草太郎の現代日記
この作品はフィクションです
いったいここはどこなのだ。五条草太郎は、そうひとりごちた。
草太郎はいわゆる御家人であった。御家人とはすなわち、時の将軍徳川家光公に仕える武士のことである。とはいっても、家格の低い草太郎は、将軍にお目通りなどしたことはない。加賀国、今の石川県のあたり、に住まう 御家人の一人だ。
家禄は100石ほどで、なかなかに安定した生活を送っていた。
生来温厚な人柄の草太郎は、領民からの信頼も篤く、民からは慕われ、領主からも一目置かれていた。草太郎自身も、なにか民のためにできることはないかと考えて動き、主に領内の治安維持に努めるなどして、平和に暮らしていた。
そんなある日、町の中を歩いていると、視界の端をちらとなにかが通った。
はて、なにか獣の類かと視線を向けると、なにやらもやのようなものが見える。面妖な、と訝しみながらも、無視するわけにもいくまい。草太郎はゆっくりと近づいて行った。
近くから見ても、もやはもやだ。なにやら空気がうねっているようにみえ、奥の景色を見通すことができない。じっと目を凝らしてみても、なにも変化はない。
仕方なしに、草太郎はそっともやに手を伸ばしてみた。
気が付くと草太郎は、交差点の真ん中にいた。
これに、草太郎は大いに混乱した。今まで町の中にいたというのに、気が付けば見知らぬ土地。あたりを見渡してみても、目に映るのは見たこともないようなもの。
いったいここはどこなのだ。驚き慄いてつぶやく草太郎の横を、迷惑そうに若者たちが通る。目を向けると、この若者たちも見たことのない服装に身を包んでいる。しかも、皆同じ服装なのである。
背は草太郎と同じくらいだ。そして、皆男であるのに髪を結わえていない。
ははぁ、そうするとこいつらは農民たちか。納得しようとする草太郎だったが、はてと疑問に思う。農民にしてはずいぶんと上等そうな服を着ておる。これはいったいどういうことか。
顎に手を当て、草太郎は考え込む。そもそも、ここが一体どこなのかということもわかっていない。謎は深まるばかりである。
信号が赤に変わっても、草太郎はそのまま立ち尽くしていた。当然、通ろうとする車からすれば邪魔である。気の短い運転手が、草太郎に向かってクラクションを鳴らした。
これに驚いたのは草太郎である。じっと考え込んでいたところ、突然けたたましい音が耳をついたのだ。音のした方に目を向けると、黒光りする鉄の塊が目に入った。
いったいあれはなんだ。草太郎は再び驚いた。こんな音がするものなど、見たことはない。あれはいったいどういう絡繰りなのだ。草太郎は鉄の塊へと近づき、表面を撫でてみた。
「すべすべしている……! これはなんだ。光っている。いったいどうしてこれから音がでるのだ」
「おいお前! なに人の車にべたべた触ってるんだ! さっさと離れろ!」
突然の草太郎の行動に、運転手は声を荒げた。
これに、草太郎はむっとした。彼からすれば、意味も分からず突然怒鳴られたのだ。御家人である彼を怒鳴るものなどそうはいない。
「あ、あの、ごめんなさい!」
横合いから美しい声が聞こえると同時に、草太郎は手を引っ張られてその場を離れた。
突然の事態に草太郎が目を白黒させているうちに連れてこられたのは、ほど近いところにあった公園。いくつかの遊具があり、真ん中には噴水がある。
その噴水のそばまで行くと、草太郎を引っ張っていた少女は手を放した。
そして振り返り、腰に手をやり眉を吊り上げ、草太郎を覗きこんで言った。
「あんなところで何やってたんですか! 危ないじゃないですか!」
覗き込まれ、少女を正面からまじまじと見た草太郎は、思わずといった調子でつぶやいた。
「美しい……」
背は草太郎よりも少しだけ低いくらい。腰ほどまで伸びる美しい黒髪は、まさしく濡れ羽烏のようと表現するのがふさわしい。唇は常にみずみずしく潤っていて、草太郎を覗き込む黒い瞳は引き込まれそうな魅力をもって輝いている。
