第八章 『岸和田Xファイル』
その夜、茶の間では二台のホットプレートを囲み、各自が手に持つテコでお好み焼きをつつきながら、週に一度の『日曜日だョ! 山本家全員集合』の晩餐が行われていた。テレビのスピーカーからはクイズ番組の司会者の声が響き、茶の間をより一層ほんわかした空間に変えてくれていた。山本家はスーパーを営んでいた為、店を閉め終わってから、皆が揃って晩飯だとかなり遅い時間になるので、平日は各自が交代して晩飯を摂っていたが、日曜に限り、店が終わってから皆で晩飯を食べる事になっていた。八人で食べる晩飯はいつもちょっとした宴会になり、子供ながらにこの雰囲気は大好きだった。
務のおっちゃんは瓶ビール片手に、
「まあ兄ちゃん一杯行っとこよ」
と、早くも父ちゃんにビールを注ぎ、それを見ていたじいちゃんは、
「おい務、わしには無いんか」
とコップを片手にビールを催促していた。
姉ちゃんとお母ちゃんはクイズ番組を見ては、互いに正解を言い当てて楽しんでいる。
ばあちゃん姉妹は並んで座り、お好み焼きを食べながら仲良く話し込んでいるが、二人の丸くなった背中を見ていると、年老いた姉妹亀のように映って見えた。
オイラはいつもより晩飯が遅くなった分を取り戻そうと、一生懸命お好み焼きを頬張っていた。
「おい、今日の新聞ないんか?」
ビールを口に運びながらじいちゃんが言った。
「あっ、まだ取って来てないわ。下のポストやわ ──」
そう言ったのはフミのばあちゃんである。
「── 武、ちょっと下行って新聞取って来てくれへんか」
他ならぬフミのばあちゃんの頼みには腰の軽いオイラなので、口にお好み焼きを詰め込み、すぐさま外階段を下りてポストから夕刊を取り出した。夜の9時を回っていたので、階段の外灯以外には、辺りは暗く視界が悪かった。スーパー裏手のこの階段は表通りから外れているので、人の気配がさほどなく、ましてや先程まで騒がしい所に居たので、夏の夜といってもどことなくひんやりとした空気が漂っているように感じた。早く戻ってお好み焼きを食べようと手すりを掴んだ時、20メーター先の古びた長屋が視界に入った。見ようと思って見た訳ではない。どちらかといえば視界に入れたくなかったが、階段の造りが簡易な鉄骨なので、段差の隙間や柵手すりの隙間から、階段を上って行く過程でどうしても視界に入ってしまうのだ。見たくない理由はそこに住む老婆が薄気味悪かったからである。足早に階段を駆け上がろうとしたが、そんな思いとは裏腹に、階段を上る足を止めてしまった。いや、誰だって足を止めたに違いない。長屋の前にはオーブのような光る球体が、漂うようにふわふわと浮かんでいたのだから……。
後日そのオーブは間違いなく火の玉だったと知るが、この時は不思議な物が浮かんでいるとしか思わなかった。あくる朝、老婆は亡くなっていたのである。
オイラは我に返ると二段飛ばしで階段を駆け上がった。
「ちょお聞いてよ、今、下でなんか光る物見てもうたっ!」
茶の間に戻るなりじいちゃんに新聞を渡し、逸早く皆に話して聞かせた。
「なんや光る物って?」
そう言うなり務のおっちゃんは、コップにビールを注いでいる手を止めた。
「あそこの薄気味悪いばあちゃんが住んでる長屋の前で、なんかふわふわした物浮いてたねん」
「火の玉か?」
「いや、燃えてはなかったけど」
テレビでよく見る火の玉のように燃えていた訳ではなく、握り拳ほどの光る球体だったのだ。
「あほか、火の玉って書くからいうて、別に燃えてる物とは限らんぞ」
「えっ、そうなん。務のおっちゃん見た事あるんけ?」
「ない、けど聞いた事はある」
「そうなんやぁ~、幽霊は見た事ないんけ?」
「おう、幽霊やったら見た事あるぞ」
「うそやっ、ホンマけ! どんなんやったん。教えてよ?」
