其の五 天使と悪魔
建物の中に入ってみると、入園している子供達はすでに教室に入っているのか、廊下には誰もいなかった。
建物の端まで続く長い廊下が、まるで飛行機が飛び立つ滑走路のように映って見えた。その滑走路のような長い廊下にそって、右側には教室が二つ続いて並んでいた。よく見ると各教室の入り口の上には、奥から順に きく組、そして ゆり組のプレートが、飛び出すように掛かってあった。そのプレートの下を見ると、入口の扉にはめ込まれたガラスには、各組のシンボルカラーであろう黄色や青の画用紙で切り取られた、それぞれの花の切り抜きが貼っ付けてあった。そして きく組の手前にはトイレがあり、その手前、つまり入ってすぐ右側には、二階へと続く大きな石造りの手すり階段が、ひんやりと気持ちよさそうな冷気を発して存在していた。
(うわぁ~、めっちゃ広ぉ~っ!)建物に入った第一印象である。
それからどこからともなく現れた見るからにオッパイ星人な先生が、大屋政子と形式的な挨拶を交わす間、オイラは一人その脇で後ろ手に両手を組み、空想の石ころを蹴る真似をしては暇をつぶした。
大屋政子は余所行きの声でオッパイ星人と話しては、時折、口の端に手を当てて、「オホホホホォー!」と不気味なワンオクターブ高い笑い声を上げた。それに負けじともうワンオクターブ高い声で受け答えするオッパイ星人。二人は互いに見栄を張りながら、オイラにとっては面白くもなんともない話でしばらく笑い合っていた。子供には理解できない大人の駆け引きのように思えた。当然そんな横で暇を持てあましているオイラは恐ろしく退屈になり、
(まだ終われへんのかよ~)
と鼻クソを壁に擦りつけたが、そういう所はいつも見逃さない大屋政子に、無言で、行儀よくしておきなさい! とばかりに頭をひっぱたかれた。オッパイ星人と会話しながらも、オイラの事を抜け目なく見ているお母ちゃんは、まさに聖徳太子のようだった。
その後ハンドバッグからハンカチを取り出したお母ちゃんは、オイラの頬に何か付いているのか、そのハンカチに唾を湿らせ、顔を近づけてオイラの頬を拭ってくれた。なんとやさしい母上様なのかとそう思い、されるがままに顔を預けていると、
「ほな武さん、お行儀よくしとくのよ!」
と、余所行きの声でやさしく言ってくるお母ちゃんの眼は、
(あんた、わかってんやろなッ、賢ぉ~しとかんと帰ったら怖いでぇ~ッ!)
と告げていた。そのあまりの身の毛もよだつ恐ろしさに、オイラはオシッコをちびりそうになったが、ありったけの力を下半身にフル稼働して、パンツを汚す事だけはなんとか一滴だけに食い止めた。
大人同士の社交辞令という名の形式的な挨拶が終わると、「それでは……」とオッパイ星人が軽く会釈し、それに続いてお母ちゃんも、「よろしく頼んどきます……」 と、オッパイ星人に深々とお辞儀した。
その後お母ちゃんに手を振って別れを告げると、先生の後に付いて来るように言われ、オイラは階段を上りながら金魚のフンのように先生の後に続いた。
初めて見る建物の内装が気になったが、それ以上に目の前に歩いている肉まんじゅうのような先生のダイナマイトなお尻が、ちょうどオイラの目の高さで、右へ左へ ボィョ~ン、ボィョ~ン。するものだから、内装よりもそっちの方が気になった。
階段の手すりを触り、ひんやりとした石造りの心地よい感触を右手に感じながら、踊り場を抜けて二階に上がると、そこにもクラスがあった。
一階と同様に、クラスと階段の間にも同じ造りのトイレがあった。目に映る教室の引き戸の上には、一階と同じくプレートが掛かってあった。よく見ると うめ組と書いてある。そのプレートから視線を落とすと、引き戸にはめ込まれたガラスにも、うめの花を模った赤い画用紙の切り抜きが貼り付けられてあった。
どうやらオイラは、うめ組に入れられるのだとこの時わかった。先生の後ろで「よっしゃぁ~ッ!」と小さくガッツポーズを執った。
なぜかって……?
