第二十一章『フミのばあちゃん』
三学期に入り、放課後サッカーの練習が終わって帰宅すると、いつも居るはずのフミのばあちゃんが居なかった。
「フミのばあちゃん何処に行ったん?」
母親に尋ねてみると、リュウマチが酷くなり、あろう事かオイラの足を骨肉腫と診断したKクリニックに入院したとの事だった。
「オイラの足切断しよとした病院やろ、大丈夫かいなぁ~?」
「私もそれ言うたんやけど、フミのばあちゃんがあそこの病院は家から近いからそこでええて言うんよぉ~。きっとあんたの近くで居たかったんとちゃうか」
実際Kクリニックは自宅から最寄りの駅よりも近い距離にあったので、オイラにとってはフミのばあちゃんにいつでも会いに行けて都合よかった。
その日の夜、両親の仕事が終わると家族そろって病院に足を運んだ。
「みんなよう来てくれたなぁ~」
薬が効いているのかフミのばあちゃんは痛そうな顔は見せず、いつもと変わらない遠視鏡を掛けて、レンズの奥の目をニコやかにさせて喜んでくれた。オイラはみんなの合間を縫ってフミのばあちゃんの傍まで行き、
「フミのばあちゃん大丈夫なん?」
と聞くと、
「しゃべり難いから武、頬っぺた離してくれへんかぁ」
と、いつもと変わらない笑顔でフミのばあちゃんが答えた。
相部屋の病室では、騒がしい山本家がフミのばあちゃんを囲み、いつもと変わらない茶の間の雰囲気を醸し出し、面会時間ギリギリまでその病室を賑やかせ、オイラは帰る時にもう一度頬っぺをニギニギして病室を出た。
「また来るからなフミのばあちゃん」
もう一度病室に走って行き、戸口からフミのばあちゃんに声を掛けた。
「うん。また来てや!」
それからというものオイラは時間の許す限り、一人自転車に乗ってフミのばあちゃんに会いに行った。サッカーの練習が終わって晩飯までの時間や、学校が休みの日には、時間さえあればフミのばあちゃんに会いに行った。多い時など一日の中で、家でご飯を食べる時以外は何度も足を運んだ。オイラが会いに行くとフミのばあちゃんは決まって、
「武、あんたこれ食べるか?」
とか
「冷蔵庫にプリン入ってるから食べ」
と言って、お見舞いで貰った物をオイラに勧めてくれた。最初の内はそれを喜んで食べていたが、いつもお腹が一杯になって、家に帰えってから晩飯が入らなくなっていたので、それも徐々に遠慮するようになった。そんな時フミのばあちゃんは寂しそうな顔をした。そこでオイラはフミのばあちゃんが大好きなファンタオレンジを一本だけ開けて、先にフミのばあちゃんの吸い飲みに注ぎ、残りを缶のままオイラが飲んだ。それだけでもフミのばあちゃんは嬉しそうな顔をしてくれた。見舞いに行くといつしかこれがオイラとフミのばあちゃんの日課となり、冷蔵庫にファンタオレンジが冷えてない時は、フミのばあちゃんから小銭を受け取ると、オイラは自動販売機でファンタオレンジを買って病室に戻り、二人していつもファンタオレンジを飲んだ。
「フミのばあちゃん。そろそろ晩飯やから帰るわ」
「武、これ持って行き」
そう言ってフミのばあちゃんは、毎回ガマ口の財布を開けて千円札をくれようとするが、
「いらん。そんなんで来たんとちゃう」
とオイラは受け取らなかった。
二月に入りまだ肌寒い日が続いていた。
「あんた何処行くんやァ~?」
背中に向けて追い掛けて来るお母ちゃんの叫ぶ声に、
「フミのばあちゃん所ォ~っ!」
とオイラは自転車に跨りペダルを漕ぎながら、お母ちゃんに聞こえるよう叫び返した。
病院に着くと自転車を前に止め、使い慣れたエレベーターで病室に向かった。室内では暖房が効いていたのでジャンバーは直ぐに脱いだ。
「フミのばあちゃん、アランドロンが来ましたよぉ~っ」
オイラがおちゃらけて言うと、フミのばあちゃんは嬉しそうな表情をして、
「何処にアランドロンおるんや?」
とオイラのボケに乗ってくれたのか、はたまた本当に真に受けたのかキョロキョロと病室内を見回した。そんな冗談を言いもって、いつものようにファンタオレンジで乾杯した後、ベッドの横に備え付けてあるテレビで、一緒に時代劇を見ながらほんわかした時間を過ごしていると、ふと思い出したようにフミのばあちゃんが話し掛けてきた。
「あんた昔、店の二階火事になったのん覚えてるか?」
「覚えてるよ。確か小学校上がった時ぐらいやったかなぁ~?」
「そや、それぐらいやったなぁ~」
それはまだスーパーをしていた頃である。そのスーパー二階の書道教室の部屋から火の手が上がり、そんな事に気付いていないオイラと姉ちゃんは、隣の部屋でサザエさんを見ながら陽気にエンディングの歌を歌っていたのである。
「あの時フミのばあちゃん助けに来てくれへんかったら、オイラと姉ちゃん。♪今日は楽しい 今日は楽しい ハ~イキング♪ って歌いながら焼け死んどったわ」
「あの世にハイキング行かす訳にもいかへんしな!」
笑いもってフミのばあちゃんが返した。