山本家一同の注目が、一斉に務のおっちゃんに向けられた。務のおっちゃんはビールで喉を潤すと、一呼吸おいて話を始めた。
「これは子供の頃の話なんやけど、ちょうどこの部屋で昼にうたた寝してたんや、そしたらな、なんかそっちの戸口の方から ──」
務のおっちゃんは顎で戸口を示した。
「── 誰かに見られてるような感じがして気になって見たんや」
務のおっちゃん以外のすべての者が、背にしている戸が気になったのか、一斉に戸口に顔を向けた。さすがに戸口には誰も立っていなかった。再び皆の視線が務のおっちゃんに戻ると、皆して静かに話の続きを待った。
「ほならその戸が十センチくらい開いてて、髪の長い女の人がずーっとこっち睨んで立ってたんや。俺怖なって助け呼ぼと思たんやけど、金縛りにあって声は出えへんし、体はピクリとも動かれへんしで、ホンマ怖かったなぁ~あの時は……」
茶の間にどんよりとした空気が漂い始め、室内がほんの僅かな時間沈黙で覆われた。まさかこの部屋での出来事だと誰も思っていなかったからだ。テレビの音声だけが沈黙を破っていた。
「ちょっとぉ~、怖いこと言わんといてよぉ~。オシッコ行くのん怖いやぁ~ん」
「お前が聞いて来たんやないか」
それはそうではあるが、トイレに行くには、その幽霊が立っていた部屋を通って行かなければならなかったので、正直、本当に怖かった……。
「幽霊やったら私も見た事あるで」
参戦してきたのは、ばあちゃんだった。
ばあちゃんの横で肩を並べて聞いていたフミのばあちゃんは、予想に反した妹の発言に、大きく目を見開き、ゆっくりと自身の顔を横に居る妹の顔に向けた。驚きに見開かれたその目は、牛乳瓶の底のような遠視鏡のぶ厚いレンズで、より一層大きく映し出されていた。
「えっ、ばあちゃんも見た事あるんけ?」
テコでお好み焼きを切りながらオイラは尋ねた。
「あぁ、一回だけ見た事あるよ」
「いつ見たんよお母ちゃん」
聞きながら務のおっちゃんはビールを手酌した。
「あんたがまだ生まれてない頃や」
「わしは生まれとったんか?」
尋ねると同時に父ちゃんは、ビールの入ったコップを口元へと運んだ。
その話を聞くのは初めてだと、息子達二人は興味津々である。
「あんたがまだ赤子の時や」
「へーそんな事があったんか、わしなんか毎日見てるけどのぉ~」
じいちゃんが何気なく言った。
「えっ、あんた毎日見てるてどういう事よ?」
「今そのお化けとしゃべっとるがな」
「なっ、私の事かいなぁ~っ!」
笑いもってばあちゃんが言った。
茶の間に、山本家一同の笑い声が溢れると同時に、テレビのスピーカーからも、客席に座る観客の笑い声がタイミングよく流れた。
「で、あんたそれどこで見たん?」
と、フミのばあちゃんはまだ驚きに目を丸くしている。
「そやなぁ~、あれはまだ修が赤子で、背中にせったろうて畑で働いてた頃やったかなぁ~……」
ばあちゃんが昔を懐かしむように話し始めた。
「今はテイサンのボウリング場になってるけど、その前はあの広い土地ぜんぶ畑やってなぁ~。その頃は戦争からこの人も帰ってなかったから、まだ家も貧乏でなぁ~。畑で働かせてもらわんと食べて行かれへんかったのよ。ちょうど稲刈る時期やったわ。ほたらな、遠くの方から鎌持った物凄い形相の女の人が追い掛けて来るんよ。しかも足無いんやで!」
「足無いってどういう事よ?」
オイラが尋ねた。
「上半身だけの錯乱した鎌持った女よ。そら私もビックリしてな、修せったろうたままおもいっきり走って逃げたわ」
「よう兄ちゃん放って行けへんかったもんやな」
と務のおっちゃん。
「そら背中から降ろしたらもっと早よ走って逃げれたけど、降ろしてる間に追いつかれるやろ、だからそのまま走ったんよ」
「おう、お母ちゃん。追いつかれへんかったらわし降ろして逃げとったんかァ!」
笑いながらも怒った風を装い父ちゃんが指摘した。
