第四章 『手洗い場の決闘!』
小学校に上がり二回目の桜が咲く頃、一学年下には後輩とも呼べるべき一年生が入学していた。えっちゃんやそろばん、そして修ちゃんとは別のクラスになったが、幸いな事にリュウちゃんとはまた同じクラスになっていた。
「たけし君、タッケン隣の二組になったみたいやで」
一時間目の授業が終わった時、リュウちゃんが傍に来て言った。
幼稚園から始まったタッケンとの闘いは、うめ組対ゆり組との数多くの争いの中で、タッケンとの一対一のケンカは、あのジャングルジムの戦いで引き分けた一度切りだった。一年生に上がるとクラスも端から端と離れていた事もあり、廊下ですれ違う事もなかったので、一年間で一度も殴り合いのケンカは無かったが、二年生に上がり隣のクラスとなると話は別だった。廊下ですれ違う事も頻繁に起こるし、便所で出くわす事もある。気を抜いてはいられなかった。
どうして奴と戦うのかと問われれば、それは互いが意識し合い負けるのが嫌だったからだと思う。それがいつしか顔を見合わせるだけで憎い相手に変わっていったのだろう。とにかく反りが合わなかったのである。
「二組になろうが三組になろうがアイツにだけは負けへん!」
「おぉ~、たけし君気合入ってるなぁ~っ!」
「気合? リュウちゃ~ん。アイツに気合なんか入れんでも余裕のよっちゃんイカやぁ~」
「そやけどどっちが学年で一番ケンカ強いんかな?」
「学年で一番とか興味ないけど、アイツにだけは負けへんよ!」
実際のところ本当にケンカとか番長だとか、そういった類のものには興味が無かった。どちらかと言えば、いや、言わなくても興味があったのは、愛しのカワイ子ちゃんただ一人だけだった。しかしケンカに興味は無いと言っても、売られたケンカは買うが、自分からケンカを売る事はまず無かった。例外を除いては……。
例外とは年上である。後にも先にも自分からケンカを仕掛けたのは二度あった。一度目は幼稚園の時である。ある時小学校に上がった姉が、小学校で出来た友達を連れて近所のガレージで遊んでいた。その中に一人男の子が混ざっていたのを見付けたオイラは、五十メーター程離れた所から猛ダッシュで駆け寄り、その男の子をシバキまわした。言っておくがオイラは別にシスコンではない。幼稚園ながらに姉に悪い虫が付いてはいけないと、一種の親心である。おそらくこの時、その光景を見付けたオイラに、うちの父親の生霊がとり憑いたか、もしくは山本家のご先祖さんが憑依したのだろう。だがシバかれた本人はえらい迷惑な話である。その本人こと松っつんは、大人になった今でも仲が良いが、酔っぱらい出すと笑い話で皆にこう言うのである。
「俺小学校一年の時にこいつの姉ちゃんと手ぇ~も握ってないのに、遊んだだけでシバかれたんやしぃ~。こいつめちゃめちゃケンカ強かったんや! まあ今はもう俺の方が強いと思うけどな」
と自慢げにそう言ってくる彼は懲りもせず、毎回、腕相撲を臨んで来るのである。彼の太くなった腕は小学校一年の頃とは別物で、仕事で鍛えられた二の腕は、『オーバー・ザ・トップ(シルヴェスター・スタローン主演のアームレスリングの映画)』に登場するトレーラーの運ちゃん並みに太くなっていたが、毎回オイラに秒速で負けるのである。
「ちょお、今のなし! 今のん俺力入れてなかったてん。ちょお、もっかいやろやぁ~」
しかし何度やっても結果は秒速に終わるのである。最終的に松っつんは、
「今日のところはこの辺で勘弁しといたるわぁ~」
と、吉本新喜劇のようなベタな言い草で周りから笑いを取るのである。
二度目はオイラが二年生に上がる始業式の前日の事だ。その日オイラは近所の女の子たちに囲まれ、家の裏にある神社で一段ゴムや中当て、それにエックスなど当時の懐かしい遊びで仲良く女の子達と遊んでいた。オイラにとっては『ハーレムの園』である。そんな所へ見た事もない姉弟が現れた。姉の方はオイラより学年が三つ上で、弟の方はオイラより学年が一つ上だった。姉の話によると、近所に越して来たばかりでまだ友達も居ないので、仲間に入れてもらい一緒に遊んで欲しいとの事だった。しかしオイラにとっては『ハーレムの園』である。縄張りに入って来た雄ライオンには噛み付くのは当然の事である。
「姉ちゃんの方はええけど、弟の方はアカン! 君は家に帰って怪獣の消しゴムとでも遊んでおきたまえ」
