第九章 『ぼくのグースカ』
子供達にとってはネバーランドのような楽しい夏休みは終わり、また平常通りの毎日が再び始まった。二学期の始まりである。
退屈な授業の中で、体育・図工・音楽は得意科目だったが、それ以外で一つだけ夢中になれる授業の時間があった。
「それではこの作文用紙を後ろに回して下さい」
先生が枚数を数えて前列に作文用紙を配った。
「いいですか、今日の作文のテーマは、『心に残った出来事』をみなさんに書いてもらいます。どんな事でもいいですから、その時の事を思い出してしっかりと書いてください」
心に残った事を書きなさいと言われても、色々な事が頭の中を巡った。その中でも最近起こった出来事は、胸が締め付けられるほど心に残る出来事だった。
‥‥それはオイラが幼稚園の頃、家族でなんばに映画を観に行った帰り道の事だった。
当時家にある車といえば、市場の仕入れに使うトラックしかなかった。1980年ダットサントラック720型の薄いブルーである。後ろの席が無いので、その分運転席から助手席へと続く空間が広く、ベンチシートのようなその空間には大人が三人座れたので、運転席には父ちゃん、窓側の助手席にはお母ちゃん、そしてオイラと姉ちゃんはその間に座りなんばを目差した。
初めて目にする道頓堀や心斎橋筋は休日だけあって、岸和田の街とは比べ物にならないくらいの人混みの多さに圧倒された。道頓堀の『くいだおれ太郎』を見た時には、チンドン屋がたむろするチンドン屋の為の食堂なのだろうと密かに思った。
ご飯を食べ終わって映画を見る段階になって、オイラは東映まんがまつりを観ようと訴えたが、父ちゃんは大人風を吹かせて象物語を観るのだと譲らなかった。象物語から何かを学ばせようとしていたのだろう。父ちゃんは学校の先生をしていた事もあって、ちょっと説教臭い所があった。帰りの車の中では象物語についてえらく熱く語っていたが、オイラはその話が退屈で仕方なかった。そんな帰り道、旧26号を通って帰っていると、右手に浜寺公園が見えてきた。オイラも姉ちゃんもちょっと公園に寄りたいと言ったら、父ちゃんは熱く語っていた話を止め、すんなりと右方向に指示器を出した。
日も沈みかけていた事もあり、公園内は人の気配がまったくなかった。姉ちゃんと一通り公園の遊具で遊んだ後、
「もうそろそろ帰ろう」
という父ちゃんの一言で、駐車場に向かって歩き出した時、木影の隅に寂しそうに置かれてあるダンボールの箱を見付けた。近くまで行くと、
「クンクン」
と小さな鳴き声が聞こえた。箱の中にはゴマフアザラシの赤ちゃんのような真っ白な子犬が五匹、身を寄せ合い寂しそうな声を出していた。捨てられていたのである。
「この子らかわいそうやね……」
姉ちゃんが言った。
「酷い事するなぁ~、こんなかわいい子ら捨てるやなんて……」
お母ちゃんが言った。
象物語を観て動物愛に目覚めている父ちゃんは、腕を組み目を閉じてじっと何か考えていた。
「家で飼うたろよ」
オイラが言うと、
「武、ええこと言うた。そや、家で飼お!──」
悟りを開いたように開眼した父ちゃんは、一人納得の態で頷いている。
「── そやけどお母ちゃんの了承がないとなぁ」
最後につけ加えた。
「家で飼ういうても五匹は無理やで。世話でけへんかったらよけいにこの子らかわいそうやからな」
確かにお母ちゃんの言う事はもっともである。
「武、どの子か一匹だけ選びなさい」
「うん。わかった」
五匹の中で、ちょこまかと動き回る元気な子をオイラは選んだ。抱き上げると腕の中でゴマアザラシのような子犬が暴れまわった。手に持ち替え目の高さまで持ち上げてみた。真っ黒の円らな瞳が愛らしくオイラを見つめてきた。
「チンチン付いてるわ」
視線を下げると、お腹の下には男の子のシンボルマークが付いていた。
「女の子より男の子の方がええよ。子供も出来へんし」
オイラからしてみれば、子供がたくさん増えればそれはそれでいいと思ったが、やはり母親の視点からすれば、山本家の生活水準を考えてのもっともな意見だった。
「わたしにも抱かせてよ」
差し出してくる姉ちゃんの手に子犬を預けると、子犬はペロペロと姉ちゃんの顔を舐めまくった。
帰り道の車の中は、新しい家族の話題で持ち切りだった。しかし主役の当人ならぬ当犬は、疲れていたのかすやすやと腕の中で眠り始めた。
「名前決めんといかんなぁ~」
父ちゃんが運転しながら言った。
「何にする?」
姉ちゃんが言った。
「あんたらで好きな名前付けなさい」
お母ちゃんが言った。
「シロはありふれてるしなぁ」
オイラである。
「男の子やからアンソニーはどう?」
「姉ちゃんキャンディーキャンディーの見過ぎや」
「ほんならあんたやったら何にするんよ?」
「う~ん。バビル二世とか」
「とりあえずアニメからお互い離れよ」
「う~ん。名前決めるって難しいなぁ~、そやけどこいつさっきから、ぐーすか、ぐーすか、寝てばっかりやな」
「それええやないかぁ~」
ハンドルを握りながら父ちゃんが言った。
「それってどれよ?」
オイラは尋ねた。
「ぐーすか、ぐーすか、よう寝るから、グースカでええんとちゃうか?」
「なるほど、グースカかぁ~、ええなぁ~それ! よしっ、お前の名前は今日からグースカや!」
