其の六 人生の転機
お弁当はオイラにとって一日の中の一大イベントである。お弁当のフタを開ける時のドキドキ感は、(今日のおかずは何かな?)と、『ガチャガチャ』のカプセルを開ける時のような楽しみの瞬間でもあった。だけどこの日フタを開けてみると、オイラの弁当箱の中はとんでもない事が起こっていた。
今日という日を祝うかのように、白ごはんの中央にはぽつんと大ぶりの紀州の梅が乗り、四角い枠を味つけのりで額縁のように黒く縁取った日本の国旗が、眩しいくらいに銀シャリを輝かせ、それ以外は何もおかずが入って無かったのだ。
ありえない話である。
朝の日の丸弁当の話を思い出した。お母ちゃんのあの含み笑いはこれだったのだと思った。
無性に腹が立ってきた。だけどいくら腹を立ててもおかずが空から降って来る訳でもないので、あきらめて食べる事にした。
横の子に弁当の中身を見られるのが恥ずかしかったので、弁当を持ち上げ器用に弁当の角度を変え、周りに見られないように食べ始めた。だけど二口目を口に入れたとき教室のドアが開き、先生を呼ぶ声が聞こえた。見ると職員さんが立っていた。
先生が職員さんに近付き、少し話して何かを受け取ると、オイラの名前が呼ばれた。
みんなの視線を感じながら、弁当にフタをして机に置くと、先生の所に駆け寄った。
「はいこれ」先生から包みを受け取った。
中身は弁当のおかずだった。お母ちゃんがおかずを作ったまま家に置き忘れていたらしく、それに気付いて慌てて届けてくれたのだそうだ。お母ちゃんの含み笑いは日の丸弁当とはまったく関係ない事がわかった。オイラが腹を立てていたのも勘違いだと分かった。だからといって洗濯の為にこの大芝幼稚園に入園させられた事は、まだお母ちゃんを恨んでいる事にかわりなかった。なにせオイラのバラ色のひと時を洗濯のために奪ったのだから……。
「君、確かたけし君だったよね?」
お弁当の時間が終わり自由時間になった時、廊下に居たオイラに男の子が話し掛けてきた。少し色黒のソバカスだらけの男の子で、どことなくエマニエル坊やに似ていた。
「えっ、そうやけど……。自分は?」
「ぼく、江籠っていうねん。ところで今朝のあの小林旭っていうやつ、あれぇ~、ムーミンの動きに似てたね」
(でたっ、ムーミン! おいおい、小林旭のモノマネをムーミンなんかと一緒にせんとってくれよぉ~)
「あのナハナハっていうのは自分で考えたん?」
(おいおい知らんと笑てたんかよ……)
「ちゃうけど……」
答えながら、教室と廊下を隔てている窓越しから教室を覗いた。教室の中では仲の良い者同士が、あちらこちらでグループになって遊んでいる。
「あっちの窓際で遊んでいるのが双子のマーくんで、そのマーくんと同じ顔の子が、きく組にヒロくんって子がおるんやで」
教えてくれとも頼んでいないのに、親切に江籠って子が指を指して教えてくれた。
「で、あそこの掃除箱のとこら辺に四・五人いる一番背の高い子が、このうめ組のガキ大将のえっちゃん──」
見ると確かに背が高かった。見渡す限りオイラを含めてこのうめ組の中で、その男の子が一番背が高かった。それに体つきもがっしりしていて、ガキ大将と言われているのもなるほど頷けた。よく見ると自己紹介の時に面白くなさそうな表情をしていた子だと解かった。
「──で、その周りの子たちが右から……」
江籠って子が熱心に説明を続けてくれていたが、オイラの耳にはその声が次第に遠のいていった。なぜなら、そのとき教室の窓から吹き込む春風に運ばれて、やわらかなオルガンの音色が流れるようにオイラの耳に聴こえて来たからだ。オイラは誘われるようにその音色を奏でるオルガンの方向へと、ドラマチックに一人スローモーションで劇的に振り向いた。それはまるで映画でヒロインと出逢うワンシーンのように……。
自分が目にした者に胸の内がドキューンと恋の矢で射貫かれ、シビれるような衝撃を全身に受けた。息を吸う事さえ忘れてしまったほどだ。なんと振り向いた先には、友達たちに囲まれて、輝くような愛くるしい笑顔で楽しそうにオルガンを弾く絶世のかわい子ちゃんが居たのだ。
眩しかった……。手で目を覆い隠してしまうほど眩しかった……。ハゲ頭のおっさんの頭皮以上に眩しかった……。これは窓から射し込む太陽の光が眩しかった訳ではない。オイラの瞳に映るそのかわい子ちゃんがあまりにも可愛くて、そして、あまりにも輝いて映って見えたからだ。
