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鵜飼さんのために

 家に帰ると最初に詠子が俺に食いついてきた。


「本、早く寄越しなさい」


 ついでにおつりも請求されたが、そんなものはないと突っぱねた。すぐに何か言うかと思ったが、以外にもすぐに引き下がった。手にしていた小説はひったくられ、詠子は先に自室に籠った。これで何時間かは平和な世界が俺に訪れるだろう。


 俺も二階へと行って、自分の部屋に籠る。

 勉強机に座って買ってきた手話の本を広げた。


「うわ……」


 一番最初に、指文字という項目が出てきた。

 曰く、あいうえお、を指で表現するらしい。濁点も半濁点も片手で表現するのか。『きゃ』とか『ひゃ』もあるらしい。


「マジかよ……。これどんだけかかるんだ……」


 一日で制覇する勢いで買ってきたのだが、いきなり予定が狂った。しかし、これを覚えないことには始まらない。そう書いてある。

 しかし五十音を最初から覚えるのは骨だ。新しい言語を覚えるのに等しい。


「いや、鵜飼さんと話すのには必要だろう」


 早速『あ』から覚え始める。なになに。握りこぶしの状態から親指だけ伸ばす? 相手からはあたかも『a』のように見えるようにします、だと。

 俺は鏡の前で練習をしてみる。


「ふむふむ……」


 結局は、親指だけを伸ばせばいいのか。次は『い』。これは『あ』とは逆で、小指だけを立てる。イメージとしては『i』のイメージらしい。

 鏡の前で小指だけを立てる。


「女を表現するみたい……」


 次は『う』。これも簡単。人差し指と中指を立てるだけ。ピースを閉じているみたいな感じだ。

 お次は『え』だ。手のひらを見せつけるようにして、指を全部曲げる。あくまでも掌を見せつける事が重要らしい。これを握りこんでしまうと意味が通らなくなってしまう。

 次は『お』。手を丸めてその出来た輪っかを相手に見せつける。指全部で輪っかを作る事が重要だ。


「よし、……あ、い、う、え、お」


 あ行を確認して、それを実行に移す。姿見の前で指を折ったり、丸めたりする。口も同時に動かすことを忘れない。聴覚障碍者相手では、口の動きや表情も相手から情報を読み取る重要なものらしい。本に書いてある。


 何回でも繰り返す。先は長い。でも泣き言は言わない。これは必要なことだ。学校の授業より何倍も身になっているし、楽しい。楽しくやって、鵜飼さんとの会話方法を習得しているという充足感。人生で一番楽しい時間かもしれない。


「あ行はまた後で復習しよう。次はか行だ」


 俺はか行を見た途端、ここからが本番だなと思った。あ行は簡単だった。親指しか立てないとか、輪っかを作るとかそんなものだけ。でもか行はちょっと日常では使わない動作ばかりだ。『か』なんて意味が分からない。説明ではチョキの状態から中指を前倒しして、それに親指をつけるという。文字だけでは意味不明だ。図付きの本でよかった。


 難しくても実践する。失敗していると思えば修正を繰り返し、妥協をしない。

 手話は単語もあるという事だが、究極的には指文字だけでも会話は可能だ。手間がかかるから誰もやらないそうだが。それ以前に、筆談という手もある。鵜飼さんも最初はそうやって話しかけてきた。そう考えると手話もいらない気がするが、スムーズに会話しようとするなら、手話は要る。


 よく考えれば、鵜飼さんは喋れないのかもしれない。

 聴覚障碍者は発音が怪しいというのもテレビでやっていた。

 そもそも言語というのは聞く事で習得できる。それが怪しければ言葉の意味が分からなくなる。日本語はただの空気振動となり、意思疎通は不可能となる。


「……っ」


 今更そんな事実に行き届いた俺がバカらしくなった。

 鵜飼さんが言っていた「……ぁぃ」もそう言いたかったのではないのかもしれない。

 話の流れはあまり思い出せないが、多分「……はい」と言おうとしたんだ。


 でも鵜飼さんは「……ぁぃ」としか発音できなかった。正確な発音方法が分からないんだ。鵜飼さんがどの程度聞こえているのかは分からないが、軽い物では無いだろう。補聴器を使うレベル。後で調べてみよう。