火事があった日はサザエさんを見ていたので、日曜日だったのはハッキリと覚えている。これは後にお母ちゃんから聞いた話だが、スーパーに買い物に来ていたお客さんが、買い物の帰りに二階の部屋から煙が上がっているのを見付け、ちょうど下に居たフミのばあちゃんが、慌ててオイラ達を助けに二階に上がってくれたのだそうだ。
「あのとき階段降りしな燃えてる部屋見たけど、阿含の星まつりぐらい火の手上がってたもんなぁ~」
「あんたそんなん覚えてるんか?」
「覚えてるよぉ~。バーベキューするにはちょっと火力キツ過ぎるなぁ~て思たもん」
「怖なかったんか?」
「全然、だってフミのばあちゃん居ったもん」
オイラの言葉に、フミのばあちゃんは眼鏡を持ち上げて、もう片方の指で目許を押さえた。
「武、ちょっとそのテレビ台の開き戸開けて、風呂敷で包んであるやつ取ってくれるか」
眼鏡を元に戻し、またにっこりと笑顔に戻ってからフミのばあちゃんが言った。
オイラは言われた通りにテレビ台の戸を開けて、その風呂敷に包んである物を手渡した。するとフミのばあちゃんは、まるで中に宝物でも入っているような嬉しそうな表情で、その風呂敷の結び目を解くと、中に入っている物を取り出した。
「武これ見てみ」
取り出したのは泉州銀行の通帳だった。
「あんたの名前が書いてるやろ」
にっこりと嬉しそうに微笑みながら、名義の所を指差すそのフミのばあちゃんの顔は、まるで大福餅が笑っているようなそんな甘優しい顔をしていた。
視線を指先に向けると、確かにオイラの名前が書かれてあった。
「ばあちゃんな、前々からあんた名義の通帳作って、毎月貯金やっとったんや。それがなんと今日100万超えたんやで! どやっ武、ビックリしたやろ!」
そう言ってフミのばあちゃんは、通帳を開いて0がたくさん並んだ数字を見せてくれたが、普段からお小遣いを数百円しか持った事のないオイラは、その100万円というお金がいったいどれほど凄いお金なのか解らなかった。しかしフミのばあちゃんがオイラの事を想って貯金をしてくれているのは解ったので、素直に、
「ありがとう」
とオイラは言った。
「あんたが大きなったら好きなようにこれ使いや」
「うん。わかった」
もう少しオイラが大きくなって解った事だが、フミのばあちゃんは年金が入ると、自分の生活費以外は全てオイラ名義の口座に貯金してくれていたのだ。しかし後にこのオイラ名義の通帳のお金は、オイラが大きくなっても自身で使う事はなかった。オイラの手には渡ってこなかったからだ。親の事情というやつである。スーパーを任意整理した時の負債がそれほど大きかったのである。
「ばあちゃんもっと長生きして、いっぱいあんたに貯めといたるからな」
自分の事以上に、オイラの口座にお金を貯めて行くのが、フミのばあちゃんは嬉しそうだった。
フミのばあちゃんの好意は子供ながらに嬉しかったが、オイラにとってはフミのばあちゃんと一緒に居られるだけで幸せだった。
そんな温かい日々が続くある日、神秘的な不可思議な出来事が起こった。その日は中央公園というグランドでサッカーの試合が行われていた。オイラ達大芝JFCは、この日、対戦相手に大差を付けて圧勝し、予選を勝ち抜き来たるべき大会に備えた。そんな帰り道の事である。中央公園からの帰り道は市民病院の前を西に下って線路沿いを通り、更に駅を下って帰らなければいけないので、オイラは帰り道にフミのばあちゃんに会って帰ろうと思っていた。チームメイトとバカな話をしながら自転車を漕ぎ、線路沿いをしばし走ってようやく踏切に差し掛かった。遮断機の音と共に踏切が片方下り出すと、チームメイトはこぞってもう片方の下りていない遮断機から踏切を通り抜けて行った。オイラはどのみち駅を超えた所でみんなと別れるつもりだったので、急いで踏切を渡らず遮断機が再び上がるのを待っていた。一人待つ遮断機の音は少し寂しくも感じ、その音に合わせて代わり番こに点滅する二つの丸く赤いランプは、見ていると不気味に思えた。ましてやそこへ電車が通過して行くと、通過して行く騒音と共に風圧というお友達を連れて来るので、踏切内は、より一層不気味な踏切のオーケストラに替わった。オイラの目の前では春木駅遮断機公共楽団が、それはそれは不気味なオーケストラを醸し出していた。そんな目の前を通過して行く電車を眺めていると、まだ電車が過ぎ去っていないのに、突如オイラの聴覚からオーケストラの演奏がプツリと止み、音のない無の世界に切り替わった。
(えっ)
突然のその感覚に一瞬戸惑いはしたが、すぐに誰の仕業か解った。それは凄く優しく、それでいて温かい、愛おしい感覚がオイラを包み込んでくれたからだ。そう、この感覚は今からオイラが会いに行こうとしていたフミのばあちゃんだった。
(武……)
オイラの心にフミのばあちゃんが直接話し掛けてきた。
(フミのばあちゃん?)
