第七章『カマキリの集金』
夏休みに入って仕入れに起こされる事はなかったが、朝早くからラジオ体操に起こされるのは納得がいかなかった。ましてやこの日は日曜日なので、オッサン臭い小学二年生のオイラにしてみれば、サラリーマンが日曜日の朝早くから起こされるような行為だった。それでも仕入れの時よりも一時間は長く寝ていられたので、平生よりはまだマシな方だった。
「あんた、早よ行かなラジオ体操始まってまうで」
オイラは子供会が毎朝公園で実施している、朝6時30分からのラジオ体操自体にも納得がいっていなかった。夏休みという一か月にも渡る期間を、最終日に配られるお菓子の為に、毎朝早くから公園に通い詰めては、ラジオ体操をしてスタンプをもらうのだが、学校に登校する時間よりも集合時間が早い上に、最終日に配られるお菓子がポテトチップス一袋だけとは、これを一日に換算すると恐らくポテトチップス一枚程度である。毎日朝から無理やり起こされて、別段やる事はないので毎朝通いはしているものの、どちらかと言えばゆっくり寝ていたかった。それでも公園に行くと同じ町内の子供達が集まっているので、悪い事ばかりでもなかった。
「たけし、朝飯食い終わったらザリガニ釣りに行けへんけ?──」
誘って来たのはマッサンである。
「── 松っつんも来るって言うてるけど」
「いや、日曜日の午前中はおじいちゃんが教えてる書道行かなあかんやし」
姉共々この頃書道を習っていたのである。じいちゃんが教えている書道教室だからお金も掛からないし、時間を持て余して何をしでかすか分からない息子を、祖父の目の届く所に放り込んでおけというものだった。しかしじいちゃんとは仲が良かったので、別段苦ではなかったが、子供から大人まで様々な人がじいちゃんに習いに来ている手前、じいちゃんを「先生」と呼ばなければいけないのは少し照れ臭かった。
ラジオ体操から帰って朝食を食べ終わっても、9時からの書道までまだかなり時間に余裕があった。ベランダから眺める空は涼しそうに青く、その涼しさを打ち消すように聴こえて来る蝉の鳴き声が、この日も蒸し暑くなる事を告げていた。
「姉ちゃん、カマキリ捕りに行こよ?」
不意に言い出したのはオイラである。夏休みの間に大きなカマキリを捕まえ、学校が始まってから友達に自慢するのは、言わば子供の特権である。
「無理っ!」
早押しクイズよりも姉ちゃんの返答は早かった。
「そんなん言わんと行こやぁ~っ!」
「あんた9時から書道あるんやで、もし遅れたらおじいちゃんに怒られるやんかぁ~!」
「まだ9時までだいぶ時間あるやん」
オイラの言葉に姉ちゃんは、二種類の想像の風船を膨らませたのか、少し間を置いた。
「あかんあかん、絶対アカン、無理無理っ!」
一方のカマキリを捕りに行く楽しい想像の風船は破裂し、残ったのはじいちゃんに怒られている風船だったようである。姉ちゃんがこれほどまでにじいちゃんを恐れるのには理由があった。というのもじいちゃんは、明治とか大正生まれの人に有りがちな、「一家に跡取りさえ生まれればあとは女などいらんッ!」という、まさに時代を絵に描いたような人だったのである。しかもじいちゃんの名は喜作と温厚な名をしているが、実は名ばかりで、地元のヤクザも頭を下げて通るほど根性の座った人物だった。やはり戦争を経験し、生死の狭間を生き抜いて来た男というものは、根性の座り方が半端なものではなかった。とはいっても長男のオイラには甘々のじいちゃんなのだが、明らかにオイラはじいちゃんの遺伝子を受け継いでいた。
そんなじいちゃんに、姉ちゃんは幼稚園の頃一度、
「跡取りさえ生まれれば貴様などいらんッ!」
と、まるで世紀末の覇者ラオウが、幼稚園児に言い渡すよう口ぶりをされたみたいで、それからというもの姉ちゃんには風当たりが強く、時折書道の時間にじいちゃんに叱られては、隣の部屋に行って涙を流していたという。なのでこのとき姉ちゃんは、一分一秒でも書道に遅れたら、それこそ北斗百裂拳でこの世から抹殺されるとでも思っていたのだろう。
