鵜飼さんの秘密
次の日。金曜日だ。
学校までどうやってきたのか、あまり覚えていない。あまりにもショックな結論に、俺は寝不足だ。家を出て、学校まで来たのが奇跡なくらいだ。
それ位俺はショック、という話だ。
授業はいつも通り適当に過ごし、話は右から左だ。
授業中に鵜飼さんに目を向けて見たが、別に変な箇所はない。いつも通りだ。俺だけが昨日のことを引きずっている。
昼放課となり後ろの雨宮と一緒にご飯を食べている。今日もパンだ。
「なんか今日、変だぞ。何かあったのか?」
雨宮がいぶかしそうな顔をしている。俺がこんな状態になるのは、こいつと出会って初めての事で、変に思うのもおかしくはない。
「……ちょっとな」
何か言うのも恥ずかしいというか。こういうのって、言いにくいよね。
雨宮は予想以上に重い俺の反応に、茶化そうとしていたのを辞めたようだ。
「……何だったら相談に乗ってもいいぞ。相談ていうか、愚痴だな。何か言うだけでも変わると思うけど? 俺も野球で上手くいかないとき、部活連中に結構愚痴ってるし、愚痴られてる。結構、バカにできないもんだぞ?」
愚痴か。そうか。昨日はこのことをだれにも話していない。詠子なんて昨日喧嘩みたいなことしちゃったし。あいつ、飯どうしたのか。どうでもいいが。
……言おうかな。別に約束すればいいし。
「……誰にも言うなよ。約束だからな」
「……分かったよ」
俺は、一つ息を吸い込んで、雨宮に一言、言ってやった。
「……昨日、鵜飼さんに無視された」
雨宮は、それから数秒待っていたが、俺が喋らないのを見て、怪訝そうに確認した
「……それだけか?」
「……それだけって言う事ないだろ。俺にとっては重大事項なんだよ」
それから俺は雨宮に起こった事を全部吐いた。短いものだ。話しかけて、無視された。これだけ。単純明快。俺がキモイ。それだけなのだ。
雨宮は鵜飼さんに目を向けた。鵜飼さんはいつも通り一人でご飯を食べていた。本を読み、偶にお弁当をついばむ。
雨宮は視線を俺に戻して、悩ましげに話し始めた。
「そういえば、鵜飼の事で聞いたことあるな」
「……何が?」
俺はやや投げやりにそう聞いた。
「鵜飼って喋った事ない、みたいな? 誰も話し声を聞いた事が無いんだと。俺もないな」
は? お前無いの? あの可憐な声を聴いたことないのかよ。人生の何%損してると思ってんの? あぁ。俺は運がいいのか。「……ぁぃ」は、それほどのレア度を誇っていたのか。それを易々と引き出す佐々田さんの実力は計り知れない。流石に信頼関係というものがあるのだろう。出会って三週間で、しかも話した事が無い俺とは大違いだ。
「俺は聞いたことあるけどな」
少しだけ優越感に浸りながら言うと、雨宮は驚いた顔をした。
「マジか。流石に一緒にいるだけはあるな。まぁ、でもクラス内で雨宮が喋ったところなんて一回も覚えないな。俺も喋った事ないし。何か喋りかけ辛い。それ考えただけでも、お前は話しかけたんだ。それだけでもスゲーんじゃねーの?」
雨宮は俺とは違い、クラス内でも人気者だ。俺とはヒエラルキーが違う。俺は雨宮の金魚の糞に近いが、雨宮とはうまくやっている。クラス内で雨宮と仲がいいのは、俺という認識が一番大きいのも事実だ。
その雨宮も鵜飼さんと話したことはないし、声も聞いた事が無い。
それでも慰めになっていない。
「やっぱり俺がキモイから、雨宮さんも無視したのかな?」
「ハァ? お前がキモイなら、クラス中の男子だってかなりキモくなるだろ。それはさすがにないんじゃねーの?」
「でもさ……」
俺はネガティブ思考と分かっていながらも、そう思う事しかできなかった。
「なら、もう鵜飼に聞いてきたら?」
俺は雨宮の胸ぐらを両手でつかんで、大きめの声で叫んでしまった。
「そんな勇気あったら最初から話しかけてるわ!」
あっ……。
クラス中がいったん会話を辞めて、俺たちの事を見ている。
「あ、いや、何でもない。……悪い」
俺は雨宮とクラスの皆に頭を下げた。小心者らしい、速攻の謝罪だった。
雨宮は俺の行動にびっくりしていたみたいだが、明るい笑顔で許してくれた。
「まぁ、気にすんな。……でさ、何でそんなにキモイと思う訳? 何かしたの?」
俺は一つの事だけを隠して、雨宮に説明していた。あまり言いたくないことだから黙っていた。やっぱり気持ち悪い事だと思うし。俺も気持ち悪いと思う。