「は? 何を言っているんです?」
しかし、と草太郎は心の中で思った。こうまでに美しい娘が、そういるわけはあるまい。なにやら上等そうな服に身を包んでいるし、まさか、この娘は絶世の美女と噂に名高い将軍のご息女か。もしそうでなくとも、おそらくやんごとなき身分の方であろう。そうすると、ここは江戸か。
いや、そのような身分の方がこうしてお供も連れずに一人で出歩くものであろうか。そんな訳はあるまい。ではどういうことなのだ。仮にそうとすると、よほど安全なところなのであろうか、江戸というところは。
考えるほどにわからない。私は帰れるのであろうか。
「話を! 聞きなさい!」
草太郎の顔をつかみ、大声で呼びかける少女。
その声に我に返った草太郎は、膝をつき首を垂れる。
「申し訳ありません。これまでの無礼平にご容赦ください」
これに驚いたのは少女の方だ。呼びかけると、突然平伏しだしたのだ。さっぱり意味が分からない。
「な、なにやってるんですか、顔をあげてください」
「はっ。ありがとうございます」
「あ、いえ、なんかこう、そういうことではなくてですね、普通にしてほしいというか」
頭こそあげているが、未だ膝をついたままの草太郎に、少女は困ったように唸る。なにやら交差点のところで袴姿の男が揉めていたので連れてきたはいいものの、どうにも言葉が通じないというか。
困った人を放っておけない性分の少女からすれば、見逃すという選択肢はなかったのだが、どうにも扱いづらい。
「とりあえず、飲み物でも買いましょうか、ちょっとついてきてください」
「はっ」
草太郎を連れて少女は公園のふちにある自販機まで行く。適当なものを買おうか、とお金を入れ、ボタンを押して飲み物を取り出す。
一連の動作を後ろから眺めていた草太郎だったが、出てきた飲み物をみて目を見開き驚いた。
「全く同じものが……出てきた」
唸るような音を立てながら光っている自販機の存在も草太郎にとっては奇異なものに映っていたが、飲み物がでてきたときに最も驚いた。自販機の中にある缶と寸分たがわぬものが出てきたのだ。少女の手にある缶と、自販機の中のダミーとを何度も見比べるが、どう見ても同じである。
まさか、あれと全く同じものを作り出したとでもいうのか……? 江戸の姫は鬼道もつかえるというのか……?
「あなたは何が飲みたいですか?」
問いかけてくるが、当然草太郎にはその意味はまったく分からない。
「何……とおっしゃいますと?」
「いえ、そのままの意味ですが……?」
互いに首をかしげる二人。
草太郎の方は、全くもってなにも知らないわけなのだから、どうと聞かれても答えることができない。少女の方も、彼女としては特に変なことを聞いたつもりもないので、なぜわからないのかわからない。
ほとほと困り果ててしまった二人。だがしかし。このままこうしていても埒が明かぬ。
草太郎は、見よう見まねで少女がそうしていたように、自販機のボタンを押した。
ボタンを押すのに合わせて中でガタゴトと音が鳴り、取り出し口のポケットへと飲み物が吐き出される。
おそるおそるそれを取り出して見た草太郎に衝撃が走る。そう、少女が自分の目の前でやったのと同じように、自販機の中にあるものと全く同じものが、自分の手によって生み出されたのだ。草太郎は恐れおののいた。
これは、物を生み出す絡繰りなのか。はたまた、無から有を生み出す世の常ならざるものか。
また、自身の住む町との差を痛感してもいた。どれもこれも、町にはないものばかり。これほどに江戸とは奇怪な街であったのか。
「えと、飲みましょう……?」
飲む? 飲むとはどういうことだ? 手の中にあるのは、なにやら金属で出来た筒型のもの。これが飲み物だとでもいうのか?
