最終章 始まりの岸和田だんじり物語
私が祭りを辞め、岸和田から離れて間もなくして、タッケンや三浦にてっちゃん、更には瀬尾や柳井に藤田といった仲間内に加え、私を慕ってくれていた後輩の中でもタケタケのように付き合いの深い後輩達は、次々に八幡町を抜けたと聞いている。私が八幡町を辞めた事がきっかけで祭りを辞めたと言っていた者もいたが、タケタケのように十五人組に上がって現状を見た上で、続ける価値がないと判断した者も多数いたようだ。
岸和田を離れて帰郷するまでの十数年の間に、一度だけ岸和田祭りを見に帰った事があった。春木駅を下りるとちょうど夜の曳行をしていたので、しばらく駅前でだんじりを眺めていると、そこに八幡町がやって来た。八幡町でまだ祭りを頑張っていた後輩達が、私を見つけるや慕って声を掛けに来てくれる者達がいる中、数メートル先にピロシの存在を発見した。ピロシは私の存在を確認するや否や、血相を変えてその場から姿を晦ました。
それから数時間後、夜の曳行が終わり、各団体がその日の宴で盛り上がりを見せている頃、八幡町内にあるコンビニに足を運んだ。するとそこに旧市のとある町のハッピを着た、胸元から極彩色の刺青をちらつかせた、見るからにあちらの世界の男達数名が私に接触して来た。ピロシが呼んだのである。虎の威を借る狐は何年経ってもクソ野郎のままだった。
その男達は私に面を貸せと言って来たが、その理由はと尋ねると、私が春木に帰るなりピロシに手出ししたかだらと言ってきた。
「はぁ~、手出しも何も、まだ帰って来てあのアホと一言もしゃべってもないけどなぁ~。そういえば春木駅でアイツ見かけたけど、俺の顔見るなりビビッて逃げて行きよったわ!」
そう話してやると、その男共は事情が呑み込めたらしく、ピロシの狂言だと理解したようだったが、恥をかかされた手前、誰かを連れて帰らなくては示しが付かなかった様子で、そのあと八幡町十五人組の数名を旧市まで連れて帰ったという。連れて行かれた者達はとんだ災難である。どこまでも十五人組に迷惑を掛けているピロシに腹立たしかったが、岸和田を離れ、世の中を渡り歩いた私は少しお利口さんになっていたのか、これ以上アホは相手にしないでおこうとその後帰宅した。
それから時が経ち、十数年ぶりに岸和田に帰郷したのだが、十数年という長きに渡る期間は私にとって必要不可欠なとても貴重な旅だった。
いつか海外で遣り廻しをという思いを実行に移す時が来たのである。一歩を踏み出す勇気は旅立った時からあった訳だが、これを実現出来るか出来ないかと問われれば、資金とだんじりが揃ったところで、私一人ではだんじりを動かせないのが現実だ。しかし思い描いた事をアクションも起こさないで腐った人生を過ごすよりも、一歩を踏み出し、仮に私の代で一人も賛同者が居なかったとしても、未来の子供たちに礎を築いてやる事は決して無駄な事ではないと思っている。その証拠に、少し回り道をするが、この話を聞いて頂きたい。
それは帰郷して間もなくの事、祭りの前夜祭があるので旧友に八幡町の会館に来ないかと誘われた。しかし以前の事もあるので躊躇していると、今年の若頭の責任者は伊戸ちゃんだと聞かされた。伊戸ちゃんに対する想いは以前の事もあったが、私自身恨んでいる事はなかった。むしろ幼馴染がまだ現役で祭りを頑張り責任者をするならと、一言エールを送りたくてその場に赴いた。知った顔ぶれが少なからずともまだ八幡町に残っていた。ピロシはすでに八幡町を辞めていたらしく居なかったが、私が会館に入ると心無い視線も多少なりとも感じていた。そんな中、前夜祭を始めるにあたって責任者の伊戸ちゃんから一言挨拶が始まろうとした時、幼馴染の英姿に誇らしく感じ、微笑んだ次の瞬間、伊戸ちゃんは何をトチ狂ったのか皆の前で、
「茶化すんやったら帰ってくれ武ッ!」
と大声で叫んだのである。その言葉に会館の雰囲気が一変し、ぼそぼそと、
「武は何もしてないのになぁ」
だとか、
「あれは伊戸ひどいよなぁ」
という声があちらこちらで上がり始めた。
私は何も言わず伊戸ちゃんの挨拶が済むまで黙っていた。恐らくこのとき私の目はタケ太郎侍になっていた事だろう。挨拶が済み乾杯の音頭が終わると、伊戸ちゃんは血相を変えて即座に私の許に走って来た。
「表で話しょうか!」
責任者をする伊戸ちゃんの体裁を考えての言葉である。