青、黄、赤のどの色が好きかと聞かれれば、迷うことなく赤色が好きだからだ。理由はいたって簡単。宇宙戦艦ヤマトの古代進が着ている服のマークも赤色だし、ゴレンジャーの終盤での必殺技『ゴレンジャーストーム』を蹴るのも赤レンジャーだし、大抵ヒーローやアニメの主人公というものは、昔からトレードカラーは赤色と相場が決まっているからだ。
教室に近付くにつれ、何十人ものざわめきが聞こえ始めた。駆けっこ前のドキドキ感の様なものが胃酸と一緒に溢れ出た。これが緊張というものかどうなのかはこの時のオイラには分からなかったが、やけに手に汗が滲んだ。教室の扉の前に立った。先程よりもざわめきが大きくなり、まるでスピーカーの音量が上がったようだった。
(教室の中にはたくさんの知らない子達が居るに違いない)
そう思うと心臓が早鐘を打ち始めた。気持ちを落ち着かせようと、そわそわと髪を撫でてみたりもした。だが一向に鐘は鳴り止まなかった。
先生が扉を開け教室に入った。金魚のフンも後に続いた。
教室の中へ入ってみると、先程までのドキドキ感や早鐘を打っていた心臓が嘘のように治まっていた。
(案外オイラって本番に強いタイプかも?)
クラスの子らが先生の前に集まり出し、腰を下ろし三角座り(体育座り)を始めた。
「は~~い、みなさ~ん! ちょっといいかなぁ~」
先生の一声で、あちらこちらで喋り合っていたざわめきが、徐々に静かになり始めた。
「さあ、こっちを向いて静かにしましょうね!」
次の先生の言葉で、ざわめきが徐々に収まりかけていたのに、一番手前で三角座りしていた女の子が、先生のお手伝いをしようと口に人差し指を当て、みんなに向かって「シーーッ!」と言うものだから、みんなが一斉にそれを真似して余計にうるさく聞こえた。
「シーーッ!」が一通り行き渡ると、先生が「はいはい!」と言いながら手を打ち鳴らした。それを機に二つで一セットの目玉の集団が、物珍しそうな瞳で一斉にこちらを向き始めた。後ろの方で座っている子など、首長族のように首を最大限まで長く伸ばして、物珍しそうな視線をオイラに向けてきた。
「おい見ってんッ、初めて見るヤツや!」
前の方で座っている男の子が、隣の男の子にそう言った。
この時ちょっぴり小っ恥ずかしい気もしたが、おちょけなオイラは注目が集まれば集まるほど、むしろここで『一発 ドカ~~~~ン!』と、インパクトのある笑いをかましてやりたい衝動に駆られた。だけど今日は、これまで居た双葉保育と違って、場所も違えば勝手も違う転園初日の幼稚園なのだ。ましてや見渡す限り知った子はおろか、見た事のある子さえ、(あっ、一人居たっ!)、目が合ったのは近所に住む背の高い女の子だった。でも一度も遊んだ事もなければ話した事さえなかったので、やはり女の子も含めて知らない場所に来たに等しかった。これが仮に少し前まで居た双葉保育なら、すでにこの地点でお気に入りの『鼻毛ボヨョョ~ォン!』という一発ギャグで、軽く目尻にくる笑いを取りに行っているか、もしくは髭ダンスで腹筋にくる笑いを取っていた事だろう。だけどその逸る気持ちを、なんとか超人的な精神力で抑え込む事が出来た。
「はい、今日から、みんなの、新しいお友達になる、やまもとたけし君です。みんな仲良くしてあげてくださいね」