その女の子を見た途端、それまで色あせていた世界が、数多くのお花が咲いたようにパッと明るくなった。一変してこの大芝幼稚園全てのものに親しみが湧いてきた。教室に散らかっている壊れかけた積み木や、オイラの足元に脱ぎ散らかされている、内側が真っ黒に汚れた匂ってきちゃいそうな上靴でさえ、目に映るもの全てが愛おしく思えた。
気がつくと恋の打ち上げ花火が、『ドカ~~~ン!』と大きな音を立ててオイラの胸の中で打ち上がっていた。
といっても実際には死ねる訳がないのだが、この時そう思った。
目が離せなかった。いや、離したくなかった。オイラの瞳に映るその姿は、それはそれは綺麗なお花のハートのフレーム枠の中に、動物たち(友達たち)に囲まれて、楽しそうにオルガンを弾くディズニーアニメのヒロインのようだった。
アニメの中から飛び出して来たようなその整った顔立ちは、瞳はパッチリと、まるで貝が口を開いたような二重の大きな瞳で、鼻は高過ぎずもなく低過ぎずもない、スゥーっと通ったオイラ好みの鼻の高さで、そしてどの角度から見ても文句の付け所のない愛くるしさに加え、キューティクルケアバッチシそうな艶のあるその黒い髪は、角度が変わる度、今朝食べたひじきのように光沢ある髪がなびき、なびいた髪からは、まるでバラの香りの粒子が発散しているシャンプーのCMのように映って見えた。もしこの時、この目も眩むような輝く笑顔がオイラ一人の為だけに向けられていたなら、オイラは嬉しさのあまりその場で意識がくらくら~っと遠退き、たとえ足元一面にカレー風味の美味しそうな湯気を立てた、生温かいカレー味のうんこが飛び散っていようとも、喜びを感じながら迷う事なくその場に顔面から倒れ込んでいただろう。
こんなふうにオイラのこの愛おしい思いを、好きなだけ紙に書いてもいいよと言われたら、それだけでハリーポッターという、後の世に、世界で聖書の次によく売れたと言われている長編小説よりも長い恋愛小説になってしまうので、ひとまずこのくらいにしておこう。
「ねえたけしくん聞いてる?」
江籠くんの声で、このとき初めて自分が周りの事など一切忘れ、それほど見まくったらかわい子ちゃんの綺麗な顔に穴が開くのではというほど、自分の世界に入ってうっとりと見つめている自分に気付いた。
「えっ、あっ、うん。聞いてる聞いてる。ちゃんと聞いてるよ……」
聞いているはずがない。もちろんウソである。
「ところであのオルガン弾いてる子は、名前なんて言うんよ?」
物知りそうな江籠くんなら、あのかわい子ちゃんの名前を知っているかも知れない。答えはすぐに返って来た。
「あぁ、あの子は砂糖陽子ちゃん」
(サトウ・ヨウコ……。あぁ~、なんて甘く美しい名前なんやぁ~。この大芝幼稚園に、こんなにもかわいい子が居るやなんて……。オイラはこの子に出逢う為にきっと生まれて来たんやわぁ~)
この時オイラは、地球が丸いという球体説が覆されない事実と同様に、悟りを開き、自身の生まれて来た意味も、この女の子に出逢う為だと疑う事はなかった。
するとふとお母ちゃんの事が頭に浮び、オイラは(ハッ!)っとこのときお母ちゃんの偉大さに気付いてしまった。それは、お母ちゃんが洗濯の為に大芝幼稚園を選択したのは間違っていなかったのだと……。
そう思うと、頭の中に浮かんだお母ちゃんの姿にサーっと後光が差した。両手は聖母マリアのようにやさしく開いている。迷える子羊を迎え入れる抱擁感溢れる笑顔で微笑んでいる。その神々しさはインドのサイババにダブって見えたほどだ。
そんなお母ちゃんの姿が頭の中に現れると、心の中で桑原和男のように懺悔せずにはいられなかった。
頭の中ではすでに吉本新喜劇の悲劇的なバイオリンのメロディーが響き、
(おぉ~神さまぁ~母上さまぁ~おかあたまぁ~っ!)
と、オイラの気持ちはすでに膝を着き、両手を組んで許しを請う姿勢になっていた。
(オイラはなんとおバカなせがれでしょう。あなたを一度ならず二度までも疑ってしまうなんてえぇぇ~ッ! たとえ鼻クソほどでも、蟻の鼻クソほどでもあなたを疑ってしまったなんてえぇぇ~~ッ! どうか、どうかこの迷えるおバカなせがれをお許しくださいませえぇぇ~~~ッ! あぁ~、お母たまぁ~っ!
