インターネットが我々にもたらしたもの。
かつては専門書を開かなければ、その意味すら知ることのなかった言葉。専門書を開いても、その言葉を探し、咀嚼する必要もあった。
しかし、今ではその場にいながら、無造作に、お手軽に専門分野の言葉も、ピンポイントで得られるようになった。―― インターネットのおかげで。デジタル・ネイティブ世代からすれば、当たり前のことでも、それなりに年を取った我々からすれば、やはりこれは「異常なこと」だ。
言葉は加速度的に「希少価値」を失った。昔はインテリに聞くしか、意味すら理解できなかった言葉も、今や誰でも文字を入力さえすれば、知ることが出来る。重要なのは、せいぜい言葉を聴き取る「耳」くらいになってきている(しかも多少の聞き間違えならサジェッションも表示される)。
知への接続。情報の洪水。
知性を飛躍させることが容易となった環境で、我々は本当に賢くなれたのか?
思えば、言葉を嚙み砕く作業が激減している。
咀嚼回数が減り、時には噛まずに飲み込む。
そんなことが繰り返される。毎日。
消化されない言葉は、ただその存在だけは知っているという異物として、腹に残り続ける。腹だけは膨れているから、知への渇望も減退する。
情報弱者。情報強者。
他人の言葉を、まだよく噛んでもいない言葉を情報として胸を張る。たとえそれが真を喰った話であっても、咀嚼されていない言葉は、本人にとっては偽の情報よりも毒になることもある。意味を理解せずに発する言葉は、自分自身を刺す刃にもなる。
未消化の言葉が腹に溜まり続けている。それでも我々は情報を喰い続ける。世間のみんなが味わっている情報は、自分も絶対に知る必要がある。―― そんな無意味な考えに汚染されながら。
そのうえ、ここにきて「AI」なるものまでが登場した。こちらは「検索」すらせずに、簡単に言葉が手に入る。「取捨選択」の労力までもが省かれたデリバリーのフルコースで。
情報は、その価値を見失われる。
忘れても、また調べればいい。
だから覚える必要すら、もうすでにない。
毎日、のどに詰め込まれる情報で、我々はすでに呼吸することすら難しくなってきている。移動時間や友人と会っている時ですら、注意のリソースは常に手元の端末へと割かれ、脳は酸欠を引き起こす。
「みんなと繋がる」ために周囲との分断を広げ、「自分しか知らないこと」によって、孤独を深める。しかも、「思考」のための酸素も足りていない。
ドパガキ、ドパおじという「短時間で集中が途切れる現象」も、実のところ、この酸素不足によって引き起こされている。
インターネットは、本来そこにあった「知識格差」を埋めるのには、実際に役立った。かつては裕福なものにしか、手の届かなかった言葉も、誰でも手に入れられるようになった。しかし、我々は肝心の「呼吸」を忘れる。知識を吸収するための咀嚼には、やはり真に裕福な者たちだけが持つ、優雅な「時間」が必要である。
慌てずに噛む。噛まなければ、いずれ窒息に至る。
しかし生来、貧乏性の我々は、それでも口に詰め込み続ける。
未知なるドーパミンを求め、ドーパミンを分泌する器官すら、酸欠状態で破壊しつづけながら。