先生はゆっくりとした落ち着いた口調でそう話すと、オイラの背中を押して一歩前へと押しやった。
「さあ、たけし君からもご挨拶しましょうか」
不意に押し出されたので膝がガクンとなり、前にのめりそうになった。
バランスを立て直して改めて目の前を見渡すと、先程よりもより一層みんなの瞳には、物珍しさに加え、期待という二文字がクッキリと浮かび上がっていた。
その光景を目の当たりにしたサービス精神旺盛なオイラは、その瞳に浮かび上がっている期待に応えたいと、オイラの中に湧き起こる衝動に居ても立っても居られなくなると、その衝動に共鳴し合うかのように、一人の人格がにょきっと顔を覗かせ囁き掛けて来た。
【あれやったらんかいッ、あれッ!】
狡猾な笑みを浮かべて囁き掛けて来たのは、オイラの頭の中に棲まい憑く、顔はオイラにそっくりの、先っちょが矢印のような黒く長いシッポが生えた、ちゃめっけたっぷりの悪魔っ子だった。
【お前の18番、間寛平の、「まぁ~い~どォ~!」っていうやつ手振り付きでやっちゃらんか~いッ!】
だけど同時にもう一人の人格も、それを阻止するように顔を覗かせた。
⦅アカンアカン、やったらアカンでぇ~っ!⦆
首を左右に振り振り大の字に手足を広げて、通せんぼするようにして現れたのは、これまたオイラにそっくりの、全身素っ裸、おまけに背中には小さな白い翼が生えた、実直かつ冷静な、ちょっぴり小心者の天使だった。片手には小さな弓矢を持っている。勿論この二人はオイラにしか視えていない。オイラのたくましい想像と心の善悪が生み出した、普通では考えられない幻なのである。
相反する者同士が出揃い、意見が真っ向から別れてしまうと、
との壮絶な戦いが始まった。
【オマエ誰じゃいッ、邪魔すんなやッ!】
まずは悪魔っ子の、歯軋りが聞こえてきそうなほど歯を噛みしめたその奥から、ドスの効いた嚙ましが炸裂。
続いてたじろぎながら、
⦅そんなん言われてもそのぉ~、ぼくの立場上ぉ~、止めるのが普通ですしぃ~……⦆
額の汗を拭い持って受け答えする小心者の天使。
【もうそんな天使か何かしらんけど、フリチンで出て来るようなアホほっといて、ここで一発教室中が ドッツカ~~~ン! と揺れるような笑いを捲き起こしちゃらんか~いッ!】
悪魔っ子の言う、教室中が揺れるような笑いを想像してみると、自然と顔が綻んだ。オイラの頭の上には想像の風船が膨らんでいる。
するとその邪念を振り祓うかのように、天使がオイラの想像の風船目掛けて持っていた弓の矢で射貫き、オイラの想像の風船を消し飛ばしてしまった。
【なにするんじゃボケ~ッ!】
おつゆをまき散らしながら怒鳴る悪魔っ子。
天使は慌てて元の巣穴、つまりオイラの頭の中に逃げ込み姿を消した。
悪魔っ子は天使に対してブツブツとぼやき終わると、また一からオイラを諭し始めた。まさに悪魔の囁きである。
【武考えてもみてみぃ~や。今この場面でそのギャグ使わんと、どこで使うちゅう話や! 今を置いて他にないぞ! 絶対今やてッ、今ッ! 想像してみ、この場を爆笑の渦に変えた時のこと、今日からお前はうめ組の人気者、みんなのアイドル、スター山本武になるねんどぉ~!】
スター錦野旦みたいでちょっと引っ掛かる所もあったけど、それでも心は揺れ動いた。
(よし、それでは!)
