、なんか出ろ!)」
……何も出なかった。
その他にも色々試してみたが、結果わかったのは、俺が普通の赤ん坊だということだけ。
――おい神様、ちょっと詰めが甘すぎやしませんかっ?
心の中で、未だ姿を現さない創造主に向かって毒づいていると、その時どこからか足音が聞こえてきた。誰かが近づいてくる? 聞こえる足音は、二人分。やがて扉を開ける音と、女の声が聞こえてきた。
「よかった、ウィルは起きてるわ。あなたも顔を見せてあげてちょうだい」
そう言って俺の顔をのぞき込む、金髪美女。どうやらこの世界での俺の名前は、ウィルというらしい。続いてその女の隣に顔を出したのは、これまた精悍な顔つきの金髪の男性。
きっと俺の顔は、二人に似て金髪のイケメンに違いない。これで人生半分イージーモード確定じゃん。やったぜ。俺の両親と思しき二人も、俺の顔を見てほっこりしている。
「ジェラルド、あなたに似て、とっても可愛らしい赤ちゃんだわ」
「ああ、これで私がいつ死んでも、この家は安泰だ」
……私が、いつ死んでも? 俺はその一言に、引っかかるものを感じる。
俺の母と思われる金髪美女も、ジェラルドの言葉に抗議するように言う。
「そんなこと言わないで、ジェラルド。今度の戦も、大したことないんでしょう?」
「王に仕える騎士として、命を掛けるのには変わりないさ。もちろん死ぬつもりなんてないが、私の命は我が王に預けてある。だからこそ、私の後を継ぐウィルの存在が頼もしいのさ」
このジェラルドって人、どうやら騎士らしい。そして俺は、その騎士の家の長男に生まれたみたいなのだ。……つまり俺は、騎士を継がなきゃいけないってこと?
そんなの無理に決まってる!
そもそも俺は平和な日本に生まれ育ったわけで、命を掛けて戦うなんてことはまっぴらごめんだ。そもそも騎士なんて、むさ苦しいおっさんどもが槍を突きあって殺し合う職業なんだろ? そんな暑苦しくて厳しい職業なんて、絶対に継ぎたくない。
「……愛してるよ、ウィリアム」
父上は去り際にそう言ってくれたけど、赤ん坊の俺は内心、途方に暮れていた。
結局ジェラルド父上がベイカー家の屋敷に帰還したのは、それから一年経ってからだった。
五体満足で帰ってきた父親に、ほっと一安心する俺。
もちろん家族としての愛着もあったけれど、なにより父上が死んでしまったら、俺が騎士としてこの家を継ぐのが早まってしまうのだ。さすがにそれは御免こうむりたい。
とにかく俺は、どうにかして騎士を継がない方法はないか、ずっと考えてきた。
そのためにはまず、この世界について観察しなければいけない。
そしてまず分かったことは、どうやら俺が生まれ変わったこの世界は、完全に中世だということ。そして残念なことに、魔法の類は存在していないということだった。本物のメイドさんはいたけどね。
つまりこの世界の騎士は現実世界でそうだったのと同じように、鎧を着て剣や弓や槍で血なま臭く殺し合いをしているということになる。
こんな世界、チートなしでどうやって生きぬけって言うんだ! ……俺は、ますます騎士になんてなりたくなくなってしまった。
一方の父上は、後継ぎとして俺にかなりの期待しているようで、屋敷に滞在している間も父上はよく、赤ん坊の俺に戦場での武勇伝を語り聞かせてくる。
父親としては、王に忠誠を誓い、戦場で勇ましく戦っていくことの素晴らしさを語っているつもりなのだろうが、俺にとってはむしろ戦場の過酷さばかりが目について仕方ない。
ますます戦嫌いになった俺は、絶対に騎士になるもんかと固く心に誓ったのだった。
そして今、俺はマリア母上の胸の中に抱かれて、身動きが取れないでいた。母上と父上は、椅子に座ったまま前を見据えて、にっこりと微笑んでいる。
そしてその向こう側には、キャンパスを立てて筆を動かしている一人の画家がいた。
なんでも父上が、「私はいつ命を落とすかわからないから、家族と一緒に絵という形で残してもらいたい」ということで、屋敷に画家を招いて絵を描いてもらっていたのだった。
確かにこの世界は中世に相当するのだから、カメラというものは存在しないわけで、だとすればこうやって絵を描いてもらうというのも自然な行動なのかもしれない。
画家の身なりは小奇麗で、どうやらなかなか儲かっているらしい。十三、四歳くらいの弟子と思われる少年をアシスタントにこき使っていた。
そうか、画家か……それって結構、いいかもしれないぞ……!
絵は描けば描くほど上手くなるっていうし、こんな小さい頃から画家を目指せば、ある程度いいところまで行けるはずだ。その上、俺は現代からある程度知識を持ち込んでいる。
歴史の中でどういう絵が受けてきたのかというのも一般常識レベルならちゃんと知ってるし、パースとかもある程度理解しているつもりだ。
よしっ、行ける。というより……行くしかない!
俺は、画家になる! 画家になって、今度こそ長生き・リア充人生を送ってやる!
――父上の思惑とは裏腹に、どんどん騎士の道から外れていく俺・ウィリアム(1歳)であった。
◇ ◇ ◇
そして「ベイカー家の家族」と名付けられたその絵は、屋敷の大広間の目立つところに飾られたのだったが――その二年後、ベイカー家にはもう一人家族が増えることになる。
父上と母上の間に、二人目の子供が生まれたのだ。
元気な男の子で、ナイジェラスと名付けられた。俺にとっては待望の弟である。
「ほーらウィリアム、お前の弟だよー」
俺は父上に抱えられて、弟と対面する。
弟のナイジェラスは安らかな寝顔で、揺りかごの中ですやすやと眠っていた。
俺はそれを見て、しめしめと笑みをこぼす。
俺が画家として生きていくためには、俺の代わりにこの家を継いでもらう人間が必要だったのだ。そのためのピースが、今ここに揃った。
「あらあら、ウィルも弟が出来てご機嫌みたいね」
そんな俺の笑みの意味も知らずに、ベッドの上の母上が嬉しそうに言う。
当然、俺が騎士としての務めを全部この弟に押し付けようと考えているなんて、知る由もなかった。
それからしばらく母上は、生まれたばかりのナイジェラスにつきっきりで世話をすることになった。乳を飲ませたり、おしめを替えたり、あやしたりと弟の相手に忙しく、俺から目を離すことが多くなる。
その間自由に屋敷を歩き回れるようになった俺は、そろそろ画家を目指して動き出すことにした。
父上にねだって買ってきてもらったスケッチブックと鉛筆を片手に、俺は屋敷の一室で部屋の花瓶の写生を始める。
とにかく模写をすることが絵が上手くなる第一歩だということを、生前聞いた覚えがある。だからこそ紙と鉛筆を買ってもらったらすぐに、模写を始めたのだった。
それにしてもこの時代、紙とか鉛筆だってそこそこ高価だろうに、こうポンと買ってもらえるのは、騎士の家に生まれた特権かもしれない。
机の真ん中に置かれた花瓶と睨めっこして、模写を始める三歳児の図。
……よくよく考えてみれば、不気味すぎる気がする。
足音が聞こえると、俺はスケッチブックを閉じる。すると部屋の前に通りかかった父上が、開けておいた部屋のドアからひょっこりと顔を出した。
「ウィル、また絵を描いているのかい?」
「うん!」
俺は元気よく答える。三十路の立派な大人としては若干キモ過ぎる受け答えだが、しかし今の俺は三歳の子供なのだ。これぐらいが丁度いいだろう。
「そうか、それじゃあお父さんに、何を描いたのか見せてくれないかな?」
「はいっ!」
そう言って俺は、近づいてくる父親にスケッチブックの一番上を開いて見せる。
「へーえ、上手いじゃないか。花瓶を描いたのかな?」
「うん! がんばって描いたよ!」
――スケッチブックに描かれているのは、三歳の子供相応のたどたどしい絵だった。
そう、俺が見せたのは、さっきまで模写していた花瓶の絵ではない。こうなったときのためにスケッチブックの上の方にあらかじめ描いておいた、ダミーの絵だったのだ! さっきまで描いていた模写の絵は、スケッチブックの下の方に隠している。
俺は今、完璧な人生計画を立てて、それを実行している。そのために俺が今演じなければいけないのは、早熟の天才少年ではなく、ただ絵が好きな男の子のほほえましい姿なのだ。
何もそこまでしなくてもなんて思われるかもしれないが、父上と母上は何がなんでも俺を騎士にしたいと思っているのだ。ここで行き過ぎた絵の才能を見せてしまえば、最悪絵の道具を取り上げられてしまう可能性だってある。それだけは何とかして避けなければならない。
「ウィルは本当に絵が上手だな! ……もしかしたら、画家になれるかもしれないぞ?」
父上は小さな子供と油断して、呑気にもそんなことを言っている。
――なれるかもじゃないっ、なるんだよっ。
俺はそんな父上に向かって笑顔で頷きながら、つっこむように心の中で呟いた。
そして俺が5歳の誕生日を迎えると、とうとう騎士としての稽古が始まった。弓や剣などの武器の基本的な扱いから乗馬など、騎士として必要とされる技量を俺は教え込まれていく。
教師となったのは大抵が現役の騎士である父上だったが、時には教育熱心な母上からも教わった。元々母上は裕福な商人の家に生まれ、特に馬の扱いに長けていた。だからジェラルド父上が不在の時は、代わってマリア母上が乗馬の稽古をつけてくれたものだ。
両親から稽古をつけられている間、俺は何一つ不満を言わずにそれをこなしていった。目当ては二人がご褒美にくれる、クレヨンや絵の具だ。
この頃になると、もう両親も俺が絵を描くのが大好きだということをよく知っていた。だから俺がさりげなく絵の道具をねだると、「稽古を頑張ったら買ってきてあげるよ」と稽古のご褒美に何かをくれるようになったのだ。
俺はありがたくそれを頂戴すると、稽古の合間を盗んで屋敷を抜け出し、スケッチブックを片手に絵を描きまくった。とにかくこの景色なんかいいなって思ったら、俺はすぐにそこに座り込んで、人目をはばからずに絵を描き始める。
道行く人たちはそんな俺に気が付くと、決まって何を描いているのかと覗き込んでくるのだったが、そこに描かれた細緻な風景画を見て、驚きの声を上げたものだ。
やがてそんな俺の噂は近所に広まって、お屋敷の両親の耳にも届くようになった。
「……またあの子、町に絵を描きに行ったみたいね」
「まあいいじゃないか、ウィルもまだ子供だし、好きなことをやらせれば」
そう言ってジェラルドは、白磁のティーカップを口元へ運ぶ。
マリアとジェラルドは夫婦そろって、午後のティータイムを楽しんでいた。
ようやく寝かしつけたナイジェラスを優しく胸に抱きながら、マリアはテラスからお屋敷の庭を一望する。よく手入れをされた庭の生け垣や花々の間に、ウィリアムの姿はない。
ウィリアムはまたいつものように、昼の稽古を終えた後、少し目を離した隙にいなくなってしまったのだった。
「私、少し不安だわ。ウィルったら稽古と食事のとき以外、決まって何か絵を描いてるんですもの。流石にのめり込み過ぎじゃないかしら」
マリアは心配そうにそう切り出した。しかしそんなマリアの不安を、ジェラルドは笑い飛ばす。
「別にそれで騎士の修行が疎かになるならともかく、今日の稽古もちゃんと頑張ってたんだから、心配する必要はないんじゃないかな? ウィルの絵は評判がいいらしいし、私はそのまま好きにさせておけばいいと思うよ」
「本当に、それでいいのかしら……」
ジェラルドの言葉に、マリアは不安げに呟く。
言葉に出来ない予感めいたものでしかなかったので、それ以上は強く言えず、結局ウィリアムのことはジェラルドの言う通り放任することになったのだった。
◇ ◇ ◇
そして十年後。15歳になった俺はすくすくと成長し――本が似合う、ちょっと影がある感じな、線の細い金髪美少年に成長した。
見るからな優男で、大柄で筋肉質な父上とは似ても似つかない。しかし顔立ちに何処か面影を残していること、そして透き通ったブルーの瞳が、親子だということをはっきりと主張していた。
「私の若い頃そっくりだ」なんてジェラルド父上は言うけれど、本当だろうか? あんな厚い胸板の持ち主が、昔は俺みたいなひょろい若造だったなんて、にわかに信じられない。
俺は成長して初めて、父上の偉大さが分かってきた。
こりゃ、画家を目指して正解だわ。とても父上のようにはなれそうにない。
一応つぶしが効くようにと騎士の稽古もちゃんと受けてきたつもりだったけれど、剣術も弓術も、父上には一生敵わないということが分かっただけだった。
ただ、俺にとって救いなのは、弟のナイジェラスの方は見込みがありそうだということだ。
最近は俺たち二人で一緒に稽古を受けるのだが、あいつは父上が教えたことをどんどん吸収していって、あっという間に俺の三年分を追い越していきやがった。
騎士としての才能は、俺の数段上。性格の方は、いたって好青年。よし、俺の代わりにベイカー家を継ぐに相応しい人間だな。
……少なくとも先月の初陣でゲロ吐きっぱなしの俺と比べれば、誰だって向いてるに違いないが。
あの時のことは、俺自身思い出したくない記憶だ。ああ、本当に忌々しい。
ただ一方で、肝心の絵描きとしての俺は、地元ではちょっとした有名人になっていた。神童なんて呼ばれて町では持て囃されていたが、しかし絵だけで飯を食うにはもう一押し足りない。何か成り上がるための、きっかけが欲しいところだ。
そんなこんなで、俺の異世界での十五年はあっという間に過ぎ去っていったのだった。
そして16歳のある日、父上が突然俺一人に稽古をつけてくれることになった。普段はナイジェラスと一緒に稽古をつけてもらうことになっていたから、これは珍しいことだ。
どうしたんだろうと思いながら、俺は父上の後ろをついて行く。
俺たちはお屋敷の裏庭で親子二人、剣を携えて向かい合った。
「さあ、いつでもかかって来なさい」
ジェラルド父上はそう言って、腰の剣を引き抜く。稽古開始の合図だ。
実際に剣を交える、実践式の稽古である。剣は稽古用のなまくらではあるが、それでも重い鉄の塊。一歩間違えれば死に至りかねない、危険な凶器である。
もし未熟な者同士でやれば一大事に繋がりかねないが、そこはさすが父上、指導の対象である俺に全力を出させつつ、安全も確保している。圧倒的な実力がなせる技であった。
俺も同じように剣を抜くと、相手の隙を窺うようにじっと見据える。
……駄目だ。隙らしい隙は、全く見当たらない。適度に脱力されたその構えは、どの方向から斬りかかられても対応しきれるものだ。
俺は距離を保ちつつ、どうにかして隙を見つけようと、じりじりと円を描くようにして父上の周りをぐるりと回っていく。その間父上は微動だにせず、静かに剣を構えていた。
やはり駄目だ。打ち込む隙は皆無、例え背後から斬りかかったとしても、父上は対応しきるに違いない。
仕方ない、このまま尻込みしていたところで勝機など生まれようがないのだ。だったら――
「――やあっ!」
俺は剣を前に構えると、勢いよく間合いを詰めて、思いっきり剣を振り下ろした!