そんな大層なと読者は思うかも知れないが、実はこんなエピソードもあるのだ。
それは時を遡る事、まだオイラが父親の金玉袋の中ですくすくと泳いでいた頃よりもずっと以前の話し、戦後(第二次大戦後)まもなくして……。舞台はこの岸和田にて一人の兵士が愛する妻の許へ帰った。そして妻は無事戦地から帰還した事を心から喜び、兵士もまた愛する妻の許へ帰って来た事を喜ぶはずでした。ですが兵士には一つ腑に落ちない事がありました。それは愛する妻に子供が生まれていたからです。
妻は兵士に言いました。
「あなたが戦地に発つ時には、すでに私のお腹にはあなたの赤ちゃんが芽生えていたんよ……」
ところが人一倍やきもち焼きの兵士は、妻のいう言葉を信じられませんでした。そんな兵士は、それはそれは酷い仕打ちで、我が子をまるで丁稚奉公のようにこき使い育てました。例えるなら『おしん』や『マッチ売りの少女』のように……。
そして兵士はその子が大学を卒業する頃まで、鬼のようにその子を働かせて我が子としては扱いませんでした。そんな頃、大きくなった息子はDNA鑑定をし、その結果を父に見せ、初めて兵士はそのとき我が子と認めたらしいのです。
その時の心境を、後に息子は熱くこう語っています。
「DNA鑑定をしなければ、自分の子として信じてもらえないというのは本当に情けなかった。実の子でありながら、大学を卒業してDNA鑑定をするまでは、他人の子でもあそこまでこき使わんやろぉ~ッ! というくらい小さい頃から本当によく働きました。中学生の時には学校から家が近いので、昼の休み時間も家に帰り働いていました。その頃は店屋物もしていたので、事情を知らない中学校の先生は、良かれと思い私に注文をしてくれるのですが、私は同級生達が楽しく昼食を摂る中、同級生の視線を浴びながら職員室に出前をするのが非常に辛かったです。弟を大学までやったのも私が働き学費を稼ぎ進学させました。そんな酷い仕打ちをする父ですが、DNA鑑定後、私がスーパーをしたいと言い出した時、親父はポーンと当時のお金で100万円という大金を出してくれたのを今でも覚えています。本当に自分の子だと認めてくれたというのがこの時ほど痛感した事はありません」
主演
妻………………ばあちゃん
兵士……………鬼の喜作
男版おしん……オイラの父ちゃん
とまあ、自分の息子に対してでも、認めない限り鬼と化すじいちゃんだったのだ。そんな訳で、姉ちゃんがカマキリ捕りに行くのを拒んだ理由は、なんとなく解って頂けたかと思う。
「なあ、姉ちゃん行こよ! 絶対書道始まる前に帰るから、お願いっ、頼むわぁ~、この通り!」
オイラは姉ちゃんに向けて手を合わせた。
「あんた、田飲んだら百姓困るで!」
姉ちゃんの笑いのレベルは、布団が吹っ飛んだ並みのレベルの低いものだった。しかし姉ちゃんのこのしょうもないギャグが飛び出したら、もう一押しなのである。
「何、今の? もしかして頼むと田飲むを掛けたん? うそっ、マジで! 自分(じぶぅ~ん)、天才やなぁ~! めちゃめちゃそれおもしろいやんかぁ~。まるでやすきよの漫才聞いてるみたいやったわぁ~。吉本入れるんとちゃうかぁ~?」
ここで一旦持ち上げて置く。すると閉じていた姉ちゃんの口が緩み、白い歯が見え出すと後はこっちのもんである。
「そんな今のおもしろかった?」
「今のをおもしろないと言う奴がおったら、そいつはきっと笑いのセンスない奴やわぁ~。オイラはそう思うね」
「そういうもんかなぁ~」
姉ちゃんのこの一言で、オイラは姉ちゃんが堕ちたと確信した。
「まあ、そんなんどうでもええから、早よ網と虫カゴ持ってカマキリ捕まえに行こや」
「でもあんた、書道が始まる30分前には絶対に帰るからな、あんたもやで!」
「わかってる、わかってる」
オイラは軽い返事をした後、カマキリ捕りに付き合ってくれる姉ちゃんに対し、お礼の意味も込めて、
「おぉ~、愛する美しきお姉さま、あなたは本当に西半球一イケてるお姉さまだぁ~!」