 今は指文字だ。


「か、き、く、け、こ。か、き、く、け、こ。……合ってるのか? でも一応は図と一緒の動きをしているから、大丈夫だよな」


 不安を抱えながらもかつてない集中力で、俺は指文字を覚えていく。するする頭に入っていく。生きるのに必要な知識だ。これは要る。脳みそにそう錯覚させろ。俺はこれが無いと生きていけないぞ。そう思い込め。食事よりも、睡眠よりも、セックスよりも大切なことだ。今の俺にとって手話とは三大欲求を凌ぐ存在だ。これがあれば、鵜飼さんと話すことが出来るかもしれない。謝ることが出来るかもしれない。


 でも突然謝っても鵜飼さんも何のことかわからないか。それこそ気持ち悪がられてしまう。ていうか、本当に観察ばれてなかったかな?

 俺がこうやって手話を覚えているのだって、鵜飼さんが悪感情を抱いていないという前提のもとに動いている。


 いや、考えるのはやめよう。鵜飼さんは気づいてはいなかった。そうでも考えなければ、俺のモチベーションがなくなってしまう。俺は没頭する。それこそ鵜飼さんは本の世界に入り込むように、手話の世界に入っていった。入れ、入り込め。俺の脳細胞に焼き付けろ。この記憶は永久保存。次。さ行。た行。次々に頭の中に叩き込んでいく。実践と練習を繰り返す。テストを繰り返し、鏡の前の指文字は完璧なのか頭を悩ませる。所詮は独学。限界が訪れるだろう。しかし、その限界までは突き進むしかない。これが俺の罰になっていますか? でも、俺は楽しいよ、鵜飼さん。あなたとコミュニケーションをとれるかもしれないと思うと、胸が高鳴る。自然と頬が緩んでしまう。


 俺はどうしてしまったのか。何故こんな風になっているのか。自覚はない。確かに、あなたの見た目は、俺の範疇では最高だし、詠子とは比べ物にすらならないほど良い。あのカス女を良いという男が出てくるのははなはだ疑問ではあるが。兎に角、鵜飼さんに対するこの感情。これがなんなのかは、一旦置いておいても良い気がする。この感情に身をゆだねてしまえという甘い誘いもある。でも、違うよ。話したこともない相手にそんな感情を向けられても、鵜飼さんは困ってしまうだけだ。


 これは無視だ。


 無視、無視だよ。そうした方が良い。期待した分落胆はしたくない。俺は純粋に手話を覚え、鵜飼さんと話したいだけ。これ以上はない。

 俺は腹が減っても無視する。幸い、詠子も読書をしていてご飯の事は忘れているみたいだ。昼飯は抜きだ。いいぞ。飢餓状態で勉強するのはいいことだ。命の危機にかかわらず行っていることを脳が勝手に勘違いする。これは食事、つまり食欲よりも大切な事だと。食欲より上に、手話欲が優ればそれだけ効率よく学習は進む。


 部屋に置いてある時計の針がカチコチと何度も時を刻んでいる。俺はそんな中何度でも指文字を繰り返す。濁点や半濁点などもちゃんと習得して、鏡の前でどんどん試す。

 五十音はあらかたやったし、ある程度覚えている。次は、全部を一通りやり直す。


「あいうえお、かきくけこ、さしすせそ……」


 うおおおおおおおおおおお。俺の脳細胞はかつてないほど活性化している。灰色の細胞は全情報を記憶しようと躍起になっている。動作と言葉をリンクさせて、体に覚え込ませていく。覚えろ。習得するのだ。熟練度を今すぐにあげる。今からお前は古参兵と名乗れ。実践せよ。戦え。