キィン! 金属同士を打ち鳴らす、甲高い音が鳴り響く。
俺のその渾身の一撃も、父上は軽々と受け止めてしまったのだ。
「ふんっ、ウィルもまだまだ甘いな」
そう言って父上が軽く剣を振り払うと、弾かれた剣と一緒に、俺は後ろにのけ反るように体勢を崩した。絶好の追撃チャンスだったが、父上は敢えてそれを見逃す。そして体勢を立て直した俺は、再び父上に向かって斬りかかった。
しかし――
「甘いっ! まだまだ踏み込みが甘いぞっ」
何度も何度も試してみても、俺の剣は父上に軽々と受け止められ、いなされてしまう。それでも俺は立ち上がり、諦めずに向かっていく。これがベイカー家の稽古なのだ。
俺はなんとか一本父上から奪おうと必死で挑み続けたが、俺の一撃はことごとく撃ち落とされてしまう。
おそらく二、三時間はずっとそうしていただろう。そして結局俺は、父親相手に一本も取れずに稽古を終えたのだった……。
稽古の後、父上と俺は水筒を片手に、草むらの上に並んで座った。俺はすぐさま水筒のふたを取ると、ごくごくと中身を飲み干す。
さっきからずっと休みなしで立ち合いの稽古を続けてきたのだ。喉が渇いて仕方がなかった。
父上はそんな俺を見て、隣でにこにこと笑っている。
「どうだ、調子は? ウィルも一度戦場を経験して、一皮むけたんじゃないか?」
そう言って父上は、期待を込めた瞳で俺に向かって訊ねて来る。
まだ父上は、俺に対する期待を捨てていないらしい。
しかし俺は、静かに首を横に振った。
「父上も分かっているでしょう? 結局今日も、一本も取れなかった」
騎士として戦場に出るのが嫌で画家を目指しているとはいえ、俺だって一応、稽古では一度も手を抜いたつもりはなかった。それでもこれだけしか伸びないのだから、俺の騎士としての才能はこの程度なのだろう。
俺はとっくに騎士の道は諦めて、選択肢から外していた。こんな調子じゃ戦場で一騎打ちにでもなれば、あっけなく命を落とすのは目に見えている。俺だって無駄死にはしたくない。
「そうか、そうだな……。だが、私もウィルぐらいの年の頃は、体が小さくてよく馬鹿にされたものだ。ウィルだって見込みはあるはずさ」
父上もそう言った後、黙り込んでしまった。
やはり父上も、俺の騎士としての才能のなさに気付いているのだろう。それでも諦めようとしないのは、そのことから目を背けているに過ぎないのだ。
「そうだ、ウィル、絵はどんな感じなんだ?」
沈黙を破って、父上が唐突に言い出した。
「絵? ……ああ、あの絵のことなら、もうすぐで描き終わるよ」
俺は一瞬考えたが、多分、あの絵のことだろう。俺には今、取り掛かっている最中の絵があった。それは何かというと、家族の絵である。
大広間には未だに弟のナイジェラス抜きの「ベイカー家の家族」の絵が掛けられており、それに違和感を持った俺は、弟を加えた「今のベイカー家」の絵を描こうと思い立ったのだ。
しかしどうやら父上が言いたいのは、別の話らしい。
「いや、そのことじゃない。その絵に限ったことじゃなくて――ウィル、絵についてもっと勉強したくはないか?」
「勉強?」
不意の父上の言葉に、俺は問い返した。父上は頷いて、
「ああ、そうだ。実はお前の噂を聞いて、是非弟子にしたいと言う画家の先生がいるんだ。以前お前の絵を見せたんだが、とても気に入ったらしい」
「それは本当ですか、父上!?」
俺は思わず声が大きくなってしまった。しかし、それも当然のことだろう。
それが本当ならば、画家として生きていく目途が立ったということだからだ。
俺は今まで、死にたくないという一心で絵を描きまくってきたのだ。……ああ、今まで死に物狂いで頑張ってきた甲斐があった。
「嘘を言うものか、それで、どうだ? ウィル、お前はどうしたい?」
そう言って、父上は俺の様子をじっと見つめている。
ここは当然、イエスしかない。俺は自然と笑みがこぼれるのを噛みしめながら、何とか殊勝に見えるように答えた。
「もちろん、僕にとっては願ってもない話です! ……父上が許して下さるのならば、ですが」
俺がそう言うと、父上は「別に私に気を遣う必要はないんだよ、お前はわたしの息子なのだからね」と、そう言ってにっこりと笑う。
「正直、この話をお前に話すべきか迷ったものだ。その気になれば、私が黙って握りつぶすことだって出来たのだからね。……だが、せっかくお前の才能が認められたんだ、やりたいことをやらせるのが一番と思い直してね、話すことにしたんだ」
「ありがとうございます、父上!」
そう言って、頭を下げる俺。しかし心の中では浮かれっぱなしである。
――よっしゃあ! これでむさ苦しい騎士生活とはおさらばだっ!
口では殊勝な息子を演じていたが、内心はガッツポーズで喜びまくりの俺だった。
こうして俺は、王都にあるその画家の工房に修行に行くことになった。しかしその前に、俺は大急ぎで「新・ベイカー家の家族」を描き上げることにする。俺がこの家に残す、最後の作品なのだ。嫌でも気合が入ってしまう。
そして出発の前日、ようやく納得のいく出来で仕上げることができた。
優し気な微笑みをたたえた、四人の姿。それが温かみのある筆づかいで表現できたと思う。
「おお、これはすごいな……!」
大広間に飾られたその絵を見て、父上たちも口をそろえて賞賛する。プロの絵と並べてみても、引けを取らないどころか、ずっと目を引くような「良い絵」に仕上がっていた。
これで父上と母上も、安心して俺を送り出すことができるだろう。
そして翌日。とうとう王都行きの日が訪れた。俺にとっては、待ちに待った一日だ。
出発に備える馬車の前で、家族総出で見送りに来てくれた。
「病気にだけは気を付けるのよ、手紙も毎月忘れずに出して頂戴ね」
「分かってるって、母上。絶対に忘れないから」
そう何度も繰り返す母上に、俺は安心させるようにそう言った。
俺が今生きている世界は、現代のように交通網が発達していない。一度遠出をしたら、飛行機や新幹線に乗ってすぐ帰ってくる――なんてことはできないのだ。しばらく会えなくなると思うと、俺もなんだか寂しいような気がしてきた。
彼らは俺の、血の繋がった実の家族に違いないのだ。今までずっと同じ屋根の下に暮らしてきた。転生先の人生だと言っても、元の世界の家族と同じか、それ以上の愛着があった。
「次に会う時には、立派な先生になって帰ってくるんだぞ? ベイカー家の名を上げてくるつもりで頑張って来い。なんなら、嫁さんも貰ってきてもいいぞ」
「こっちのことは僕に任せて、安心して絵の勉強頑張ってきて下さい、兄さん」
そう声を掛けられて、家族に見送られながら俺は馬車に乗り込んだ。
木製の硬い座席に腰掛けて、俺は馬車の上から父上たちに向かって手を振る。皆はそれを見て、手を振り返してくれた。
やがてゆっくりと馬車は動き始める。俺は皆が見えなくなるまで、ずっと手を振り続けたのだった。
◇ ◇ ◇
馬車での長旅は、お世辞にも快適とは言えなかった。ガタガタ揺れるわケツは痛いわ、乗り合わせるのはみんな男ばかりだわで、その上目的地の王都まで何週間もかかるのだ。この世界に生まれ変わってもう十余年経つが、生前のあの快適な移動網だけはなかなか忘れられない。
それでも自分で馬に乗って移動するよりかは神経も使わずに気楽にいられるので、マシだと諦めるしかない。だけど早朝の満員電車すら恋しくなるとは、思いもしなかった……。
今なら移動のために一時間や二時間、電車の中にすし詰めされるくらい、どうってことない。それで済むんなら、むしろ歓迎したいぐらいだった。
さらに数日後。ようやく王都に近づいて来たのか、道も舗装され平らになってきて、行き交う人たちで賑わってきた。過ぎ行く町並みも、どこか都会じみてきた感じがする。
きっとこの先に、王都があるんだろう。商業と文化の中心地にして、王宮のお膝元、様々な人々が集まってくる場所だ。そこに俺の修行先である、高名な画家のアトリエもあった。
その名もエリック・ボーマンといってそこそこ売れてる画家らしいのだが、俺自身あまりよく知らない。どんな絵を描くのかすらも見たことなかったが、まあ売れてるらしいということは何となく聞き伝わってきていたので、俺にとってはそれで十分だった。
俺たちの乗った馬車は王都の入り口らしい巨大な門を通り、速度を落としながら、煉瓦造りの建物の間の石畳の道を進んで行く。そして大きな円形の広場に到着したところで立ち止まり、俺はようやく馬車から降りて王都の地へ降り立った。
ここが、王都か……。俺は辺りをぐるりと見まわす。
まず目につくのは石畳の地面と、大きな煉瓦造りの建物群である。これらがいかにもヨーロッパ風といった街並みを形成していて、趣深い。
そして流石は王都、国の中心だけあって様々な風俗の人々が行き交っている。身なりの良い商人やら簡素な服装の職人やらみすぼらしい乞食やらが、平然と同じ空間に共存していた。
俺が今まで生きてきた辺鄙なド田舎とは、比べ物にならないぐらいの大都会である。しかし、戸惑ってばかりもいられない。……まずはボーマンとやらのアトリエに向かおう。そして俺は荷物を抱えると、活気あふれる街中をゆっくりと歩き始めたのだった。
「やあ、君がここに新しく弟子入りすることになったっていう、ベイカー君だね。僕はグラバー、トム・グラバーだ。よろしくね」
そう言って俺に握手を求めるのは、俺の兄弟子にあたるという金髪癖っ毛の少年。おそらく俺と同年代だろう、オーバーオールに絵の具で袖の汚れた白いシャツを着て、ボーマン氏のアトリエで俺を出迎えてくれたのだった。
「今日はボーマン先生は所用で居ないんだ。だから代わりに僕が、アトリエを案内するね」
そう言ってトム君は俺を連れて、この建物を案内してくれた。
どうやら俺は、このアトリエに住み込みで働くことになるらしい。そしてボーマン氏のアシスタントとして働きながら彼の技術を学び、空いた時間に自分の作品を手掛けるのだということをトム君は教えてくれた。
「ここが君の部屋だよ。……それじゃあ僕は仕事に戻るから、何か用があったら、下のアトリエに来てくれれば僕はそこにいるから」
そう言ってトム君は、部屋の前で俺と別れると、下の階のアトリエに降りていってしまった。おそらくこれから「自分の作品」ってやつに取り掛かるのだろう。
しかし俺は、今すぐ仕事に取り掛かる気にはなれなかった。とにかく今日はしっかり休んで、それから考えよう。俺はドアノブに手を掛けると、部屋の中へ。
長旅でクタクタに疲れていた俺は、部屋の隅に荷物をポイと置くと、真っ先にベッドの上にダイブした。ふかふかとまでは言わないが、今までのショボい宿屋の寝台よりかはずっと良い。ようやく落ち着くことができそうだ。
ここが、俺の新しい住み家か……。生まれ育ったお屋敷のように広くはないが、俺一人が生活する分には十分な広さがあり、そこそこ快適に過ごせるだろう。
そしてここから、俺の新しい人生が始まるのだ。
――まず最優先なのは、女の子と仲良くなることだ! 兎にも角にも、出会いが欲しい!
