其の三 すじ肉の居ない家庭
花屋さんは駅前にある事は知っていた。花屋の場所を知っているといっても駅前は大芝小学校の校区外だったので、小学校一年生になったばかりのオイラ達は、勿論一人でなど立ち入った事はなかった。どうして花屋の場所を知っていたかというと、お母ちゃんが運転する車に姉ちゃんと乗せられて、春木駅から東に上がった岸和田市の山手に位置する、久米田という地名の母方のじいちゃんばあちゃんが住んでいる家に行く際に、毎回その花屋の前を通っては窓から眺めていたからだ。
待ち合わせの八幡公園は、大芝小学校校区内の南端に位置していた。そこから駅前まで行くには、春木小学校区域を通って行かなければならなかった。大人と一緒でない時に大芝小学校区域から出るのは、この時のオイラ達には初めての事だったので、駅前の花屋を目差すのは、この日集まったオイラ達にとってはちょっとした冒険だった。
大芝小学校区域と春木小学校区域の境になっている一本道を通って行けば、割と早く駅前に行ける事も知ってはいたが、車の通行量も多く危ないので、その道を通って行くのは避ける事にした。
オイラは日頃から配達や問屋に向かう時など、事あるごとに助手席に乗ってはあちこちに付いて回っていたので、方向感覚には人一倍自信があった。なので車がよく通る一本道を避けて、車が滅多と通らない脇道を通って駅前を目差す事にした。
脇道に入ると昔ながらの古い家屋が立ち並んでいた。角を曲がるたび初めて目にする光景が飛び込んできた。見る物すべてが新鮮に思え、それはまるで不思議の国にでもやって来たような、そんな感覚になった。
しばらく道を進むと、少し先の家屋が立ち並ぶ一角に、彩り豊かなカラフルな物が道にはみ出すようにして、その一角を賑やかに染めていた。そこに近づくに連れ、次第にオイラ達の顔が綻んだ。店先にはビックリマンチョコのキラキラ光るパッケージに包まれたお菓子や、ベビースターラーメンによっちゃんイカ、ココアシガレット、容器に入った黄金色のカレーせんべいなどなど、様々なお菓子を初め、野球選手のプロマイドが当たるクジ引きや、ピンクレディーの写真が当たるクジ引きも置いてあり、それにウルトラマンの怪獣が当たるガチャガチャの機械など、
『さあ、あなた達、早く自転車を止めてこちらにいらっしゃい。そして私のおヘソのように穴が開いている投入口にお金を入れて、レバーを回すのよ。きっとあなたが欲しがっている怪獣の消しゴムが当たるはずだから……。さあ早く!』
と、おいでおいでするように店先の一番目立つ箇所に置いてあった。しかしその前を通った先生思いのお利口さんなオイラ達は、「早く先生に会いたい」と、先生を慕う一心から、そんな子供心をくすぐる魅力的な誘惑になど……、
「うっわぁ~っ、レッドキング当たったッ!」
「うっわっ、ホンマや、しっぶぅ~~~っ!」
「うっわっ、めっちゃええやん!」
「ホンマや、かっちょえぇ~~っ!」
勿論すぐに負けてしまうのである。
店先でリュウちゃんの当たったレッドキングを三人で褒め合っていると、自転車を止めるなり店の中に入って行った修ちゃんが、なにやら美味しそうな匂いを漂わせて店の奥から出て来た。
「修ちゃんなに一人で食うてんよ?」
えっちゃんが尋ねた。
「えっ、中で関東煮売っててん」
修ちゃんは、使い捨ての折りに入ったコンニャクを、ふうふうしながら齧り付いた。
「うわっ、クぅ~ッ、からしつけ過ぎたぁ~っ!」
そう言いながらも美味しそうに口いっぱいにコンニャクを頬張る修ちゃんを見て、堪らなくなったえっちゃんも、
「オレも食お」
と奥へと消えて行くと、オイラ達も後に続いた。
この当時、岸和田の駄菓子屋には駄菓子を商売にする傍ら、こういった関東煮や、中には洋食焼きなども売っている店がざらにあった。ちょうどこのとき入った駄菓子屋も、そんな岸和田の街に有りがちな駄菓子屋だった。
店の中に入ってみると、店先に置いてあるお菓子やクジ引きよりももっとたくさんのお菓子や、それに数は少ないけれど値段の割と安いロボダッチのプラモデルに、銀玉鉄砲、プラスチックのカラフルなおもちゃの日本刀など、おもちゃ屋さんとまではいかないが、ちょっとしたおもちゃまで置いてあった。まさにオイラ達子供にとっては理想を絵に描いたような駄菓子屋だった。店の奥に進むに連れ、関東煮の美味しそうな匂いが、まるでオイラ達を匂いの源へ誘い込むように鼻先を掠めた。
「おばちゃんちくわ二つちょうだい」
関東煮の汁に、美味しそうに浸かるよくしゅんだちくわを見てえっちゃんが言った。
「おばちゃん、ぼくは玉子とコンニャク」とそろばん。
「おばちゃん、ぼくはジャガイモ一番大きいやつ入れて」とリュウちゃん。
「オイラはすじ肉とようしゅんだごぼ天」
みんなして口々に食べたい物を注文すると、
「はいはい、あんたら順番順番」
と奥から出て来たおばちゃんが、濡れた手をエプロンの裾で揉むようにして拭き取り、長いお箸でちくわの一角を突っついては頃合いを確かめながら、一番よく出汁がしゅんでそうなちくわから折りに上げ、続いてオタマで出汁を掬い、うたた寝している子供にタオルケットを掛けるように優しくちくわに出汁を掛けた。
「からしは要らんのか?」
