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厳つい辺境伯と水月の王子

作者: 朏猫
掲載日:2026/10/23

 大広間の扉が開くと集まっていた貴族たちが一斉に視線を向けた。現れた男に誰もが目を見開き、「あれが」だの「なんて大きさだ」だの囁き始める。


「熊公と呼ばれているそうだが、まさに熊のようじゃないか」

「辺境伯としてはご立派で頼もしいとしても、あの方がご夫君になられるのは……」

「まるで大人と子どものように違うぞ」

「水月の殿下があまりにおかわいそうではないか?」


 囁く貴族たちの前を“熊公”と呼ばれた大男が歩く。短い黒髪は遠目で見ても硬そうで、赤茶色の目に睨まれれば熊さえも逃げ出しそうな風貌だ。初めて熊公の姿を見る貴族の中には顔を強張らせている者さえいる。

 囁き声は聞こえているだろうに、男は気にする素振りも見せず真っ直ぐに前を向いて歩いている。そうして一段高くなった玉座の前で止まると、右手の拳を胸に当てながら頭を下げた。これは騎士が王族にする挨拶と同じ形で、今でもひとたび何か起きれば剣を片手に戦場に立つ辺境伯ならではのものだ。


「カラディード辺境伯、そなたと我が息子スイリィ王子との婚姻をここに宣言する」


 王の言葉に、傍らに立っていた第三王子スイリィがフワフワの金髪を揺らしながらニコッと微笑んだ。誰もが見惚れる美しい姿に、貴族たちが「ほぅ」と感嘆のため息を漏らす。しかしそれもすぐに消え、今度は憐れむような眼差しで王子を見た。


「あのように美しい方がなぜこのような大男と……」

「やはり国境付近が騒がしいことが原因では?」

「スイリィ殿下が人質になられるということか?」

「滅多なことを言うな。それでは辺境伯が我が国を裏切るのではと疑うことになるぞ」

「だが、カラディード家は元は向こう側の人間。今は我が国に従っていても、いつどうなるかわかるまい」

「おい、それこそ口に出していいことじゃないだろう」

「カラディード家がこちら側についたのは二百年も前の話だ。今さら裏切ったところで向こう側に席はない」

「それじゃあなぜ第三王子殿下と婚姻を? 殿下は陛下が目に入れても痛くないほど溺愛されている王子だぞ。誰とも婚姻させず手元に置いておかれるのではと言われているのは皆知っているだろう?」

「ということは、やはり人質として……」


 貴族たちの視線が再び辺境伯へと移った。視線を感じているはずの辺境伯は微動だにせず、ただじっと前を見ている。


(なんと憐れなことか)


 玉座を挟んでスイリィ王子と反対側に立つ王太子アルシュが「はぁ」と小さく息を吐いた。スイリィと同じ美しく澄んだ緑眼を末弟に向け、それから弟の伴侶となる大男を見る。

 兄姉たちと年が離れている末子スイリィは、生まれたときから誰もが見惚れるほど美しい赤児だった。小さい頃は愛の結晶と讃えられるほど愛らしく、十九となった今はそこに輝かしいまでの美しさが加わっている。あまりの美しさに吟遊詩人が“水面に映る月のように儚くも美しい王子”と謳ったことから、いつしか「水月の王子」と呼ばれるようになった。


「ルルシアード王国の至宝、水月の王子はどなたを見初められるのだろうか」


 国王夫妻や兄姉たちから蝶よ花よと可愛がられた王子も一年と少し前に十八歳になった。成人を迎えれば自然と婚姻のことが話題に上る。お相手は国内のご令嬢だろうか、隣国の姫かもしれないぞ、いや西の国の女王が娘の王配にと望んでいるらしい、そんな話がまことしやかに流れたほどだ。