「お前さっきの言葉どういう意味やねんッ!」
表に出るなり私は問い質した。
「ごめん武~ぃ」
「ごめんとちゃうやろッ!」
「俺が話す前にニコッと笑たから……」
「お前ホンマしばくぞッ! 笑たら帰れ言われらなあかんのかァ~ッ! ええか伊戸、俺は幼馴染のお前が立派に責任者やってるのが嬉しゅうて微笑んだだけやッ!」
「ホンマごめん武~ぃ、俺も今年は責任者やって、色々と気ぃ~張り詰めてたから……」
「お前それやったらピロシやピロユキと一緒やないかァ~ッ! 俺は幼馴染が責任者する言うから会いに来ただけやッ! 俺が居ってお前に何か都合が悪い事でもあんのかッ!」
おそらく伊戸ちゃんは、私が祭りを辞めさされた事に対する負い目があったのだろう。これまで一言もその事について私に触れては来なかったが、自身が負い目に思う不安要素から、私がその場にいる事で自身の立場を脅かす存在として、私に居て欲しくなかったのだと思った。言いたくない言葉だが、ここでコイツの不安を取り除いてやる必要があった。
「俺は今までお前と小さい頃から一緒にだんじり曳いて、アホな事も一緒にいっぱいして来て、友達や思てたから俺が祭り辞めた事に対してお前を一言も責めへんかった。そやけどな伊戸、あないなこと言うて俺に当たって来よるんやったら、俺はお前許さへんどッ! 誰のせいで祭り辞める羽目になったんなッ!」
口に出したくない言葉を口にすると目頭が熱くなって来た。
「ホンマごめんたけし……」
「ごめんとちゃうわッ、ボケッ! お前の性根が腐ってるんやったら、俺は今からでも向かいの公園でお前シバキ回したるぞッ!」
腹にもない事を言うのは辛いものである。涙が一筋こぼれた。
「何を責任者やるからって小さくまとまってんじゃ! 大きな性根持って取り掛からんかいッ! 連れとして情けないわッ、アホッ!」
「ホンマごめん……。俺が悪かった……」
この時の伊戸ちゃんの言葉が本当に誠意あるものか、それともその場しのぎの繕った言葉だったかは別にして、その日の前夜祭で耳にした中で、誰々が誰々を気に食わないので来年は祭りを辞めるだの、不平不満や愚痴だらけの、皆が皆本音を隠した腹の探り合いのように感じた。更にこんな話も現役の青年団から直接耳にした。ある年の祭りの曳行で、十五人組がとある町と花を交わす際、事前に十五人組から段取りを知らされていなかった青年団は、そんな行事があるとは知らず、だんじりの後ろで花を交わしている最中、太鼓を叩いてしまった。それに激怒した十五人組が青年団の鳴り物に怒鳴りに行くと、何の件で怒られているのか解らない鳴り物をしていた若者が十五人組に言い返した。そしてこの言い返された件が気に食わないと祭り後、問題になったらしく、年功序列をいい事に、十五人組初め町会で話し合った結果、青年団に下した裁きは、青年団の団長が責任を取って祭りを辞めるか、もしくはその言い返した若者を祭りから排除するかの二択を迫ったという。鳴り物をしていた若者は、まだ成熟していない年端もいかない高校生の世代である。そしてその若者は責任を町会から迫られて八幡町を辞めたという。後に分かった事だが、その若者はマッサン息子だったようだ。この件が要因でマッサンが八幡町を辞めたかどうかは解らないが、現在ではマッサンも八幡町を辞めている。
歳を取り大人になっても、結局は歴代の長老達と同じサイクルを繰り返す悪循環の町に思えた。しかしそんな上の者達がいる中でも、少なからずとも希望の光もまだ八幡町には存在していた。その話を教えてくれた青年団の若者らが、追いやられたマッサンの息子をいつの日か呼び戻そうと奮闘していたのである。彼らは私の若い頃と同様に、この悪循環に立ち向かおうとしているのだ。この清き灯火をいつの日か聖なる猛炎に変換出来るよう、私も尽力を注いで行きたい。
更なる希望の光もあった。それは伊戸ちゃんが責任者をした年の祭りが終わり、数か月が経っての事である。その日、祭りでもないのに神社から太鼓の音が響いて来た。音に釣られるままだんじり小屋に赴くと、だんじりを小屋から出し、屋台の焼きそばや焼き鳥など子供たちが喜ぶ催しを開催していた。子供達にだんじりをもっと好きになってもらおうという取り組みを行っていたのである。そのプログラムの中で、距離にしては短いが、だんじりを子供たちだけで動かすというカリキュラムがあった。勿論大人が周りに付き添っての短い曳行だったが、子供たちはみな笑顔で楽しそうだった。それが終わると、ビンゴゲームでゲーム機などが当たるイベントも催し、子供たちに付き添う親御さんも楽しそうにビンゴゲームに参加していた。
