第六章 『世にも不思議な浮き袋』 其の一 世にも不思議な浮き袋
いつもと違い爽快に目が覚めた。その理由は、夏休みに入るので市場の仕入れを手伝わなくてもよく、今日は学校で授業も一切なく、一学期最後の終業式の日だからだ。学校に行って朝礼で校長先生の長ったらしい退屈な話を聞き、そのあと親に見せるのが億劫な通知簿をもらう。とそこからはいよいよ待ちに待った夏休みの始まりなのだ。布団に入ったまま天井を見つめ、学校から帰って何をして遊ぼうかと、目が覚めて早々にそんな事を考えては一人ニヤついていた。
「なんやあんた、ばあちゃんが起こしに来る前から起きてるやなんて、珍しい事もあるもんやなぁ、天気予報は晴れや言うてたけど雨でも降るんとちゃうか」
いつもと同じ時間に起こしに来たフミのばあちゃんが言った。
「雨やったら困るわぁ~」
オイラは二ヤけ面で、枕元に腰を下ろしたフミのばあちゃんのほっぺを摘まんだ。
「なんでや?」
オイラにほっぺを摘ままれているのを気にも留めず、素知らぬ顔でフミのばあちゃんが聞き返した。
「雨やったら布団干されへんやろ……」
実はニヤけていた理由には、夏休みの他にもう一つあった。それは寝小便をちびっていたからだ。
「あんたまたやったんかいなぁ~」
フミのばあちゃんは溜息を吐くと、
「ほんでさっきからニタニタしとったんやな」
と、頬を摘ままれているオイラの右手を平然と払い除け、
「布団干すから早よそこ退き」
と早々に布団を捲ると、ベランダの物干し竿のど真ん中に、国旗を掲揚するように寝小便布団を掲げ干した。南極大陸のような染みが布団の大半を占めていた。
顔を洗い終わると、一日の始まりは、姉ちゃんと一緒に朝食を摂りながらの『ピンポンパン』の観賞である。
「フミのばあちゃん玉子ちょうだい。あ、姉ちゃん、そこの醤油取って」
「もぉ~う、自分で取りよぉ~」
姉ちゃんは、ブツブツ言いながらも醤油を手渡してくれる。朝はいつもこんな感じだ。
朝食を食べ終わると『ひらけ! ポンキッキ』が始まる8時までに制服に着替え、ポンキッキが始まる頃には家を後にする。
学校へはいつも近所の子達と登校していた。同じ町内に住む同級生の二人、裕ちゃんとやすゆきだ。学校に着くとクラスも違っていた事もあって、別段学校で一緒に遊ぶといった事はなかったが、登校と下校はこの時分一緒にしていた。この日も三人で仲良く学校に向かいながら、夏休みに入ったら何をして遊ぶ? とかそんな事を言い合っては、いつも決まって八幡公園の前を通り、いつもと変わらない風景の中を、いつもと変わらない速度で歩いた。
公園を越え、その公園の横の道を横断すると、幅一メートル程のドブ川に差し掛かった。いつもそのドブ川には様々な物が捨てられてあった。乗り捨てられた自転車だとか、パンを焼くトースターだとか、中にはエッチな雑誌まであった。そんな様々なゴミがドブ川と同化して、灰色一色に見えて来るのだが、この日灰色の中にカラフルな物がチラッと目に映った。学校に遅れてはいけないので、この時はそのカラフルな物を気にも留めなかった。
学校に着きチャイムが鳴ると、校庭に全校生徒が集まった。校長先生の長ったるい話が始まると、身長順に並ばされたオイラよりも少し背の低いクラスメートと、退屈しのぎに小声で、
「今日もオッサン話し長いのぉ~」
などと言い合っては暇をつぶした。この日校長先生の話は予想を遥かに上回る長丁場となり、隣のクラスの女の子が貧血で運ばれるという事態が起こり、ようやく校長先生の話が終わった。その後教室で先生から一人一人名前を呼ばれて通知簿が手渡された。みんな先生から通知簿を受け取ると、そぉ~と通知簿を開き、予想以上に『たいへんよくできました』に〇が付いてあると、
「よっしやぁ~!」とか「やったぁ~!」
と言って喜び、逆に予想を下回る結果だと何も言わないのである。しかし例外も居た。頭の良い子はどのランクに〇が付いているかを当然のように解っているのか、通知簿を開いて確認しても、冷静な態度で澄ましたように姿勢までしゃんとしていた。オイラに言わせればこういった類の生徒は、火星からやって来た宇宙人に思えた。オイラなどいちいち通知簿を見なくても、毎回予想的中率は120パーセントだった。体育・図工・音楽のこの三つはまず間違いなく『たいへんよくできました』である。後の教科はハッキリ言ってアウトオブ眼中、つまり論外である。国語・算数・理科・社会など相手にするだけ無駄な話しだったのだ。