と『おぉ~ジュリエットよ!』風にお世辞を言っておいた。
「何を調子ええこと言うてんのよ。どうせあんた今だけやろ、そんな調子のええこと言うてんのも」
「そんな事あれへんよ。もしオイラがまた姉ちゃんに酷いこと言うたら──」
オイラが言い終わらない内に、
「その時はあんたが正常になったと思とくわ」
姉ちゃんがもっともらしい意見をさらっと言った。
カマキリがよく捕れる雑草や葦が生い茂る荒地と化した空き地は、オイラの家から50メーターほど行った隣の町との境目にあった。畑に入るとオイラと姉ちゃんは、早速二手に別れてカマキリを探し始めた。しかし普段何気なく虫取りに来た時には簡単にカマキリを見付けられるのに、いざカマキリだけを探そうとするとなかなか見付けられなかった。一時間が経とうとする頃、姉ちゃんと合流すると、
「あんたの方カマキリ居った?」
「いや、一匹も……。姉ちゃんの方は?」
姉ちゃんは自分の虫カゴをオイラに見せてくれた。中には何も入っていなかった。
「あんた、早いこと探さんと、あと30分もしたら帰らなあかんで」
「わかってる。オイラもうちょっと奥の方探して来るわ」
オイラは自分の背丈よにも高い葦を掻き分けて、奥へ奥へと足を踏み入れた。
「あんまり遠くまで行ったらアカンで!」
背後の葦の向こうから姉ちゃんの声が追い掛けてきた。
「わかってる。姉ちゃん時間になったら呼びに来てな、頼むわ!」
前に進みながら後方に向けて叫ぶと、
「だから、田飲んだら百姓困るって!」
またつまらないダジャレが葦の向こうから聞こえた。
「もうええって」オイラは一人呟いた。
空き地の奥は、子供のオイラからすれば、前人未到のジャングルに近かった。人の手が入っていない荒地は足元が悪く、背の高い葦が邪魔をして簡単には前に進めなかった。それでも葦を踏みつけながら少しずつ前に進んだ。これだけ見事な手付かずの荒地なら、きっとカマキリが見付かるはずだと、オイラは目を凝らして辺りを隈なく探した。そのとき突然正面の葦がガサガサと揺れた。街中の荒地なのでクマでない事はわかっていても、この頃野良犬がよくいたので少し身構えた。だが葦を掻き分け現れたのは、虫カゴを首からぶら下げ、右手には虫取り網を持った、黒縁眼鏡を掛けた見た事もない男の子だった。
「わぁ~、ビックリしたよぉ~っ!」思わず声が出た。
「やあ、君も虫取りかい?」
岸和田に住む少年にしては、泉州弁をまったく話さない、どちらかというと標準語に近い話し方をする男の子だった。身なりもきちんとしていて、その上賢そうな眼鏡まで掛けている。見るからにええしの子といった感じの男の子だった。
「うん。カマキリ捕りに来たんやけど、全然あかんわぁ~。自分はなんか捕れたんけ?」
オイラが尋ねると、
「まだ一匹だけどね」
と、その男の子は虫カゴを見せてくれた。
「うわぁ~、ごっついデカいカマキリやぁ~ん、しかも茶色の奴やぁ~ん!」
見せてくれたのは、枯れ葉色したオオカマキリの褐色個体だった。一般的に緑色のカマキリはよく知られているが、この枯れ葉色のカマキリはかなり稀な代物だった。
「うわぁ~、めっちゃええなぁ~。オイラもそんなん欲しいわぁ~」
何気なく言ったつもりだったが、
「後であげるよ!」
と、その男の子は親切に言ってくれた。
(後でこのカマキリもらえるんやぁ~。初めて会うのにこの子ええこやなぁ~)
オイラは期待に胸が膨らみ、様々な想像がオイラの頭の中を駆け巡った。夏休みが終わってから学校にカマキリを持って行き、みんなに見せびらかした時の事や、家に持ち帰り部屋で離してカマキリと遊ぶ事だとか、カマキリにどんな餌を与えればいいのかだとか、考えれば考えるほど嬉しくて仕方なかった。今日はカマキリ捕りに来て良かったと心からそう思った。
それからオイラはその子と一緒にカマキリを探し始めた。しかしオイラもその子も一生懸命カマキリを探したが、なかなかカマキリは見付けられなかった。そうして数十分が過ぎた頃、
「あんたそろそろ帰るで」
