第十章 『失恋の痛み』 其の一 予期せぬ失恋
四年生一学期の始業式、まさかの出来事が起こった。二つある内の一つは、愛しのかわい子ちゃんと同じクラスになれた事。もう一つは最悪な事に、タッケンと同じクラスになってしまったのだ。
数日後、早くも嬉しい事が起こった。理科の実験で理科室に移動した際、かわい子ちゃんと同じ班になったのだ。だが良くないオマケも付いて来た。タッケンである。対面して目の前にはカワイ子ちゃんが座り、オイラの隣にはタッケンが座っていた。
オイラは目の前の美し過ぎる存在に心奪われながらも、緊張のあまり直視する事さえ出来ず、胸はドキドキ、心はウキウキ、頭の中はバラ色一色に染まっていた。
先生が黒板の前で今から行う実験について説明し始めると、それに伴いオイラは、目の前のかわい子ちゃんに良い所を見せようと、先生が指示する物を素早く手に取ろうとしたが、そんなオイラを邪魔立てするヤツが約一名、隣に座るタッケンである。
先生がアルコールランプに火を点けるようにと指示すると、握り掛けたアルコールランプを素早くオイラの手の中からかっさらい、火を点けようとマッチを掴もうとすると、またもや素早くマッチをオイラから分捕った。次こそはとビーカーに水を入れようとしたが、またもやオイラからビーカーを奪い取り、先に水を入れられた。
(このボケ何さらすんじゃッ!)
と頭では思いはしたが、そこは愛しのかわい子ちゃんの前である。至って冷静に、それでいて教養のあるデキる男を装い、
「もぉ~う、君ぃ~さっきからなんだよぉ~、ちょっとはボクにも手伝わせてくれたまえ!」
とオイラはこう言った。本当の所は、すぐにでもドツキまわしたくて仕方なかったが、やはりそこは堪えた。すると目の前のかわい子ちゃんが、初めてオイラに話し掛けてくれたのだ。
「もぉ~うは牛なのよぉ~」
(かわぃ~~~~い! 何これぇ~、もぉ~うと牛をかけてくるかぁ~。笑いのセンスも抜群やなぁ~! 『もぉ~うは牛なのよぉ~』って、ここに字はめ込んで行ったら、
になったりして……)
初めて言葉を交わすきっかけが出来たのだが、しかし約一名が、またもや邪魔をしてきたのである。
「なにがもうは牛やねんッ!」
(こ、こっ、コイツなに横から割り込んどるねんッ! オイラの返答を差し置いて、しかもかわい子ちゃんのセンスあるボケを否定しやがった!)
「竹村くんツッコミ早ゃ~い!」
こともあろうかかわい子ちゃんは、笑顔でタッケンにそう言った。
(おい、おい、待てよォ~。ウケとるやんけェ~っ! コイツにウケられたら、なんかオイラ全然しゃべられへんおとなしい子に思われるやんけぇ~っ!)
オイラは焦った。非常に焦った。正直次の言葉が見付からなかった。このテーブルの空気感という実権を、早くもタッケンに握られたのである。ここで二人の間に入って行けば、間違いなくヤツはオイラを落して来るのは目に見えていた。教養あるデキる男は、逆に言葉も返せないダメな男の印象をヤツに植え付けられていた。そしてオイラが言葉に詰まっているのをいい事に、コイツはどういうつもりか知らないが、段階を踏まずに、いや、正確にはオイラが、段階を踏んで告白した後に彼女から聞きたい返事を、コイツは面白がって、軽々しく愛しのかわい子ちゃんに尋ねたのである。
「おい砂糖陽子、オレとコイツとどっちがええねん!」
(なんという事をコイツは聞くのだ!)
と、オイラは隣に座る世界最強に嫌いなヤツの顔を、目を剥いて見てしまった。
(言わないでくれ、解っている、解っている。言わずとも解っているよかわい子ちゃん! ヤツの名を言う事はないのは解っているとも……。仮にもしヤツの名を言う事があるのなら、オイラは白鳥の湖を踊るバレリーナのチュチュを穿いて、華麗にターンしながら近所のドブ川に飛び込んだっていい。ましてやこんな細い目のぶっさいくなヤツなんかより、近所のおばちゃん連中から、春木のアランドロンとまでいわれた、オイラの事の方がええのは解って……)
「竹村くん!」
即返事だった……。考える事すらしていなかった……。百年分の除夜の鐘が一回にまとめられた程のガーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーンッ! と来る衝撃に襲われた。アホウ鳥がオイラの頭上で「アホウ、アホウ!」と鳴きながらクルクルと旋回している幻覚すら見えた。
オイラは固まっていた。奈良の大仏さんより固まっていた。家の仏壇の鐘の音がチーーーン! と一鳴り聴こえたような錯覚さえ覚えた。
一学期始まって間もないが、出来ればかわい子ちゃんを忘れられるくらい、遠くの学校へ転校したいと思った。そんな思いに耽ながら、理科の実験が終わるまでオイラは固まりっぱなしだった。
「おい、山本、もう授業おわったぞ!」
先生に肩を叩かれ我に返った時には、理科室には人っ子一人居なかった。
「ここはどこ……、わたしは誰……」
「お前なに言うとんねん、大丈夫か?」
「あっ、先生っ!」
廊下を歩き教室まで帰る道のりは本当に長かった。出来る事なら理科の実験が始まる前にタイムスリップしたかった。
これでヤツといの戦いは、通算一引き分け一敗、一失恋となってしまったのである。