しかしオイラが相手にしないだけでは済まなかった。オイラの考えとは裏腹に、親という生き物は非常に通知簿を重要視するのである。しかもオイラの高成績だった体育・図工・音楽といった三教科よりも、むしろ国語・算数・理科・社会の方が気になるらしく、もし体育・図工・音楽の成績が下がったとしても余り怒る事はなく、国語・算数・理科・社会の四教科が悪いととにかく口うるさいのだ。聞くところによると、この四教科の成績が上がればお小遣いをアップしてくれる親もいるというのだから驚きだ。もしもオイラがそんな家の子に生まれていたら、一生お小遣いが上がらないどころか、通知簿を貰う度、お小遣いを減らされていたに違いない。考えただけでも胃酸が溢れ出す。うちの親はお小遣いまで徹底していなかったが、とにかく四教科に関しては毎回口うるさく言ってきた。一年生の時分に通知簿を見せた時など、
「あんた、ホンマに誰に似たんやろなぁ~? お父ちゃんもお母ちゃんもそこそこ頭良かったのに……」
と言われ、オイラも負けじと、
「あれちゃう、生まれて保育器に入ってる隣の子と、間違えて家に連れて帰って来たんとちゃう?」
すると横で聞いていた姉ちゃんが、
「ちゃうちゃう、武あんた知らんの? あんた小さいとき大津川の橋の下で捨てられてるのん見付けて拾われて来たんやで!」
と話に割り込んで来るのである。更にオイラが、
「なぁ~んや、そうやったんかぁ~。どうりでオイラだけ男前に生まれて来た訳やぁ~」
と笑いもってこう言うのである。
「あんたそれどういう意味やの?」
姉ちゃんの顔から笑みが消え、
「お母ちゃんとお父ちゃんがブサイクや言いたいんか?」
と、お母ちゃんからはこう言われるのである。
だがオイラの体内に存在するDNAは、確かに頭が賢くなる遺伝子を持っていてもおかしくなかった。それはお母ちゃんの言う通り、お母ちゃんも幼い頃からそこそこ勉強が出来たらしく、通っていた高校も9学区では二番目に偏差値の高い学校を卒業していた。そして何より驚きなのは父ちゃんの方だった。男版『おしん』のような、苦労ある人生を歩んで来た人だと言っても過言ではなかった。そんな父ちゃんは苦労をものともせず、二宮金次郎のような一面も持っていた。父ちゃんは幼少の頃からよく働かされ、中学校時分も昼の休憩まで出前をしたりしてはよく働き、学業は怠らず働きながら高校へと進学し、更には関西学院大学にまで入り、年の離れた弟の学費も面倒を見ていたという。そして驚くべきは大学時分に行われた全国統一テストの結果である。なんと全国で数学が8位になった程の頭脳の持ち主だった。8位といっても町内会の8位といは訳が違う。日本中で8位なのだからぶったまげたものである。オイラなど十回生まれ変わってもまず無理である。仮に全国統一色事選手権なるものが開催されれば、間違いなく上位にランクインされていたに違いない。
更に父ちゃんは英語と数学の教員の資格も取得しており、後にオイラの母校になる、岸和田市春木中学校で英語を教えていた時期もあり、この頃はスーパーの経営の傍ら、夜はスーパーの二階で、英語と数学の塾をして中学生に教えていたほどだ。話が横道に逸れてしまったが、まあそんな訳で、父ちゃんとお母ちゃんの間に生まれた、オイラの細胞に組み込まれた遺伝子には、国語・算数・理科・社会で『たいへんよくできました』に、たくさん〇が付けられていてもおかしくなかったという訳なのだ。
通知簿の後は、家に持ち帰りたくないアイテム、ベスト2の夏休みの宿題を、先生が前列の席の子に枚数を数えて渡していくと、一部を取ってから、後列へとリレー方式で最後尾の席まで配られた。これを繰り返す事『一日に売れる王将の餃子』の如し、気が付けばオイラの机の上には宿題の山が出来ていた。
そして最後は担任の締めの言葉である。
「みなさん、夏休みに冷たい物を食べ過ぎてお腹を壊さないように、体調管理はしっかりしておきましょう。あと宿題は忘れずにして来るように。わかりましたね!」
やはりお決まりの文句だった。先生の締めの言葉が終わると、さあいよいよ待ちに待った夏休みだ! 教室は一斉に騒然となった。
「おい、お前ら夏休み何して遊ぶねん?」
「ボクん家、家族で白浜に泊まりで海水浴に行くねん!」
「うそやっ、めっちゃええやんけ!」
「ぼくのとこはおばあちゃんの田舎に帰るねん!」
「ホンマけ、田舎ってどこよ?」
「奈良の吉野やから、カブトムシとかクワガタいっぱい捕れるんやでぇ!」
「バリええやんけぇ~っ!」