 しかしいくら待っても王宮からスイリィ王子の婚姻に関する発表がない。そのうち「やはり陛下は手放されたくないのだ」という話で落ち着いた。

 ところが王子が十九歳になってひと月が経つ頃、婚姻話が王宮よりもたらされた。しかも相手は“熊公”と呼ばれる巨体に厳つい顔をした辺境伯だ。


「お相手はカラディード辺境伯だそうだ」

「なんと!」

「では、殿下はカラドール地方に行かれるのか?」

「だろうな。辺境伯が王都にいては守りにならないだろう」

「それでは殿下の姿を拝見できるのもあとわずかということか」


 貴族たちは大いに悲しみ、民たちも「水月の王子が王都からいなくなってしまう」と落胆した。


(ほかにも候補者が大勢いたというのに、まさか“熊公”に決まるとは)


 王太子が弟を見る。視線に気づいたのかスイリィがにこりと微笑み返した。それだけで「おかわいそうに」と眉尻を下げていた貴族たちの顔がうっとりとしたものに変わる。


「スイリィ殿下、ご結婚誠におめでとうございます」


 大広間に渋く力強い声が響いた。声を上げたのは王太子妃の実父で、ハッとした貴族たちが口々に「おめでとうございます」と祝いの言葉を贈る。

 四十二歳になったアルシュ王太子は年明けにも玉座に就くことが決まっている。新王の義父になる男がいの一番に声を上げたことで、「新しい国王の足元を固めるための婚姻では」という囁きがあちこちから聞こえてきた。

 その声にアルシュ王太子が再び「はぁ」と小さくため息をついた。そうして数日前の出来事を思い返した。




「カラディード辺境伯、貴殿に我が息子スイリィを任せたいと思っている」


 王の言葉に辺境伯が顔をしかめた。王の傍らに立つ王太子が「当然の反応だな」とため息をつく。

 滅多に王都に来ることのない辺境伯は、突然の呼び出しにあれこれ考えたに違いない。その中に「王子を押しつけられる」という内容はなかったはずだ。


「どういうことでしょうか」


 体に見合った低く太い声に、壁際に控えていた王宮騎士団の近衛騎士たちが背筋をピンと伸ばした。そうしたのは緊張からで、王太子自身も無意識のうちに表情を改めていた。


(さすがはカラディード辺境伯だ。声だけで気を引き締めなければという気持ちになる)


 カラディード家が治めるカランドール地方は、半分以上が国境に面している緊張感漂う領地だ。それもそのはずで、二百年以上前のカランドール地方は隣国の領土だった。

 その地を奪い取ったのは英雄王と呼ばれる国王だった。当時のカラディード家当主は英雄王の剣技と胆力に惚れ込み、この人物こそ仕えるにふさわしいと寝返った。それどころか周囲の領地をいくつか手土産にしたと言われている。


(そうした土地だから何かあれば戦場の最前線になる。だからこそ歴代国王は辺境伯という地位を与え、自前の騎士団を持つことを許してきた)


 ほかの貴族は自警団を持つことはできても騎士団の所有は許されていない。騎士団を持てるのは国王のみだが、たった一つの例外がカラディード辺境伯だ。


「何も言わずスイリィを引き受けてほしい」

「まずは理由をお聞かせください。ただ引き受けろと命じられても心構えをいかようにすべきか困ります」


 辺境伯の言葉はもっともだ。王族を地方の貴族に預ける理由はいくつかあるが、なかには“王都に置いておけないが首をはねることもできない”という流刑も含まれる。辺境伯はそのことを考えたのだろう。