「いったほうが楽になるぞ? 言っちまえ」
雨宮はさっきまでの態度を一変させて、俺のやったことに興味津々のようだった。
確かに、言ったら楽になるだろう。現に少しだけ楽にはなっている。
言っちまうか。そうするか。
「これも言うなよ」
「分かってるって」
大きく息を吐いて、決死の思いで雨宮に告げた。
「本読んでるふりして、鵜飼さんの事を見続けた」
「……キモイな」
今日の帰宅もフラフラしながら帰った。やはりキモいのか。
今日は土曜日だ。昨日の一件もあって悶々としていたが、呼吸をしている限り日は登ってきた。そして、我が姉も絶好調である。
朝早く俺の部屋に突然入ってきて、こう言った。
「本買って来い」
それだけ言うと詠子は部屋から出て行った。机の上にはメモとお金が置いてあった。
「……俺が自慰行為してたらどうするつもりだったんだ。あのアホ。ノック位しろ」
俺はぶつくさ言いながらも、机の上に置いてあるものを手に取って、ポケットに詰め込んだ。金は、財布の中に入れて適当に着替えると、外に出た。
いつもの事だ。
詠子のわがままにも慣れているし、今日は何かしらしていた方が気がまぎれる。
そう思って、歩いて駅まで行って白砂駅まで行く切符を買った。定期は白砂駅ではないので、新たに切符を買う必要がある。電子マネーにすればいいのだが、千円札が消えていくのが惜しいので、いつも現金で支払っている。
切符を手に取って、改札口を通り、駅のホームに突っ立つ。来ないな。時間を見ると、まだ数分待つみたいだった。スマホを弄って、時間をつぶす。
そして、数分駅のホームで待っていると、電車がけたましい音を上げながらホームに入り込んできた。
扉が開いて朝早い電車の中に入り込む。土曜日という事もあって、朝早かったがそれなりに混んでいた。俺は手すりに掴まり、スマホを弄りながら適当に三十分時間をつぶした。
時たま外を見たり、電車の中を見回して、嫌な気分になっていると、白砂駅に着いた。
「ちっ……」
カップルの姿を見てしまい、呪詛を吐きながら外に出た。
もう五月になろうとしている。時折、三十度近い温度も出ているから、それなりに暑い。とはいえ、まだ十時前だ。ピークはこれからだろう。
俺は改札口を出て、ショッピングモールへと向かった。
自動ドアをくぐり、既に多くの人がいることに辟易としながら、二階の本屋さんに向かった。エスカレーターに足を載せて、二階に上って行った。
目的の本屋の中に入って、まずは自分が欲しい物はないかと、漫画コーナーを確認していった。すると、一冊だけ欲しいのが出ていたので、手に取った。
そして視線を巡らせると、ライトノベルのコーナーが目に入った。
俺は次の月曜日の事を考えた。恐らく、もう鵜飼さんを見つめることはできない。そうなると、超暇な時間を過ごすことになってしまう。図書室の本もいいだろうが、少しばかり俺には敷居が高い。時間をつぶすためにも、ライトノベルというものがあれば時間をつぶせる。そう雨宮は言っていた。
俺はライトノベルの群れに入り込むと、その異様な光景に酔いそうになった。
うぅ。全部女の子だ。何かここにいるのが恥ずかしい。周りの目がすべて俺に向いている気がする。あいつ、あんなところにいるよ。キモ。こっちに来ないで。みんながそう言っている気がする。無理。俺には違う意味で、ライトノベルも敷居が高かったようだ。それでも雨宮は面白いのはあるから、読んでみろと言っていた。今度、人の少ないときに来ようと決心した。俺は、移動する。
次に文芸書コーナーに立ち寄った。
詠子の分だ。
あいつは意外と本を読む。インテリ系を自称したいのだろうか。違うか。純粋に好きらしい。こうして本を買いに来るのも珍しい事じゃない。
詠子は本は紙媒体が好きらしい。電子書籍は邪道だと言っていた。俺はそんな事は思わないが、そういう考え方もあるだろう。
俺はメモを取り出しながら、買いたい本の名前を確認する。
難しい漢字が踊り狂っていた。さっきのライトノベルたちの題名と比べると、中々難しそうだ。というより、難しいのだろう。
一冊を見つけて、値段を確認する。ハードカバーばかりだから、だいたい千五百円くらいだと高を括っていた。
「千八百円かよ。割とするな……」
リアルな数字にビックリしながらも、詠子がこれだけ本に夢中になるというのは、本当に好きなのだろうと再度認識した。