とこう言ってやったのである。
しかしその場に居たうちの姉が、
「武、そんなん言わんと仲間入れたりや!」
と言って来たが、
「アカンもんはあかん!」
とオイラは突っ返したのである。
当然それを聞いた弟くんは、
「なんでオレだけアカンねんッ!」
と声を大にして口論して来たが、
「君にはまだ神社デビューは早過ぎるという事だよ。わかったかね弟くん!」
と、オイラは小バカにするような事を言ってやったのである。
「お前ぇ~、おちょくっとんのかァ~ッ!」
怒るのは当然の事である。おちょくっているのだから……。
「好弘やめときなさい!」
姉は止めるが弟くんは拳を握り向かって来た。姉にやめれと言われてやめるような弟くんことマッサンではなかった。転校してくるまでの小学校では、学年で一番強い男だったのだから……。
この頃のオイラの座右の銘は、『向かって来る者拒まず!』である。マッサンが拳を繰り出して来たが、牛若丸の異名を持つオイラにとって、その拳を躱す事は容易い事だった。これは後に大人になって解った事だが、オイラは四十歳を回ってから免取りになり、もう一度教習所に通い始め、いざ光明池運転免許試験場にテストを受けに行く段階で、免許を取り消しになった者は、運転免許取消処分者講習を受けらなければ免許を交付してもらえないと知り、高いお金を出してその講習に臨んだ際、そこで生まれて初めて動体視力の検査を受けた。なんとオイラは九段階ある内の、最高レベルの9だったのである。教官いわく、成人した大人で平均5か6らしいのだが、その教官も長年この動体視力の検査をやって来たが、9は初めて見たと言い。プロボクサーでも9は滅多といないとの事だった。
話を戻そう。彼マッサンの拳を躱したオイラは、足を掛け相手をこかし、透かさず倒れ込んだマッサンに伸し掛かり、前々からやってみたかったタイガーマスクのヘッドロックを仕掛けた。ガッチリと決まったヘッドロックは相手がもがけばもがく程こめかみを締め上げた。
年上とケンカするのはこれが二度目ではなかった。一年生の頃、一学年上の二年生二人に呼び出され、
「生意気なんじゃ~ッ!」
とケンカを売られる事があった。しかしその頃から『がんばれ元気』や『あしたのジョー』を見ていたオイラは、小学一年生ながらにジャブというものを理解していた。「生意気なんじゃ~ッ!」と吠えながら繰り出して来る相手のパンチは子供ながらの大振りで、蜂のように刺すオイラのジャブは嘘のようによく決まった。オイラは一発も入れられる事なくその二人を倒してしまったのだ。
またまた話を戻そう。ヘッドロックを掛けたままの状態で相手が降参するのを待っていたが、互いの姉達の仲裁が入り、この時は、ほぼオイラが優勢のまま勝負は終わった。それ以後このケンカを機にマッサンとは仲良くなったが、大人になってからマッサンがオイラに言った事がある。
「引っ越して来て一発目のケンカが武とのケンカで、ましてやお前は一っこ下やし、この越して来た大芝小学校って、どれだけ強いヤツ居るねんってあのとき思たわ」
更に話を戻そう。リュウちゃんが喋り掛けて来たその日の給食前に事は起こった。
昼の給食前は、トイレの手洗いも、中庭の手洗いも児童が手を洗うため混雑していた。並ぶのが嫌なオイラは、いつも人の混雑を避けて、給食ギリギリの時間を狙って手を洗いに行っていた。この日はトイレではなく中庭に手を洗いに行った。ガランと空いた中庭の手洗いは蛇口が横に幾つも並び、まさに貸し切り状態で悠々と手が洗えたのだ。オイラは蛇口を捻り、手を濡らしてから、蛇口に垂れ下げてあるみかんネットに入った石鹸を掴もうとしたその時、右隣の蛇口を捻る気配を感じて何気なく顔を向けた。隣の男の子もこちらに顔を向けてきた。タッケンだった。その瞬間オイラの頭の中には、『あしたのジョー』のオープニングテーマが、歌い出し前の前奏から流れ始めた。
♪ サンドバッグにぃ~浮かんで消えるぅ~
難いあんちくしょ~うの顔めがけぇ~
眼が合った瞬間、オイラの右拳は奴の顔面目掛けて飛んでいた。同時に奴の左拳もオイラの顔面目掛けて飛んで来ていた。クロスカウンターである。互いの頭の中では、眼が合った瞬間にゴングは打ち鳴らされていたのだ。
♪ たたけッ! たたけッ! たたけェ~~~ッ!