と姉ちゃんが呼びに来た。
書道の時間が迫っているのは分かっていても、先程、『後であげるよ』と言われていたので、まだ帰る気にはなれなかった。
「姉ちゃん先に帰っとって」
オイラはそう言ったが、はいそうですかとオイラを残して帰る姉ではなかった。
「あんたなに血迷ったこと言うてんの、早よ帰るでッ!」
当然姉はこう言ってくる訳で、
「姉ちゃんホンマに先帰っとって、もうちょっとだけここに居るわ」
あげると言われた物をみすみす見逃す手はなかった。この時その子に「ほなそろそろカマキリちょうだい」と言えばよかったのかも知れないが、初めて会う子にそう言うのもちょっと厚かましかなと思い、オイラなりに控えめに、その子が切り出して来るのを待っていたのだ。
「あんたホンマええ加減にしときやぁ~ッ」
姉ちゃんは少しキレ始めていた。
「もうすぐ書道の時間なんあんた解ってんの?」
声も次第に裏返ってきていた。
誘っておいて先に帰すのは悪いと思ったが、やはり天秤にかけると枯れ葉色のカマキリの方が重かった。姉ちゃんと言い争っている間に、名前も聞いていない男の子は、葦を掻き分けどんどん奥へと進んで行った。その子を見失ってはカマキリが貰えないと、オイラは慌てて姉ちゃんにこう言った。
「姉ちゃん、今は帰られへん理由説明してる暇あれへんけど、用事終わったらすぐに書道行くから、とりあえずこの網だけ持って帰っとって」
「網持って帰るくらいかめへんけど、あんた書道に遅れたらおじいちゃんに怒られるやんか!」
いつも姉ちゃんとはケンカばかりしているが、オイラの事を心配してくれている姉ちゃんに、
(こいつええやっちゃなぁ~)
と思わずにはいられなかった。
「オイラの事やったら大丈夫、怒られへんって」
男の子の事が気になりながらも、姉ちゃんに心配をかけまいと、オイラはにっこりと微笑んでそう言った。すると姉ちゃんは怪訝そうな表情を見せた。
「なに言うてんのあんた、私が怒られるやないのッ!」
「自分の心配かぁ~~いッ!」
一応ツッコんでおいた。
「とにかく用事終わったらすぐ帰るから、じいちゃんにもそう言うとって」
それだけ言うとオイラは、納得のいってない姉ちゃんを追い返し、男の子の後を追い掛けた。
「絶対、私が怒られる気がするわぁ~……」
後方からブツブツとそんな声が聞こえた。
男の子の所まで着くと、別段オイラはカマキリを探す訳でもなく、首から虫カゴをぶら下げたまま、ひたすらその子の後に続いた。俗にいう付け馬状態である。
(早くカマキリくれへんかなぁ~?)
オイラはじれったくなり、
「まだカマキリ探すの?」
と、辺りに目を配る男の子の背中に尋ねた。
「うん。もうちょっとね」
男の子は背中を向けたまま答えた。
「あ、そう」
鼻クソを指で飛ばしながら、オイラはつまらなそうに返事した。
それから数時間が過ぎた頃、太陽は高く上って日差しは次第にきつくなり、間違いなく書道が終わろうとしている時間にまでなっていた。そこで男の子はようやくカマキリを探すのを止めたのである。
「今日はもう見付からないや、そろそろ帰ろっと。あれ、君まだ居たの?」
「うん。待ってたんやん」
「えっ、何で?」
「何でやあれへんやん。そのカマキリくれるのん待ってたんやん」
「えっ」
と男の子は、思いもよらなかったというような表情を見せた。
「後であげるよって言うたから待ってたんやんか」
オイラがそう言うと、男の子は言った事を忘れていたのか、(ゲッ)といった困った顔付になった。
「言ったのは……、言ったけど……」
その男の子の仕草を見る限り、明らかにカマキリを渡すのを嫌がっていたが、そんな事はオイラには関係なかった。オイラは後であげると言ってくれたから待っていた訳で、言っていなければ当然待っている事はなかったのだから……。
「一匹だけしか捕まえていないし……。あげたくないなぁ~」
男の子は元気なく尻すぼみに言ってきたが、
「あっかぁ~んよ!」
と、オイラは抑揚を付けて言ってやった。