飲み物であるなら、革の袋か、あるいは酒ならば酒瓶にいれるものであろう。このような面妖な金属の筒にいれることなど、聞いたこともない。
よくよくみてみると、表面にはうねうねとくねった線が書いてある。普段見慣れた文字には見えないが、これを書いたものはよほどの悪筆なのだろうか。それとも、なにか違う言語なのだろうか。
「開け方が分からないんですか? 良かったら開けましょうか?」
草太郎の混乱を見てとり、気を効かした少女は草太郎から缶を受け取り、プルトップを引いて蓋を開けた。プシュッと小気味の良い音をたてて、蓋が開く。
あらためて少女から缶を受け取った草太郎は、おそるおそるといった様子で開けた穴を覗きこんだ。そこからは、何やら液体が入っているらしきことは窺い知れるのだが、いったいそれがなんなのかは草太郎にはわからない。鼻をつくのは、甘ったるい香り。
傍らの少女を見てみると、飲み口に唇を当て、缶を傾けて飲んでいる。ごくりごくりと嚥下するたびに、のど元が上下するのが妙になまめかしい。
草太郎はあわてて目を離すと、同じように飲み口に口を当て、中に入った液体を飲み下す。
口に入った瞬間、草太郎は目を剥いた。
甘い! いや、甘いだけではない。ほのかに、みかんの味がする。草太郎は、昔一度だけ食べたことがあったのみであった。しかし、その味は鮮明に覚えていた。
そして、今飲んだその味は、覚えているそれよりも甘かった。甘いものとは、普通身分の高いものしか口にすることはない。これは相当に値の張るものなのではないか。草太郎は心配した。
「このような高価なものを……どのようにしてお支払すればよろしいのでしょうか……?」
「え!? 全然高価なんかじゃないですよ。誰でも買えるものですし。気にしなくていいですよ」
なんと! これが高価なものではないというのか! 誰でも、ということは、庶民でもこれを買えるということなのか。だとすればなんということなのか。これほどまでに江戸との技術の差は離れていたのか。草太郎は絶望すら感じた。
だが、待てよ。もしこの技術を手に入れ、そして加賀の国へと持って帰ることができれば、民たちにとって素晴らしいものになるに違いない。そうときまれば、なんとしてでもこの絡繰りに使われた技術を解明し、加賀へと持ち帰らねば。
「僭越ながらお尋ねもうしわげたいのですが、いったいこの絡繰りはどういう原理で動いているのでございましょう」
「え、えっと……どういうと言われましても……。お金を入れてボタンを押せば、その飲み物が出てくるという感じですかね……?」
「ふむふむ……。なかはいったいどうなっているのでしょう。是非とも拝見したいのですが」
「いや、それはちょっとわたしにはどうすることも……」
ふむ、さすがに中まで教える気はないということか。だが、なんとしてでもこの絡繰りを解明してやろう。たしか西の方にこういう絡繰りを操るのが得意なものがいたはずだ。そのものにこの絡繰りおおよそを教えれば作ることはできまいか。
夢中になった草太郎は、自販機のそばまでより熱心にそれを眺める。今度は、どういう仕組みをもってその絡繰りが動いているのかを完全に見極めてやるために。
自販機をべたべたと触り調べている草太郎を見る少女は、あきれたような目を草太郎に向けていた。感は律儀に地面に倒れないようにおいているが、まるで田舎者のように興奮して自販機をいじっている姿を見れば、ため息の一つも出るというもの。
そしてついと視線を外し、再び自販機の方を見ると、そこにはただ自販機があるのみであった。
「え!? は、え!?」
少女はひどく混乱した。先ほどまで興奮した様子で自販機を弄繰り回していた男が忽然と消えたのだ。自販機まで駆け寄り、周りを見渡してみたのだけれども、なにも見当たらない。本当にそこに男がいたのかと疑うほどに。
しばらく探していたのだけれども、結局見つからないままであった。
狐にでも化かされたような気分で少女は家路につくのであった。
次の日の朝、山中から四角い、自販機に似た建造物が発見されたというニュースが流れたとか。