 王太子がチラッと父王を見る。表面上はいつもと変わらないように見えるが、息子の目には困っているのが丸わかりだった。


「近衛騎士たちは退室せよ」


 見かねた王太子が騎士たちにそう命じた。続けて王が頷いたことで、多少困惑しながらも騎士全員が部屋の外に出る。


「何か内密の事情がおありですか」


 辺境伯の言葉に王が眉尻を下げた。そんな父王を見た王太子が「わたしから言うべきだろうか」と口を開きかけたとき、バンと勢いよく扉が開いた。


「殿下、なりませんっ」

「僕は当事者だ」

「ですが、」

「殿下っ」


 現れたのはスイリィだった。その後ろを侍従や近衛騎士たちが困り顔でついてくる。


「勝手に入ってくるとは何事だ」


 すかさず王太子が注意した。


「僕のことでカラディード様をお呼びになったのでしょう? それなら僕が同席するのは当たり前のことです」

「これは大事な話だ。陛下とわたしで対応すると説明しただろう?」

「当事者である僕をのけ者にするなんておかしくありませんか?」

「我が儘を言うな」

「僕の一生の話なのですから我が儘ではありません」


 王太子が「はぁ」とため息をついた。国王は困り顔でスイリィを見ている。


「陛下」

「仕方あるまい」

「ですが、」

「どのみち露呈することだ」


 甘いな……王太子は胸の内でため息を漏らした。末子を溺愛している父王はスイリィに頼まれると否と言えなくなる。だから代わりに王太子が口を出すのだが、結局こうなってしまうのはいつものことだ。


「おまえたちは下がれ」


 王太子の言葉に侍従たちが頭を下げて退室した。最後まで申し訳なさそうな顔をしていた従者たちだが、彼らに罪はない。


(スイリィに頼まれて否と言えるものはこの国にいない)


 再び部屋が静かになった。王太子は「やれやれ」と眉間を揉み、椅子に座る王は困ったように苦笑を浮かべている。カラディード辺境伯の表情は変わらないものの内心はさぞかし困惑していることだろう。スイリィ本人は可憐な顔にニコニコと笑みを浮かべながらカラディード辺境伯をじっと見つめていた。


「どうかスイリィを引き受けてほしい」


 王太子の言葉にスイリィがパァッと表情を明るくした。それを見た王が「これは王命である」とつけ加える。


「ですから理由をお聞かせ願いたいと申し上げております」


 訳を聞くまで頷かないという様子にスイリィが眉尻を下げた。チラチラと父王を見る弟に王太子が口を開く。


「辺境伯にはスイリィの伴侶になっていただきたい」


 辺境伯が赤茶色の目をゆっくりと見開いた。「は?」という声は掠れ、驚いたように傍らに立つスイリィを見る。視線を向けられたスイリィは頬を染めながら大きく頷いた。


「それはどういうことでしょうか」


 辺境伯の表情が険しいものに変わった。心なしか声も厳しい。王太子は「裏切りを疑われていると思ったのだろう」と辺境伯の心情を察した。

 王族を、それも国王の子を伴侶に差し出すのは絆を強固にするためがほとんどだ。相手が異国の王族なら同盟を結びたい、または攻める気はないという意思表示になり、国内の力ある貴族の場合も権力の集中を目的にしていることが多い。

 だが、辺境伯となると少し違ってくる。王都から遠く、騎士団を持つことを許された辺境伯は国内にあって独立した小国のようなものだ。そこに王の子を嫁がせるのは「裏切るなよ」という意図が見え隠れする。


「貴殿を疑っているわけじゃない」


 王太子の言葉に辺境伯がギロッと視線を向けた。本人に睨む意図はなくとも鋭い眼光に王太子がわずかに眉をひそめる。

 部屋の中にピリッとした緊張感が走った。王は深く腰かけたまま目を閉じ、王太子は言葉を探すように眉間の皺を深くする。二人を見る辺境伯の表情は険しい。


「カラディード様を疑ったりなどしていません。どうか信じてください」


 静寂を破ったのはスイリィだった。それに辺境伯が眉をひそめる。

 これまでスイリィが政治的なことを口にしたことはない。国政は王と王太子が行い、王太子の補佐は第二王子が務めている。以前は第一王女も国政の一部を担っていたが十年前に東国に嫁ぎ、いまや東国王太子妃だ。剣技に優れた第二王女も国内の有力貴族に嫁いで三人の子の母となっている。スイリィともっとも仲が良かった第三王女は薬の研究ばかりしていたが、二十八歳になった昨年ようやく北方国の姫騎士と結ばれた。

 残されたスイリィは華やかな場所には姿を現すものの、王族らしいことは何もしていない。豪華な鳥籠の中でさえずる小鳥のように大事にされてきただけの王子だと誰もが思っていた。