みんなそれぞれ夏休みは計画があるようだった。うちの家は共働きなので、ましてや稼業がスーパーなものだから、家族水入らずで旅行になど行った事はなく、従業員達と一緒に行く社員旅行で、温泉に行った事が一、二度あったくらいだ。なので今年の夏は、旅行だとか海水浴といったものは端から期待していなかった。だが幸いな事に海水浴とまではいかないが、うちの家のすぐ近くには、八幡プールというごく普通の大人用のプールと、幼児用プールが設けられた市営プールがあった。
この日も学校が終わってから、リュウちゃんとサトシを誘ってプールに行こうと思っていたのだ。
「そやけどお前ら、旅行行くいうても今日からちゃうんやろ?」
二人は頷いた。
「どやっ、このあと家に帰って昼飯食うたら、三人で八幡プール行けへんか?」
「うん。ええなぁ~、行くわぼく」
「ボクも行くわ」
「よしっ、決まりや! ほなら昼飯食った後で、一時にオイラん家集合って事でええけ?」
「了解しましたぁ~っ!」と元気よくサトシ。
「了解島倉千代子!」と、ベタなダジャレを織り交ぜて来るリュウちゃん。
「了解四万十川もあるでぇ~っ!」嬉しそうな笑顔で更に付け加えて来るが、
「リュウちゃん。おもんない」
冷静にツッコんでおいた。
「たけし君帰ろや」
そのとき廊下から声がした。声のする方に目をやると、裕ちゃんとやすゆきだった。クラスが別だったので、下校する際に誘いに来てくれたのだ。この頃オイラは一部の同級生を除いて、九割方の同級生からたけし君と呼ばれていた。別段強制的にそう呼ばせていた訳ではない。自然とみんながそう呼んでくれていたのだ。ちなみに後の一割には苗字で呼ばれていた。
正門を出るとき裕ちゃんとやすゆきにもプールを誘ったが、二人はさっそく宿題に取り掛かるとの事だった。宿題なんか夏休みの終わりに纏めてやればいいのではないのかと言ったが、先に済ませておかなければ母親がうるさいとの事だった。
帰り道は朝登校してきた時より日がだいぶ高くまで昇り、樹々に止まるアブラゼミやツクツクボウシの盛んな鳴き声は、夏の暑さをより一層暑くさせ、夏休みに入った事を実感させてくれた。天の川に差し掛かったとき八幡公園が見えた。帰り道は鏡に映したように朝と変わらない風景が逆に映って見えた。その時ふとドブ川を思い出した。同時にカラフルな物を思い出し、あれはいったい何だったのか想像を巡らせた。ドブ川に近付くに連れ、それを確認しようと目を凝らした。次第に色と形がハッキリしてきた。そしてドブ川まで来た時、そのカラフルな物との距離は二〇メートル程だったので、それが人の形をしているのが解った。
「ちょうアレ見て!」慌てて二人に言った。
「うわっ、あれ人やんかぁ~」
「うわっ、ホンマや!」
二人も慌てふためいた。
「ちょっと見に行こうぜ!」
怖いもの見たさに近付いて行こうと二人に促すと、二人とも怖いながらにオイラの後に続いた。その物体に近付くに連れ、裸で髪は金髪だという事が解った。更に近付くと、それは女性だと解った。オッパイが付いていたからだ。ブラジャーもパンティーも着けず全身全裸である。これは事件だとオイラは確信した。しかし間近まで近づいた時、オイラ達は声を出して笑い合った。
「なんやビックリしたよぉ~、浮き袋やんけぇ~! 遠くから見たら本物の人やと思てしもたわ。しかしけったいな浮き袋もあるもんやなぁ~?」
幼き日のオイラには、これが南極二号という名のダッチワイフだという事など知る由もなかった。
「ホンマやなぁ~」
「そやけど誰がこんな所に捨てたんやろな」
そう言いながらオイラは、片足がドブに浸かっている人型浮き袋をドブから引っ張り上げると、右手でギュッと握って空気が抜けていないか確かめた。するとごく僅かだがプシューっと空気が抜ける音がした。三人して耳をそばだてて空気の漏れる箇所を探した。
「あっ、ここやっ!」
裕ちゃんがその箇所を見付けた。なんと空気の漏れている箇所は乳首だった。
「誰か噛んだんとちゃうか」
オイラが笑いもって言うと、二人は「まさかぁ~」と言うようなニタついた表情を見せた。オイラは冗談で言ったつもりだったが、それがおそらく当たっていた事は大人になって気付く事となる。
「この穴空いてるところ、修理して直れへんかなぁ~?」
二人に聞くと、
「自転車のパンク修理のやつで直るんとちゃう」
とやすゆきが言った。
その人型浮き袋がダッチワイフだとも知らずに、オイラは修理して昼からのプールに持って行こうと、持ち帰る事にしたのである。