これからの生活に胸をときめかせながら、俺はゆっくりと眠りにつくのだった。
◇ ◇ ◇
そして翌日から、俺の画家としての修行生活が始まった。
ボーマン氏がアトリエに帰ってきたのはその日の昼頃だったのだが、挨拶もそこそこに、絵画の依頼を取り付けてきたらしく、さっそく俺はボーマン師匠に付いて仕事に取り掛かることになる。
「よーし、さっそく今日から働いてもらおうか。まずは顔料の買い出しに、トムについて行ってこい! ……大事な仕事だからな、あいつに色々教えてもらえ」
……ということで、初めての仕事は買い出しの雑用だった。
それからは、師匠の隣で雑用をこなしつつ、技術を吸収していく日々。俺はそれを、甘んじて受け入れていた。とにかくまずは、いつこのアトリエを放り出されてもやっていけるだけの知識をつけていかなければならない。
俺自身は、これまで積み上げてきた絵の実力には結構な自信があったが、それでもこの世界の画壇のしきたりであったり、流行だったり、そういうものに関しては全くと言っていいほど知識不足だった。それらを学ぶには、最前線で活躍しているボーマン先生の隣というのはうってつけの場所だ。
別に俺は、画家として名を上げようなんて思っちゃいない。ただ、平和に生きていくための手段として、今の俺には学ばなければいけないことが山ほどあったというだけだ。
そしてオフになると、俺はアトリエを出て街中を散策する。今はトムみたいに自分の芸術活動に精を出すよりも、とにかく出会いというか、そう言うきっかけみたいなものが俺は欲しかったのだ。
そしてその甲斐あってか、俺は最近、自分的に穴場だと思う場所を見つけていた。そこはある喫茶店で、やけに客に美人が多いのだ。
その喫茶店は、どうも近くにある劇場の若手女優たちの行きつけの場所らしく、劇の合間を見計らって来てみると、決まってオフの女優の何人かがたむろっていた。
明らかに高嶺の花と分かる、美少女たち。
俺は思い切って、彼女たちに声を掛けてみることにした。
最初は彼女たちも不審がっていたが、俺が騎士の家に生まれて、今は画家として修業をしていることを話すと、興味を持ってくれたらしい。それからとんとん拍子に話が進み、俺は個人的に、彼女たちの肖像画を描くことに決まった。
そして描き上げた絵を見せると、かなりの好評判で、「私のことも描いてほしい!」と噂を聞きつけた女の子たちが押し寄せ、今では順番待ちの大繁盛である。
そもそも女優になろうなんて思う女の子は、みんな自分の容姿に自信がある人ばかりなのだ。その上何人かの自慢したがりが俺の描いた絵を見せびらかしたらしく、こぞって肖像画を描いてもらおうと押し寄せてきたというわけだ。
俺の思惑通り、女の子と仲良くなれるわ宣伝効果抜群だわと一石二鳥である。特に、こんな美人な女の子たちに囲まれるなんて、俺には初めての経験だった。
まあ彼女たちには他に本命の男とかパトロンみたいなのがいるんだろうし、そもそも俺は異性として意識されてない節もあったけれど……それでも俺にとっては十分天国みたいなものだった。
「やあベイカー君、またお出かけかい?」
後ろから声を掛けてきたのは、兄弟子のトム・グラバーだった。画材を抱えてアトリエから出かけようとしていた俺は、その声に振り返る。
「まあね、最近ちょっと忙しくてさ」
俺がおどけたようにそう言うと、トムもにやりと笑う。
「そう言って、また女の子のところに行くんでしょ」
俺の行動は、トムたちアトリエの人間にも知られることなっていた。一応お咎めは無かったので好き勝手やらせてもらっているが、たまにこうやっておちょくってきたりするのが痛いところだ。
「いいか、俺は真面目なビジネスとしてやってるんだぞ? 俺は額縁の中に綺麗な女の子の絵を描く、そして女の子は俺と仲良くしてくれる。――ウィンウィンじゃないか」
「……それ、言ってて悲しくならない?」
真面目な顔でそう言った俺に、トムが呆れて言った。しかし俺は首を振る。
「いいや全然悲しくなんかないぞ。むしろ自分を誉めてあげたいぐらいだ。前はソシャゲの女の子のデータに大金貢いでたんだ、リアルの女の子に絵を貢ぐのなら一歩前進じゃないか」
俺は胸を張ってそう言ったが、しかしトムは「……ソシャゲ? データ?」と首をかしげている。
……ああそうか、ここは異世界だったんだ。俺はハッと思い出す。
ついあっちの友達と喋る感覚でうっかり口走ってしまったが、こっちにはそもそもスマホどころか電気すらないのだ。向こうからしたら意味不明なのも当然だろう。
俺は慌てて「何でもない、忘れて忘れて」と言う。トムは少し不審げな様子だったが――よかった、なんとか誤魔化せたみたいだ。俺はひとまずホッとする。
「それで、僕はこれから今度の品評会に出す絵を描こうと思ってるんだけど、君は描かないの?」
話題は飛んで、今度の品評会の話になった。
トムの言う品評会とは『銀聖会』といって、毎年この時期に開かれる、若手の登竜門的な位置づけの絵の大会だ。一等を取れば今後の成功は約束されたも同然という権威のあるもので、トムもそれを目指して作品作りを始めていうという話だったが……。
「うーん、別に俺はそういうのはいいかな……」
俺は正直、あまり興味がなかった。画家として有名になったところで、余計な仕事が増えるだけで、自由に使える時間が少なくなるだけにしか俺には思えなかったからだ。
しかし、トムはそうは思わなかったらしい。
「えー、勿体ないなあ。ベイカー君は結構実力あるから、いい所まで行けると思うんだけどな……」
「ははは、本当にそう思ってるんなら、手ごわいライバルが一人減った訳なんだし、大いに喜んでくれていいんだぜ?」
「確かにそうかもね。……でも、気が変わったらいつでもアトリエに描きに来なよ。君が女の子の絵以外に、どんな絵を描くのか興味があるからね」
そう言ってトムが笑うと、俺もつられて笑顔になる。そして手を振ってトムと別れると、アトリエを出ていつもの喫茶店へ向かったのだった。
そしてその週の週末、俺は自分の作品に集中したいというトムに代わって、ボーマン先生の補佐としてある仕事について行くことになった。
その仕事というのはなんでもこの国のさる名家からの依頼なのだが、その家のご令嬢が16歳になる記念として肖像画を描いてほしい、というものらしい。
「いいか、相手はあのエーデルフォルテ家なんだ。絶対に失礼のないようにするんだぞ?」
そのエーデルフォルテ家とやらの屋敷の敷地の前で、ボーマン先生が緊張の面持ちで俺に言う。
確かにこの目の前の表札、「この先エーデルフォルテ領」の文字は伊達じゃない。
この先の広大な敷地全てがエーデルフォルテ家の敷地なのだろう。それも、王都から目と鼻の先に、だ。きっと、かなりの権力者に違いない。
俺は気を引き締めると、ボーマン先生の後ろについて、その「エーデルフォルテ領」に足を踏み入れたのだった。
「ようこそおいで下さった、ボーマン殿。どうぞ、お茶でもいかがですか?」
「いやあ、お気遣いなく! ……それで、こちらが私の弟子のウィリアム・ベイカーです。ほら、挨拶しなさい」
そう言われて俺は、目の前の紳士に「よろしくお願いします」と頭を下げる。
今、俺たちがいるのは屋敷の応接間だ。ボーマン先生と二人で「エーデルフォルテ領」の敷地を跨った後、出迎えに来た使用人に連れられてここまでやって来たのだった。
うっかりするとまるで某ネズミのテーマパークと間違えそうになるほどの広大な敷地の、その中心にそのお屋敷はあった。人工の湖の傍らにそびえたっているその青い館は、湖畔の洋館という名が相応しい。
まさにザ・貴族のお屋敷である。さすがの俺も、そわそわせざるを得ない。
ここに来るまでに目にした、様々なインテリアの数々。頭上に吊るされた白銀のシャンデリアから、ちょこんと置かれた焦げ茶色の木のテーブルに至るまで、門外漢である俺にすらその意匠の細やかさが分かるくらいの名品揃いである。
その一つ一つが、目の前のこの壮年の紳士――エーデルフォルテ卿の審美眼と、権力の強さを物語っているのだった。
応接間のソファーに座ってエーデルフォルテ卿と向かい合って世間話に興じる先生と、その隣で借りてきた猫のように大人しく黙り込む俺。しかし、その時コンコンとノックする音が聞こえ――それを聞いて、目の前の紳士は口を開く。
「どうやら儂の娘が来たようですな。エリザベート、お入りなさい」
ガチャリという音がして、応接間の扉が開いた。そして次の瞬間、俺は思わず息を飲む。
初雪のように透き通った白い肌に、輝く金色のウェーブがかった長い髪。あどけない少女の面影を残しながらも大人の階段を上りつつあるような、そこにいたのはそんな美しい少女だったのだ。
――心を奪われるということは、きっとこういうことを言うんだろう。
生きてきた人生の長さなんて関係なかった。
今まで二つの人生、合わせて44年生きてきた17歳の俺だったが――まるでうぶな10歳の少年のように、見事に心を射止められてしまっていたのだ。
エリザベートと呼ばれた少女は、扉を閉めると真っ先に父親のもとに向かうと、何やら抗議するように、口元をとがらせて言う。
「ああもうお父様、わたしは別に絵なんて描いて貰わなくてもいいって言ったでしょう!?」
「まあいいじゃないか、儂は娘の晴れの姿を残しておきたいだけなんだよ。これも親孝行だと思って、なあエリザ?」
どうやらこの父親は、娘に無断で俺たちを招いたらしい。
エリザベートも父親に頼み込まれるようにそう言われて、悩ましげなそぶりを見せた。しかし一瞬俺たち二人にちらりと目線を向けると、諦めたように口を開く。
「……むぅ、仕方ありませんわね」
「よし、これで決まりだ! それじゃあベイカー君、娘の絵を頼んだよ」
娘の言葉を聞いてぱしんと手のひらを合わせると、そう宣言する。
……ん? 今ベイカー君って聞こえたんだが、聞き間違いだよな……?