「父上様も兄上様もカラディード様のことはずっと信頼しておいでです。もちろん僕もです。どうか二心があるとお思いにならないでください」


 政など何も知らないと思われていたスイリィが凜とした声でそう告げる。


「スイリィ、口を挟むんじゃない」

「これは僕の婚姻の話です。兄上様の言い方では破談になってしまうかもしれません。それでは困ります」


 破談も何も婚約すらしていないんだが……王太子は胸の中でそう返しつつため息をついた。「もはや言い繕う必要はないのでは?」と玉座に視線を向けるが、王は愛息子の成長振りを喜ぶかのように目を細めている。


「陛下」


 やや強い王太子の口調に王がハッとしたように表情を改めた。そうして「スイリィの言うとおりだ」と辺境伯を見る。


「貴殿を疑うことなどこれまで一度たりとてない。今後もだ」

「では、なぜ婚姻などという話が出てきたのでしょうか」

「……それは、」

「それは僕がカラディード様をお慕いしているからです」


 王の言葉を遮るようにスイリィが声を上げた。


「……はい?」

「ですから、お慕いしていると申し上げているのです」


 厳つい辺境伯の顔がぽかんとしたものに変わった。王は堂々とした我が子の様子に「立派になったな」と頬を綻ばせ、王太子はため息をつきながら額に手を当てる。


「だって本当のことじゃないですか。それなのにどうして父上様も兄上様もはっきりとおっしゃらないんですか? それじゃあ僕の気持ちはカラディード様にまったく伝わりません」

「だから、おまえとカラディード辺境伯との婚姻はそう簡単なものではないのだと何度も説明しただろう?」

「兄上様はいつもそう言って難しく考えすぎなのです。僕はカラディード様が好き、だから結婚したい、それでいいじゃないですか」


 王が「そうかそうか」と微笑みながら頷いた。それを見た王太子が深く息を吐く。


(そのような姿を辺境伯に見せてはなりませんとあれだけ申し上げたと言うのに)


 ルルシアード王国の現国王は聡明な王として近隣国に知られている。そのため国境付近が騒がしくなっても決定的な出来事にならないと言われていた。だが、王太子をはじめとした子どもたちは違う一面をよく知っていた。


 父王はスイリィが関わると途端にぽんこつになる。


 四十になって生まれた子だからか、三人続いた王女の後に生まれた男児だからか、王はとにかくスイリィを溺愛した。王妃も可愛がっているが、そんな王妃が呆れるほどの溺愛振りで、民たちが噂するよりずっと猫可愛がりしている。父王の様子には兄姉たちも呆れているものの、自分たちもこれでもかと可愛がり倒しているため強くは言えない。


(ほかにも候補はたくさんいたというのに、まさかスイリィ自ら辺境伯がいいと言い出すとは)


 もちろん父王も兄姉たちも反対した。辺境伯は三十九歳とスイリィより二十歳年上で、しかも初婚になる。これまで辺境伯に婚姻の話がまったく出なかったのは見た目のせいだという話もあるが、なかには暴力的な性格だからではないかという噂もあった。


「そんな熊公に可愛いスイリィとやるわけにはいかない」


 王も兄姉たちも口を揃えてそう言った。そのたびにスイリィは「カラディード様はそんな方じゃありません」と訴え、「あの方はとてもお優しい方です」と説明した。

 まったく折れないスイリィに父王は困った顔をし、兄姉たちは「絶対に駄目だ」と何度も言い聞かせた。隣国に嫁いだ王女二人からの「やめなさい」という手紙も三日と空けず届いたほどだ。

 それでもスイリィは諦めなかった。「なぜそんなに辺境伯がよいのか」と問い質せば「ずっとお慕いしてきたのです」と涙目で訴える。「会ったことはないはずだ」と言えば「お見かけしたときに一目惚れしたのです」と返され家族全員頭を抱えた。