と意気も高まり、まずは息を大きく吸い込み、それに合わせて今にも「まぁ~い~どォ~!」と言わんばかりに、顔の前にゆっくりと両手を向かわせた。
そんなオイラの行動を感じとった天使が、隠れていたオイラの頭の巣穴から慌てて飛び出し、
⦅ああああああぁぁぁぁぁぁぁ~~~ッ!⦆
と大きな声を張り上げて、妨害を試みるようにオイラの気を逸らした。
⦅あかん、あかんっ、アカンってッ! やったらあかんってッ! そんなんやってもしスベったら、今日からあだ名が『まいど』か、下手したら『かんぺー』になってまうってッ!⦆
天使のアドバイスを聞いた直後、想像してみただけでもそれは南極大陸よりも寒いと、高まっていた意気も出端を挫かれた力士のように、オイラの心も消沈してしまった。
この地点で、土俵際まであともう少しと優勢に事を運んでいた悪魔っ子の戦いも、土壇場でうっちゃりを食らうように体制を入れ替えられ、悪魔っ子は一気に天使に形勢を逆転された。
そんな悪魔っ子が天使に捲くし立てた。
【なに言うとんねんッ、黙っとかんかい裸族ッ!】
一言いう度におつゆをパラパラと飛ばしまくる悪魔っ子に、またもや天使は頭の中に逃げ込んでしまった。
【なんやねんあの裸族、ムカつくわぁ~ッ!】
頭の中に隠れ込んだ天使に憤慨しながらも、もう一度オイラの気持ちをその気にさせようと、悪魔っ子は必死に語り掛けて来た。
【武て、これが成功したら、ギャルも杓子もみなお前のことほっとけへんどぉ~! 一躍クラスの人気者間違いなしや!】
ギャルという魔法の言葉に素早く反応し、耳を傾けてしまうオイラ。
【モテモテやでモテモテ! それでもってまたこれまでみたいに一夫多妻制おママごと出来るでぇ~、一夫多妻制おママごと!】
意味ありげな笑みを浮かべて語り掛けて来る悪魔っ子の口調の裏には、
(えっ、自分! こんなおいしい事せえへんの? もったぁなぁ~!)
と言っているように聞こえた。
後に大人になってもこういった誘いにめっぽう弱い、まだ発達を遂げていないオイラの未熟な精神は、たった今聞かされたばかりの悪魔っ子の魅力ある囁きに自ずと反応し、オイラの頭の中に独りでに魔の囁きがインストールされて行った。
〔武て、これが成功したら、ギャルも杓子もみなお前のことほっとけへんどぉ~! 一躍クラスの人気者間違いなしや!〕
更にその言葉の中でもオイラにとって大事な部分だけが、あぶり出しのように浮かび上がって行くのである。
そしてオイラのWindowsワードプロセッサーのような賢い脳は、ざるで水を切り落とすように余分な部分を篩に掛けると、すると先程の浮かび上がった言葉もenterキーを押した直後のように、あ~ら不思議と次のようになり、
その後はこうなり、
最終的には、
と、こうなるのである。
次の言葉にいたっては、
〔モテモテやでモテモテ! それでもってまたこれまでみたいに一夫多妻制おママごと出来るでぇ~、一夫多妻制おママごと!〕
こうなって、
こうなり、
更にグルグルと走馬灯化され、
「チーーン!」という閃きの鐘と共に、一句思い浮かぶのである。
浮かび上がった一句を頭の中で詠み終えると、身体の内側から熱い思いが込み上げてきた。またもや意気が高まり、(やらいでかァ~ッ!)とそう思った次の瞬間。思い出さなくていい物を思い出してしまった。あの身の毛もよだつ、世にも恐ろしい、先程別れたお母ちゃんの顔である。
「ゲッ!」
うんこ味のカレーでも味わった苦い顔になってしまった。
『あんた、わかってんやろなッ、賢ぉ~しとかんと帰ったら怖いでぇ~ッ!』
自然とお母ちゃんの内なる言葉も思い出した。血が凍り付きでもしたのかぶるぶると全身に冷たいものが走った。目の前では断続して期待の瞳がオイラを見つめている。
(さてどうするべきか? あのお母ちゃんのただでさえ厳つい顔の上に、おかめインコのような強烈な化粧を塗りたくった顔で睨み付けられた形相を思い出した以上、あまりおちゃらけた事をすると帰ってからが怖い。かといってこの山本家特有の大勢の人の前に出ると、どういう訳か無性にそこに居る人達を笑かしたくなる遺伝子が、オイラの倒れ込んでしまった気持ちを奮い立たせるように、
「立て、立て、立つんじゃジョー!」
と、まるでリングサイドから激しくマットを叩く丹下段平のようにけしかけて来る)
(だけど待てよ……。オイラがこの場で何をしようと、すでに家に帰ったお母ちゃんには解らないのでは?)