オイラはグースカを抱き起し直接子犬に伝えた。このとき抱かれたまま、ぐーすか、ぐーすかと、鼾をかいて寝る肝の座った子犬の名前が決まったのである。
「そやけどホンマよう寝るなぁ~こいつ」
新しい家族の名は、名犬山本『グースカ』である。
グースカはオイラの成長と共に体つきも大きくなっていった。グースカは気性が荒く、家族以外の者に決して体を触らせなかった。番犬の鏡のような犬である。そんなグースカは、犬社会の中でもかなり幅を利かせていた。というのもこの頃は野犬が多く、野犬の集団が道端でよく見かけられた。そんな野犬の集団に向かって行こうとするグースカを見て、オイラは一度鎖を離して自由にしてやった事があった。するとグースカはその集団のボスらしき、自分の体よりも三倍も大きな犬に、正面から挑み見事に打ち負かした事があった。後で知った事だが、それは土佐犬という種類の犬だった。そんなグースカにオイラは誇らしく思った。
そんなグースカだが、二学期が始まって間もない頃、あるとき学校から帰ると突然姿を消していた。オイラは真っ先に父ちゃんの所に駆けて行き、グースカの行方を尋ねた。すると父ちゃんは険しい顔をしてオイラにこう言った。
「グースカな、ちょっと病気みたいで、今日から病院に入院してるんや。良うなったら一緒に迎えに行こな」
退院の日までの一日一日が待ち遠しかった。学校から帰る度、オイラは父ちゃんに退院はまだなのかと尋ねた。雨の日も風の日も、そしてお母ちゃんの雷の日も……。
そんなある日の事、
「今日の夕方グースカ迎えに行くからな」
と、待ちに待ったグースカの退院の日がやって来た。夕刻までの時間がいつもより長く感じた。動物病院に着くと、グースカは数ある檻の中の一つに入れられていた。多種多様な動物の鳴き声がする中で、嵐のように吠えたくっていたグースカだったが、オイラの顔を見るなりクォーンと、これまでに聞いた事のない甘えた声を出した。オイラは即座にグースカの檻に駆け寄った。
「グースカ迎えに来たで……」
声を掛けたあと、オイラは言葉を失った。グースカの後ろ足が二本とも切断されていたのだ。
「なんでっ、父ちゃんなんでよッ! なんでグースカの後ろ足無くなってるんよッ!」
オイラは懸命に父ちゃんに詰問した。すると父ちゃんはオイラの目線に合わせて、膝を着き、オイラの肩に手を乗せると、オイラの目をまっすぐ見て説明してくれた。
「グースカはな、足の裏に怪我してたんやけど、そこからバイ菌入って足が壊死してきて、切断せえなしゃあなかったんや」
「壊死ってなによッ?」
受け入れがたい現実に、少し怒った口調で父ちゃんに問い質した。
「壊死っていうのはな、体が腐って来る事なんや。グースカの足を切断せえなグースカ死んでしまうとこやったんや」
なぜだか解らないが目頭が熱くなってきた。胸の内が無性に痛かった。グースカはもう走る事が出来ないのだと思うと、可哀そうで仕方なかった。腹立たしい感情も誰にぶつけていいのか解らなかった。やり切れない思いがオイラの身体を支配した。
グースカはまだ歩けるかどうかも解らなかったので、連れて帰るのは檻ケージに入れたままグースカを車に乗せた。
「家に連れて帰る前に、グースカを公園で一度離してやるか?」
助手席で、窓の外を見ているオイラに父ちゃんが言った。
「うん」
力なく返事した。
公園の前に車を付けると、父ちゃんは、ケージを担いで公園内の芝生の所まで運んだ。もしも前足だけで歩けなかったらと思うと、胸の内がドキドキして仕方なかった。
「もしも歩かれへんかったらどないするん?」
ケージの戸を開ける前にオイラは尋ねた。
「その時は義足か何か考えらな仕方ないな」
父ちゃんの声も元気がなかった。
そんなオイラ達の心配事など気付いていないグースカは、早く檻の外に離してもらいたくてうずうずしているようだった。
父ちゃんがケージの戸を開いた。グースカは嬉しそうにケージから飛び出した。後ろ足の太股の付け根から切断したグースカは、切断面を地面で擦らないように器用に地面から少し浮かせると、前足だけで立派に歩き出した。涙が止まらなかった。本当に止まらなかった。
無邪気にトコトコと歩くグースカを見ていると、やはり根性も犬一倍あると思った。茂みに向かって逆立ちをグースカは始めると、腰から下を捻って器用にオシッコを茂みにかけた。
「よかったのぉ~、オシッコも自分でなんとか出来るみたいやのぉ~、偉いのぉ~グースカ!」
力のこもった声でそう言った父ちゃんの瞳は、少し湿っぽくなっていた。
「武、グースカはな、山本家の悪い厄を、全部背負ってこないなってくれたんやと父ちゃんは思てるんや」
「オイラ達家族の代わりにけ?」
「そや、悪いもんみな背負ってくれたんや」
幼いオイラには父ちゃんの言った言葉の意味はよく解らなかったが、そんなグースカを、オイラはこれからも大切にしてやろうと思った。
そのとき丘の向こうに、以前グースカが打ち負かした土佐犬が現れた。グースカは闘争心をむき出しにして、前足だけでその大きな犬に向かって行った。
不自由な体になっても、自分より何倍も大きな犬に向かって行くグースカの姿を見て、やはり山本家の愛犬だと、このときオイラは思った……。
次回からはシリーズ2『続 武士はピンク好き! 編』を連載して行きますが、これまでのシリーズ1の感想を頂けたら幸いです。