「僕はカラディード様以外とは結婚しません。カラディード様と結婚できないなら女神の泉に身を投げます」


 女神の泉は王宮の敷地内にある泉で、底がなく神の国に通じているとの伝承がある。そのため泉に落ちた者は決して見つからないと言われていた。

 スイリィの脅しとも言える言葉に王も兄姉たちも折れざるを得なかった。いや、父王はとっくに諦めていたのだろう。なにせスイリィに頼まれれば領地の一つや二つ喜んで譲り渡しかねない溺愛振りだ。そうした王を諫めるのが王太子の重要な務めの一つになっていた。

 もちろん兄姉たちは最後まで説得を試みた。そんな話など聞く耳を持たないスイリィは「カラディード様と結婚します」とそっぽを向く。城の中はかつてないほどピリピリした。そんな兄弟たちの間に入ったのは王妃だった。


「さすがはわたくしの息子。一途なところも決して折れない強い気持ちも、わたくしの若い頃にそっくりね」


 身分が低かった母妃と父王のなれそめを知っている兄姉たちは口を閉じるしかなかった。


「スイリィ、カラディード辺境伯と結婚するということはこの城から出るということです。それだけではないわ。王都から遠く離れたカランドール地方に行くことになります。嫁げば王都へは滅多に戻って来られないでしょう。それだけ遠くに一人で行く覚悟はできていますか?」


 母妃の言葉にスイリィはしっかりと頷き返した。


「もちろんです。そのために僕はたくさんのことを学んできました。それにカランドール地方ではカラディード様と過ごすのです。怖いことも寂しいこともありません」


 そう言って微笑むスイリィは女神かというほど美しく、また凛々しかった。

 こうして末子の婚姻に関する家族会議はスイリィの勝利に終わり、詳細を伝えないままカラディード辺境伯を王都に呼び出すことになった。婚姻の話だと告げなかったのはスイリィが嫁ぐのを悲しむ王のささやかな意地悪で、おかげで辺境伯は何事かと悩みながら馬を走らせることになった。


(母上も最初からスイリィに味方するおつもりだったのだろう)


 家族会議のことを思い返しながら固まったままの辺境伯を見た。隣でニコニコと微笑む弟に若干の頭痛を感じながら王太子が口を開く。


「つまるところはそういうことだ。スイリィはどうしても恋しい貴殿の伴侶になりたいと言っている。どうか願いを叶えてやってほしい」


 色恋で王子が嫁ぐなど本来あってはならない。それを国王が認めたとなれば「第三王子を味方につければ」などと考える輩も出てくるだろう。だからこそ婚姻の理由を告げることを王も王太子もためらった。