(いやいやっ! お母ちゃんの事だから、家に帰ったフリをしておいて、どこかから見ている可能性だってある)
そう思ったオイラは、まずは廊下側の出入り口に埋め込まれている窓ガラスに、サッと目を走らせた。
誰も居なかった。
次に対面側の春の日差しがぽかぽかと射し込む窓全てに目をやった。さすがに二階なので、見えるもといえば青い絵の具をぶちまけたような青空だけだった。
続いて教室の隅にある、掃除用具を入れる大きな箱の通風孔をチラッと確認した。お母ちゃんらしき目は覗いていなかった。
最後に、前に三角座りしているうめ組の子たちを、端から端まで一瞬で目を走らせて確認した。万が一、遊戯服に変装したお母ちゃんが紛れ込んではいないかと思ったからだ。やはり居なかった。
以上の確認を二秒で終え、ホッと一息つく間もなくハッと天井を見上げた。
億が一、スパイダーマンのように天井に貼っ付いたお母ちゃんが、オイラの事を見下ろしているとも限らないと思ったからだ。
大丈夫だった。
でもここはやはり普通に自己紹介しておくべきでは……。とも一瞬思いはしたが、だけど遺伝子には逆らえそうにもなかった。体の芯から湧き起こるお笑い魂にも似た熱き血は、恐らく先祖代々から、いや、石器時代から時を駆け受け継がれて来たものに違いなかった。そこでオイラはまた思い直すのである。
(これはあくまで自己表現の挨拶なんだ。あまり深く考えず、自分を表現すればいいのだ。そうだ、何も悩む事は最初から必要なかったのだ。軽くジャブ程度のギャグを挨拶に織り交ぜるだけなら、万が一どこぞの陰からお母ちゃんが覗いていたとしても、その程度の事なら怒られないはずだ)
あくまで本能のままに行動したいオイラは、自分の都合の良いように解釈するのである。
(うん、絶対にそうだ。そうに違いない!)
合点のいったオイラは一人頷いた。そのタイミングで先生が、
「さあたけし君」
と促すと、それでは! とオイラは更に一歩前に出た。そして絶対にウケること間違いなしと高を括りながら、自信満々に昨日歌番組で観た、小林旭の『昔の名前で出ています』の一節を取り入れて自己紹介に臨む事にした。
「♪京都にいるときゃ、忍とよばれたのぉ~! どうも小林旭です!」
小林旭特有の、どっしりとした太々しい歌いっぷりで、モノマネ付きで言ってやった。
「しーーーーーーーーーーーーーーん……」
春先だというのに足元を、ヒューーぅと冷たい風が吹き抜けて行った。まるで世界中の冷蔵庫のドアを、一斉に開け放たれたようなひんやりとした冷たい風だ。目の前を見渡すと、呆気に取られた目の持ち主達が、ポカーンと口を開けたまま、物音一つ立てずに凝り固まっている。アリの足音さえ聞こえてきそうな恐ろしく寒い沈黙だ。後ろの掲示板に張り出してある人物画でさえ沈黙していた。
(しっ、しまったぁ~ッ! このギャグはまだここに居る大芝幼稚園のみんなには早過ぎたかァ~っ! えぇ~い、それならこいつはどうだァ~ッ!)