「それもあり得るなぁ」
ばあちゃんがしみじみ言うと、再び茶の間に笑いが溢れた。
「そらそうと、8チャンネルUFOの特番やっとるぞ」
新聞のテレビ欄に目を通していたじいちゃんの一言に、山本家の男共が目を光らせた。不思議や神秘といった類の物には、オイラも含めて、父ちゃんも務のおっちゃんも目がないのである。
「武、8チャンネルや」
務のおっちゃんの言葉に、
「アイアイサー」
と即座にオイラは作戦(一人任務ごっこ)を実行に移した。
「もぉ~う、わたしらクイズ見てたのにぃ~ッ!」
姉ちゃんはそう言ったが、
「ええやないかぁ~」
とじいちゃんが一言いうと、姉ちゃんは言い返す事なく意気消沈してしまった。
8チャンネルに切り替えるなり、ナレーションに合わせてUFO画像が映し出されると、一同は話を止めてテレビを見入った。画面が更に切り替わり、次から次へとUFO画像が映し出される度、
「オォ~~~ッ!」
と男共の歓声が上がり、しばらくそんな感じでテレビを視聴していると、次はアメリカのネバダ州に住む、アンナ・クリスティナという四三歳の女性が、宇宙人によるアブダクション(誘拐)でUFOに連れ去られたという話が始まった。
「武、もうちょっとボリューム大きくしてくれへんか」
父ちゃんが言った。
「ラジャー」
オイラは敬礼のポーズをとって作戦を実行すると、スピーカーから中年女性の声が同時通訳として大音量で流れ始めた。
アンナの証言【同時通訳】
「It was happened in December 23,1979. あれは1975年の12月23日の事でした。On That day, I was unable to sleep well. so that I Went down to the kitchen to Drink some water. It was about 2:30 a.m. その日は寝苦しく、深夜の二時半頃にキッチンに下りて水を飲みに行ったのです。Then l saw a bright light from the sky through the window. すると窓の向こうに空から照らされたような光が見えたのです」
ナレーション【男性の声】
「昼間の疲れで寝付けなかったアンナは、水を飲みに階下へと足を運んだ。時計を見ると深夜の2時半少し前だった。ふと窓の外を見たアンナは、青白い光が空から降りて来るのを見付けた」
アンナの証言
「The light was shining for a while. 光は少しの間続いていました。It was definitely a flying disk. 私はそれを見ようと家の外に出てみると、そこには光の先に丸い円盤型のUFOが浮いていたのです」
ナレーション
「その円盤型UFOは空に静止するように夜空に浮かんでいた。アンナは恐怖に駆られ家の中に駆け込もうとしたが、身体の自由が利かなかった。その後アンナは意識が遠くなったのだ」
アンナの証言
「When I realized I was lying in front of my house. 次に気がつくと、私は家の前で倒れていたのです。Looking at the watch, it was 4:30 a.m. 時計を見ると明け方の四時半になっていました」
ナレーション
「アンナには空白の二時間があった。そこで我々取材班は、その空白の二時間にいったい何があったのかを検証すべく、アンナの了承の許、催眠術のスペシャリストに依頼し、アンナに逆行催眠を行ったのである。すると驚くべき事にアンナの失われていた記憶が次々に明らかになったのだ!」
催眠術師【同時通訳 しゃがれた女性の声】
「What can you see in there? そこには何が見えますか?」
アンナの証言