この八幡町だんじりフェスティバルの趣旨は、少子化になっている子供たちにだんじりの楽しさを教え、一人でも多くの子供たちが八幡町のだんじりを引き、行く行く青年団に入ってもらおうという狙いがあるようなのだが、子供会を運営している人から話を聞くと、こうした催しで八幡町は子供たちに人気で引手の数は増えたのだが、悲しい事に青年団に入る時期になると、みな中学時分に仲の良かった友達が引く町に行ってしまい、思うように青年団の数が集まらないというのである。そこで何か良い案はないかと尋ねられ、参考になるかどうかは解らないが、私が青年団時分に行っていた、一人一人の名前を書いた札を制作して公民館に掛け、少年団でも子供たちに意識改革を行ってみてはどうかと進めた。更には、八幡町のマスコット的なゆるキャラの被り物を作って、祭りの際にそのゆるキャラに纏いを持たせたらどうかとアドバイスした。
昨今、岸和田のだんじり祭りでは、春木地区に限らず、旧市に至っても少子化の影響で引手の数が激減している。山手の町と引き合いの花を交わし、どこの町も切磋琢磨しているが、基本的に子供の数が激減しているので、近い将来だんじりの多い地区は更に人集めに苦労する事だろう。そこで私は思うのだが、勿論、引き合いの花を交わし十月の祭りの地区と人員の回し合いも大切だが、これからの時代、大きく視野を広げ、日本全国の祭りを開催している地域と交流を深め、人員の確保に乗り出さなければならない時代に突入しているのではないかと思う。
天神祭りでの人員の確保は、日本全国から募集し、抽選で人員が選ばれるとも聞いた事がある。岸和田という土地は地元意識が強く、よそ者を受け付けない傾向があると長年言われて来たが、日本の伝統文化の祭りを守る上で、各都道府県の祭りを行う地区と交流の場を設ける意味でも、私は、岸和田だんじり物語プロジェクトと称した、日本全国から祭り好きな熱い男達を集い、海外に遣り廻しを行いに行く企画を立ち上げようとしている。
言っておくが日本全国の祭り好きな男達よ! 私がこの本に書いている、私自身が経験した辛い境遇には決してさせないので心配しないでくれ! 私はそんな境遇に合ったからこそ、そうではない、本当に皆が心の底から喜べる楽しい祭り事を実施したいと思っているのだ!
さて、十数年という久方ぶりに岸和田に帰郷した理由はもうお解り頂けているかと思うが、ではどのように海外で遣り廻しをするのに事を進めて行くのかというご意見がおありになる事かと思う。具体的な説明の前に、姉妹都市との交流を深めるのに、地域に赴いて各都市の文化行事を実施するイメージが最適かと思う。
私はその姉妹都市に、自由の女神があるニューヨークを選びたいと思っている。想像してみてくれ、タイムズスクエアのメインストリートをだんじりが遣り廻しするのである。想像しただけでも興奮が湧き立って来る。ただしこの企画は、だんじりがもし仮に用意できても、私一人でだんじりを動かす事は出来ない。この企画に賛同してくれる人達がいて初めて企画を実行に移す事が出来る。
では賛同してくれる人達を、日本全国からどうやって募集するのかという問題だが、岸和田だんじり物語プロジェクトと称したこの度の企画について、下記のホームページにて人員を募集しようと思う。
https://www.kisiwada.danjiri.monogatari.project.co.jp
〈これはまだ仮のイメージです。実際に立ち上げるにはもう少し時間が掛かります〉
プロジェクトの資金は本の売り上げの一部だけでなく、岸和田祭りでいう花寄せに当たる寄付金もこのホームページで募り、更にはホームページ内にお花看板を設け、寄付金をして頂いた方々のお名前と金額を、岸和田祭りの花看板のようにエビ紙に書き込み掲示させて頂く方法をとると同時に、これは個人に限らず企業にもお声をかけさせて頂こうと思っているので、もし大手新聞社がこのプロジェクトに賛同して頂けるなら、ニューヨークの自由の女神の寄付金を募った時のように、寄付金をして頂いた人の名を小さくだが新聞の隅に掲示させて頂く方法なども思案している。