思わずエリザベートに見とれてしまっていて、きちんと聞き取れなかったのだが……たぶん、きっと、そうに違いない。
だって俺、トムの代理のはずだし……それに、そもそもこんな規格外の殿上人からの仕事、受けられるわけがないのだ。俺が今までしてきたのはボーマン先生の補佐ぐらいで、メインでやったことなんか一度もなかった。それが初仕事でこんな大仕事を任せるなんて鬼畜、有り得るはずがない。うん、きっとそうだ。
「……えーっと、ボーマン先生の間違いですよね?」
俺は恐る恐るそう訊ねるが、しかし俺の聞き間違いなんかじゃなかったらしい。エーデルフォルテ卿は静かに首を振る。
「いいや、是非君にお願いしたいと、ボーマン殿に頼んでおったのだ。もしかして、聞いてなかったのかね?」
「全然、初耳です! ……ボーマン先生、なんで黙ってたんですか……!」
俺に頼もうなんて思うのも驚きだが、そもそも何故俺のことを認知しているのかという疑問がわく。もしやボーマン先生が、何か余計なことを吹き込んだんじゃ……?
しかし当のボーマン先生は、俺の言葉にとぼけたように、
「いや、黙ってたつもりはなかったんだが、言ってなかったかな?」
「聞いてないっすよ!」
俺は即答する。しかし俺の抗議を込めた言葉にも、先生はといえば「いやーそうだったか、すまんすまん」と、本当に悪いと思っているのかも疑わしい。
そもそも、ここに来る前までは俺にはトムの代わりと言っていたのだから、敢えて隠していたと考えるのが自然だろう。俺は、まんまと一杯食わされたということだ。
「……とにかく、あのエーデルフォルテ家からの仕事なんだ、受けて貰わなければ我々の首が飛びかねない。――くれぐれも、へまをやらかすなよ?」
エーデルフォルテ卿が席を外したのを見計らって、ボーマン先生がわざとらしく声をひそめて言う。
ボーマン先生のアトリエに弟子入りして、初めてのメインの仕事。それはぺーぺーの俺にとって、あまりに重すぎる重責だったのだった。
◇ ◇ ◇
その日はひとまずお開きとなり、俺とボーマン先生は一旦アトリエに帰ることになった。
俺はその道中、ボーマン先生に向かって問い詰める。とにかく、なぜ俺が描くことになったのか聞かないことには、この腹の虫は収まりそうにない。
俺の追及に、ボーマン先生は今度こそ(若干ではあるが)申し訳なさそうに答えてくれた。
ボーマン先生が言うには、エーデルフォルテ卿は以前から芸術に凝っており、そのこともあってボーマン先生と知り合い、以来旧知の仲になったのだそうだ。
そして今回、エーデルフォルテ卿は娘の肖像画を任せる画家を探してボーマン先生に相談したのだったが、あろうことか先生は、うちにおもしろい若手が居るんですよと俺を推薦しやがったらしい。
そこで卿は先生に俺が一部手掛けた絵を見せてもらい、気に入って俺のことを指名したのだという。
「せっかくの大仕事なんだ、きちんと務め上げて見せろ」と先生は言うが、うーん、ありがた迷惑というか、なんというか……。少なくとも、面倒な仕事を押し付けられたのは間違いない。
取るに足らない木っ端仕事だけを受けて、生活できるだけの賃金を受け取り、遊んで暮らす――それが俺の理想であり、求めていた物だった。
重要な仕事を任せて貰いたいなんて一度も思っちゃいない。こんな仕事、俺にとってはただの馬鹿デカい負担に過ぎないのだ。
ああ、面倒くさい……。俺は自室に戻ると、すぐさまベッドの上に倒れ込む。
ただ救いなのは、仕事にかこつけてあの可憐なお嬢様と知り合えるということだった。むしろ、それがなければやってられない。
俺は目を閉じると、あの可憐な美少女のことを思い浮かべる。俺が今まで出会ったどの女の子よりも魅力的だった。二次元でしかありえないような、あの欠点のない完璧な美しさ。
リアルであんな美少女がいるなんて――この世はやっぱり捨てたもんじゃない。
ふつふつと湧き上がってくる不安を、少女の美しい姿をを思い浮かべながら消していき――とにかく仕事の重責のことは考えないようにしながら、俺はゆっくりと眠りにつくのだった。
そして翌日から俺は、お嬢様の肖像画を描くためにエーデルフォルテ邸に通うことになった。
画材一式を持ってエーデルフォルテの敷地に向かうと、屋敷の使用人に連れられて、仕事のために用意された部屋に通される。そこには、あのエリザベート嬢が純白のドレスを身にまとって静かに座っていた。
「ど、どうも! 俺はウィリアム・ベイカーです、宜しく」
俺は思わずガチガチに緊張してしまう。
なにしろ住む世界が違うお嬢様が相手なのだ。それに、何か失礼でもしてそれが父親のエーデルフォルテ卿に伝わってしまったら、後で大変なことになるに違いない。俺は、自ずと丁寧な口調になっていた。
「別に、そんなかしこまらなくてもいいのに」
そんな俺を見て、彼女はおかしそうにクスクスと笑っていた。その様子に、俺はなんとなく気が楽になる。俺はエリザベート嬢の正面に腰掛けると、さっそく仕事に取り掛かることにした。
俺は持ち込んできた荷物の中から大きな黒い箱のようなものを取り出し、目の前の机の上に設置する。その様子を、お嬢様は不思議そうに眺めていた。
「……その黒い箱みたいなものは、一体何なのかしら」
お嬢様が、興味津々な様子で訊ねてくる。
「うーん、あえて言うなら『魔法の箱』、かな」
俺は言葉を選びながら、そう答えた。
実を言うと、この道具は俺が持ち込んだ現代の知識をもとに創り出したもので、この世界にはまだ存在していなかったものだ。
名前は、なんだったかな……えーっと、そう、カメラ・オブスキュラだ!
これはフィルムのないカメラのようなもので、正面のレンズから投影した画像を、トレスするための道具である。原理はカメラの簡易版みたいなもので、簡単なものなら小学生でも作れるものだ。実際に俺も小学生の時、夏休みの工作の宿題で作ったことがある。
その時は牛乳パックと習字の半紙、そして虫眼鏡で作った簡単なものだったが、今回のものはそんな単純なものではない。レンズもちゃんとそれ専用に造ってもらい、像を反転させるための鏡や、投影用の擦りガラスもちゃんと用意した。そして出来上がったのが、目の前にあるこの黒い箱である。
立体的な風景を平面に投影することができる優れもので、それをそのままなぞれば下絵の完成である。
現代ならば写真を撮ればそれで済むことなのだが、ここは異世界。カメラもないし、自力でできる範囲でどうにかするしかない。試行錯誤の末、ようやく俺は一台、カメラ・オブスキュラを完成させたのだった。
しかし苦労した分の見返りは、十分にあった。
前に言った通り、この世界の人間は絵を描くためにこのような機材を利用しない。目で見たままを、そのままキャンバスに描くのがこの世界の画家である。
よって、このカメラ・オブスキュラの存在自体が、彼らに対するアドバンテージとなるのだ。
「……へえ、そんな便利なものがあるのね」
俺がカメラ・オブスキュラの仕組みをかいつまんで説明すると、お嬢様はレンズを覗き込みながら感心したように言う。
「あ、これは俺だけの秘密兵器だから、絶対に誰にも言わないで下さいね。絶対に秘密ですから!」
「ふふっ、分かったわ」
俺たちはまるで小学生が秘密基地の秘密を共有するかのような、そんな感覚だった。
俺は微笑むお嬢様の顔に、どきりとしてしまい――慌てて顔を背けると、俺は筆を執って絵を描き始めるのであった。
それからしばらくの間、俺は毎日のようにエーデルフォルテ邸へと通い、エリザベートの肖像画を描く日々が続いた。
毎日同じ時間にお屋敷を訪れ、キャンバスを隔てて何時間も同じ空間で過ごす。俺がエリザベートと親しくなるのに、そう時間はかからなかった。
そして今日も、いつものようにエーデルフォルテのお屋敷を訪れると、俺はエリザベートの前にキャンバスを立てて絵を描き始めたのだが……
「……」
エリザベートはいつものドレスに身を包むと、椅子に腰かけてぎこちない微笑みを向けていたが、しばらくして退屈してきたのだろう、俺に話しかけてきた。
「ふわぁ……こうずっと座ったままだと、なんだか疲れてこない?」
そう言って、エリザベートは小さく伸びをする。
確かに、絵を描くために動いている俺はともかくとして、被写体となっているエリザベートは絵を描き始めてからずっと、椅子の上で身動きもできずじっと固まっていたのだ。
そろそろ一息つく頃合いかもしれない。
「えーっと、それじゃあそろそろ休憩にでもしますか」
「ふふっ、それじゃあ家の者にお菓子を用意させるわね」
俺にそう告げると、エリザベートは待ってましたとばかりに立ち上がって、部屋の扉の前で待機していたメイドを使いに走らせる。そして少しして、メイドはバスケットとティーポットを持って戻ってきた。
「どう? ウィルの口に合うかしら」
バスケットの中身は沢山のクッキー。俺は促されて、その一つに手を付ける。
エリザベートは俺の隣に腰掛けると、期待のまなざしで俺の横顔を見つめていた。
俺はその隣でちょっぴりどきどきしながら、クッキーを一枚、一齧りする。
「美味い……!」
さっくりとした食感に、口の中で溶けるような甘さ。この世界に生まれ変わってからずっと、こんな美味しいものを食べたことはなかった。
「そう……なら良かった」
俺のその一言に、エリザベートは嬉しそうに微笑む。
それから俺たちはクッキーを摘まみながら、つかの間の休息を和気あいあいと過ごしたのだった。
しばらくして休憩を終えて仕事に戻り、今日の分を描き上げることにした。
そして一日の分の仕事を終えると、メイドさんにキャンバスを預け、俺は道具を片付け始める。しかしそんな俺に、エリザベートが声を掛けてきた。
どうしたんだろうと俺が顔を上げると、彼女はもじもじしながら、
「ねえウィル、絵ってもうそろそろ完成するのよね? ……少しでいいから、見せてくれないかしら?」
わざとらしい上目遣いで、俺のことを見つめてくる。
実のところ、俺が今描いているこのエリザベートの肖像画、まだ一度も本人には見せていなかったのだ。そこで気になった彼女は俺に頼んで見せてもらおうと考えたらしい。
しかし俺は、描きかけの絵は人に見せない主義。そんなエリザベートに向かって首を横に振った。