「オレは要らん」
「ほなちくわ二つで80円な、ぼくら玉子とすじ肉は一つ70円やけどええんか?」
「うん、かめへん」
「からしはそこ置いてあるから自分らで好きなだけ付けや」
「うん、ありがとう」
それぞれが注文した代金を支払って関東煮を受け取ると、重ねて置いてある折りの横の、コップの中に入った練りからしを木のヘラで掬い、左手に持つ関東煮が入った折りの端にちょいと擦り付け、そのあと口を使って器用に割り箸を割った。
「うわっ、めっちゃ旨い!」
「ホンマや、うちのお母ちゃんのより美味しいわ!」
晩飯前に友達たちと買い食いする食べ物は特別に美味しく、無けなしのお小遣いを叩いて食べる関東煮は格別美味しかった。みんなして熱々の関東煮を頬張りながら、
「やっぱり関東煮はちくわにかぎるわぁ~」
と、えっちゃんが少しませた事を口にすると、
「何言うてん、やっぱり関東煮はジャガイモやって」
とリュウちゃんも言い出し、
「ちゃうちゃう、絶対っ、玉子やて玉子!」
と、そろばんも熱々の関東煮よりも熱く語り出した。
「お父さんから教えてもらった食べ方で、黄身を出汁に溶かして食べたらめっちゃ美味しいんやって」
みんなしてそろばんの折りの中を覗き込んだ。玉子の黄身が出汁と溶け合い変な色をしていた。
「うそやぁ~ん。ゲ~(ゲロ)みたいな色してるやぁ~ん」
「ちゃうって、ホンマやって! うそやと思うんやったらちょっと飲んでみっ、絶対美味しいから!」
ムキになって出汁を勧めてくるそろばんの容器を受け取ると、オイラは恐る恐るゲロ色した出汁を啜った。これが意外と旨かった。
「なっ、言うたやろ!」そろばんがドヤ顔で答えた。
「うそやっ、ちょおぼくも飲ましてや」
「えっ、オレもオレも」
「ほなぼくも」
「えぇ~、ちょっとずつだけやでぇ~、みな飲まんとってやぁ~」
出汁が減るのを心配しているそろばんの顔は、言うんじゃなかったと後悔しているようにも思えた。
確かに玉子を溶いた出汁は旨かったが、やはりオイラはすじ肉が一番好きだった。
「そやけどなんと言っても関東煮の王様は、やっぱりすじ肉やろぉ~」
「そや、関東煮で一番大事なのはおばちゃんもすじ肉やと思うな」
横で聞いていたおばちゃんも、関東煮のなんたるかを人生論のように熱く語り出した。
「関東煮に絶対なかったらアカン物……、それはすじ肉なんよ。例えばジャガイモや玉子がなくてもあまり出汁の味は変われへんけど、すじ肉がなかったら美味しい出汁は出えへんのよ。わかるかなぁ~あんたら?」
ここでおばちゃんは話を一旦切った。そしてオイラ達の顔を一人ずつ見た後また話を始めた。おばちゃん独自の間の取り方が、より一層オイラ達を話に引き込ませた。
「おばちゃんのこの関東煮が美味しいのも、すじ肉の旨味が出汁に溶け込んでほかの具材にもようしゅんでるからなんやで」
みんなして首を縦に振った。
「だからすじ肉の入ってない関東煮なんて、旦那が毎晩飲み歩いていっこも家に帰って来ゃ~へん家庭のようなもんなんよぉ~」
おばちゃんは哀愁を漂わせ、やつれた感満載に言った。
「あらっ、いややわおばちゃんたら、あんたらみたいなかわいい子らに何言うてるんやろなぁ~、アホやなおばっちゃん……」
そしておばちゃんはしみじみと語り終わった。
「ふーん」
解ったような解らんようなおばちゃんの説明に、みんなして頷いた。
「ようするにおばちゃんアレけ? アカレンジャーの居てないゴレンジャーのようなもんけ?」
オイラが訪ねた。
おばちゃんは目元を指で押さえながら、小さくうんうんと頷いた。
「ところであんたらこの辺で見ゃ~へん顔やけど、大芝小学校の子らか?」
「うん!」みんなして元気よく答えた。
「こんな遠い所まで来て、なんや今日はみんなでどっかええとこ行くんか?」
(ええとこ? ええとこ? ええとこってどこやろぉ~?)
みんなしてええとこの意味を考え始めた。
(ええとこ? ええとこ? ええとこ……?)
幼いオイラ達は、またもやこのとき大事な用事を思い出し、
「はっ!」
と気付き顔になるのである。そしてまたもや慌ただしく、それぞれが残りの関東煮を口の中に放り込むと、まるで十二時を回ってしまうと自転車がカボチャに変わってしまうとでもいうように、店の前に雑多に止めてある自転車まで駆け出した。
「なに、なに、なに、いったい何ぃ~っ? なんかおばちゃんあんたらに悪い事でも言うたぁ~っ?」
戸惑いと焦りの表情を見せるおばちゃんを他所に、オイラ達は自転車に跨ると、せっせとペダルを漕ぎ始めた。
そうだ! オイラ達はこんな所でジャガイモやすじ肉について呑気に語り合っている場合ではないのだ!
なぜなら、オイラ達補助輪付き自転車軍団には、駄菓子屋のおばちゃんがオイラ達のこの忙しない行動に、『いったいなぜ?』と疑問に思う顔を置き去りにしてまでも、前に進むべき大切な理由があるのだから……。
「ちょっとぉ~、あんたらてぇ~、なぁ~、なぁ~て、あんたらまで旦那みたいにおばちゃんを放って行ってしまうんかぁ~ッ! なんなんよぉ~、もぉ~う!」
背後におばちゃんのとち狂った声を感じながら、オイラ達は時間のロスを取り戻すかのように、立ち漕ぎで目的地を目差すのだった。