合計五冊を手に取って、レジへと向かった。
ある程度待っていると、俺の番になる。
カウンターに漫画と小説を置いた。計六冊だ。
店員さんが精算を終えると、値段が表示された。
「一万越えかよ……!」
確かに詠子からは一万円渡されていたが、おつりは出てくるものだと思っていた。俺の分の漫画があるが、そんなのは端数だ。
財布から一万円を取り出し、さらに小銭で端数を支払った。
「ありがとうございました!」
店員さんが丁寧に挨拶すると、俺は本を受け取って本屋を後にした。エスカレーターを降りて、さっさとショッピングモールから出て行った。
「はぁ……」
買い物もあっという間に終わってしまった。あまり気分転換にならなかった。ただのパシリだ。そう思い、駅に向かう。目線を上げた瞬間、訳が分からなかった。
鵜飼さんがいた。
やばい。やばい。
俺は、電柱の陰に隠れた。隠れる必要なんてないけど。何故か隠れてしまった。周りの人が俺の事を何事かとみているが、当の鵜飼さんは気づいていないようだ。
鵜飼さんは誰かと一緒に歩いていた。楽しそうだ。笑っている。初めて見た。まぁ、本を読んでて、ニヤッとするのを見たことはあるが。あれは、破顔と言っていいだろう。楽しそうな笑顔だ。隣にいるのは、少しばかり年を取った女性だ。恐らく母親。ストレートの綺麗な黒髪をしている。鵜飼さんはボブカットだが、きれいな黒髪だ。遺伝だな。なんてどうでもいいことを思っていると、二人に違和感があった。
なんであんなに手を動かしているのだろう。
口だって動いているのに、あまり声が聞こえてこない。というより、喋っているのか?
鵜飼さん親子が俺の横を通り過ぎる瞬間、ザァッと強い一陣の風が、鵜飼さんのボブカットの髪の毛を浮かせた。そして、鵜飼さんの耳が露わになったのである。
「……!」
俺は、驚愕した。空前絶後。驚き。衝撃。呆然。何と言えばいいのか。俺は。
なんと愚かしい。
鵜飼さん親子はそんな俺には気づかず、そのまま楽しそうに通り過ぎて行った。
俺はそれを確認して、しばらくそこに居ると、俺は絶叫して、走り始めた。
「うわあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……」
走る。走る。走る。
俺は大声をあげて通りを走り続けた。脚が悲鳴を、肺が断末魔のような声を出す。
うるさい。うるさい。うるさい!
疲れようが、足が痛くなろうが、横っ腹が激しい痛みを訴えようが俺は止まらない。
「うぐ、うぃ、うぅっぅぅぅ……!」
俺の目から涙が流れる。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
俺はあなたを勝手に貶めていました。
まるで、冷淡。冷酷。そんな風にあなたの事を誤解していたのです。俺が勝手にあなたの事を分かった気になって、一人悲劇に酔っていたのです。許してください。お願いします。
それでも俺は止まらない。この苦しみが罰になる事を願い、足を止める事だけはしたくなかった。俺の勝手な思いを雨宮にすら告げ、あなたを貶めた俺に罰が欲しい。すみません。ごめんなさい。
俺は、何分か走るととうとう限界を迎えて、足を止めてしまった。
目から涙、鼻からは鼻水、口からは涎がボタボタと流れ落ちる。
俺を見て周りの人が避けて通るが、それすら今の俺には心地いい。いいぞ。もっと気持ち悪がってくれ。俺の事をののしれ。屑と。ゴミだと。お前は世界最大の勘違いをしていたのだと。お前の考えは浅慮で、淡白で、一方向しか見ていないと。考えが狭く知識が浅い。無計画。自分の事しか考えることが出来ない、自己中心的なその性格。
糞だ。死ね。詠子の事なんて全然悪く言えない。
「うっ……うぇぇ……ごほっ……」
っくそ。糞だ。なんて自分勝手で、身勝手。俺は全く鵜飼さんの事を知らなかった。いや、知る努力をしようとしなかった。これこそが、俺の最大の汚点。だめ。ダメ人間。恥ずかしい? それがなんだ。聞けばいいだろ。友達になってくれませんか? これだけでもいいはずだった。彼女は話してくれたはずだ。そんなに酷い人だろうか。分からないけど。でも、さっきの笑顔を見て、鵜飼さんの事を悪く言えない。彼女は幸せそうだった。うぅ。俺の、バカ野郎。俺は。彼女を貶めていた。昨日の俺を止めたい。雨宮に相談すると言って、鵜飼さんの事を悪く言ったことをぶん殴ってでも止めたい。違うんです。俺は知らなかったんです。あなたの秘密に。