「I can see the shadow. 人の影が見えるわ」
催眠術師
「Haw many shadows are there? それは何人ですか?」
アンナの証言
「I see three, no, there are four shadows! 三人、いえ、四人だわ!」
催眠術師
「Is it human? それは人間ですか?」
アンナの証言
「I can`t see it clearly because it is too bright to see. 光が眩しくてハッキリとは見えないわ」
催眠術師
「What are you doing? あなたは何をしていますか?」
アンナの証言
「I am lying on something like a table. 台のような物の上に寝かされています」
催眠術師
「Is it the operating table? それは手術台ですか?」
アンナの証言
「Yes, I think so. はい、そうだと思います」
催眠術師
「What are they doing to you? あなたは何をされていますか?」
アンナの証言
「They are touching my knee. 膝を触られています」
催眠術師
「Which is it, right knee or left knee? それはどちらの膝ですか?」
アンナの証言
「It is my left knee. 左の膝です」
催眠術師
「What are they doing to your left knee? 膝に何をされていますか?」
アンナの証言
「Wait, is bright…… s, S, Stop help me~~~! まっ、眩しくて……、や、やっ、やめてぇ~~~ッ!」
ナレーション
「ここでアンナは催眠から目を覚ました。この後アンナの膝から恐るべき謎の物体がァ~~~ッ!」
続いて女性の声が流れた。
「ここまでの放送は、花王、日清製粉、コカ・コーラボトラーズ、各社ご覧の提供でお送りしました」
テレビのアナウンスがCMに変わると、それを機に山本家一同が一斉に動き出した。じいちゃんはタバコを取りに自分の部屋に、父ちゃんはトイレに、務のおっちゃんはビールを取りに冷蔵庫へ、姉ちゃんは務のおっちゃんの後に付いてジュースを取りに冷蔵庫へ、お母ちゃんは茶碗にご飯をよそいに、ばあちゃんはホットプレートの上でお好み焼きをひっくり返し、フミのばあちゃんはじいちゃんに頼まれた熱燗の用意を、オイラは手を止めていたのを再開してお好み焼きを頬張った。
そして再びスピーカーから女性の声が流れ始めると、
「ここからは花王、大塚製薬、UCC、各社ご覧の提供でお送りいたします」
山本家一同がパドックに入る競走馬のように、元の位置に腰を下ろした。
ナレーション
「催眠から目覚めたアンナの左膝を見てみると、膝蓋骨の下部に八ミリほどの傷が見付かった。後日Ⅹ線で映し出してみると、驚くべき事実が浮かび上がって来たのだ! 我々取材班はその真相に更に迫るのだった!」
インパクトのある音響が流れ、一旦、出演者のコメントに切り替わった。
「引っ張りよるなぁ~、早よ続き行けよなぁ~っ!」
務のおっちゃんがテレビに向けてぼやいた。
ややあって……。
ナレーション
「画面に映し出された二枚のⅩ線写真をご覧いただこう」
画面の中央を区切って二枚のⅩ線画像が映し出された。
ナレーション