 王太子を見る辺境伯の表情は厳しいままだ。この婚姻に反対していた王太子だが、さすがに喜ぶ素振りも見せない辺境伯に眉を寄せる。


「なんだ、スイリィでは不満だと言うのか?」


 王太子の言葉に「そうではありません」と答えた辺境伯だが、厳しい表情が消えることはない。その様子にスイリィが眉尻を下げた。


「カラディード様は僕のことがお嫌いですか?」

「そうではなく……」

「では、ほかに好いている方がいらっしゃるのですか?」

「いえ、そのような方は……」

「僕が王子だということがよくないのですか? それなら王子であることをやめます」


 ギョッとしたのは王だった。「スイリィ、それはいくらなんでも」と止める王の声を遮るように「我が儘が過ぎるぞ」と王太子が叱る。


「王子のままじゃ伴侶になれないというなら、僕はいつだって王子をやめます」

「スイリィ!」

「兄上様は黙っていてください」

「王子をやめるというのはそう簡単なことではないのだよ、スイリィ」

「わかっています、父上様。それくらいの覚悟があるのだと言いたいのです」


 スイリィの美しい緑眼がわずかに潤む。途端に王はオロオロとし、王太子は再び額に右手を当てた。


「殿下、そうではありません」


 このままではよくないと思ったのか、辺境伯が厳しい顔のままそう口にした。「でも」と目尻に涙を溜める王子に辺境伯が言葉を続ける。


「覚悟とおっしゃいますが、我が領地は王都から遠く、そのため領民たちの王族に対する意識も王都とは随分違っております」

「わかっています。民たちに慕われるように努力します」

「カランドール地方は貧しくはありませんが、王都のように異国の品々があふれるほど豊かでもありません。舞踏会が行われることも数えるほどです」

「異国の品よりカランドール地方にしかないという花や果実のほうに興味があります。舞踏会がなくてもカラディード様と踊れればかまいません」

「カランドール地方はここよりずっと北側に位置します。冬は雪が積もり春は遅く、それに大雪が続けば屋敷の外に出ることもできません」

「夏より冬のほうが好きですから問題ありません。それにどんなに寒くてもカラディード様とくっついていれば平気です」


 そう告げるスイリィの瞳はすっかり乾き、代わりに頬を赤く染めていた。それを見た辺境伯が咳払いをしながら視線を逸らす。


「それだけではありません。一番の問題は……」


 辺境伯がグッと口を閉じた。「どうしたんですか?」と顔を覗き込むスイリィから逃げるように顔を逸らす。


「見てのとおり、わたしは体が大きい。顔も厳つく、そのため子どもや女性から怖がられています。これまで誰とも結婚しなかったのは……怖がられたため結婚に至らなかったというのが正直なところです」


 スイリィがパチパチと目を瞬(しばたた)かせた。王はグゥッと渋い顔を浮かべ、王太子は「何を言い出すつもりだ?」と辺境伯を見つめる。


「わたしのような大男のどこが、その、良いとおっしゃるのかわかりかねます」


 そう告げた辺境伯の目元が赤くなった。まるで照れているような様子に王と王太子がぽかんと口を開く。そんな父王や兄と違い、スイリィは両手で口元を覆いながら目を輝かせた。


「どこがだなんて、すべてに決まっています! 逞しいお体も、凛々しいお顔も、なによりお優しいところが大好きなのです!」

「優しいなど……そのようなことを言われたことは一度もありませんが」

「カラディード様の周りには目が節穴の者しかいないのですねっ」


 今度は憤慨したようにプンプンと怒り始める。


「僕はカラディード様がお優しいことをずっと前から知っています」

「ずっと前、とおっしゃいますか」


 辺境伯が訝しむような顔をするのは当然だろう。スイリィがカランドール地方を訪れたことは一度もなく、辺境伯が第三王子の顔を見たのはこれが初めてだったからだ。


「もう十二年も前になります。あのときのことは一度だって忘れたことはありません。今も目を瞑ればあのときの光景がまざまざと蘇るほどです」

「お待ちください。十二年前とおっしゃられますが、殿下に拝謁した記憶はありません」

「はい。僕が一方的に見ていただけですから」


 ニコッと笑うスイリィに辺境伯はますます顔をしかめた。


「カラディード様は十二年前、少しの間王都にいらっしゃったでしょう?」

「十二年前……もしや先王陛下の葬儀ですか」

「はい。あのとき王宮の庭でカラディード様をお見かけしたのです」

「わたしを? 王宮の庭で?」

「庭と言ってもお城からずっと離れたところで、厩舎のあたりです」

「厩舎……あぁ、」


 思い出したように辺境伯が頷いた。

 十二年前、先王の崩御にともない王都では盛大な葬儀が行われた。普段王都に行くことがない辺境伯も先王の葬儀となれば欠席するわけにもいかず、しばらく王都に滞在することになった。

 辺境伯はどこに行くにも愛馬を使う。巨漢の辺境伯を背に乗せる愛馬は一般的な馬よりずっと大きく、それほどの馬を預かれる場所は城下にない。そのため急きょ王宮の厩舎を借りることになった。


「十二年前、厩舎で怪我をしていた子猫の手当てをしているカラディード様をお見かけしました。しかも毎日通われて、それにご飯まで用意されていました」

「な、んと」


 言葉を詰まらせた辺境伯の頬が赤くなった。「いや、あれは」と言いながら視線をさまよわせている。

 その様子にスイリィは「なんて可愛いんだろう」と頬を綻ばせた。王と王太子は厳つい男の恥ずかしがる姿にギョッと目を見開いている。


「大きな背中を丸めながら片手にすっぽりと収まるほど小さな子猫を慈しむ姿を見て、僕は子どもながら心が震え、とてもときめきました。あのとき僕は思ったのです。将来この方と結婚するのだと」