寄付金の返しの粗品も検討しなければならない。岸和田祭りでは花を頂いた際に、返しの粗品を手渡すという慣わしがあるのだが、岸和田ではこの返しの粗品を各町オリジナルの祭りグッズを作って手渡し、そのグッズが欲しいが為に毎年花をする人達もいる程である。私が今思案している粗品では、岸和田だんじり物語プロジェクトオリジナルグッズを作るか、第二十九章『若狭湾からのぉ~』の一節で紹介された、タッケン家の秘伝の焼肉の揉みダレ、挿絵に登場する山本武のフィギュアとサイン入り色紙、まあ私のフィギュアとサイン入り色紙を欲しがるそんな変わり者はいないと思うが、それらの検討もホームページ内で賛同してくれた方々と話し合って行きたい。
勿論ホームページ内だけでなく、直接私と熱い意見を交わしたいという方は、『BERO BERO BAR』を皆の集える会館のような場にして、そこで出会った人達それぞれが縁を繋ぎ、友好の輪を広げて行けるような空間にしようと考えている。
かの有名な坂本龍馬は、日本の世を変える為、日本を奔走し大海に出て偉業を成し遂げた人物である。坂本龍馬のような日本の行く末を変える大人物には到底なれないが、現代社会において、たくさんの方々が笑顔になれる時間をひと時でも提供できればと思う。
私がもし青森で生まれ、幼い頃からねぶた祭に参加していたならば、ねぶた祭りを私なりにもっと世界に知ってもらおうと思った事だろう……。
私がもし長野で生まれ、幼い頃から御柱祭に参加していたならば、熱い男達のドラマを世界中に伝えたいと思った事だろう……。
私がもし高知に生まれ、幼い頃からよさこい祭りに参加していたならば、一年を通じた仲間達との過酷な練習の舞台裏や、本番の喜びを世界中に伝えたいと思った事だろう……。
日本には、まだ私の知らない数え切れない素晴らしい日本伝統の祭りが存在する。
しかし私は岸和田で生まれ育ち、だんじり祭りしか参加した事がない。それぞれの祭りに携わる人とのご縁が出来て、参加する機会があれば、私はそれぞれ各都道府県の伝統的祭りに触れ合いたいとも思っている。
今回私は生まれ育った岸和田のだんじりを、日本全国の熱い男達、そして舞台裏では日本全国の女性にも参加して頂いて、日本町という日本を代表するだんじりで世界に臨みたいと思っている。町同士の派閥や人種差別など、そういった類の垣根を超え、人と人が喜び合い、そしてまた、そこで出会ったご縁が世界を良くしていくものと信じ、実行に移そうと思う。
始まりの岸和田だんじり物語とこの章を題したのは、この偉業を世界で成し遂げた時に、携わって頂いた人とのドラマ、そして舞台裏、本番に至るまでの物語を、後に『岸和田だんじり物語』と題して続編を執筆しようと思っているからである。
これは私の教訓だが、
⦅人生において自身は物語の主人公であれ! 主役であるならば、人に優しさを分け与えろ! 良い物語には常に目標があるものである。高い目標があれば、他人の誹謗中傷などに耳を傾ける時間など作ろうとはしない。人生には限られた時間しかないのだから……。
人が人と接する時には、自身の立場を重んじず、相手の立場になって物事を考えるべきである。
難しいから挑戦する。簡単に達成出来ないから人生は面白く奥が深い。
奇跡とは優しさに触れる事である。そこには愛があり、愛は奇跡を呼び起こす。
年老いたとき思い出は宝になる。その思い出を刻む瞬間をたくさんの方と共に楽しむ⦆
少年期や青年期は、人生が永遠に続くようなとても長い時間に思えるが、実際に人の一生とは僅か百年ばかしである。歳を取ると一年のサイクルが幼少期に比べ異様に早く感じ出す。私の人生の先輩方は、私よりも歳を召されている分さらに早く感じているというが、それを体感するには、私自身先輩方と同じ歳にならなければそれは解らない。しかしこれまで経験して来た中で、おそらくそれは確かだろうと、毎年過ぎゆくサイクルの体感で予測はつく。
楽しい時間は経過が早く感じ、煩わしい事などは遅く感じる。
しかし楽しかった日々は、思い出という形で永遠に自身の心の中に記憶される。
長いようで短い、一度しかない人生である。楽しい思い出として後に語れる経験を私と共に皆でしようではないか!
一度しかない人生、共に喜びを……。
世界中の人々が、いつの日か喜びを分かち合える、そんな日を願って……。
山本 武
さあみんな、この指とまれ!