俺は電柱に手をついて、フラフラとした足取りで歩き出そうとした。でも、できない。疲れた。そんなことで止まってしまう俺に嫌悪を。最大限の侮辱を下さい。
「耳が聞こえなかったのか……!」
俺は先ほどの鵜飼親子を見て、そう結論付けた。
二人が会話しようとして手を動かしていたのは、バーバルコミュニケーションじゃない。
手話だ。
二人しかわからない。彼女たちだけの会話。大きく身振り手振りをしていたんじゃなくて、あれで会話をしていたんだ。
一応、声くらいは出していただろが、ここは人通りが多い。人ひとりの会話何て雑踏に消えてしまう。聞こえていなくてもしょうがない。
いや、仮にあれが手話じゃなくても、決定的な証拠がある。
補聴器だ。
風が吹いたときに鵜飼さんの髪の毛がめくれ上がって、初めてボブカットから耳が見えた。そしてあった。補聴器が。変なイヤホンみたいだった。でも決定的に違いすぎる。今時あんなデカいイヤホンなんて探してもないし、会話しながらイヤホンなんて付けるわけがない。故にあれは補聴器。耳が聞こえない訳ではなく、聞こえづらい。こうだろう。
これを知って、俺はどうするべきなのだろうか。
恐らく鵜飼さんは学校側にこの事を隠してほしいと頼んでいる。
だから鵜飼さんは授業中にも当てられない。そんなことしたら、鵜飼さんは疑われてしまう。別にそれがどうしたのだと思うが、鵜飼さんにとってはそうではないのだ。
絶対に知られたくない。
でも学校は普通に過ごしたかったんだ。
聾学校や難聴学級ではなく、普通の高校で、普通の高校生として。普通に授業を受けて、普通に図書委員として働く。なんて、いじらしい。その気高い精神に惚れてしまいそうだ。
しかし、だからこそ、彼女の秘密は誰にも明かすことはできない。この秘密は雨宮にすら教えることが出来ない。俺はどうするべきだ。何をするべきで。どうしたいのだろうか。
俺は仲良くしたい。
純粋とはいいがたい感情もあるだろうが、俺は仲良くしたい。それには何が必要だろうか。いや、分かっている。これだ。これしかない。話しかけるだけではだめだ。インパクトが無い。
「手話だ……!」
俺は来た道を最速で駆け戻る。人の波が鬱陶しい。俺が走っているのを見て、人の波が割れていく。モーゼのような気分になりながら、ショッピングモールを目指した。まだか。まだなのか。手に持っている本すら邪魔だ。これを捨てたいが、流石に一万円分の本を捨てるのは、気が咎める。それに一応は、詠子のものだ。人のものを勝手に捨てるのはどうなものか。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
汗が噴き出す。肺がギチギチと鳴っているようだ。下半身は運動不足で泣き言を言っている。まだ、まだ、まだだ。
鵜飼さんの生きづらい世の中を考えれば、この程度は屁でもない。耳が聞こえないとは。どういう世界なのか。つらいよ。あなたの事を考えると、胸が引き裂かれそうだ。すまない。だが、俺は今日から生まれ変わる。あなたの理解者になれることを祈って。
さっきまでこんなに人はいただろうか。ゆっくり歩いていたからこそ、人が少なく感じたのだろうか。それとも単に増えただけか。くそ。邪魔だ。邪魔なんだよ。人が多すぎる。
俺は、ようやくショッピングモールの一階にたどり着いていた。だが、お昼にだんだん近づいてきたため、人が多くなりつつあった。適当に進むだけでも、人に注意しないとぶつかってしまいそうだ。発狂しそうなほどあわてながら、人の波をかき分ける。
「どいて、どいてください!」
人を押しのけ、時にはぶつかり合いながら本屋さんへと向かう。行きかう人が俺の事をいやそうに見ている。関係ない。俺の目的はお前らに止められるものではないのだ。
俺はついに本屋さんの中にたどり着くと、その場で立ち止まった。目的の本がどこにあるのかわからない。どこの棚だ。俺はあちこちに目を配る。どこだ。俺は一つ深呼吸した。落ち着け。こう言う事は一か月近くやってきたじゃないか。
「図書委員舐めんな……!」
