11
「冷たく横たわる彼を見たとき、どうしようもないほどの快楽を得てしまった! 私は知ってしまった! 愛する人の心を射止める悦びを!」
狩谷の顔には一切の後悔はなく、ただただ愉悦のみを浮かべていたからだ。
愛する人の死を語る、その瞬間までも。
「さて、昔話もこの辺にして、ここからは愛を語らうとしよう」
狩谷は熱い溜め息を漏らし、俺を押し倒すと馬乗りになって弓矢を構える。
「私はこれまで何人もの才能ある少年と出会い、愛し、その心を射止めてきた。でも、君ほどの才と腕を持った者はいなかった。そこに辿り着くまでにどれほどの時間をかけて研磨してきたのか。どれほどの情熱を奉げてきたのか。それを思うだけで、ああ……もう、堪らなく心がざわめいて止められない!」
その顔は恍惚の笑みを浮かべ、瞳はどこまでも情欲に歪んでいた。
あと数秒で己の命が尽きようというのに、まるで他人事のように感じる。二週間前はなにがなんでも生き残ろうと必死に足掻いた。でも、今はそんな気力がまったく湧かなかった。まるで半身を失ったかのように心が動かない。
狩谷が笑みを濃くしていくのに反比例して俺の心は冷めていく。
「さぁ、私の愛を受け入れてくれ!」
炎のように熱く、荒い吐息と共に心臓へ放たれる一射。
死を目前にしても俺の心は氷のように凍ったままだ。
しかし、凍てついた心ごと貫く筈の矢は弾かれ、宙を舞った。
いつの間にか俺の周囲を淡い光の膜が包み込んでいた。それは矢を弾いただけでなく、俺に心地よい安堵を与え、死ぬ寸前だった二つの心を救ったのだ。気付けば首に下げたお守りが淡く輝いていた。おそらくこれが守ってくれたのだろう。
そして、驚愕に固まる狩谷へ何者かが切りかかった。
狩谷は飛びのいて避けるが避けきれなかったのか右腕から血が流れていた。
入れ替わりで現れたのは黒髪黒目、クールな顔に微かな笑みを携えた少女だった。
「白銀、どうして……?」
目の前の光景があまりにも都合が良くて、夢ではないかと問わずにはいられなかった。
呆然と問う俺に対し、白銀はこともなげに答えた。
「私は光を操ることができます。幻影ぐらいお手の物です。しかし、ここまで見事に引っかかってくれるとは。上手くいき過ぎて怖いくらいです」
皮肉を込めて冷笑を浮かべる白銀。そのクールな佇まいにようやく白銀が生きているのだと実感すると、不意に熱い涙が込み上げて来た。その熱さを吐き出すように腹の底から叫ぶ。
「ッカヤロウ! めぢゃぐぢゃ……心配……したじゃねぇか!」
途中、上手く発音できずにつっかえつっかえになってしまった。
白銀は優しい笑みを浮かべ、慈しむような瞳で俺を見る。
「申し訳ありません。やはり敵を炙り出すには死んだふりが一番だと判断しましたので」
「何だ、最初から偽物だと分かっていたような口振りじゃないか?」
よろよろと狩谷が起き上がる。切られた右腕が痛むのか、左手で押さえていた。
白銀は問いに対し、当然とばかりに胸を張る。
「当然です。私はずっと和明を見てきました。その中で篠宮梓が抱いていたのは純粋な想いです。貴女のように歪み、捻じ曲がったものでは断じてない」
「なるほど。非常に参考になったよ。しかし、そろそろ退場してもらおうか!」
狩谷が左手を掲げると足元から狼たちが一斉に姿を現した。
狼たちは俺たちの周りを取り囲むと、一斉に威嚇の咆哮を発する。あまりの大音量に耐えかねた俺は反射的に耳を塞ぐ。
同時に響く数百もの咆哮は大気を揺らし、聞くものへ恐怖を与える。
しかし、それでも白銀に動揺の色はない。自然体で全て受け流している。
「で、それがどうかしましたか? 先程も見せましたが私に数攻めは通用しません。それともついさっきの出来事を忘れてしまうほど記憶力が悪いのですか? だとすればある意味賞賛に値します。そんな記憶力で教員免許を取得できたのですから」
ここぞとばかりに皮肉を発する白銀。どうやら、かなり機嫌が悪いらしい。
