鵜飼さんを誘う
鵜飼さんはやはり薬を飲むのを忘れていたようで、すぐに一階に戻っていった。
俺は一人部屋の中に入って、少しだけ物色した。
変な事じゃない。この前お勧めの本を教えてもらったのに、詠子の奴は一冊も持っていなかった。これじゃ話題を共有できない。
俺は本棚を眺めて、教えてもらった本が無いかを探す。
「うん……?」
一冊だけ他の本とは違うものがある。
それを手に取り、広げてみた。
「可愛い……!」
ロリ属性はないが、幼女鵜飼さんはやばい。これは危ない。何と言う破壊力。誘拐される心配がそこにはあった。愛らしい。愛でたい。そこに飾って、一日中鑑賞したい。
この考えは危ない。それ位可愛いという事だ。
家族三人で映ったものや、幼稚園児が着ている制服を着ているもの。お遊戯会や運動会。
宝箱だ。
ここにはプライスレスの写真。しかし価格はある。いくらで譲ってくれますか?
「ぁ……!」
「……早かったね」
鵜飼さんが薬を飲み終わって、部屋に戻ってきた。
そこには勝手にアルバムを見て興奮している男が一人。危ない。
違うから。
変な事してないし。
「もう……!」
「あぁ……!」
鵜飼さんは俺の手からアルバムを奪い、棚の中にしまった。
そして俺に指を突き付け、こう言った。
「あぉで」
あとで、かな。
え、良いの? 後なら良いの? あれ見ていいの?
後でと言うのは、試験勉強の後という事だ。
疲れる。
いや、分かってたよ。手話だけじゃないことくらい。普通に勉強することは約束であったし。
でもね。やっぱり、やりたくないかな、みたいな?
勉強得意じゃないし。
文系選んだけど、数学やりたくないとかいう消極的理由だし。
「無理……」
俺は机の上に突っ伏して、目の前の数学と言う難問に膝を折った。負けだ。負けたよ。お前は本当に強い。なんてこった。ここまでとは。
鵜飼さんは憐みの目で俺を見る。やめて。そんな目で見ないで。
すると鵜飼さんがタブレットで何かを書き始めた。数秒もせず打ち終えると、画面を俺に差し出してくる。
『耳が聞こえるんだから、ちゃんと勉強するべき』
俺の中で時が止まったような気がした。
バキっと音がしたようだ。俺の中で何かが折れたのか。それとも形成か。いや、破壊と創造。認識の改善。改良。革命に近いか。
俺はどこかでこんなことを思っていたはずだ。鵜飼さん勉強しづらいだろうな。ってさ。
で、俺はそう思っただけで、俺自身を改善しようとしていない。
愚か。
その単語が頭に浮かんだ。
「……」
出来る事をせず、ただのうのうと過ごす。
やりたくないのは、日本人だったら誰でもそうだろう。勉強を娯楽に感じるのは、中々少数派だ。
それでも、鵜飼さんはやりたくてもやれない。やりにくい。勉強がしにくい環境にいる。
それなのに耳が聞こえる、運よく健常者である俺が何もしないというのは、目の前の女の子にとって、屈辱、侮辱以外の何物でもない。
持てるものは最大限の努力をするべきだ。何も死ぬまでやれなんて言っていない。鵜飼さんだってそこまで言っていない。俺の被害妄想が、この考えを生みだしている。
鵜飼さんの何気ない一言で、俺はここまで考え、勝手に被害を受ける。
ただ、その考えが俺になかったという時点で、俺は鵜飼さんを慮っていたようで、実際は何も考えていなかったのだと、痛烈に感じさせる。
「ぃたに君……?」
「あ、いや、何でもない」
俺が硬直して動こうとしなかったせいで、鵜飼さんが心配した。
ほら。彼女は何も気負っていない。ただ、そう思ったからそう発言しただけで、俺を考えてこう言っただけだったのだ。
まぁ、俺の被害妄想もあながち間違ってはいない。
やるべきことだ。文系だからって数学は疎かにできない。
「やるか……!」
まずは数列とやらからだ。
なんぞこれ。
普通に数えたらいいんじゃないの?