「それは駄目だね、完成してからのお楽しみってことで、我慢していてくれ」
俺はきっぱりとそう言って、片づけを続ける。
そんな俺にエリザベートは、「……むぅ、ウィルの意地悪」と拗ねたように言った。
俺は荷物を抱えながら、お屋敷の廊下を歩く。隣には、普段着に着替えたエリザベートが歩いていた。
俺がこのお屋敷に通い始めてから一週間になろうとしていたが、エリザベートは最近、帰り際に俺のことを門まで見送ってくれるようになったのだ。
俺たちは階段を下りて、吹き抜けの玄関ホールまで降りてくる。しかしちょうどその時、正面玄関の両開きの扉が、バン! と大きな音を立てて開け放たれた。
「……?」
一体何事だろうと、俺とエリザベートはとっさに音のした方に振り向く。
そして入ってきたのは、金色の髪をした貴公子然とした青年だった。ずけずけとした足取りでお屋敷に乗り込むと、何やらこっちの方に近づいてくる。
……どうやらエリザベートに用があるらしい。その男は、「ふん、画家風情は脇にどいていたまえ」と俺を突き飛ばすと、エリザベートの前に立ち、恭しく一礼した。
「やあエリザ、元気だったかい? ……いや、いつにもまして美しいその姿、愚問だったみたいだね」
そう言って、青年はニッコリと微笑む。突然現れてのその一言に、エリゼベートも戸惑い気味だ。
一体こいつは、何なんだろうか。突然人のお屋敷に入り込んで、俺を突き飛ばすわ、馴れ馴れしく話しかけるわ……おそらく彼女と面識があるのは間違いないのだろうが、鼻持ちならないヤツというのが俺の第一印象だった。
「……えーっとギルバート、一体何の用でしょうか?」
エリザベートは、若干引き気味に言った。
どうやらこのカッコつけ野郎は、ギルバートというらしい。エリザベートの一言に、ギルバートはキザったらしい口調で返す。
「別に用なんてなくたって、僕と君の間じゃないか! 君の姿が見たくなったから来た、ただそれだけさ」
「だったら用は済んだみたいですし、お帰りになったらどうですか?」
エリザベートは露骨に嫌そうな顔をすると、突き放すようにそう言った。
しかしそれでもギルバートは動じずに、キザったらしい態度は崩そうとしない。
「つれないなあ、せっかく僕から会いに来たというのに。……まあ、今日のところはこれで帰るとしよう。それじゃあまたね、エリザ」
そう言って、くるりと背中を向けると玄関を出て外へ帰って行ってしまった。
まるで嵐の過ぎ去ったあとのよう。
俺たち二人は呆気にとられたようにその後姿を眺めていたが――やがて気を取り直すと、俺はあのギルバートという男について訊ねてみることにした。
「あの人はギルバート・ウォーデンハイムって言って、ウォーデンハイム家の御曹司なの」
「……ウォーデンハイム?」
聞きなれない言葉に、俺は思わず問い返す。そんな俺に、エリザベートは解説してくれた。
「政のエーデルフォルテ、武門のウォーデンハイムって言葉、聞いたことないかしら? ……ウォーデンハイム家は歴代の名将を輩出してきた武家の名門で、あの人はその家の御曹司というわけなの」
「ふーん、そうは見えなかったけどな……」
線が細くてあまり体を鍛えているようには見えなかったし、なにより態度からして薄っぺらく、あんなのが将来何万の兵を率いるなんて、想像もできなかった。
武家の名門の御曹司というよりも、むしろどこかの貴族の放蕩息子といった方がふさわしい気がする。
エリザベートが言うには、ギルバートとは同じ名門の出ということで、家のつきあいで何度か顔を合わせたことがあったらしい。それ以来、つきまとわれるようになったのだとか。なんとも迷惑な話だ。
玄関を出て、俺はエリザベートと別れの言葉を交わす。今日はどうしてもあのギルバートと顔を合わせたくないらしく、玄関先での別れとなった。
「それじゃ、また明日」
俺はそう言い残して、エーデルフォルテ邸を後にした。
それにしても、あのギルバートという男、どこかで見たような気が……
俺はアトリエまでの帰り道、ふと引っかかるものを感じ、思い出そうとする。
――そうだ、あいつは劇場で何回か、見かけたことがあった!
俺はその時のことを思い出す。あいつは見かけるたびに違う女の子を連れて、劇場を訪れていた。……おかしいなと思って見ていたのだが、やっぱり下衆野郎じゃないか!
しかし同じ武門の家柄なのに、格式一つで向こうは遊んで暮らしている。
こちとら毎日血のにじむような努力で絵の才能を磨いて、ようやく暑苦しい騎士生活からおさらば出来たのに、向こうは初めから放蕩三昧。これが生まれの差ってやつか……
なんだか言いようのない悔しさに襲われて、俺は思わず叫び出す。
「俺は絶対に、あんな奴には負けねえからなああああっ!」
人気のない郊外の丘の上で、俺の叫び声が一人、響いたのだった。
◇ ◇ ◇
そしてそれからも俺は、エーデルフォルテ邸に通い続け――絵は着々と完成に近づいていく。それは同時に、エリザベートとの別れが近いことも意味していた。
俺は辺境の騎士の家に生まれた、ペーペーの若手画家。向こうはこの国有数の名家のご令嬢。
元々釣り合うはずもなかったのだ。この仕事が終わればこの敷地を跨ぐこともできなくなるし、会うことすらできなくなるだろう。
そしてとうとう、その日がやって来た。
俺はエーデルフォルテ卿の元へ、描き上げた絵を提出する。エリザベートもその場に立ち会って、ついに絵のお披露目となった。
「ふむ、これは……!」
俺の描いた絵を見て、エーデルフォルテ卿は唸る。
俺の持つすべてをぶつけて、エリザベートの美しさを余すところなく表現した作品だった。
純白のドレスを着て、真紅の椅子に腰を下ろし、優しく微笑むエリザベートの姿。
滑らかな輝く肌の表現から、意志の強いまっすぐな瞳、小ぶりで瑞々しい唇……そして身にまとう衣服の質感に至るまで、その美しさの全てを繊細な筆づかいによってキャンバスの上に乗せた、今の時点での最高の一品といえるものだった。
「わたしが、こんな絵になるんだ……」と、エリザベートもちょっぴり恥ずかし気に、しかし嬉しそうな様子で自分の肖像画を見つめていた。
「こんな素晴らしい絵を描いてくれるなんて、君に頼んで正解だったよ! ありがとう、ベイカー君!」
エーデルフォルテ卿はよっぽど気に入ったらしい。感激したように俺の手を取ると、ぶんぶんと上下させる。俺はなされるがまま、「お気に召されたのなら幸いです」と控えめに返す。
「謝礼の方だが、ここに用意した。確かめてくれ」とエーデルフォルテ卿から渡されたのは、ずっしりと重い麻の袋。中身を覗いてみると、なんと中身はすべて金貨であった。
これだけあれば、しばらくは働かずに遊んで暮らせるぐらいの大金である。俺はしっかり受け取ると、荷物の奥底に隠れるようにしてしまい込んだ。
「それじゃあ、俺はこれで失礼します」と俺は挨拶もそこそこに、屋敷を後にする。しかし玄関ホールまで来たところで、俺は後ろからエリザベートに呼び止められてしまった。
「……ねえウィル、もう帰ってしまうの?」
「まあ、仕事も終わっちゃったし、もうここには居られないからね」
俺は努めて明るい風にそう言うと、二ッコリと笑う。
……もちろん演技である。内心は、めっちゃ悲しい。それでも俺は、エリザベートには情けない姿を見せたくなくて、強がりで笑うしかない。だけど……この強がりも長くは続かないだろう。
心のダムが決壊する前に、早くここから立ち去らなければいけない。
しかし――
「ねえ、ちょっと待って!」
急いで立ち去ろうとした俺を、エリザベートは呼び止める。俺は思わず、足を止めてしまった。
彼女はしばらく逡巡していたが、やがて思い切って口を開く。
「ウィル、あなたが来てくれて、本当に楽しかったわ! わたしは今までずっと、一人だったから……。みんな、わたしの家柄とお父様の名前を畏れて遠ざかっていったし、たまに近寄って来るのはわたしの身分を利用しようとする人ばかり。誰もわたしのことを対等に見てくれなかった……」
そう言って、エリザベートはか細い声で語っていく。その一言一言に、俺は静かに耳を傾けていた。
エリザベートは、続ける。
「……だけど、あなたは違ったわ。あなたは、わたしと友達みたいに接してくれた。初めての友達ができたみたいで、わたしは嬉しかったわ」
……そんな風に思ってくれていたなんて、知らなかった。俺はただ純粋に、エリザベートと仲良くなりたいと思っていただけなのだ。
だけど――そんな人間ですら、きっと今まで彼女の前には現れなかったのだろう。俺は静かに彼女を見つめる。
やがて別れの時を察したエリザベートの瞳に、悲しげな光が宿る。
「これから、寂しくなるわね……」
エリザベートはそう言って、寂しげに微笑んだ。
俺はそんなエリザベートの顔が見ていられなくて、背中を向けてしまう。
「それじゃ、俺は行くから。……元気でな」
俺はそれだけ言い残して屋敷を出ると、エリザの声に応えるように右手を上げて、振り返らず真っすぐ前を歩くのだった。
その日からの俺は、この世界に生まれてから最悪の気分だった。
気分は極限まで落ち込み、食べ物も満足に喉を通らない。声を掛けられても空返事で、いつも部屋の隅で一人、縮こまっている。
……これが失恋ってやつなのか。その猛威を、俺は初めて実感していた。
向こうじゃアニメやゲームに夢中で、女の子になんて見向きもしてなかったからな……こんな辛いものだなんて、知らなかった。こりゃあ失恋の歌が売れるわけですわ――なんて茶化してみても、落ち込んだ気分は元に戻りそうもない。
そして今日もいつものように、俺はアトリエの隅っこに座り込んで、筆の毛先をいじいじとしていた。
この所の俺は、ボーマン先生の補佐の仕事が入っていないときは、いつもこうやって一人で過ごしていたのだが……今日のアトリエは、バタバタと何やら騒がしい。
ふと気になって、物音のする方向、廊下の方に目をやると――思わぬ光景に、俺はあんぐりと口を開けたままの姿で、固まってしまった。
「なんだその格好! 全然似合ってないぞ」
俺は笑いをこらえながら、驚愕の原因・兄弟子のトムに向かってそう声を掛ける。
なんとトムは、いつものヤボったい服装にかわって、黒いタキシードに身を包んでいたのだ!