「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」


「さっきから五月蠅い!!」


 詠子が本をもって俺の部屋に突撃してきた。そのまま近づいてきて、顔面を殴られた。


「ぶへ……!」


「うっせーんだよ、ボケ!! 何騒いでんだ!?」


 言いながら俺の事を足蹴にする。糞。こいつは糞だ。やはり鵜飼さんは天使。鵜飼さん、マジ天使。詠子は悪魔だ。いってぇ。良いだろ。別に。ほっとけよ。


「ちょ、痛いから。ごめんなさい。もう騒がないから」


 それでも丁寧語で俺は詠子に謝る。丁寧語になってるか、これ。

 すると詠子は机の上に置いてある本に気付いたようだ。


「アぁ? 手話? 何で? あんた耳悪いの?」


 すると一転心配そうな顔をした。確かに、自分の弟が突然、手話何て勉強し始めたら心配もするか。


「いや、違うから。こっちの理由だし。別に何でもないから」


 詠子は蹴るのを辞めていたので、俺はゆっくり立ち上がった。


「理由って?」


 鵜飼さんの事だけど、別に。何か言うの恥ずかしいし。なんて説明したものかわからない。それに、こんなこと言うと詠子は勘違いして、俺への暴力が増す気がする。


「学校の課題。何か覚えて来いってさ」


「……てめー、嘘吐いてやがるな。目線が下向いてるぞ。私心理学専攻だったのを忘れてんのか? 後ろめたいことを隠してるな。何だ。言え。まさか、女か」


「ハァ!? ちげーし。女っ気ないのは詠子が一番知ってるだろ。ちょっと、友達に耳が悪い奴がいるから、俺も手話勉強しようかな? みたいなやつだわ」


 嘘は言っていない。これから友達になる予定だ。鵜飼さんは耳が悪いし、手話を勉強する全ての要因となっている。

 それでも詠子は疑いの目を向けてくる。まずい。詠子の性格上、俺に先駆けされるような状況は避けたいだろう。あいつは俺と同じで男っ気が無いし、俺に女の気配があるとあれば、妨害すらしそうだ。


 だが、そんな考えは杞憂だったようだ。


「まぁ、お前が女に絡む勇気何てないか。しかし、手話かよ。面倒だな。私も大学で勉強したけど、単位とるので精いっぱいだったな。懐かしい」


 そう言うと詠子は出て行ってしまった。台風が出て行ったことで、俺の部屋に静寂が訪れた。


「ふぅ……」


 詠子の乱入というアクシデントはあったが、まだまだ夜になるまでは時間はある。指文字は今日中に完璧にしたい。そうすれば、ある程度の単語を日曜日に覚えられる。



 昨日ほど濃密な時間を過ごした覚えはない。ご飯を作りながらだろうが、指文字の練習は欠かさなかった。ご飯を食べていても、指文字。洗い物していても、指文字。指文字。指文字。だんだん、訳分からなくなってきた。


 すべての家事が終わったら、部屋の鏡の前であいうえおを実践する。何度も繰り返し、失敗したらその都度覚えなおす。そんな繰り返しを途方もなく過ごした。

 そうして日付が変わるころには、ようやく一通り五十音の指文字を扱えるようになっていた。扱うだけで、相手がいないのでどうも実践練習にかけるのは致し方ないだろう。


 外が白身始める前に眠ることが出来て僥倖だと思いつつ、ベットの中に入ったことを覚えている。

 今日も詠子が「朝飯」と言いながら部屋の中に入ってきた。寝不足で眠い眼をこすりながらも起き上がって、適当に朝ごはんを作る。


 テーブルに配膳して詠子と一緒に朝ご飯を食べた。

 テレビを点けると、朝のニュースで盛り上がっている所だった。詠子は急いでご飯を井の中に詰め込むと、部屋に戻っていった。新しい本を読みたいのだろう。


 俺は詠子の残していった皿を持って台所に行った。ここでも指文字。頭の中で思い浮かべつつ、食器を洗う。うん。ちゃんと覚えている。これなら今日は次のステージに行けそうだ。

 俺は洗い物を終えると、自分の部屋に戻った。


「さて、何を覚えるべきか……」


 この手話の本にはたくさんの単語が乗っていたが、こんなの今すぐに覚えれるわけがない。クソ。これじゃ、鵜飼さんとお喋りできない。


「あれだな。5w1hを覚えればいいかな。英語でもこれが重要だろ。日本語だって同じだ。質問するのだって、これがなきゃできない」


 俺はそう思い、本をパラパラとめくって目的のページを見つけ出す。


「まずは、誰か、か」


 えっと、指を折り曲げた状態の手の甲で頬をこする。らしい。俺は図の通りに手を動かす。なんか変な感じだ。これで「誰ですか?」と言っているに等しいのだという。面白い世界だ。