「♪壁際に寝がえりうって、背中できいている。やっぱり、お前は、出て行くんだなぁ~。どうも沢田研二です!」
「しーーーーーーーーーーーーーーん……」
室内の空気がピキピキと音を立てて凍り始めた。またしても沈黙が訪れた。先程にも増してその沈黙の恐ろしさときたら、ナメクジの這う音さえ聞こえそうな程の鬼恐ろしい静けさだ。もはや先程までの寒さを通り越し、今やバナナで釘が打てそうなくらいの氷点下並みの痛寒さだ。
(やっ、やばいッ! このままスベり続ければみんなを笑かすどころかある意味、『山本武フレンズ・オン・アイスショー』になってしまうではないかっ!)
そう思った途端、焦りのあまり額にドワッと冷や汗が滲み出た。やらなければよかった。とほんのちょっぴり後悔してしまった。しかし今は後悔などしている場合ではなかった。
(えぇ~い! かくなる上は……)
両手を広げて精一杯ニコやかな笑顔を作り、動揺を表に出さないよう切り出した。
「三波春夫でございまぁ~~~す!」
「しーーーーーーーーーーーーーーん……」
もはや取り返しが効かない所まで来ていた。
(なっ、なんでやぁ~ッ! 昨日はじいちゃんにあんなにウケたのに……)
まさか三回続けてトリプルアクセルに失敗するなんて思いもよらなかった。これがフィギュアスケーターなら、ジャンプに失敗しても演技は続けなければならない。もちろんオイラもそうだった。ここでは終われない。もう一度チャレンジするしかなかった。この技だけは使いたくはなかったけれど、出し惜しみしている余裕も時間も無かった。オイラは足を大股に開き、重心を落として態勢に入った。オイラの中に眠る山本家一子相伝の、お笑い潜在意識がオイラに行動を移させた。
「千田・光男、ナハナハ!」
起死回生のオイラの一言に、目の前で三角座りしている男の子がプッと息を漏らした。
それを敏感に察知したオイラは、そこに勝機を見出し、
(もう一押しやっ!)
と、「ナハナハ」に改良を加え、身振り手振り付きで、あっちに「ナハナハ」こっちに「ナハナハ」と連発して見せた。するとそれが功を奏したのか、あちらこちらでプッ、プッと息が漏れ始めたかと思うと、次の瞬間、「プフ~~~ッ!」と大きく吹き出す声と共に、ゲラゲラと笑い声が湧き起こった。
なんとか『山本武フレンズ・オン・アイスショー』になる事だけは免れた。
(ふぅ~っ、危ない危ない! 自分で掘った落とし穴に、自分から嵌まりに行ってまうとこやったわぁ~)この時思った。
そんなオイラの心情を他所に、窓際の一番後ろで座っている体の大きな男の子と、その男の子を取り囲むようにして座っている男の子たち数人だけが、面白くなさそうな顔をこちらに向けて来ていた。だけどそれほど気にならなかった。その子たち以外は笑い転げていたからだ。
騒がしく笑い声がする中で横を見ると、ミルクタンクを重そうに胸にぶら下げている先生が、目を大きく見開いて、とんでもないという顔をしながら、頬をピクピクと顔面神経痛のように引き攣らせていた。
自己紹介もそこそこに、なんとか無事そこそこの笑いが取れた後、先生のオルガンに合わせて歌を歌ったり、絵を描いたりして時を過ごした。お腹がグーっと鳴り、あっという間にお昼になった。いつもより時間が過ぎるのが早く感じた。
岸和田㊙物語シリーズとは別に、ローファンタジーの小説、
海賊姫ミーシア 『海賊に育てられたプリンセス』も同時連載しておりますので、よければ閲覧してくださいね! 作者 山本武より!
『海賊姫ミーシア』は、ジブリアニメの『紅の豚』に登場するどことなく憎めない空賊が、もしも赤ちゃんを育て、育てられた赤ちゃんが、ディズニーアニメに登場するヒロインのような女の子に成長して行けば、これまでにない新たなプリンセスストーリーが出来上がるのではと執筆しました。