あぁ、だめ。だめだ。数式が踊り狂っている。頭の中がちんちくりん。ぱっぱらぱー。ノックアウト寸前だ。
鵜飼さんは俺をものともせず、問題を解いて、一週間後に迫るテストに備えている。
「ぐっ……」
今さっき認識を変えたはずなのに、もう止めようとしている自分がいる。
何をするにしてもまずはこれから始めないといけないのだ。
マジで、世の中どうにかなっている。
こんな数列が出来るからと言うだけで、人間の価値がある程度決まってしまうのだ。偏差値重視の世の中に告げる。勉強がなんだ。テストの点数がなんだ。さっさと実践経験でも積んだ方が、社会のためになるのじゃないか?
何年算数やらせる気だ。もういい加減いいだろう。加減乗除。これが出来れば大概何とかなる。今までの人生経験上、、困ったことはない。
なぁんて。思っていても仕方がないぞ。三谷潤。
そろそろ現実逃避も終わらせよう。
「鵜飼さん、ここ……」
俺は素直に分らない所を、鵜飼さんに教えてもらった。
鵜飼さんは嫌な顔せず、タブレットを介して俺とコミュニケーションをする。ややタイムラグがあるが、そんなのは些末な問題だ。
鵜飼さんと喋っている。お話ししている。通じ合っている。これが、大切。
耳が聞こえないからと言うだけで、話せないことはない。
現代社会は進化し、難聴者でも心を通わせることはできる。
手話なんてなくても、まだ覚えている途中でも、何とか鵜飼さんと話し合う事はできるのだ。
「ここぁね……」
そう言って、鵜飼さんは数式を書く。
俺はその横顔を、まるで親のように見るのだった。
何とかテストを乗り越えたりし、補修も受けて俺は晴れて自由の身となった。
テスト週間は図書委員の仕事はなかったが、お昼は図書準備室で食べた。佐々田さんももちろん一緒だ。
もう、鵜飼さんとご飯を食べるのも日常化して、雨宮が筋トレに走る事も普通になっている。
そう、もうそろそろ六月も後半だ。
有難い事に、土曜日は鵜飼さん宅にお邪魔して、手話を学んでいる。
期末テストなどもあったが、もうそんなものも終わってしまった。
今は手話だけ。
とにかく簡単な単語を繰り返し使って、体に覚え込ませる。ある程度簡単な会話ならできるくらいになっている。そこまで過信はできないから、基本は筆談だ。
むしろ筆談の方が多い。俺が喋って鵜飼さんが筆談で返す。
鵜飼さんの発音はあまり改善が見られなかった。
今までも練習はしてきたようだから、そう簡単にはできないらしい。それこそ専門機関で訓練しないといけないのだという。それも小さい頃の段階で。
最近でこそそういうものが発達しているが、鵜飼さんが子供のころはそこまで難聴に対して、手厚い保障はなかったらしい。技術も進んでいなかった。
それに鵜飼さんの難聴に気付くのが遅く、専門機関に駆け込んだことが遅れたのが痛かったらしい。中度難聴者と言う半端な状態だったため、発音が少し悪い女の子としか認識されなかったみたいだった。
しかしそれも年を取れば疑いの目で見る必要もある。
結局小学生程度まで放っておく形となってしまい、鵜飼さんの発音能力はあまり伸びなくなってしまった。
故に聞き取り能力にも支障が出てしまい、今でも偶に何を言っているのか分からないことがあるらしい。
ここらへんが、俺が二か月程度かけて入手した鵜飼さんの今までだ。
二か月。
六十日。
長いよね。
今日は土曜日で鵜飼さんの家で手話の練習をして、ちょっと休憩をしている。
ね。でね。そろそろ遊びたいね、みたいな?
今のところやっているのは、平日は昼ご飯食べて一緒に帰る。土曜日は手話の練習で、そんなに遊んでいない。
いや、昔の事を考えれば、女の子の部屋にいるだけでも大躍進なのだが。
それで、どう思う。二か月同じようなアルゴリズムで過ごしているわけだが、ここで一丁、違う事をするべきではないだろうか。
でもさ。これって結局遊びに行こうって言っているだけで。平たく言えば、デート的な?
いやー。ね。うん。なんて言うの? これは。さ。え。っと。
誘っていいのかな?
