第十五章『Dr武のお医者さんごっこ』 其の一 Dr武のお医者さんごっこ
どうして母親というものは普段から、
やれ、
「あっ、お風呂の水っ、溜めてたの忘れとったわっ!」
とか、
「あっ、しもたぁ~、犬にエサやって来るのん忘れたわっ!」
とか、
「あっ、買い物先にお父さん忘れて来てしもたっ!」
とか、大事な事はすぐに忘れてしまうくせに、オイラにとっては思い出さずに忘れていて欲しい事などは、どうして毎度、毎度ちゃっかり覚えているのかと、つくづくそう思ってしまう事がある。ちょうどこの時も、
「あんたそういや今日ぉ~……」
訝しげな顔をしながらお母ちゃんが、
「確かぁ~……」
記憶を辿るように頭を傾げ、
「テスト返してもらったんとちゃうの?」
と不意に聞いてきた。
(ドキッ!)
お母ちゃんに見せられる点数ではなかったので、
「あっ、しもたぁ~っ、学校に忘れてきてもうたぁ~!」
と、オイラはわざとらしくも咄嗟に嘘を吐いた。
お母ちゃんは目を細め、身体の中を透かして見るような、X線の視線をオイラに向けて来た。その視線を三秒以上浴びてしまうと、オイラの嘘が見破られてしまうのではと不安に駆られ、オイラはその場を即座に離れようとお母ちゃんに背を向けたが、その時オイラが背負っているランドセルにお母ちゃんの手が伸びて来た。
「ちょい待ち、あんた!」
更に(ドキッ!)
「止めてくれるなおっかさん!」
願うように力強くオイラは言ったが、ガッチリと掴まれたランドセルは離される事はなかった。
「あんたちょっとランドセル開けてみ」
またもや(ドキッ!)
も一つ(ドキッ!)
ついでに『おさつどきっ!(UHA味覚糖)』
この地点でオイラの心臓は、毎秒五回というとんでもない速さで鼓動を打ち始めていた。
「えっ、なんで?」
オイラは顔だけ振り向けた。
「ええから早よ開けてみ!」
開けたくなかった。というより開ける訳にはいかなかった。というのも学校を出る時、その返してもらった答案用紙を、グルグルとおにぎりを握るようにしわくちゃに丸め、悲しくも教科書をランドセルに入れ終わった後に、そのおにぎり答案用紙を放り込んでしまっていたからだ。なのでランドセルを開けるとそこには、
『母上様、これが嘘を吐いて隠し持っていた答案用紙でございます』
と言わんばかりに教科書の上に丸まって乗っていたのだ。
「嫌やっ!」
オイラは嘘を吐き通せない性格なので、少し苦笑いしながらも、首振り人形のようにブルブルと小刻みに首を横に振った。
「何が嫌やの?」
お母ちゃんのⅩ線のような視線がみるみる内に、悪事を見通す遠山の金さんのような細く鋭い眼に変わっていった。
「ラ、ランドセルさんも今日は開けたないって言うてはるし……」
お母ちゃんの眼を見上げ言った。
「言うてへん。言うてへん!」
素っ気なく即座に返された。
かくなる上は最後の手段を使うしか、オイラに生きる道は残されていなかった。
「あっ、痛っ、あ痛たたたたたたぁ、お腹痛ったぁ~っ!」
腰を曲げてお腹を押さえながら、
「うっ、うんこ漏れるぅ~っ!」
鼻にシワを寄せて言った。
そう言ってオイラはその場を離れようとしたが、ランドセルをガッチリと掴まれていたので、その場でジタバタともがき窮する事態となってしまった。そうこうしているのも束の間、お母ちゃんは強硬手段に打って出た。有無も言わさぬ強引なやり口で、ランドセルをこじ開けて来たのだ。この危機迫った状態に、さすがのオイラも困り果て、
(これは蟯虫検査でケツの穴を見られるよりも具合が悪いぞ!)