(武、寂しがったらあかんよ。ばあちゃんな、もう行かなあかんようになったんや)
(えっ、何処にっ?)
(次の世界にや。あんたが寂しがったらあかん思て、最後に会いに来たんや……)
(えっ、そんならオイラもフミのばあちゃんと一緒に行く)
(あかん、あかん、武、あんたはこの世界でまだいっぱいせなあかん事があるやろ。だからばあちゃんとは行かれへんのや。それに最後やいうてもこの世界では最後なだけで、いつか必ずばあちゃんと会えるから心配しなさんな)
(ほんま、ほんまにまた会えるん?)
(あぁ、ほんまやよ)
(絶対にほんま、約束やで!)
(わかったよ……)
最後にフミのばあちゃんはそう言って、オイラの頭を優しく撫でて行ってくれたように感じた。再び聴覚に遮断機の音や電車の過ぎ去る音が響き出した。ほんの僅かな出来事だった。
遮断機が上がるとオイラは急いで自転車を漕ぎ、病院には寄らず一目散に家を目指した。フミのばあちゃんの遺体が運ばれている事を確信していたからだ。
自転車を直接ばあちゃん達が住んでいる家の下に止めて、一目散に裏の階段を駆け上った。玄関では親戚のおばちゃんが、
「武、フミのばあちゃん奥で寝てるから早よ顔見たり」
と言って来た。
オイラは玄関に靴を脱ぎ捨て、奥の部屋へと速足で移動した。仏壇の前には布団が敷かれ、その上にはフミのばあちゃんが、近所の人や親戚の人達に囲まれて横になっていた。
オイラがフミのばあちゃんに近付いて行くと、みんな道を開けるようにオイラを通してくれた。オイラはフミのばあちゃんの傍まで行くと、そこに敷かれた座布団にちょこんと座り、フミのばあちゃんの顔に目をやった。布団の上で眠るように横になっているフミのばあちゃんは、いつもと変わらない優しい顔付きで、まるで面白い夢でも観ているかのようなそんな顔をしていた。そんなフミのばあちゃんの胸に抱き付くようにオイラは顔を埋めると、目を瞑り心臓の音を聞いてみた。何も聞こえなかった。周りの人達がオイラの行動を見て、更に声を上げて泣き出した。しかしオイラは涙一つ流さなかった。つい先ほど踏切でフミのばあちゃんと話したばかりだったし、それにフミのばあちゃんはオイラが悲しまないように会いに来てくれたからだ。そんなオイラを見て死というものを理解していないと思ったのか、
「武、あんたの好きなフミのばあちゃん亡くなったんやで。あんた解ってるんか?」
と、実のばあちゃんが聞いてきた。
「うん。でもさっきフミのばあちゃんオイラに会いに来てくれたねん。オイラに悲しんで欲しないから会いに来てくれたねん。だからオイラ泣いたりしたらアカンねん」
オイラがそう言うと、周りに居た人達がまた声を上げて泣き出した。
オイラはもう一度フミのばあちゃんの顔を見て、フミのばあちゃんと一緒に過ごした楽しい日々を思い出した。ファンタオレンジを一緒に飲んだ事、通帳を嬉しそうに見せてくれた事、朝起こしに来てくれた時の事、ご飯を作って食べさせてくれた事、思い出すフミのばあちゃんの顔はどれも優しく笑っている顔ばかりだった。オイラがフミのばあちゃんの頬っぺたをモミモミしている時でさえ、フミのばあちゃんはいつも笑っていた。いつも頬っぺを触るとその温かい感触と、なんとも言えないフカフカのムニュムニュの気持ち良さと共に、いつも優しい笑顔が返ってきた。そんな懐かしい時を思い出しながら、目の前で眠るフミのばあちゃんの頬っぺをもう一度目触ってみた。驚くほど冷たかった。いつもの気持ち良い感触が伝わってこなかった。このとき初めてフミのばあちゃんが死んだという事実を受け入れた。
目の奥が熱くなった。それでもオイラは涙を流さないようにグッと堪えた。
そんな経験を踏まえた少年は、四月から、詰襟の学生服を着た中学生になるのである。