マジでわからない。
そんな経験ないし。
ていうかさ、難聴を抱える人と一緒に遊ぶってどうすれば良いの?
普通とは少し違う感じなのかな。
その前に鵜飼さんはただの難聴じゃなくって、なんとか症候群っていう名前の病気なんだよな。
確かに、偶にふらついてたりするんだよね。眩暈ってやつ。
例を挙げると駐輪所で歩いているとさ、偶にフラッと俺にもたれ掛って来るんだよね。もう、これ最初やられたとき超慌てたから。
え? え? え? みたいな感じ。
なに。これ。どうするの? どうすれば良いの、俺!? そんな感じ。
そんなこと考えている次の瞬間には、鵜飼さんは地面に座り込んで手を頭に当てている訳で。頭を振って何かを振り払おうとしていたりする。
これが割と高頻度である。
自転車をこいでいるときもあった。
本当に危なかった。
もう少しで横転するところだったし、大怪我する寸前だった。
これを踏まえて、鵜飼さんは何をやって遊んでいるのかと言えば。
「……ふふ」
本だ。
基本、鵜飼さんは本を読んで楽しんでいる。
あれ? これ、遊びに行く余地なくね?今も休憩中という事もあり、俺が持ってきた漫画を読んでいる。ギャクマンガだ。笑っている顔が見たいとかそういう狙いで持ってきた。眼福だ。
しかし、マジで。マジで。何をやって遊ぶんだろ。普通だったらなんだろ。
ボーリングとかでも行くのかね。でも、運動っぽいのは控えるように言われているんだよね。ボーリング程度なら大丈夫なのかな。登下校しているし。
それともお買い物? それもありだと思うけどさ。ちょっと買い物行かない、的な。こっからショッピングモールも近いし。
鵜飼さんがちょうど漫画を読み終わった。
どうしよう。誘おうかな。でも。このいい感じな関係を崩したくないというのも実情。何か変な雰囲気になったら超嫌だ。最近はお母さんの妨害もないし、普通な関係だ。友達? 分かんない。でもこんだけ一緒にいるなら、友達じゃないか
な。だって、雨宮より一緒にいるし。教室では鵜飼さんには喋りかけないようにしているけど、そこ以外なら大分鵜飼さんと一緒だ。もう、一緒に遊んでもいいのかな。いや、待て。この土曜日に一緒にいるというのもすでに遊んでいると言えば、遊んでいる。鵜飼さんにとっては会話はとても貴重なものなのだ。俺にとっても鵜飼さんと居れるのは超ハッピー。手話そっちのけで話す。とはいかない。普通に手話をして、その合間に何か気になる事をしゃべったりする程度。
って、こんなこと考えている間に、鵜飼さんが二冊目に手を伸ばしてしまった。
くそ。しまった。まあ、これが終わったら聞こう。
鵜飼さんは二冊目の本を時折笑いながら読んでいる。これが狙いなわけだが、この状態の鵜飼さんを外に引っ張るのか。何か蛇足みたいな感じだ。既に楽しそうだし、外に出る必要性を感じないと言えば、そうかもしれない。
でもなぁ。ちょっと位外に出てみても良いと思うんだよ。
「あははは」
鵜飼さんが笑い、次のページをめくる。
迷うな。俺。何も俺が鵜飼さんを貶めるようなことをするわけじゃない。ちょっと、次の土曜日にでも何かしに行かない? 的な。それだけ。何もない。普通。ちょっと友達と遊ぶだけ。万が一もあるから、ここら辺でいい。ショッピングモールの他にも色々あるし。
ぐぁぁぁ。だめだ。結局のところ勇気がないだけだ。
怖い。断られるのが怖い。
前に話しかける時と同じみたいに心臓がうるさい。
音楽なんてかけてないから、俺と鵜飼さんの呼吸、それと偶にある笑い声位しかこの部屋にはない。
それなのに五月蠅い。やばいくらい五月蠅い。轟音でもなっているようだ。血流すら俺の耳に聞こえていそうだ。
心臓がバクバクと早鐘を打ち、呼吸は変質者のごとく荒い。ここにお母さんが居たら即刻退場を告げられている。俺は変態か。それくらい俺の状態はおかしい。鵜飼さんが漫画を読んでいてくれてよかった。
つーか、早いよ、読むの。
もう二冊目終わっちゃうの?