俺は本棚の一角に狙いを定めた。実用書コーナーあたりにあると思った。実用的だし。そうだろ。そうだと言ってくれ。俺は足を進める。心臓がバクバクとうるさい。早くしろ。俺は棚の前に着いた。高速で本を探す。違う。これじゃない。ここでも、これでも――。
「あった……!」
手話の本だ。これがあれば、俺は鵜飼さんと会話できる。
俺は早速本を手にして、レジへと向かった。ダッシュで。店内を猛然と走り出して。ぶつかる勢いで、さっきの店員さんのところへ行った。あっちも俺の事を覚えていたようだ。それでも、「いらっしゃいませ」と言う気概は認めてやりたい。
「こ、これ、これください……!」
俺は手話の本を店員さんに突き付けて、早く会計を済ませてくれとせがむ。それでも店員さんはちゃんとした対応をしてくれた。スピードは変わらなかったが、丁寧な対応だ。今の俺は異様なはずなのに、ちゃんとした接客をしている。
「二千三百円になります」
は? 高すぎ。俺の財布の中にそんなに入ってたっけ。
「……ッ!?」
ない。足りていない。圧倒的に。千円札が一枚しかない。バカな。そんな事が。いや、待て。俺には同価値のものを持っているじゃないか。
「これ、この漫画要らないんで、返金してください!」
俺は先ほど買った漫画とレシートを店員さんに渡して、返本した。店員さんはきちんと確認すると、六百円近く俺に返してくれた。これで千円札と合わせて、千六百円。足りない。それでも。詠子の本を出しちまうか。いや、それはできない。殺されてしまう。
俺はカウンターの上に小銭をぶちまけた。
突然の行動に店員さんは顔を引き攣らせた。それでも俺にとやかく言う事はなかった。訓練されているな。いい店員さんだ。後からボーナスあげて。店長よろしく。
そんな余裕はない。そんなこと考えている場合じゃない。
「五百円玉が……」
ない。ないだと。しまった。さっきの本の代金で使ってしまっていた。端数出すのにあらかた小銭は使ってしまっていた。それでもだ。まだ、俺の戦力は終わっていない。
百円玉をかき集めて、数える。足りない。七百円必要なのに七枚はなかった。次だ。五十円玉。足りていない。
「クソ……!!」
もはや戦力外だと思っていた十円や五円、一円玉すら総動員する。
必死にカウンターの上で数える。目の前の店員さんも固唾をのんで見守っていた。俺ののどが鳴る。ゴクリとつばを飲み込み、汗が一滴垂れた。カウンターに汗が着弾した瞬間、俺の心が大爆発した。歓喜に満ちる。
「やった……!!」
ちょうどだ。俺の財布にはちょうど二千三百円しか入っていなかった。もう、これは神が俺に手話を覚えろと言っているに違いない。俺は顔を上げて、店員さんに確認をとった。
「これ、これ、二千三百円ですよね!? 数えてみてください!」
店員さんが少しだけ整頓されているお金を数え始めた。正直、二十枚を超える小銭では買い物できないらしいが、店員さんはちゃんと対応してくれた。そして、店員さんもこれらがちゃんと二千三百円ある事を確認してくれた。
「ちゃんとありましたよ。それでは精算しますね」
俺は店員さんがレジに小銭たちを入れ終えるのをキチンと待ち、本を包装するのを待つ。店員さんが作業を終えると、袋に入れた本を手渡してくれた。そして一言を付け加えた。
「頑張ってくださいね」
手話の事だろう。言われるまでもない。
「はい、ありがとうございます」
俺はお騒がせしたことを謝り、今度こそ本屋さんを出て行った。
ショッピングモールを出て行き、人通りが多くなる道を歩く。さっさと帰りたいが、もう走るのは勘弁願いたい。俺は、ゆっくりと駅に向かった。だが、そこではたと気づいた。
「……金無いわ」
どうしよう。電車で三十分かかる場所だぞ。歩いて帰ろうなんて不可能だ。
そして、俺は気づいた。
俺はその足でコンビニへ向かった。すぐそこだ。目の前にある。自動ドアをくぐるとすぐに目的のものが見えた。
ATMだ。
カードを挿入して、両親から送られてくる小遣いを引き出した。この他にも俺が生活費を預かっているが、それは引き出せないだろう。詠子から毟り取られる少ない小遣いを引き出す。千円もあれば十分だ。
俺は千円をもって、コンビニを出た。コンビニの店員さんが「ありがとうございました」といった。でも、俺をバカにしているようにしか聞こえない。
最初から金引き出せばよかった。
あんなデカい声出して、何してたんだ俺。
しばらく、あの店には行けそうになかった。