 家族会議の場で、スイリィは切々と、それでいて情熱的に辺境伯への愛を語った。七歳のスイリィが厳つい辺境伯の何にそこまで惚れたのか、家族の誰も深くは理解していない。それでもスイリィの気持ちが本物であることは誰もが理解できた。


(だからこれまで婚約の話すら嫌がっていたのだな)


 なんという思いの深さだろうか。王太子は弟の想いに感心しつつ、同時に空恐ろしいものを感じていた。


「正直に言いますと、僕も初めてカラディード様を見たときは怖いお方なのではと思ったのです。だってこんなにも大きな体でしょう? でもそんなことはありませんでした。子猫を怖がらせないように小声で話しかける様子も、赤茶色の目で優しく見つめる姿も、僕はあなた様の何もかもにたまらなくときめいたのです」

「殿下、どうかもう」

「まだまだ言い足りません。僕はカラディード様の大きな体も素敵だと思っています。きっと僕など片手で抱え上げられるのでしょうし、僕の腕では逞しい背中をしっかりと抱きしめることも無理だと思います。もちろんお顔も大好きです。いつもキリッとしていますが、ニコッと笑ったときの愛らしさといったら……」


 ほぅとため息を漏らすスイリィに「殿下、どうかそのあたりでご容赦ください」と辺境伯が片手で顔を覆った。


「どうされたのですか?」

「その、こうした話には慣れておりません。このままでは辺境伯としての威厳と申しますか、そうしたものが失われてしまいます」


 顔どころか手や耳まで真っ赤にする厳つい熊公の様子に王も王太子も顔を引きつらせている。ただ一人、スイリィだけは真剣な顔で辺境伯に迫っていた。


「そんなことはありません! カラディード様は強くてかっこよくて、そしてとても優しい方です。優しいとわかればたくさんの恋敵ができるのではないかと、むしろ僕はそちらを心配しているくらいです」

「恋敵などと、女性は皆わたしを恐れます。わたしを慕う女性などいるはずがない」

「そんなことありません!」


 きっぱりと言い切るスイリィに辺境伯が眉尻を下げた。部屋に現れたときの強面はすっかり消えてなくなり、王宮騎士たちに緊張感を持たせた声も少しばかり小さくなっている。


「いいえ、そうなのです。殿下のそのお気持ちもただの勘違いでしょう。どうぞ伴侶にはほかの者をお選びください」

「嫌です! 僕は本気でカラディード様の伴侶になりたいのです!」

「ですが、」

「僕の気持ちは本物です。もし結婚できないのなら女神の泉に身を投げます。そのくらいカラディード様のことを慕っているのです」


 身を投げるという言葉にさすがの辺境伯もギョッとした。「それではただの脅迫だ」と王太子が頭を抱える。


「僕の気持ちは変わりません。十八になってからはずっとカラディード様の伴侶になるための練習もしてきたのです」

「練習、ですか?」

「スイリィ、少し口を閉じなさい」

「兄上様は黙っていてください。カラディード様、僕はあなた様に比べるととても体が小さいです。それじゃあ初夜がうまくいかないに違いないと思いました。だから少しでもカラディード様の手を煩わせないようにと思って」

「スイリィ!」

「カラディード様を受け入れられるように後ろもちゃんと慣らしています!」


 部屋に静寂が流れた。さすがの王も目元に手を当てながらため息をつき、王太子は天井を仰ぎながら目を閉じる。内容が理解できなかったのかしばらく無言だった辺境伯は、意味を悟ると厳つい顔をボン! と真っ赤にした。