流石にたくさん本を読んでるだけあるね。俺も早いっちゃ早いけど。
「おぉしろあった」
面白かった。だよね。そうだよね。「つまんねーもん持ってくんじゃねーよ、このカス」なんて言ってないよね。短い単語だし、俺の被害妄想だ。
この考え方嫌いなんだよな。治したい。
「……? 三谷君?」
やばい。かなり久しぶりにちゃんとした発音で呼んでもらった。感動だ。
それどころじゃない。俺が何も反応しないから、不思議がられている。
もういい。聞こう。案外、何とかなる。
行動したらあっさり上手く行ったなんてよくある。鵜飼さんに話しかけたのもその一種だ。それでも、断られた時のシミュレーションだけはしておく。
鵜飼さん。何? 遊びに行かない? 嫌。
ぐっはぁ。
想像ですぐに断られた。
想像ですらこの破壊力。
本人の口から発せられた言葉なら、明日は一日ベッドの上で足を抱えていること請け合いだ。
……シミュレーションは終わった。次は行動に移せ。何とかなれ。どうにでもなれ。
「鵜飼さん」
「ぁに?」
「来週遊びに行かない?」
「……良いよ?」
何故疑問符で返す。
て、え。良いの? マジで?
「良いの?」
「良いよ?」
マジか。いいのか。即答でもなかったけど、良いのか。
待て。肝心なこと決めてない。
「何する?」
「……ふむ。……ぁにする?」
鵜飼さんも何をするのか迷っているのか。というより、誘った俺が何か言うべきか。
「鵜飼さんっていつも何で遊んだりするの?」
「……」
鵜飼さんは下を俯いて、若干涙ぐみ始めた。
しまったぁぁっぁぁ。
あんまり友達いないんだった。これじゃ、傷に塩塗り込んでるようなもんだ。迂闊だった。
「あ、あれ、うん。ごめん。ごめんね? 何も悪気があったわけじゃ……」
「……ふふ。嘘」
鵜飼さんはそう言ったが、涙は本当に流れていたわけで。
俺は罪悪感にさいなまれながら、何で遊ぶか提案をする。
「映画とか?」
「う~ん……」
鵜飼さんは自分の耳を触りながら、首を傾けた。
「だよねぇ」
耳が聞こえにくいのに映画はなかったかな。
いや、そのための機構はあるだろ。
「字幕付きは?」
「ぁ。ぉれなら」
俺は鵜飼さんからタブレットを借り受けると、近くの映画館の予定を見る。
「アニメーション映画なら字幕付きがあるよ。吹き替えなしだけど」
海外で作られたアニメーション映画が、最近何かと話題になっているのは知っていた。でも、別にみる予定もなかったし、一人で見に行くのも勇気が要る。
鵜飼さんの体調の事を考えれば、動かない映画館と言うのは最適のように思える。
そこまで心配する必要もないと思うが、念には念をだ。
「あぃたがいい」
「え?」
鵜飼さんは俺が聞き取れなかったと思い、手話で会話を試みた。
『明日見に行こ?』
マジで。良いの? 明日、日曜日だけど。何か知らないけど、日曜日は自由みたいな雰囲気が出てて、鵜飼さんの家にも来づらかった。
だからこそ、来週を指定したわけだが。
「う、鵜飼さんが良いなら……」
『うん。そうしよっか』
鵜飼さんがそう返すと、部屋のドアが開いた。お母さんだ。いつも通りサイドテールのエプロン姿だ。
「ご飯出来たから食べましょうか」
「そ、そうっすか」
鵜飼さんがさっさと立ち上がって、部屋から出て行った。俺もそれに従い、下に行く。
鵜飼さんが先に一階に行くと、俺の後ろにいたお母さんが話しかけてきた。
「三谷君、真琴に何かしたの?」
「え、何でですか!?」
ギョッとしてお母さんの問いに疑問を示す。
しかし、お母さんは何も言わず、そのまま下に行ってしまった。
何が言いたいのか分からない俺だったが、空腹には敵わず、二人のいるリビングへ行った。