俺らにゃ~けもののぉ~血がさわぐぅ~
「力石ぃ~ッ!」
オイラの口から思わず言葉が出たと同時に、右ストレートに続く左のコンビネーションも繰り出していた。
「誰が力石やねェ~んッ、コラァ~ッ!」
奴もツッコみながら次のパンチを繰り出して来た。
オイラが矢吹丈なら奴は力石徹。オイラが北斗神拳伝承者ケンシロウなら奴は世紀末の覇者ラオウ。オイラがガンダムなら奴は赤い彗星シャアザクとも呼ぶべきライバルである。
中庭の手洗い場という四角いジャングルの中で、二人は給食の事さえ忘れ、互いに相手を倒す事しか考えずがむしゃらに殴り合った。どれほど殴り合っただろうか、二人の顔は見る見るうちに腫れ上がり、給食が始まっても教室に戻らないオイラを担任が探しに来た時には、二人の顔は12ラウンド戦い抜いたボクサーのようだった。
「コラッ、お前ら何やっとんねんッ!」
担任の橋本先生は、なかなか怖いと恐れられる体格のごつい男の先生である。
「相撲です」
打合せなしに二人して声を揃えた。殴り合って顔を腫らしながらも咄嗟に出た嘘である。ケンカだと怒られると思った幼き小学二年生が思い付いた、素晴らしく説得力のない嘘である。このとき奴も思ったかも知れないが、自分と同じ発想で「相撲です」と言った事に余計に腹が立った。
「相撲が殴り合ったりするんかァ~ッ!」
「張り手です」
また同じ事を打合せなしに言った。
「嘘こけェ~ッ、お前ら殴り合っとったやないかァ~ッ!」
二人して「さぁ~」とでもいうようにしらを切った。
何回橋本先生に問い質されても、オイラ達の「相撲です」の一点張りに、先生もヤケになり、
「よぉ~し、そこまで相撲や言い切るんやったら、ほたら先生がここに土俵描いたるから、お前らそこで勝負つけれやァ~ッ!」
と大人げなく中庭に足で円を描き始めたのである。
「よっしゃ出来た! ええかお前ら、正々堂々と相撲で勝負するんやど! わかったなっ!」
そして先生は行司を買って出た。
相撲といえども勝負と名の付くものには負けられなかった。ましてや相手はタッケンである。
「見合って、見合って!」
先生が手刀を軍配に換え、オイラは腰を深く落とした。目の前には腰を落として凄い形相でこちらを睨むタッケンが居た。見れば見るほどこいつの眼は細かった。後にドラゴンボールというアニメが始まるが、タッケンの眼は魔人ブウの眼よりも細かった。
(こいつ白目あるんかなぁ~?)
余計なことを考えてしまった分、先生の「はっけょぉ~い、残った!」で出遅れてしまい、先に廻し替わりのベルトを取られてしまった。透かさずオイラもタッケンのベルトを掴みに行ったが、出遅れたぶん左手でしか掴めなかった。やっとこさ利き腕でタッケンのベルトを掴んだ時には、もうすでに土俵際まで押されていた。歯軋りが聞こえて来そうなほど歯を噛み合わせて踏ん張った。聞こえて来るのは先生の抑揚の付いた耳障りな、
「残ったッ! 残ったッ!」
という声だけだ。
(このままだと負ける!)
そう思ったオイラは一気に勝負に出る事にした。得意の柔道技で足を刈りに行ったのだ。オイラの右足が奴の右足目掛けてアクションを起こしたその時、ヤツはその右足を抜いて前に体重を掛けて来た。オイラの不安定な重心にヤツの全体重が乗っ掛かり、オイラは土俵際で尻に土を付けられた。
「勝負あり~ッ、竹村ぁ~っ!」
軍配はタッケンに上がった。先生の甲高い声がヤケに耳障りだった。
♪ だけどルルルルぅ~ ルルルぅ~ ルぅ~ルルルぅ~
あしたは きぃ~っとなにかあるぅ~
この後続く小学生活の中で、タッケンと六戦する内の初めての黒星である。これで通算一引き分け一敗となったのである。
♪ あしたは どぉっちだぁ~!