何と言うか、似合う似合わない以前に違和感が凄い。そこのところは本人も自覚しているようで、「あはは……そうだよね」と力ない笑顔を向けてくる。
「今日の舞踏会、これを着て行かなきゃいけないんだけど……。うーん、別の服じゃダメなのかな」
着慣れないその服を、指でちょこんと摘まみながらトムは心細そうに呟く。
トムは今夜、上流階級も出席する舞踏会に参加することになっていた。それも『銀聖会』銀賞の、期待の若手画家として。
以前から準備していた絵の品評会で、トムは見事銀賞を勝ち取ったのだ。
銀賞と言えば、この大会では一等に相当する。つまりトムは画家として成功したも同然というわけで、もしかしたら独立も時間の問題かもしれない。
しかし今のところはまだ、このアトリエに籍を置いた形で仕事を続けている。おかげで俺もまだトムと軽口を言い合うことができるというわけだ。
「作業着を着て舞踏会に出るわけにはいかないだろ? だったら今からその服に似合うように訓練するしかないじゃないか。……胸を張って、まずはレディに一礼! ほら、やってみ?」
俺は真面目な顔をして、トムを急かす。しかしトムはと言えば、恥ずかしがるばかりだ。
「えぇ……まあ確かに、そうかもしれないけどさ。ベイカー君、なんか楽しんでない?」
「いいや、全然。いたって真面目にアドバイスしてるだけですよ。……ほら、タイムリミットは今夜までなんだから急がないと」
実は結構楽しんでるのだが、そんなことはおくびにも出さずに、俺はトムに促す。トムはしばらく躊躇っていたが、観念したように渋々と訓練を始めたのだった。
そしてしばらくして、出発の時がやって来た。
舞踏会の会場へ向けて出発するトムと、アトリエの建物の前で笑いながらそれを見送る俺。ボーマン先生もトムに同伴するらしく、黒の燕尾服に身を包み、一緒に馬車に乗り込んだ。
果たして練習の甲斐はあるのだろうか。今から楽しみである。
「それじゃ、後で帰ってきてから首尾を教えてくれよな」
がちがちに緊張しているトムに向って、俺はそう声を掛ける。トムからは「そんな期待しないでってば」と言う返事。しかしトムが何を言おうと聞き出すことには変わりない。
馬車が動き始め、俺は見送りもそこそこにアトリエに帰ることにした。
それにしても、この世界の画家はそれなりの地位があるらしい。俺は今更ながらに実感する。
才能ある芸術家はそれだけで尊重するに足る、というのがこの世界の貴族たちの価値観で、特に高名な画家ともなれば準貴族のような扱いで尊敬されるらしい。
なにしろトムみたいな若手のホープですら、貴族たちが参加する社交界にだって同席することもできるのだから……。
ん、待てよ……。俺はふと、考え込む。
画家として成功すれば、貴族も参加するパーティに参加できちゃうわけだ。
だったらまだ、俺にもエリザベートと会えるチャンスが残っているのでは……?
その可能性に気が付き、俺ははっとする。
エリザベートほどの名家の令嬢ならば、舞踏会にも引っ張りだこだろうし、会える可能性はゼロどころかかなり高いのではないだろうか。
真っ暗な暗闇の中に、ようやく一筋の光が差し込んできたような、そんな気がする。
とにかく今俺がすべきことは、絵を描くことだ。そして画家として成り上がり――エリザベートと真っ当に面と向かえるような地位にまで駆け上がる!
そうと決まったら、こんな風にもたもたしている場合なんかじゃない。俺はアトリエに乗り込むと、さっそく仕事に取り掛かることにしたのだった。
◇ ◇ ◇
そしてその日から俺は、来年の『銀聖会』の銀賞を目標に作品作りを始めた。
今のところ、あの品評会で一等を貰うことが画家として名を上げる一番の近道である。俺自身は一年後と言わず、出来るだけ早く名を上げたいと考えていたが……こればっかりは仕方ない。
その間にエリザベートに縁談やらが決まったりしないことを祈りながら、筆を動かすこと、それしか俺に出来ることなんかないのだ。俺はスケッチブックを取ると、アトリエの椅子に腰かけながら考え込む。
――さて、まず問題なのは、「何を描くか」だ。
もし来年の品評会に落選してしまったら、次のチャンスは一年後まで待たなければならない。だが、俺にはそんな悠長なことをしている暇はないのだ。
絶対に、失敗は許されない。よって、百パーセント確実に評価されるものでなければならない。
絶対に評価されるような題材――評価されることがあらかじめ保証されている、分かっているような題材。しかし、そんな都合の良いものなんて、あるわけがない。
普通だったらそう考えるだろう。……しかし俺の置かれた境遇は、その普通ではないのだ。
俺は元いた世界の記憶を保持したまま、この世界に転生してきた。つまり俺は、元の世界で評価されてきた過去の名画というものを知った状態で絵を描くことができる。
――要するに、元の世界の名画をパクり放題なのだ!
もちろん、うっかりこの世界で『最後の晩餐』みたいなのを描いたら、「この絵は一体何を描いているのかね? ……キリスト? 何だねそれは」なんてことになりかねないから、題材選びには注意する必要がある。けれども、それでも一からテーマを考えるよりはずっと楽に違いない。
それじゃあ、誰の、何の作品を「参考」にしようか……。俺はスケッチブックの上で筆を動かしながら、ゆっくりと吟味を始めたのだった。
そして数日後。さっそく俺は題材となる絵の再現のために、試作の絵を描き始めていた。
画面左の窓から差し込む光の表現に苦心しながら、俺はなんとか記憶の中の『その絵』の質感を再現するように、色を塗り重ねていく。
その絵は一体、誰の絵かと言うと――フェルメールである。そう、青いターバンを被った『真珠の耳飾りの少女』の絵で有名な、あのフェルメールだ。
俺は色々な条件を考慮に入れたうえで、このフェルメールの絵を描くことに決めたのだった。
まあその条件と言うのも大したものじゃなくて、「宗教画はNG」という単純なものなのだけれど、それでもそれをクリアした上で俺の知ってる作品というのは案外少なくて、その中から選んだのがフェルメールだったというわけだ。
それでフェルメールの作品のうち、俺が何を描こうとしているのかと言うと、あれだ。窓際で使用人のおばさんが牛乳を注いでいるという有名なあの絵である。
この作品も、同作者の青いターバンかぶった少女の絵とともに、中学と高校の美術の教科書に必ずと言っていいほど載っている日本でも親しみ深い作品である。そのおかげで俺も、この絵についてはハッキリと憶えていたのだった。
この絵のいい所は、コンセプトがはっきりしているところだ。宗教的モチーフとかそういう七面倒臭いものが一切なく、ただ日常の風景を描き出そうという意図が明確に現れている。だからこそ普遍的と言うか、異世界でも通用するような、そんな作品だと言えるだろう。
問題は、俺がこの絵をきちんと描き上げられるのか、ということなのだが――そこはもう気合と根性と創意工夫で何とかするしかない。
しかし、もしモノに出来たのならば、きっとこの絵の写実性の高い画風は、この異世界の画壇に一石を投じる物になるにちがいない。
作品はまだ試作の段階ではあったけれど、そんな手ごたえが、俺にはあった。
◇ ◇ ◇
そして季節は巡り、とうとう例の品評会の日がやって来た。
初めは期限ギリギリまで作業するつもりだったのだが、意外と余裕を持って完成までにこぎ着けることができた。俺は改めて完成した作品を前にすると、じっくりと審美に耽る。
「……うん、完璧だな」
俺が生前に目の当たりにしたあの作品の美しさが、見事にこの小さなキャンバスの中に表現されていた。――完全なる模倣である。
よくぞここまでのものを、自分の記憶だけを頼りに仕上げることができたものだ。俺は内心、奇妙な達成感を感じていた。
もしもこの絵を元の世界で発表しようものなら、盗作だ剽窃だと罵られることだろう。だがここは異世界、パクリだと指摘する者も、できる者もいるはずがないのだ。
俺の胸にちょっぴりと罪悪感が掠める。しかし、これも仕方のないことだと俺は首を振った。ここまで来たら、もはやなりふり構ってなんかいられなかった。
俺には絵ぐらいしか出来ることは無いし、また成り上がらなきゃいけない理由があったのだ。
ああそうだとも、男として誰にも譲れない大事な理由だ。そのためには時には汚い手だって使わなきゃいけない時がある。それが俺にとっては今なのだ――と俺は無理やり納得すると、完成した絵を布で包み、品評会の会場へと向かったのだった。
場所は王都で一番ともいえる立派な商館。アーチ形の意匠が美しい白亜の建物のその二階で、厳かに『銀聖会』は開催されていた。
集まったのは新進気鋭の若手画家たち三十余人と、審査員たる各工房の親方たち。そしてそれに加えて、なんと審査のために王族の方が一人、特別に招待されていた。これだけでもこの品評会がかなり権威のあるものだということが分かる。
「二十六番、エドモンド・カリエール作、題名は『勝利の時』です」
幕が引き上げられ、舞台の上に一枚の絵が現れる。
最前列に座る審査員の方々は、それを見て口々に感想を言い合いながら、手元の用紙に評価を書き込んでいく。その後ろで遠巻きに、審査を待つ俺たち若手画家は、固唾を飲んで見守っていた。
「……どうも今年の作品は、いまいちパッとしませんなあ。モチーフもありきたりなものばかりだし、行儀が良いだけで技術も平凡だ」
「去年は豊作でしたからね。それと比べるのは酷というものでしょう」
審査員の二人が声をひそめて話している。
どうやら俺は、かなりついていたらしい。ライバルらしいライバルが、去年のうちにあらかた受賞してしまったおかげで、その分今年のレベルが落ちてしまったのだ。願ってもないチャンスである。
あとは俺の絵がどう評価されるかだが――それはもう、天に祈るしかない。
品評会は終盤、これといった本命の作品が現れることなく、とうとう次で最後の作品となった。
まだ幕を上げられていない最後の一枚、俺の作品である。
「三十二番、これが最後の作品になります。ウィリアム・ベイカー作、題名は『牛乳を注ぐ女』です」
その声とともに真紅の布幕が上げられ、その瞬間、前に座る審査員たちの間からざわめきが起こった。
それもそのはず、これまでの作品とは全く次元を異にする名作(の贋作)が姿を現したのである。
先程愚痴をこぼしていた審査員の二人も、これには思わず唸ってしまっていた。
「これは、意外な作品だな……!」
「最後の最後で本命が来ましたね……」
これで全三十二作品、舞台の上の全ての作品が露わとなった。そして、これから最終審査に移ることになっていたのだが……それを待たずに、この場の審査員全員の意見が満場一致で決定した。
――ウィリアム・ベイカー作『牛乳を注ぐ女』の、銀賞(一等)である。
◇ ◇ ◇
それからしばらくして――
『銀聖会』の銀賞を取ってから、俺にはひっきりなしに絵の依頼が来るようになっていた。
俺の描いた『牛乳を注ぐ女』は、思いのほかこの世界の画壇に反響を巻き起こしたそうで、
曰く、「取り立てて変哲もない風景を描きながら、この世のあらゆる宗教画よりも神聖で厳か」
曰く、「絵画の歴史を百年進めた」…… 等々。
どれもこれもが身に余る賞賛の数々だ。
自分は元の世界の絵を真似して描いただけなのに、いつの間にか俺の背中には、この業界に関わるあらゆる人々からの次の作品への期待が集まっていたのだ。……ああ、本当に気が重い。
加えて、カメラ・オブスキュラの技術についても、今では大抵の画家が使用するようになっていた。
本当は自分だけの秘密兵器にしたかったけれど、こう注目されてしまったら隠し通せるわけもなく、いっそのこと開き直って世間に公開することにしたのだ。
そのせいで、俺のアドバンテージは元の世界の絵を知っているという一点だけになってしまったが……それでも当面は凌げるはずだ。たぶん。
とにかく俺は、当初の目的通り画家として名を上げることに成功した。今では売れっ子画家の仲間入りだ。思えば遠くへ来たもんだ、である。
改めて俺は、鏡の中の自分を見つめる。タキシード、似合ってるだろうか。
「……これはこれは、貴方はもしや噂のウィリアム・ベイカー先生ではないですか?」
俺は舞踏会のホールの大理石の上を一人彷徨っていたのだが、突然後ろから声をかけられて、仕方なく立ち止まった。
……ああ、これで七回目だ。俺は内心うんざりしながら、声の主に向かって振り向く。
そこに立っていたのは、シャンパンのグラスを片手に、白髭の似合う恰幅の良い老紳士だった。
「いやはや、噂には聞いていたものですが、あの名画の作者がこんなお若い方だとは、驚きですなあ」
「ははは……よく言われます」
興味津々という風な老紳士に向かって、愛想笑いで返す。
これぐらいの年頃の老人は、とにかく話が長い。適当にあしらうのが一番だ。このホールに足を踏み入れてからの短い間であったが、俺はそれだけは身を持って学習していた。
「私も是非、絵を描いて貰いたいものですなあ」という誘いの言葉にも、
「願ってもないお話ですが、今は受けている仕事だけでも精一杯でして……ええ、僕の体は一つしかありませんから、受けたくても受けられないんですよ」
と低姿勢でやんわりと断りを入れると、俺はそそくさとその老紳士と別れる。
オーケストラの演奏が流れる中、俺の周りにはドレスやタキシード姿の人々が立ち話で談笑していた。
その中に一人の少女を探して、俺はホールを歩き回っていたのだが――
エリザベートの姿は、どこにも見当たらない。
……やっぱり、ここもハズレだったみたいだ。
そもそも彼女はそれほどアクティブな方じゃなかったし、こんな舞踏会なんかに進んで参加するようなタイプでもない。はは、当てが外れたみたいだな……
エリザベートが居ないのならば、こんなところになんて用はない。
俺は賑やかしいホールの人々の間を抜けて、壁際の出入り口の扉の外へ向かった。
外に出ると既に日は落ちていて、夜の闇を照らすのは、渡り廊下の隅に置かれた小さな燭台たちと、ホールの窓から漏れる灯りぐらいだ。
それにしても、このお屋敷は無駄に広いったらありゃしない。
いつぞやのエーデルフォルテ邸ほどではないけれど、お屋敷の表門にたどり着くまでに、このクソ長い渡り廊下を通らなければならないのだ。よくこんな場所で生活できるなと愚痴りたくなってくる。
「……ん?」
俺はふと庭園の方に目を向けると、何やら人影が見えたような気がした。
……屋敷の人だろうか、こんな薄暗い月夜に一体何をやっているんだろう?