「たかだか十六の小娘が言ってくれるじゃないか。だが、心配は無用だ!」
宣言と同時、周囲に鮮血が舞った。俺や白銀のものではない。舞ったのは周りを取り囲む狼の血だ。
狼たちはお互いに牙を立て、爪で肉を裂き、共食いを始めたのだ。
「うっ……」
立ち込める濃密な血臭と凄惨な光景に顔をしかめると、俺を包み込む光が少し強くなったように感じた。
狼たちは殺した狼を糧に少しずつ成長し、次々に共食いと成長を繰り返す。
気付けば数百はいた狼は加速度的に数を減らし、ついに最後の一匹となった。 その狼は元の倍近くも巨大化し、放つ咆哮の威圧感がさっきとは比べものにならない。狂暴性と力を増していることは想像に難くなかった。
「壷毒、ですか……。恋愛観といい、悪趣味の宝庫ですね」
「一般的ではない自覚はあるさ。言ったところで理解できるとは思わないし、理解した気にもなってほしくない。ただ、私の想いを受け入れてくれればそれでいい!」
「ふざけないでください」
重く、静かな怒気を滲ませた言葉だった。
はっきりと分かる。白銀は今、怒っているのだ。
「貴女のそれはただの自己満足にすぎません。愛する人を殺すことに一体何の意味がありますか? 何気ない言葉を交わすことも、温もりを感じることも、想いを伝えることすら許されない。その辛さが貴女に分かりますか!?」
その言葉には知っているものが持つ本物の重みがあった。
ここまで感情を露にした白銀は初めてだ。
普段、取り澄ましている白銀は彼女が持つほんの一部に過ぎないのだろう。
「言っただろう、自覚はあると。君が私を理解できないように私も君を理解できない。さて、私は本来専門ではないがここで一つ講義をしよう。互いの正義が対立したとき、人間という種はどうしてきた?」
「簡単です」
その言葉が引き金だった。
「戦争ですよ」
今まで静寂を保っていた狼が絶大な咆哮を放ち、内に秘めた狂暴性を解放する。
僅かな距離を一瞬で走破し、鋭い爪を叩きつける。
白銀は側面に回って回避し、陽炎の刃で突きを放つ。肉を焼く音が響く。しかし、刃は通りきらず皮一枚で勢いが止まった。
狼が反転し、前足を振った。今度は避けきれず、白銀の小さな体が吹き飛ばされた。
「白銀!」
慌てて駆けよるが、すぐさま起き上がった。どうやら自分で衝撃をある程度受け流したらしい。
「なるほど。見かけ倒しではないようですね」
ならば、と白銀は右腕を掲げる。
「こちらも切り札を使いましょう」
白銀の足元の床が揺らめき、弓道場を真昼のような光が照らす。現れたのは狼に劣らぬ巨躯を誇る猪。
「オォォォォォン!」
「ヴォオオオオオ!」
二匹が互いに咆哮を放ち激突する。二匹はもつれ合いながら弓道場を破壊し、決戦の場をグラウンドに移す。
「これでそちらの切り札は封じました。大人しく降参した方が身のためですよ?」
状況は完全にこっちが優勢だ。だが、時間と共に嫌な予感が膨らんでいく。
狩谷は俯き、表情を窺い知ることはできない。
「……諦めるか」
狩谷はぽつりと呟き弓矢を捨てた。
その瞬間、これまで以上の悪寒が背筋を走り抜けた。
白銀もそれを悟ったのだろう。即座に間合いを詰め、必殺の突きを放つ。
しかし、刃が狩谷を貫くことはなかった。
刃が届く寸前、狩谷の身に変化が起きた。
体毛が生え、体が倍以上に膨張する。爪と牙が成長し、瞳は爛々と輝く。狩谷の風貌は今や熊のそれと化していた。
大熊が丸太のように太い腕を振るう。
白銀は刀で防ぐが、堪えきれず弓道場の外まで吹き飛ばされる。白銀は何度も転がり、近くの木に当たってようやく止まった。
「白銀!」
大熊はその威容を示すようにゆっくりと歩み寄る。
「できればこの姿にはなりたくなかった。醜い上に変身する度、精神が獣に近付いていくからだ」
大熊の声は野太く、狩谷の面影はまるでない。だが、その瞳に宿る狂気はより一層強くなっていた。