「このⅩ線写真はどちらもそのとき映したアンナの物なのだが、どちらの写真もちょうど膝の傷があった箇所に、直径一センチ程の白く映る物質が映し出されているのがご覧いただけると思うが、なんとこの白く映る物質をアンナの承諾の許、外科手術を行い摘出したのだ。そしてその摘出した物質を更に化学分析した結果、驚くべき事実が判明した。その物質は一見クリスタルのようにもガラスのようにも見えるが、なんと結晶体で磁気を帯びており、実に不可解なものであると言わざるを得なかった。その物質は14.7MHzの無線周波数を発していて、更にゲルマニウム、プラチナ、ロジウム、イリジウム等、隕石との共通点をはらんでおり、地球には最深部にしか天然に存在しないはずの同位体のニッケルが含まれていた。また、カーボンナノチューブと非常に似通った構造のナノファイバーが発見されたのである。それではテレビをご覧の皆さまにも、その摘出された物質をご覧いただこう。これが問題の物質である!」
ナレーションの声が茶の間に響き渡ると、画面にはその摘出された物質がアップで映し出された。それを見たオイラとフミのばあちゃんは、二人顔を見合わせた。
「ばあちゃんこれ……」
「あぁ、わかってる……」
実は数日前、このテレビに映る摘出された物質と同じ物が、オイラの左足の踝から出て来たのだ。その時の事を詳しく話せば、その日の夕方、オイラが遊び疲れて泥んこで帰って来た際、それを見たフミのばあちゃんが、
「あんた先に風呂場行って、足だけでも洗といで」
と言うので、オイラは玄関で靴下を脱いで素直にフミのばあちゃんの言う事に従った。風呂場から出るとフミのばあちゃんがタオルを持って来てくれ、優しくオイラの足を拭いてくれたのだが、その時フミのばあちゃんがオイラの左足の踝の異常に気が付いたのだ。
「あんた……、これどないしたんや……?」
見ると踝の上には、親亀の上に子亀が乗っているような凸起があった。
「痛ないんかぁ~?」
そう言ってフミのばあちゃんは、オイラのその踝を触診してくれたのだが、これといって外傷は無く、別段、痛い訳でもなかったので「大丈夫」と答えると、
「あんたこれ何か入っとるで」
と言って、フミのばあちゃんは裁縫針を持って来ると、ライターで炙り針の消毒を始めた。
(おいおい、ばあちゃん。いったい何をするの⁉)
とオイラは恐怖したが、二人の信頼関係は、おそらく前世から海の底よりも深い信頼関係だったので、オイラはフミのばあちゃんにされるがまま身を委ねた。
フミのばあちゃんは凸起になっている子亀の甲羅の部分に素早く針を当てると、「痛い!」と言う間もなく、見事にその箇所に穴を開けた。あとは膿を絞り出すように両側から親指で押し出すと、まるで鶏から卵が産み出されるように異物が出て来たのだ。直径八ミリ程のテレビに映る物とまったく同じ物である。
「なんや二人ともどないかしたんか?」
深刻な表情で見つめ合うオイラ達二人の様子に、逸早く気付いたのは務のおっちゃんだった。
「みんな驚かんと聞いてや」
オイラに注目が集まった。
「実は数日前、今テレビで見た物と同じ物がオイラの足から出て来たねん」
オイラがウソを言っているものと、誰も驚きもしなかった。
「ちょっとは驚いてやぁ~!」
一応ツッコんでおいた。
「ほんまやでなぁ~、フミのばあちゃん!」
助けを求めてフミのばあちゃんの顔を見た。
「これホンマの話やでぇ」
オイラの前世からの友人が、透かさずアシストしてくれた。
フミのばあちゃんが言ってくれた事により、皆がオイラの話に真剣に耳を傾け出したので、オイラは順を追って一連の経緯を話した。
「お母ちゃんも覚えてない、レジに見せに持って行ったのん?」
オイラが尋ねたが、お母ちゃんは何の事だかまったく解っていなかった。
実はその異物を取り出してすぐ、オイラは階下に下りて行き、レジで勤しむお母ちゃんにその異物を見せに行ったのだが、お母ちゃんはお客さんの対応に追われて話をまったく聞いてくれなかった。だがオイラはあまりにも足から出て来た異物が不思議に思えたので、なんとかお母ちゃんに食らい付き、やっとの事お母ちゃんにそのクリスタルのような物質を手に取らせたのだ。するとお母ちゃんは、