「次は、いつ、か」


 おぉ。過去と未来があるのか。それもそうだな。指を立てた右手を顔の横で後ろへ引き寄せて両手を上下におき、同時に親指から順に折り曲げていく、か。分かりづらい。要は、掌を顔の横で引いた後、両手を縦に重ね合わせて、親指から順番に折り曲げていく。掌を押し出すと未来、引くと過去の事になる。


「えっと、い、つですか、と」


 鏡の前で実践する。多分できている。両手を使うので、ちょっと難しい。

 次は、どこ、か。

 えっと、指を折り曲げた手を前に置いて、立てた人差し指を左右に振る。まるで何かを抑え込むようにした後、指を振って挑発していると思ってくれると分かりやすい。とりあえず、かなり挑発的な手話だと思った。


「……あれ? 何、も人差し指を振るだけなんだ」


 どこと何は混同しそうだ。注意して覚えないと。

 何も終わったし、なぜ、に行くか。


 左手こぶしの下に右手の人差指をくぐらせる、か。俺は鏡の前でそうやって見た。かなり特徴的な手話だ。これは一目見たらわかるだろう。

 これで一通り終わりでいいだろう。HOWに相当する手話がこの本には載っていなかった。何があればいいか。その前に使うかわからない。


 俺は自己紹介や、挨拶、曜日などをどんどん勉強していく。 

 しかし今ならわかる。


 一朝一夕で習得できる技能じゃない。何か月もかけてようやく手に入れることが出来るものだ。それに加え、俺の場合は独学ときた。丁寧な指導を受けていないし、もしかしたら何か間違っているかもしれないという不安が付きまとう。


 それにさっきから覚えている単語たちが、日常会話で出てくるのかと言えば、多分そうじゃない。しかも指文字と違って単語は動作が多すぎて、覚えきれていない。さっきから覚えたと思っていた単語が、いつの間にか忘れ去られているというのは、ザラにあった。


「……とてもじゃないけど無理だ」


 鵜飼親子がやっていた高度な手話を習得するのは、すぐには無理だ。ならば、どうする。


「……言う事を決めよう。話しかける内容を最初のうちに決めよう。後は筆談でもいいや」


 これは決して逃げではない。鵜飼さんは耳が聞こえづらいというのがコンプレックスのようだし、あからさまに手話を使うのは嫌うだろう。昨日手話を使っていたのは、誰も知っている奴がいないと思っていたからに違いない。


 つまり、学校ではあまり手話を使うのは控えた方が良い。それが鵜飼さんのためだ。

 そうなれば、いう事を決めないとな。


「どうしよう。自己紹介? いまさらかよ。でもな。鵜飼さん、俺の名前知ってるかな。大丈夫かな。佐々田さんが何回か三谷君て呼んでるし。でも、鵜飼さん耳が悪いんだよね。だから手話勉強している訳で。でもなぁ。一か月も一緒にいて自己紹介するのはあれだな。やめた。違う事にしよう」


 俺はそうして悶々としながら最初の一言を探し続ける。

 昼飯を作りながら、適当にテレビを見ながら考え続ける。


 なんか、ドツボに嵌っている気がする。もう、気になる事聞いてみようか。うん。鵜飼さんが話して楽しい事が良い。出来るなら、あの笑顔も見たい。鵜飼さんは学校ではほとんど無表情だ。感情を殺しているというか、気を張っている。そりゃ、耳が悪いという事がばれないようにしているから、当たり前と言えば当たり前だろう。


 俺の鵜飼さんの耳が悪いというのが、本当に当っていたらの話だが。

 しかし今更こんなことを考えても意味はない。今なら、あの身振り手振りは手話だったと言い切れる。鵜飼さんは耳が悪い。難聴だ。これは確実。恐れるな。臆せば死ぬぞ。後悔するな。鵜飼さんを貶めてしまったことを忘れたのか。何が起ころうと俺はその結果を享受する。


 俺は一階から二階の自分の部屋に戻って、単語を確認した。

 ちと気恥ずかしい単語もあったが、そういうのじゃない。そじゃないったらない。


 後は、反復練習だ。鏡の前でその一言を何度も何度も繰り返す。合っているか、間違っているか。判定してくれる人はいないが、すべては明日の図書委員の仕事でわかる。

 明日だ。待っていてください。待ってないか。でも、俺の覚悟は決まっている。

 

 明日は話しかける。この一言を引っ提げて。

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