「償いはその命でしてもらうぞ」
狩谷はその巨体通り重量感たっぷりの突進をかける。衝撃で地面が大きく爆ぜた。
ダメージが残っているのか白銀はその一撃を避けられない。背後の木ごと白銀を粉砕する。
だが、白銀の姿は霧のように消え、狩谷の真上に現れ、刃を突き刺す。重力の恩恵を受けた一撃は先ほどよりも深く突き刺さり、纏いし陽炎が身を焼く。が、それでも致命傷にはほど遠い。
白銀は反撃を受ける前に飛び退き、距離をとる。
狩谷はちらっと俺の方を向くと、白銀を追いかける。暗に「次はお前だ」と言われた気がした。
大熊と化した狩谷の動きは白銀に比べれば大分遅い。が、それを補うだけのパワーと耐久力を備えている。多分、このままだと白銀は負ける。相手を倒すよりも先に白銀の体力が尽きるだろう。
何か手段を講じなければならないが、現実問題、俺が行ったところでどうにもならない。故に作りだす。反撃の糸口を。
愛用の弓を持って白銀たちを追いかける。二人はグラウンドの端で戦っていた。奥の方では猪と狼が死闘を繰り広げている。グラウンドは荒れ果て、その衝突の激しさを物語っていた。
白銀は狩谷の重い一撃を捌き、縦横無尽に翻弄している。が、やはり徐々に劣勢となっていく。
覚悟を決め、弓矢を構える。距離はだいたい三十メートルといったところ。大した距離ではない。
的の大きさはいつもより大きいが、白銀の刀をものともしないような肉体だ。当てたところでおそらく効かない。
故に狙うのは一点。剥き出しの眼球だ。それで駄目なら俺にはもう、打てる手はない。
奇襲が通じるのは一度のみ。失敗は許されない。
呼吸を整え、ゆっくりと集中力を高める。
感覚が研ぎ澄まされ、世界がスローになっていく。肌に感じる夜風や枝葉の揺れる音ですら鋭敏に感じ取ることができる。ここまで集中できたのは十年やってきて初めてだった。
今回の的は生き物だ。ただ射っただけでは当てることすらできない。
故に見る。敵の癖を観察、分析し、動きの先を読む。
そして、自らが描く矢の軌道と重なる一瞬を見極める。
手に汗がじわりと滲む。少しでも気を抜けば、即座に集中が切れるだろう。焦れる心を制し、ただひたすらに白銀を信じて待つ。
永遠のような時間を経て、ついにその瞬間が訪れた。
確かな確信と共に矢を放つ。
しかし、放った瞬間、背筋が凍った。
――目が、合ったのだ。
そして、悟った。この矢は外す。狩谷からすればほんの数ミリ動くだけでいいのだ。来るのが分かっていれば、避けるのは容易い。
矢は止まらず、絶望の未来へと進んで行く。
絶望に染まる俺の心。しかし、その中で希望の光を感じた。
俺の位置からでは白銀の表情は見えない。でも、なんとなく白銀が微笑んだ気がした。
狩谷は俺の放った矢にほんの一瞬、意識を向けた。白銀はその一瞬を見逃さなかった。
白銀の持つ刀が激しく揺らぐ。膨大な熱量は急激な熱膨張を起こし、衝撃となって狩谷へ叩きつけられた。 だが、それだけでは大したダメージは与えられない。しかし、その一撃でずらされた位置が正される。矢は導かれるように狩谷の右目を貫いた。
「ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」
狩谷が声にならない叫びをあげる。血を撒き散らしながら駄々っ子のようにひとしきり暴れると、文字通り血走った目で俺に向かって来る。
しかし、俺に不安はない。目の前には誰よりも頼りになる恋人の背中があるからだ。
白銀が鞘を取り出し、刀を納める。
狩谷が剛腕を振るう。しかし、右目が使えないせいでその一撃はかすりもしない。白銀は懐に入り込み、カウンターで居合を放つ。圧倒的な速度でうち出された刃は狩谷の力を利用し、右脇腹から左肩にかけて直線を刻む。
一瞬で意識を刈り取られた狩谷は悲鳴すら残さず倒れ伏し、少しずつ元の姿に戻って行く。それは白銀の勝利を意味していた。