「こんなガラスで遊んだら危ない!」
と言って、その場から向かいの道路に投げ捨てたのである。
「そんな事あったかな?」
「こんなガラスで遊んだら危ない言うて、紀州街道に放ったやん!」
「あぁ~、なんかそんな事あったな。そやけど忙しかったからそれの形まで覚えてないわ」
気にも留めない投げ捨てた本人は、まあこんなものである。
「そやけどそれがホンマの話やったとしたら、武に催眠術かけてみたら、その異物がなんで武の足に埋まってたんか思い出すんとちゃうか」
務のおっちゃんのこの軽い一言が、オイラの意見など尊重する事なく、オイラとフミのばあちゃん以外の遊び心に火を点けたのだ。
「ほなら誰が武に催眠術かける?」
早くもオイラに催眠術をかける事を前提に、務のおっちゃんが仕切り出すと、
「催眠術なんか誰かかけれるんか?」
父ちゃんも仲間に加わった。
「務お前やれ!」
更にじいちゃんもやる気満々である。
「そやけど催眠術なんて、俺素人やしなぁ~」
「そやったらこれ使え!」
そう言ってじいちゃんは自分の飲んでいる熱燗のお猪口を、務のおっちゃんに手渡した。
「あぁ~、なるほど! ちょっと酔わしたらかかり易なるかもなぁ~」
「オイラ小学生やで」
「こんなもんお猪口に一杯ぐらいの酒やったら、正月の御神酒みたいなもんじゃ」
じいちゃんの言葉にお父ちゃんは笑っている。その横では姉ちゃんがやはり面白がって笑っていた。お猪口に注がれた液体は水面を輝かせ、オイラに、
「こっちの水は甘いぞ!」
と訴えかけていた。それがオイラの目の前に突き出された時、
「よっしゃ、やったる!」
とオイラは覚悟を決めた。お猪口を口に近付けた時、初めて体験するアルコールと甘い香りが混ざり合い、なんとも言えない匂いがした。オイラは鼻息を止めて一気にお酒を飲み干した。小学二年生の身体には伝導率よりも早くお酒が回った。ふわふわと心地よい感覚がオイラを支配した後、目の前がぼやけて見え出した。少し酔拳を理解した気になった。
「そろそろやってみるか、武大丈夫か?」
「だいじょうぶぅ~」
「よし、武、1・2・3でゆっくり目を瞑って深い眠りに入れよ。 いくど1・2・3……」
オイラは言われるままゆっくりと目を瞑った。更に酔いが回った。
「ええか、今からお前は過去に遡るぞ……」
言われるまま意識を過去へと自分なりに遡らせた。不思議な事に周りの雑音が消えた。
「何が見える?」
「う~ん……。眩しい光に照らされてる……」
「おぉ~、どうじゃ~、わしの言うた通り酒の効果あったじゃろ!」
薄っすらとじいちゃんの声が聞こえたような気がした。
「お前は何をしている?」
ゆっくりと語り掛けてくる声に、
「台のような物の上に寝かされてる……」
オイラは答えた。
「おぉ~、ええ感じやのぉ~」
またじいちゃんの声が聞こえたように感じた。
「そこには誰か居てるか?」
「うん……。人が二人居てる……」
「顔は解るか?」
「顔は解れへん……」
「お前は何をされてる?」
「口を大きく開けらされてる……」
「おい務、お前才能有るんとちゃうかっ!」
ちょいちょいじいちゃんの声がオイラの意識を削いできた。
「それでその後は何が見える」
「機械のドリルのような物が口に入ってきた……」
「ますますもってええ感じやないかぁ~」
例の人である。
「で、何をされてるんや?」
「あっ、痛い、やめて、やめてぇ~~~っ!」
ここでオイラは目を覚ました。
「で、どうやった武?」
務のおっちゃんの声に、
「うん。これからは虫歯ならんようにちゃんと歯磨きするわ」
オイラは答えた。
日曜日の山本家の茶の間は、相も変わらず笑いに溢れた賑やかな晩餐会だった。
しかしながら皆さまに一言いっておこう。大人になった今でもオイラの左の踝には、細胞を少し抉り取られたような窪んだ瘢痕が残っているのだ……。