と、見られたくない一心から、思わず懇願するように喚いた。
「やめてぇ、染めてぇ、薄めて、消えて!」
だがその叫びも虚しく、
「ほんまにもぉ~う、うるさいなぁ!」
と頭をペシンと張られ、おにぎりと化した答案用紙を見付けられてしまったのだ。
「何やのこれ!」
遠山左衛門尉は、不審な眼をオイラに向け、片眉を吊り上げた。
『何やのこれ!』と聞かれても、『はい、これがお代官様の探していた代物です』とは言えるはずもなく……。
「えっ、さぁ~、なんでしゃろかいなぁ~?」
オイラはとぼけるしか仕方なかった。それを聞いた遠山奉行は、
『オイ、オイ、オイ、しらばっくれちゃぁ~いけねえよ!』
と襟元を横に引いて桜吹雪を披露しそうな勢いだった。
オイラは鳩尾の辺りが、キューっと絞めつけられるような思いになった。
しわくちゃになった答案用紙が、遠山奉行の顔の前で広げられていった。その下から覗き込むようにお母ちゃんの顔を見上げていたオイラは、この時、お母ちゃんの顔が、遠山奉行から鬼のように眼の座った座頭市へと、変貌して行く様を目の当たりにしたのである。
「あんた何やのこれ、10点満点のテストみたいな点数しかとってこんと、しかも一桁でも四捨五入でけへん点数やないかッ!」
こうなってしまうと、もう、蛇に睨まれたカエル、もしくは、テレビドラマなどでよくある、浮気の現場を押さえられた夫のようなものである。
迫力あるお母ちゃんのその眼力に、オイラは金縛りにあったように一歩も動けずその場に凍り付き、その眼を直視するのを避ける事により、その呪縛からなんとか我が身を回避させる事が出来た。断続、緊迫した事態ではあったが、見付かってしまったのならもう仕方がないと、開き直って少しでもお母ちゃんを笑わせて、この緊迫した空気を和ませ、神の怒りを鎮める作戦に出る事にした。
「何やのって、あれやんかぁ、昔からよく言うやろ、能ある鷹は爪隠すって!」
言いながらも内心では、いつ張り飛ばされるかとビクビクものだったが、なんとか最後まで言い切った。
「どこでそんなことわざ教わって来たんか知らんけど、別にテストで爪隠さんでもええんとちゃうのッ! んん?」
怒りし神は、最後の言葉を怒る問いかけで締め括った。
一回目の作戦は見事に失敗に終わった。即座に二回目のチャレンジが始まる。
「もうそれ以上は言わないでやっておくんなさいまし──」
時代劇の町民風に、いかにも下手に願い出た。
「──悪代官さまぁ~!」 (はっ!)
気が付いた時にはもう遅かった。ついつい口が滑り、悪代官と本音が口を衝いてぽろっと出てしまったのだ。
「誰が悪代官やねぇ~んッ!」
ドスの効いた大砲のような唸り声と共に、岩のような強烈なゲンコツをものの見事にお見舞いされ、この日の作戦はあえなく失敗に終わった。
そんな100円の消費税ほどの点数しか取れないおバカなオイラだが、勉強が良く出来る人が志す、医師という職業をオイラは一日だけした事があった。それはオイラがまだ三年生の頃のとある休日の昼下がり、この日大役が巡って来たのだ。幼き男子なら誰もが憧れる待望の大役、お医者さんごっこのドクター役である。
読者のみなさんはお医者さんごっこと聞くと、どんな想像をするだろうか? オイラが思うに、まあ、あらかたの人がエッチな事を想像するのではないかと思う。幼き頃は『ごっこ』ですむが、大人になってこれをしてしまうと『お医者さんごっこ』という文字は、たちまち『お医者さんプレイ』に変り、内容も更に濃い物へと変化してしまう。まあオイラから言わせてみれば、『ごっこ』も『プレイ』も、興奮の度合いにおいては大して差はないように思えるのだが、みなさんはどうだろうか?
この日オイラは初めての大役に、心もアソコも張り裂けんばかりの興奮で胸躍らせていた。
オイラの中でドクター役とは、一言でいうと神に近い存在だった。神というのは何をしても許されるものである。たとえ聴診器を当てるフリをして小指で乳首をまさぐっても、たとえ患者に、
「それではそこに寝てください」
と言って、△〇※◇や〇△※◇な事をしても医療行為として許されるのである。いや、患者も許さなければいけないのである。これがお医者さんごっこの醍醐味であり、強いて言うならドクター役の特権なのである。少なくともオイラは、いや、この場面に限りドクター風に私と言い直させて頂こう。
そう、私ドクター武はそう思ってやまないのである……。
この日、オイラは夏の暑さを凌ぎつつも、計画を実行する為、スーパーのクーラーの前で涼を取りながら、時が経つのを待っていた。
♪ 忘れてしまいたい事や
どうしようもない寂しさに
包まれた時に男は 酒を飲むのでしょう
飲んで 飲んで 飲まれて 飲んで
飲んで 飲み潰れて 眠るまで飲んで
やがて男は 静かに眠るのでしょう
有線から流れる河島英五の『酒と泪と男と女』は、大人になってからの男の習性を予見させてくれた。柱に掛かっている時計に目を向けると、もう間もなくの時間だった。次はその場からガラス戸に目を向けた。じいちゃんとフミのばあちゃんがガラスの向こう側を通り過ぎて行った。予定通りの時刻である。近所の女の子達と姉ちゃんは、近くのガレージで待機していた。じいちゃんとフミのばあちゃんが、昼から町内会の用事で出て行く事になっていたので、それを確認するためオイラはクーラーの前で時間を潰していたのだ。
スーパーから出ると、少し先に見えるガレージに向けてOKの合図を出した。ガレージで待つ姉ちゃんからも了解のサインが送られて来た。すべては順調、予定通りである。
この日は日差しが強く、子供といえど外で遊ぶには厳しい気温でもあり、やはりクーラーの効いている室内で、お医者さんごっこをしようという事になっていたのだ。なのでじいちゃん達が出かけて行くのをオイラ達は待っていたのだ。
姉ちゃん含む女の子達と、スーパー裏手にある階段を上ってじいちゃん家の玄関に入った。いよいよこれから待望のお医者さんごっこが始まるのかと思うと、オイラのアランドロンのような男前な顔も、ついつい嬉しさにだらしなく弛緩してしまい、ニヤけた三枚目俳優のような顔になってしまった。ちなみに補足しておくと、アランドロンと自称しているのは何も自分から言い出した訳ではない。近所に駄菓子屋兼ゲームセンターの、『アキラ』という店があるのだが、その店のオバはんと向かいの豆腐屋のオバはんが、オイラが『アキラ』に駄菓子を買いに行く度、
「わっ、アランドロン来たで!」
とオバはん二人が言い始めたのだ。
最初にそれを聞いた時は、
(なにオバはんいちびってんなッ!)