「ななななな何をおっしゃいますか!」

「だって伴侶になるのですよ? 伴侶とは夫婦、夫婦は夜の営みをするものです。ですがこうも体格が違ってはいろいろ困難があるに違いないと思ったのです。だからといって絶対に無理ではないはず。そう思い、一年かけてカラディード様を受け止められるように練習してきたのです!」


 愛らしくも美しい顔をキラキラさせながらスイリィが高々と宣言した。グッと握りしめた小拳は小さく、辺境伯の大きな手にすっぽりと収まる大きさしかない。その手が辺境伯の腕を掴んだ。


「カラディード様は何も心配しなくて大丈夫です。どうか僕をカランドール地方に連れて行ってください。そうして僕のすべてをカラディード様のものにしてください」


 全身を真っ赤にした辺境伯は口をパクパクさせたものの声は出なかった。その様子に「可愛い」と微笑んだスイリィが抱きつくように辺境伯の腕に自分の腕を絡ませる。そのまま「旦那様」と微笑む美しい第三王子に、熊公と呼ばれる厳つい巨漢の辺境伯は目を開けたまま意識を失った。




 数日前のあれこれを思い返していた王太子は、表情一つ変えない辺境伯を見ながら「可哀想に」と心の中でつぶやいた。

 スイリィは可憐で儚い見た目から水に映る月のようだと言われているが、実際は兄弟の誰よりも情熱的で一途な性格をしている。欲しいもののためなら労を厭わず、手に入れるためなら己の見た目も権力も容赦なく使う。もしスイリィが隣国の王に拝謁し「この国をくださいませ」と口にすればいとも簡単に手に入るのではと考えてしまうほどだ。


(小さい頃からそうした片鱗はあったが……)


 その情熱を今はただ一人の男に向けている。辺境伯にとっては大変なことだろうが、ある意味これでよかったのかもしれないと王太子は考えていた。

 小さい頃はあれが欲しい、これが欲しいと言って周囲を惑わせていたスイリィだが、いつからかそうしたことを口にしなくなった。代わりに王子としての作法や勉学に励むようになったが、あまりにも急な変化に家族全員が困惑した。

 何かあったのかと心配して甘やかすようになったのもこの頃からで、それでも自分を律するスイリィに王は褒めちぎりながら溺愛するようになった。あの頃すでに辺境伯との結婚を考えていたのだろうと推察した王太子が小さく息を吐く。


(とにかく辺境伯にはスイリィを受け入れてもらわなくては困る。そうしなければ何をしでかすかわかったものじゃない)


 幸い、色恋の経験が皆無だった辺境伯はスイリィの猛烈な求婚から逃げることができなかった。当初は憐れと思っていた王太子も、数日見ている間に「まんざらでもないんじゃないか?」と思い始めている。


(カラディード辺境伯には野心がない。いや、あるのかもしれないが己の野心より領民の安寧を一番に考える思慮深い男だ)


 辺境伯がそうであればスイリィもそれに従い、よき伴侶としてカランドール地方を治める手伝いに勤しむだろう。後継ぎをカラディード家の親族から迎えるか王族から迎えるかは二人で相談すると話していた。どちらにしても彼の地が寝返ることはしばらくない。


(そうした目的の婚姻ではなかったが、結果的に我が国にとって最良の婚姻となった)


 集まった貴族たちは口々に「おかわいそうに」だとか「人柱のようだ」だとか囁いている。たしかにそうした要因があるものの、人柱になったのは辺境伯のほうだ。


(やはり憐れは憐れか)


 王太子が小さく息を吐いた。父王の隣ではスイリィが頬を染めてうっとりと辺境伯を見つめ、玉座の前ではスイリィの視線に辺境伯が固まっている。そのことに気づいているのは王と王太子だけだ。


「二人の婚儀を祝う式はひと月後に行う。それまでカラディード辺境伯は王宮に留まるがよい」


 王の言葉に辺境伯が静かに頭を下げた。すぐさまスイリィが「僕が案内します」と進み出て辺境伯の手を取る。その姿に貴族たちは「なんと健気な」と囁き、王太子は「がんばれ」と辺境伯への励ましの言葉を思い浮かべた。

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