俺は気になって、近づいてみることにした。
最初に見た時は遠目でよく見えなかったが、近づいて見ると、どうやらその人影は優雅にドレスを着飾っているらしく、使用人のようには見えない。
俺はその横顔が見えるぐらいに近づいていく。
空を見上げるその横顔は、月明かりに照らされて幻想的に浮かび上がり――そしてようやく俺は、その少女が誰であるのか知ることになる。
「エリザベート……!」
俺は、思わずそう呟いていた。
その一言に、エリザは一瞬ビックリしたように振り返ったが、俺のことが分かると途端に安堵の表情を浮かべる。
「ウィル、どうしてここに……?」
「まあ、君に会いに来たってとこかな」
俺はそう言って、はにかむように笑う。
冗談めかした口調だったが、まさしく本心からの一言であった。……俺はこの一年間、ずっとこの時のことを想い続けてきたのだから。
それから俺たち二人は並んでベンチに腰掛けると、同じように月を見上げた。
話を聞くに、エリザベートもあの舞踏会に参加していたのだが、貴族同士の煩わしいやり取りにうんざりして、あのホールの人混みから抜け出して逃げてきたらしい。
それでこの月明かりの庭園で一人、夜空を眺めていたのだそうだ。
「それにしてもウィル、あなたがこんな有名になるなんてね。……前は芸術なんて興味ないって言ってたのに、どういう風の吹き回しかしら?」
そう言うエリザベートは、なんだか楽しそうだ。とぼけた口調だけれども、俺の考えなんてお見通しなんじゃないかと思わせるような、そんな蠱惑的な微笑みを浮かべている。なんだか一年見ないうちに、ずいぶんと大人びたような、そんな気がする。
俺はそんなエリザベートに向かって、ついついとぼけ返してしまう。
「そうだね、まあ、それは今も同じだよ。……ただ、ちょっと前までは知らなかったことなんだけど、画家って傑作を描いたらそれなりの地位とお金が貰えるらしくってさ」
「ふーん、そうなんだ。……それじゃあ、絵を描くのは、やっぱりお金のため?」
エリザベートはそう言って、悪戯っぽく笑うと、俺のことを見つめてきた。
……ああもう、こんなの絶対分かってて言ってるだろう!
俺は観念したように、真っすぐにエリザの視線を受け止める。
「分かった、正直に言うよ。……全部君のためだ。こうして君の隣に座るために、絵を描いたんだ。どうにかしてもう一度、君と会って伝えたかった。……好きだ、エリザベート。君のことを愛してる」
……言ってしまった。これでもう、後戻りできない。
――受け入れられるか、拒絶されるかだ。
俺は大人しく、最後の審判の時を待つ。もはや俺に出来ることは、何一つないのだ。
後は彼女本人がどう思うか、それだけだ。俺はじっとエリザベートのことを見つめる。
イエスかノーか、エリザベートの唇が開きかけた、その時だった――
「――ふん、やはりこういうことだったか! 薄汚い三流絵描きめ、僕のエリザから離れたまえ!」
暗闇に響き渡る、キザったらしい声。突然の闖入者に、俺たち二人は揃って振り向いた。
そこに立っていたのは、見覚えのあるキザ男――放蕩貴族のギルバート・ウォーデンハイムである。
ボーゼンとしている俺たちに向かって近寄ってくると、ギルバートは怒りに声を震わせながら、俺に詰め寄ってきた。
「最近、どうもエリザに無視されるからおかしいと思って来てみれば……貴様がエリザを誑かしていたんだな、この略奪者め!」
「いや、エリザと会うのはこれで一年ぶりだし、それは単にあんたが彼女に嫌われてるだけなんじゃ……」
真っ先にその可能性に思い至らないあたり、相当なうぬぼれっぷりじゃないだろうか。俺のその言葉にもギルバートは「そんなことあるわけないだろう!」という一点張りだ。
「大体お前、よそでほかの女の子たちと遊び歩いてただろ。それでよくエリザ一筋みたいな口が利けるな」
と俺が指摘しても、
「ふん、あんな下級庶民の娘、所詮お遊びだ。……僕みたいな名家の生まれには、同じ名家の生まれのエリザベートこそが相応しいと思わないか?」
なんて風に、完全にうぬぼれた口振りで返してくる。
一方のエリザベートはギルバートの登場に完全に白けた様子で、冷ややかな視線を向けていた。
しかし、この哀れなナルシストはそのことにすら気付きもしない。きっとこいつの頭の中は、自分のことで一杯なのだろう。嫌われるのも納得というものだ。
……それにしても、こいつときたら、なんつー時に来やがるんだ。
人生を左右するかもしれないそんな瞬間に、突然横からしゃしゃり出てきて邪魔をしようなんて、なんだか無性に腹が立ってきた。
「それで、いつまでそこにつっ立ってるんだ? 俺はこれからエリザベートと大事な話があるんだ、とっととどこかへ行ってくれないかな、お坊ちゃん?」
俺は苛立ちのままに、ギルバートに向かって挑発する。
「っ……!」
やはりこのお坊ちゃんは煽られ慣れていないらしく、こんな安い挑発に対しても、ぴきぴきと苛立ちを隠せない。
きっとこれまでの人生でずっと、その高すぎる身分に守られて生きてきたのだろう。だからこの程度の挑発にすら、過剰に反応してしまう。
「ふん、いいだろう! 君がそういう態度を取るのならば、僕にだって考えがある。……決闘だ! 三流絵描きと名門騎士家の御曹司――どちらがエリザベートに相応しい男なのか、決着をつけようじゃないか!」
「へえ、お前に出来るのかよ? 勝手なことをして、ママに怒られるんじゃないか?」
「……! この僕に無礼な口を聞いたこと、後悔させてやる……!」
それだけ吐き捨てると、ギルバートは懐から白いハンカチを取り出すと、俺に向かって投げ捨てて、屋敷の方へ引き返して行ってしまった。
俺はじっとその後姿を見つめていたが、闇夜にその姿が消えると、視線を切って、先程投げられたハンカチを拾い上げた。世界は違えど共通の、決闘のサインである。
「……ねえウィル、本当に決闘するつもりなの?」
そう言ってエリザベートが、心配そうに訊ねて来る。
しかしエリザの心配も当然のことで、この時代の決闘といえば、どちらかが命を落とすなんてことは日常茶飯事なのだ。あのギルバートの様子を見れば容赦するつもりがないのは一目瞭然で、万が一俺が負けでもしたらほとんど確実に命を落とすにちがいない。
不安に曇ったエリザベートの青い瞳に、俺は静かに頷いた。
「まあね、いつかは片を付けなきゃいけなかったんだ。それに……ウォーデンハイム家の跡取り息子を打ち倒した男なら、君と釣り合うはずだしね」
そう言って、俺は安心させるようにエリザベートに向かってにっこりと笑う。
結局、これしか方法がなかったのだ。
俺がエリザベートと一緒になろうとすれば、身分と格の違いは絶対に避けては通れない問題で、これだけはいくら俺が絵を描こうが解決できるものではない。
――ギルバートを倒す、これだけが唯一俺に与えられた選択肢だったのだ。
だからこそ俺は、わざと向こうが気に障るような言葉を選んで挑発して、向こうから決闘を申し込むように仕向けたのだった。思い通りにいくか不安だったが、それは何とかうまくいったようで安心する。
どうやら生前ネットで散々培ってきた煽りスキルは、未だに錆びついていないらしい。
後は決闘に勝って、エリザベートを迎えに行く――それだけだ。
◇ ◇ ◇
そして、決闘当日。
そこは遠く王宮の城に臨む、郊外の草木生い茂る碧い草原の丘。
俺とギルバートの二人は、沢山の野次馬に囲まれながら剣を携えて向かい合っていた。
「…………」
エリザベートはその二人から離れた場所に立って、静かに二人を見つめている。
この戦いの勝者だけが、エリザベートのもとに行くことができるのだ。
野次馬たちはどこから聞いて来たのか、「決闘だ、決闘だ!」と周りに集まって囃し立てている。
「おいおい、決闘だってよ、どっちが勝つと思う?」
その野次馬の一人が、つま先立ちで人の群れからひょっこりと顔を出しながら、隣に立つもう一人の野次馬に向かって訊ねる。
その男は隣で憮然と腕組みをしていたが、友人の質問につまらなそうに答えた。
「決まってんだろ、あのお方はマーカス将軍のご子息なんだぞ、ただの画家程度が勝てるわけないじゃないか。……初めから勝敗が分かりきってる勝負なんだよ、これは」
「へー、そうなのか。……それじゃ、なんだかかわいそうだな、あの青年」
「ああ。……俺としては、あのキザ野郎様にはうちの娘に手を出された恨みがあるから、あの青年には何とか頑張って欲しいところなんだけどな……」
そう言って腕組みの男は、静かに二人の決闘の行く末を見守っていたのだった。
決闘直前、靴ひもを結び直していた俺だったが、突然ギルバートが声を掛けてきた。
「今ならまだ泣いて許しを請えば見逃してやってもいいぞ、三流画家。……何しろこれは決闘なんだ、腕の一本や二本じゃ済まないからな」
そう言ってギルバートはニヤリと笑う。
自信満々といった口振りで、自分の勝利を微塵も疑っていないらしい。よっぽど自分の剣に自信があるのか、それとも俺のことを見くびっているのか――たぶん、両方だろう。
しかし俺は売り言葉に買い言葉、ゆっくりと立ち上がると、そんなギルバートに向かって言い返す。
「何が悲しくてお前なんかにそんなことをしなきゃならないんだよ。……それともなんだ、お前の方が怖気づいたんじゃないだろうな?」
俺のその一言に、ギルバートはムッと苛立ちの表情を見せる。
「……ふん、忠告はしたからな。二度と絵を描けなくなってから、後悔するがいい」
そう言って、ギルバートは腰に下げていた剣を抜いた。
「さあ、そろそろハッキリさせようじゃないか。……どちらにエリザベートが相応しいのかをね!」
相変わらずの傲岸不遜な物言いで、ギルバートが開幕を宣言する。
俺もその一言で剣を抜くと、両者剣を構えたまま真っすぐに向かい合った。
……間合いには少し遠い距離。懐に切り込んでいくには、間合いを何歩か詰める必要がある。
俺たちは睨み合いながら、ジリジリと距離を詰めていく。
さて、どちらから先に仕掛けていくか――とそこで、先にギルバートの足が動いた。
「っ――!」
――キィィィン! 俺は真っすぐに振り下ろされる剣戟を、何とか剣で受け止めることに成功する。
しかし、向こうもこれで終わりではない。それに続くように、矢継ぎ早に繰り出される連撃――その一撃一撃を、俺はなんとか剣を合わせて凌いでいく。
……なるほど、自信満々なだけはある。
剣の一撃一撃が重く、下手をすれば受けているこっちが剣を弾き飛ばされてしまいかねない。俺は堪らず後方に飛び退くと、ひとまず間合いを取った。
「ふん、画家にしてはなかなかやるじゃないか。僕の剣を全部受けきるとはね」
そう言うギルバートは、しかし余裕の表情。
連撃を凌がれたことに若干驚きはしていたが、それでもこの程度の想定外、自分の勝利は揺るぎはしないと高をくくっているのだろう。
だが一方で俺の方も、実際に奴の剣技を目の当たりにして、いつもの余裕を取り戻していた。
確かにこのギルバートは、見た目の軽薄な印象に反して結構な実力の持ち主と言えるだろうが、それでも決して対処できない程じゃない。
何しろこの程度の実力、ジェラルド父上の鬼のような剣技と比べればまるで赤子同然。二年前まで毎日のようにあの父上と撃ち合っていた俺ならば、いくらでも対処しきれる範囲だった。
――よーし、今度はこっちから仕掛けてやる……!