「なんの為に今まで待ってたと思てんよ。わざわざ書道の教室まで休んで待ってたのにぃ! なんやったら自分がうちの家着てじいちゃんに休んだ理由説明してくれるか!」
オイラは約束を守らない男の子に少し腹が立ち、興奮しながら男の子に詰め寄った。男の子は言葉に詰まり、助けを求めるように、
「お母さ~~ん!」
と言って葦の中を駆けて行った。オイラはその後を追い掛けた。葦から抜けると男の子は家の中へと入って行った。オイラはそれを見て、しめしめ、これは思ったより話が早く着きそうだと頭の中で思った。
オイラはその家の玄関前に着くと、これでもかァ~ッ! というほどインターホンを連打した。家の外からでもインターホンの音は忙しなく聞こえていた。
「はーい!」
玄関扉の向こうから母親らしき声が聞こえた。少しして扉が開いた。出て来た人は一目見て母親だと解った。男の子によく似た容姿に加え、母親も黒縁眼鏡を掛けていたからだ。
「あの~、どちらさん?」
「あっ、山本ですけど実は……」
と先程までの経緯を、順を追って母親に話すと、
「ちょっと待って下さいね。今すぐ俊ちゃん呼んで来ますんで……」
と言って、母親はオイラを玄関の中に入れてくれ、そのあと玄関から見えている階段を上って行った。オイラはとりあえず玄関の上がり框に腰を落とし、そこで待たせてもらう事にした。
「俊ちゃんちょっとこっち来なさい!」
母親に手を引かれて俊ちゃんという子が降りてきた。
「あなた山本君にカマキリあげるって言ったのでしょ。だったら早くあげなさい!」
やはり大人は話が早いとオイラは思ったが、
「いややッ!」
とその息子は諦めが悪かった。
「今まで待たせておいて山本君が可哀そうじゃない。さあ俊ちゃん早くあげなさい!」
どちらが本当は可哀そうなのかなと思いもしたが、約束は約束である。母親のこの一言でオイラは見事、枯草色のオオカマキリをゲットしたのである。
玄関から出ると太陽はもう真上まで上っていた。本当なら急いで書道に向かわなければいけない時間だったが、カマキリを手に入れた嬉しさもあり、それに今さら走って帰ったところで、時刻は正午になろうとしていたので、どうせ書道に行っても時間がないと開き直っていた自分がいた。自分で言うのもなんだが、オイラはかなりの大物である。(笑)
一方、姉ちゃんはあれからどうなったかというと、弟を残して帰って来たという事で、ラオウと化したじいちゃんからこっぴどく叱られ、ベソをかきながら書道をしたとか……。
スーパーの裏の階段を上り、書道の部屋の扉を勢いよく開けると、壁に掛けられた時計の針は十一時五十分を指していた。
「今帰ったでじいちゃん」
虫カゴを首からぶら下げ元気よく言った。
「アホっ、ここでは先生じゃろが!」
笑いもって注意して来るじいちゃんを見る限り、怒っている様子は見受けられなかった。いや、仮に怒っていたとしても、オイラはじいちゃんを納得させる自信があった。
「あっ、そうか、先生遅くなってごめんなさい!」
じいちゃんの性格を知りつくしているオイラは、先に素直に大きな声で謝り、
「空き地で知り合った子が約束守れへんから、家行ってそこのおばちゃんと話しつけて来たねん。それで遅なった」
次に遅くなった理由を説明した。オイラが一から十まで言わなくても、じいちゃんはこの説明で、全て理解してくれるというオイラには確信があった。
「それで結果はどうやったんじゃ?」
じいちゃんの表情が一瞬厳しくなった。オイラは虫カゴを高く掲げ、
「ほら、この通り!」
と、得意げな顔でじいちゃんに答えた。
するとじいちゃんは満足げな笑みを浮かべながらオイラに近付くと、、喜ばしそうにオイラの頭を撫ぜながら、
「そうかそうか、もう十二時なるから隣の部屋で『あっちこっち丁稚』観ながら飯にしよかっ!」
と、えらくご機嫌になった。
その光景を一部始終見ていた姉ちゃんは、右手に持つ筆を微妙に震わせながら、
(やっぱり私の時とは何かが違う……)
と、動揺を顔に露わにして、ひらかた大菊人形のように凝り固まっていた。