と思いはしたが、家に帰って母親に、
「アランドロンって何なん?」
と尋ねてみると、海外のめちゃめちゃ男前な映画俳優と言うではないか! 男前に似ていると言われて腹の立つ者はいないものである。それから以後『アキラ』に行くと、いつものようにオバはん二人が、
「あっ、アランドロン来たで!」
と騒ぎ出し、オイラは、
「サインやろか」
と調子に乗って言ってやるのである。するとオバはん二人して、
「キャーー!」
と、まるで韓流スターを目の前にしたような黄色い声を上げるのである。まあハッキリ言ってオバはんの相手も疲れるが、とにかくアランドロンはそういう事なのだ。
話が逸れてしまったので戻す事にしよう。
「さあ、遠慮なく上がって、上がって!」
玄関から、奥のクーラーがある部屋までニコニコ顔で女の子達を招き入れると、オイラは早速お医者さんごっこの準備に取り掛かった。
まずは窓の外を、張り込みしている刑事のように怪しげな動きで確認した。何処かから誰かがこちらを覗いていないか確認の為である。女の子は解っていないかも知れないが、これから始める事を考えれば当然の事である。確認し終えると窓を閉め、さらに薄いレーヨン生地のカーテンをぬかりない手つきでサッと閉めた。するとどうだ! 入道雲を差し置いて燦々と降り注いでいた太陽の光が、そのカーテンを通して絶妙な淡いブルーに変化した。まるで淡いブルーのスポットライトを当てたような、すこぶるエッチな空間へと早変わりしたのだ。
次にオイラはクーラーのスイッチを入れた。オイラは普段クーラーを使う時は、温度調整を全開にして底冷えするくらいの寒い温度設定にするのだが、女の子が薄着になるように、この時ばかりは適度な温度よりやや高めに設定しておいた。
最後に押入れから聴診器を引っ張り出して来た。前々から何度か見かけた事があったので、聴診器が押入れに入っている事は知っていた。おそらくじいちゃんの体調が良くない時に使っていたのだろう。まかり間違ってもじいちゃんとばあちゃんが高齢になってから、夜な夜なお医者さんプレイに励んでいる事はないだろう。考えただけでも身の毛がよだつ。
すべての用意が整うと、女の子達には一旦隣の部屋に移動してもらった。一人ずつ入室してもらい診察する為だ。ちなみに隣の部屋との境は、すりガラスの入った四枚の引き違い建具だけだった。このすりガラスはぼんやりと人影を映し出すのだが、そのぼんやりさがより一層オイラの興奮を奮い立たせた。
さあこれでいよいよお医者さんごっこが始まるのだが、始まる前に一つ言っておかなければいけない事がある。今回このお医者さんごっこに登場する女の子達の名前はすべて替えさせて頂いている。というのも、現在ではその女の子達も月日が流れ、家庭を持つものや一児の母になっている者もいるので、このお医者さんごっこが原因で、夫との仲が悪くなり、家庭が崩壊してしまう事や、娘が非行に走ったりするとも限らないからだ。
まあそんな訳で、幼き小学三年生のオイラが、早速お医者さんごっこを始めようと思ったその時、鏡台の横に掛かっているばあちゃんの浴衣を見付けた。表の生地には柄が入っていたが、裏地は白い生地だったので、オイラは手に取り確かめてみた。丈は長かったが裏返すと白衣代わりになるぞ! と、オイラは早速羽織って鏡台の前に立ってみた。完璧とはいかないまでも、それなりに感じは掴めていた。ドクター武の完成である。オイラは鏡台に映る自分に向かって、
「エヘン」
とお医者さんぽく咳払いをすると、即座にお医者さんごっこを始めた。
「それではお待たせしました。一番の方お入りください」