俺は一転して足を前に踏み込むと、攻めに転じる。
最初は余裕の表情でそれを受け流していたギルバートだったが、戦いが長引くにつれてしだいに最初の頃の余裕は失われていき、今や冷や汗を流しながらの焦りの表情で剣を振るっていた。
きっとこの決闘、ギルバートはすぐに片が付くと高をくくっていたのだろう。
自分は名門騎士家の長男、相手はただの画家。確実に勝てると確信していたからこそ、簡単にこんな命を賭けるような真似ができたのだ。
その証拠に、最初はあんなに調子の良かった剣筋が、ここにきて明らかに鈍ってきている。……これは決して疲れからくるものではない。
果たして奴には自分の命を賭けるような覚悟があったのだろうか。
……俺自身も、エリザベートと会うまでは、命を賭けて戦うなんて馬鹿らしいと思っていた。
だけど彼女と出会って、そして離れ離れになってから、ようやく分かったのだ。
――「彼女の隣」と言う場所は、命を賭けてでも勝ち取るだけの価値のあるものだということを!
俺の剣はますます勢いを増し、ギルバートを圧倒していく。
見よ、これが覚悟の差だ! そして俺の、『名門貴族の出だからってその立場を利用して女の子をはべらしているなんて許せん!』という怒りの力だ!
「っ――クソッ!」
ギルバートは俺の剣に、慌てて身を躱す。
しかしそのせいで体勢を崩し、俺に無防備な背中を晒してしまう。
追い詰めたか――? 最後の一振りにと、俺は剣を掲げる。だがその瞬間、ギルバートは振り返ると懐から何かを取り出し、こちらへ向かって投げつけてきた!
「――っ!」
俺は、突然視界を奪われ、後方へと退避する。
――目つぶしだ! おそらく、胡椒か何かの粉末だろう。それが目の中に入ってしまい、一時的に目が見えなくなってしまったのだ!
野次馬たちも、突然の出来事にざわざわとざわめいている。
「ふん、これだけ手こずらせた貴様が悪いんだ。……しかし、それもこれで終わりだな」
そう言ってギルバートの足音が、ゆっくりと近づいてくる。
目つぶしの影響はまだ回復しておらず、視界は霞んでいてしまっている。ハッキリとは見えないが、向こうの足取りも余裕を取り戻していた。
――おそらく次の一撃で、勝負を決めるつもりだろう。だが、こっちだって負けるわけにはいかない。
俺は、全身の神経を集中させる。
研ぎ澄まされた聴覚が、一瞬の踏み込みの足音を捉え――霞んだ視界に見える微かな剣の影、そして聴こえる風切り音。それらだけを手掛かりに、俺は執念で食らいついて行く!
「――そこだっ!」
振りかざした剣に、重い衝撃がのしかかる。手ごたえ、あり! 俺は、何とか剣を受け止めることに成功した。俺はその勢いのまま、向こうの剣を弾き飛ばす!
――踏み込みが、甘いッ!
痛烈、一閃! 想定外の衝撃に、ギルバートは思わず剣を手放してしまう。
剣はクルクルと回転しながら放物線を描き、そしてぐさりと地面に突き刺さった!
「な、何だとッ……!」
ギルバートは、驚愕したように剣の方に向かって振り返った。しかし、それが命取りとなってしまう。
――今だっ!
俺は間髪入れずにタックルをかます。――ドスン! ギルバートはあっけない程に簡単に体勢を崩すと、地面に倒れ込んでしまった。
そして地面に組み伏せると、俺は奴の首元に剣を突きつけて叫ぶ。
「どうだ! この距離なら外さないぞ!」
霞んだ視界でも、これならば絶対に外しはしない。
きらりと光る刀身を目にして、ギルバートの瞳には恐怖の光が宿る。すると奴はさっきまでの様子とは一変して、錯乱したように懇願し始めた。
「分かった、分かった、負けを認めるッ! ……だからっ、殺さないでくれ!」
哀れにも見えるその変貌ぶりに、もはや先程までの傲慢っぷりは見る影もない。そこにいるのは、情けない声を上げながら死の恐怖に怯える一人の男――ただ、それだけだ。
俺はそれを見て、哀れにさえ感じてしまう。
そしてゆっくりと剣を収めると、その瞬間、周りを取り囲む群衆から大歓声がまき起こった。
「勝ちだ! 画家の勝ちだ! 絵師様が騎士を負かしたぞ! わああああああああっ!!!!」
下手をすると当事者の俺なんかより熱くなっている感のある彼らの叫び声を聞いて、ようやく俺は自分が勝ったということを実感する。
そうだよな、俺は勝った、勝ったんだよな……!
「ははっ、勝った、勝ったんだ! うおおおおお!!!!!!」
膝をつき、疲労に息も絶え絶えになりながら、俺は両手でガッツポーズをしながら大声で叫んだ。そして俺は、エリザベートの方を振り向く。
エリザベートはそんな俺の姿がよっぽど面白いのか、クスクスと笑っていた。
だけど俺は笑われたって構わなかった。――だって、嬉しいから!
今は笑われたって嬉しい気持ちになれる。ああ、今の俺は無敵だ!
「いいぃぃぃぃ、やっほうッ!!!!」
◇ ◇ ◇
……それからのことは、ごく簡潔に記すにとどめておこう。
俺とエリザベートは、正式に交際することになった。
決闘の翌日、俺はエリザベートと一緒に、エーデルフォルテ卿のもとに向かった。
いわゆる「娘さんを僕に下さいっ」というアレである。まあ当然、そのまま言った訳じゃないけど、とにかく俺とエリザベートが結婚を前提にお付き合いしたいという旨は報告させていただいた。
エーデルフォルテ卿は最初驚いた様子だったけれども、最後には納得してくれた。これで俺とエリザは、父親公認の仲ということになる。
その日からの俺は、これまで以上に画家としての仕事に励むことになった。
俺がいくら有名画家だといっても、絵を描かなければただの人間、胸を張ってエリザベートの隣にいるためには絵を描き続けるしかない。これからしばらくは悪夢のような毎日を過ごす羽目になるだろう。
……だが、それでいいのだ。俺は一人じゃない、隣にはエリザベートがいる。
それだけで、これからの苦難の道もなんぼのもんじゃいというものだ。
そして、十年後――
俺はキャンバスを前にして、筆を動かす。キャンバスのその向こうに座っているのは、十年が経ち、より美しさに磨きがかかったエリザベートだった。
俺は十年の間、ずっと生前の世界の名画を模倣し続け、今では俺の名声は、画家の世界では伝説というべき存在にまで成長していた。
誰からも尊敬のまなざしを受け、皆が皆俺の絵を賞賛する。
……しかし俺は、そんなあり方に虚しさを覚えていた。
皆が褒め称えるこの絵は、決して俺の功績なんかじゃない。別の世界で他の誰かが描いた絵の、模倣に過ぎないのだ。「俺は偉くなんかない、全部パクリなんだ!」……なんて言えるものなら、どんなに楽だっただろう。だけど実際はそんなこと、口が裂けても言えなかった。
後悔なんかしていない。だって、この絵のおかげで俺はエリザと一緒に居られるのだから。
けれど俺だって三十年近く絵を描いてきたのだ。画家としてのプライドぐらい、人並みに持っている。
正真正銘の自分の作品というものを描きたい、そう思った。そして何を描こうかと考えた時、最初に頭に浮かんだもの――それが、エリザベートだったのだ。
思い返してみれば、あのエリザベートの絵こそが、俺が画家として名を上げようと思ったきっかけだった。もう一度初心に帰って描くとしたら、これほど相応しい絵はない。
それに何より、エリザベートこそが俺の知る最も美しい存在なのだ! 絵というものは、自分が最も美しいと思うものを描いてこその芸術と言えるだろう。よし、エリザの絵を描こう!
そう考えた俺は、さっそくエリザに頼み込んで、絵を描くことにしたのだ。
「わたしの絵? うん、別にいいけど……ウィル、仕事が溜まってるんじゃないの? 大丈夫なの?」
「ああ、問題ないよ。依頼主には少し待ってくれるようにお願いしたから。仕事なんか構うもんか、エリザの絵が描きたいんだ!」
……と、そんな風に描き始めた俺だったが、着々と完成に近づいていく絵を前に、俺は筆が止まらない。こんな感覚、久しぶりだ! もしかしたら生まれて初めてかもしれない、こんなに迷いなく筆が進むのは!
そして描き上げた絵を目の前にして、俺は満足したように頷く。
――思わず絵の中に入って行って、抱きしめに行きたくなってしまうような、そんなエリザベートがキャンバスの中に座っていた。
完璧だ……今まで描いた、どの名画よりもずっと、素晴らしい出来栄えじゃないか!
「……! これって、わたしよね……? 何だか思わず見とれちゃったけど」
エリザベートもこの絵を見て、その出来栄えに目を丸くして驚いている。
……俺は、こんな瞬間が一番好きだ。
今までの努力が一気に報われるような、そんな気がするから。
「……ああ、絵の題名を考えなくっちゃな」
「……名前? 普通にエリザベート婦人とかじゃダメなの?」
エリザは俺の言葉に、不思議そうに訊ねて来る。
「うーん、それでもいいけど、やっぱりね……これだけ上手く描けた絵だから、綺麗な名前を付けてあげたくってさ」
そう言って俺は考え込む。
一体、どんな名前が相応しいだろう……と、しばらく考えたところで、頭にピンと閃くものが。
これだ! と俺は思わず口に出してしまった。
「モナリザ……そうだ、モナリザにしよう!」
そう言ってうんうんと頷いている俺の隣で、しかしエリザベートは不思議そうな顔をしている。
「モナリザ? どういう意味なの?」
ああそうだ、エリザは知らないんだった。「モナリザ」という絵の存在も、その名前が意味していることも。俺はさっそく説明しようとするが……
「えーっと、それはね――いや、止めておこう。なんだか恥ずかしいから」
俺は少し言いかけたところで、やっぱりやめてしまう。「えー、教えてくれないの」と不満顔のエリザベートだったけれど、これでいいのだ。だってこんな事、言えるわけないじゃないか。
モナ・リザ――僕の愛しいエリザなんて、恥ずかしすぎて言えそうにない。
◇ ◇ ◇
そして結局この「モナリザ」が、生涯通じて俺の最高傑作ということになった。
元の世界の名画の数々と並んで、俺の「モナリザ」が一番の場所に並べられる。
元の世界とは違う、俺だけの「モナリザ」。俺という画家が語られるとき、必ず一緒に挙げられる絵、それが他ならないエリザベートの絵なのだ――これほど嬉しいことはない。
俺は今日もエリザの隣で筆を動かす。――その幸せを、ゆっくりと噛みしめながら。
~Fin~