御清聴ありがとうございました!)
もっとかわい子ちゃんの事が聞きたくて、横に居る江籠くんの方を向くと、どういう訳か江籠くんの姿が消えていた。
「あれ? どこ行ったんやろ?」
少し離れた所に目をやると、江籠くんは扉の裏に体を隠し、頭だけをひょっこり出して、心配そうにこちらを見つめていた。
(なんやおっかしな奴ちゃなぁ~!)
そう思いはしたものの、すぐにそんな事は忘れてまたかわい子ちゃんの方へ向き直った。
愛らしいかわい子ちゃんの姿が目に飛び込むと、テレビのチャンネルが切り替わるように、オイラの頭の中もすぐにかわい子ちゃんとオイラとの希望ある将来について、前向きに未来予想図を妄想し始めた。
(どないしたらあのかわい子ちゃんと結婚できるんやろぉ~……?
結納とかなんとかいうやつはチロルチョコ一箱でいけるかなぁ~……?
いや、カレーせんべいがぎっしり詰まった透明の容器ごと渡した方が喜ばれるかなぁ~……?)
( いやいや!)小刻みに首を振る。
(そのあと始まるラブラブな甘い新婚生活のこと考えたら、やはり辛い物より甘い物の方がええんとちゃうかなぁ~……?)
「おいオマエッ!」
その時、妄想劇場に浸るオイラを現実世界へと引き戻す耳障りな声がした。だが常日頃からばあちゃんに、「あんた大きなっても、人様からオマエ呼ばわりされるような安い男にはなったらアカンでぇ~ッ!」と、まるで英才教育のように、赤ん坊の頃から耳にタコが出来るほど子守唄がわりに聞かされていたので、思わず「オマエッ!」という耳障りな声に反応して、無視というわかりやすい行動をとってしまった。
「オマエこらッ、聞いてんのかッ!」
「……」
(聞いてんのかも何も、それほどバカでかい声を真横で張り上げられたら、聞きたなぁ~ても聞こえるちゅうねんッ!)だけどここは無視である。
「そうじゃオマエ聞いてんのかァ~ッ!」
別の声も同じように言ってきた。
「そうじゃそうじゃ~ッ!」
今度は、これまた違う別の声の持ち主達が声を揃えて言ってきた。やはりここも無視である。仮にこの時、「よっ、そこの男前っ!」と声を掛けられれば、「あぁ、オイラのことかい!」と振り向いてやらない事もなかったが、初対面から、しかもケンカを売って来るような言い方で「オマエッ!」呼ばわりされれば、「はいはい、なんでございましょう!」などと言って振り向く訳にはいかないのである。こういう失礼な奴らには徹底的に無視が一番なのである。
えっ、怖くないのかって?
怖いも怖くないも、まだこの時のオイラはケンカというものを一度もした事がなかったので、そんな感情はありがたい事に持ち合わせてはいなかった。人の存在を遥かに超えた鬼のように怖いお母ちゃんを除いては……。
「オマエさっきからえっちゃんが呼んでるんやぞォ~ッ!」一人の男の子が肩を小突いてきた。
(もぉ~、えっちゃんかさるとびエッちゃんか知らんけど、なんやねんこいつらぁ~ッ!)
心の中でそう思い、鬱陶しかったがまだ口には出さず、小突いてきたヤツの方へと向き直った。すると先ほど掃除箱の所に立って居たえっちゃんという子を真ん中に、その取り巻き連中四人がえっちゃんという子を援護するかのように、サッと周りを固めてややV字型に並んだ。
(なんやこいつらゴレンジャーか?)
それぞれの顔を見ると、必死に怖い顔を作り出しオイラの事を睨んでいた。一番左端にいる男の子など、必死に怖い顔を作ろうとした結果、力み過ぎたのか歌舞伎の見得を切る顔になって目が寄っていた。違った意味で怖かった。
(あかん、笑てまいそうや……)
「なにニタニタしてんじゃコラッ!」
目の前のえっちゃんという子がそう言うと、それに合わせて、
「そうじゃ、なにニタニタしてんじゃコラッ!」
「そうじゃ、そうじゃッ!」
と、取り巻き連中も後に続いた。
(こいつらハモレンジャーか!)
オイラの正面に立つえっちゃんという子の顔を見るには、オイラの顔を少し上に向けなければ見れなかった。真近で見ると一段と大きく見えた。きりっとした切れ長の目は、じいちゃんといつも夕方に観ている、遠山の金さん役の杉良太郎に似ていた。
「オマエさっきから生意気なんじゃッ!」
目を合わせた途端えっちゃんという子が言ってきた。
(生意気もなにも、まだ一言もしゃべってないって!)
声に出す代わりに、冷めた眼つきでえっちゃんという子を睨みつけてやった。いわゆるメンチ(ガンを飛ばす)というやつである。
「そうじゃ、オマエ生意気なんじゃッ!」
「そうじゃ、そうじゃッ!」
相変わらずハモリング隊が煽り立てるように吠えたくり、えっちゃんという子はオイラのメンチ光線を上から押さえ付けるように睨み返して来ている。
「なにメンチ切っとんねんッ、オマエなめてんのかッ!」
(舐めたら汚いってッ!)一人心象ツッコミを決めながら、次に続くハモリング隊の声を待った。
「そうじゃ、オマエなめてんのかッ!」
「そうじゃ、そうじゃッ!」
それにしても面倒くさいヤツらだ。こんな「オマエ、オマエ!」と連発してくる奴らには、家の姉ちゃんがよく冗談でオイラに言ってくる、「あんたわたしの事あんたあんた言うけど、わたしあんたの事あんたあんた言うた事ないやんかぁ~! なあ、あんた!」というやつを、オマエバージョンで言っておちょくってやろうとタイミングを計っていたが、
「オマエさっきから佐藤陽子のこと見過ぎなんじゃ~ッ、ボケッ!」
(ボッ、ボッ、ボケぇ~ッ!)無性に腹が立ってきた。
「そうじゃボケ!」
「そうじゃボケ!」
「そうじゃボケ!」
「そおじゃ~ボ~ケぇ~ッ!」
更に続いて右端からボケ4連発である。しかも一番左端の先程の歌舞伎顔のアホ面は、めちゃめちゃ人を小バカにした顔で「ボ~ケぇ~!」と強調しやがった。もう許せない。
(どないしてこましちゃろ、こいつら?)
と一瞬考えた結果。こいつらの嫌がる事を敢えてしてやる事にした。かわい子ちゃんの事を見過ぎと言われれば、逆にもっと見て、こいつらの事を空気のように無視してやろうと……。
もしもこの世に挑発オリンピックなるものが存在するのなら、間違いなく金メダルを手に入れていたであろうオイラは、透かさず目の前に居るえっちゃんという子の存在をものの見事に空気のように無視して、愛しのかわい子ちゃんの方を向き直った。
まさにそのとき事は起こった。えっちゃんという子が胸倉を掴んで来たのだ。
次の瞬間、務のおっちゃんに教わった事が頭の中で声となって過った。
頭の中の声と同時に体が反応していた。
「あっ」と、えっちゃんという子の声にもならない声が一瞬聞こえた。えっちゃんという子の体は大きく弧を描き、空を切って硬い廊下へと背中から落ちていった。
えっちゃんという子は、自分に何が起こったのか理解できずにきょとんとした顔を一瞬していたが、硬い廊下に背中を打ち付けたのが痛かったのか、即座に「わぁ~んっ!」と泣き出した。周りにいた取り巻き連中はビビってしまったのか、逃げ腰になって後退りし始めた。
その一部始終を、少し離れた扉の陰から顔を出して見ていた江籠くんが、扉の陰からぴょ~んと姿を現し、
「新親分の誕生やぁ~っ!」
と嬉しそうに飛び跳ねながら叫び出した。
(えっ、親分?)
この廊下の騒ぎに、教室内の子達が一斉にこちらを向いた。
オイラは恥ずかしさのあまりその場から逃げ出したかったが、視線を掻き分けかわい子ちゃんの姿を探した。すぐにかわい子ちゃんの姿を捉えた。が、しかしオイラのラブリーな視線を プンッ! とそっぽを向いてかわい子ちゃんは躱し、明らかに、「わたし野蛮な人って大ぁ~嫌い!」的なオーラを醸し出していた。
最悪である……。
こうして転園初日の思いもよらない出来事のおかげで、かわい子ちゃんに嫌われるという、なんとも悲しい幼稚園生活がスタートしたのである。
岸和田㊙物語シリーズとは別に、ローファンタジーの小説、
海賊姫ミーシア 『海賊に育てられたプリンセス』も同時連載しておりますので、よければ閲覧してくださいね! 作者 山本武より!
『海賊姫ミーシア』は、ジブリアニメの『紅の豚』に登場するどことなく憎めない空賊が、もしも赤ちゃんを育て、育てられた赤ちゃんが、ディズニーアニメに登場するヒロインのような女の子に成長して行けば、これまでにない新たなプリンセスストーリーが出来上がるのではと執筆しました。