其の十二 幸せを願う
祭りから数日経つと、街は平生の騒音を取り戻し、落ち着いた街並みの景観と共に季節は秋支度を始めていた。
ここ最近、仕事以外は彼女の家でずっと過ごしていた。某病院との闘いは数度病院側が話し合いに訪れたが、決着はそれほど単純に行くものでもなかった。病院側に過失がある事は認めていたが、終着点が一向に見えなかった。そんな中、ある日仕事から帰って来ると、彼女は家に居なかった。ママさんに尋ねてみると病院に出掛けているとの事だった。
「今日はもう仕事も早よ終わったし、ほな迎えに行って来るわ!」
向かった先は市民病院である。受付で彼女の名前を言い、受診に来ているかかりつけの精神科の場所を尋ねてみると、今日はそういった方は受診に来られていませんよと言われ、面を食らった表情をしていると、産婦人科の受診には来られておりますと言われた。
(産婦人科?)
訳が分からなかったが、女性には男には解らない月のものがあるし、
(体調でも悪かったのかなぁ?)
と、それほど気にならず産婦人科の場所を再度尋ねた。すると意外な言葉が返って来たのである。
「少し前に手術が終わった所なので、今は病室で休んでおります」
(えっ?)
更に訳が解らなくなった。
オレは部屋番号を教えてもらうと慌てて彼女の許へと走った。
病室のドアを開け、中を見渡すと、すぐ右手のベッドでリクライニングシートにして上半身を起こした状態で彼女は安静にしていた。オレが病室に入るなり、彼女は驚きを隠せない表情をしたかと思うと、急に泣き出し、
「武ごめん……。武ごめん……」
と何度も繰り返した。
「どないしたんな? 何があったんな?」
オレが尋ねてもしばらく泣き崩れていたが、
「武に相談もせんと堕ろしてごめん……」
と、その言葉で全てを理解した。
オレは彼女に寄り添い、点滴の管が腕に刺された手に手を重ねた。相談もなく二人の子を堕ろされた事はショックだったが、
「元気になったら子供はまた作れる。そやけど今はお前の病気を治す事の方が大事や……」
今はそう言ってやる事が何よりも大事だと心のままにそう伝えた。うつ病を患い、一人で思い詰めて考えに考え抜いた決断だったのだと、責める気持ちにはなれなかった。
瞬く間に時が過ぎ、依然としてうつ病の症状は出ていたが、彼女自身元気にならねばという思いの表れも出ていたように思う。妹を失い、うつ病を併発してからというもの、時にはオレが父親代わりになり、
「そんな事したらアカンよ。こうした方がええよ!」
と優しく叱ってやらなければならない事も度々起こった。
そんな日常が続く中、ある日彼女が映画『スワロウテイル』を観て、自分もいつかアゲハ蝶のタトゥーを入れるのだと言ってきた。登場人物のグリコ役・(CHARA)が演じる娼婦に憧れてタトゥーを入れたいのかと思ったが、実際のところは、登場人物のアゲハ役・(伊藤 歩)が胸にアゲハ蝶のタトゥーを入れる際に、医師兼彫師役・(ミッキー・カーチス)から、
「入れ墨は体に別な生き物を飼うようなもんだ。そいつが人格を変えてしまう事もある。そして運命さえも」
更には、
「どんな時でも、胸の蝶がお前を守ってくれる。信じなさい。そういう魔法をかけといた」
とこの言葉に、自身も同じようにアゲハ蝶のタトゥーを入れる事で、元気だった頃の元の人格を取り戻し、現在の運命から逃れ、もう現世では守ってもらえない妹の代わりに、アゲハ蝶のタトゥーに自身を守ってもらいたかったのだと、彼女の気持ちを知ろうとオレ自身も『スワロウテイル』を観た時そう思った。
それから間もなくしての事。いつもなら彼女の家に泊まって行くのだが、この夜はマウ二に帰って眠ると告げて、彼女の家を後にした。時刻は深夜の十二時を過ぎていた。
自宅に帰る道すがら、何か善くない事が起こりそうな胸騒ぎを覚えた。なのでもう一度引き返し、やはり今日はこっちに泊まると告げようと、彼女の部屋に上がって行ったのだが、普段病院以外は外に出て行こうとしない彼女が、どういう訳か身支度をして化粧を整えている所に遭遇してしまった。
「こんな時間に何処に出て行くんな?」
彼女は、まさかオレが戻って来るとは、思ってもみなかったというような顔をして凍り付いていた。
彼女は口を開こうともしなかった。嫌な予感がした。
「なぁ、何処に行こうとしてんの?」
何度も問い詰めた。
「もう迎えが来る……」
やっと口を開いたかと思うと、嫌な予感に拍車をかけるような言葉だった。
「迎えって……、迎えって誰が来るん?」
迎えに来るのが男性でない事を祈った。
彼女はまた口を噤み出した。
「なぁ、言うてくれよッ! どういう事やねんッ! ちゃんと説明してくれよッ!」
まさかの想像をすると、オレの中で不安が募り、冷静ではいられず興奮気味に問い詰めた。
口を噤む彼女の深刻な表情を見ていると、想像してしまうのは悪い事ばかりだった。
「送迎の人……」
やっと彼女が俯きながら答えた。
「送迎の人ってどういう事なッ?」
自身の焦りが声に出ていた。
送迎と聞いて薄っすらとは気付いていた。だがオレの中でそうであって欲しくないという表れから、この時もう一度聞き返したのだと思う。
「ファッションヘルスの……」
オレの中で精神が引き裂かれる思いになった。オレは泣き叫び、
「なんでやねんッ! なんでそんな事するねんッ!」
と、何度も何度も彼女の名前を織り交ぜながら泣き叫んだ。
「武、ごめん……。武、ごめん……」
彼女も泣きながら何度もオレに詫びてきた。
しかしこの人ならと結婚まで考えている大好きで大切な人が、他の男性に裸を見せ、男性の快楽の為に自信を奉仕しているのだと考えただけでも気が狂いそうになった。断続して泣き叫ぶ常軌を逸したオレの声に、階下からママさんがやって来た。
「武くんどないしたん。何があったんや!」
ママさんは心配して聞いてくれるが、何があったか言えるはずもなかった。ママさんに心配をかけてはダメだと、
「もう大丈夫やから、後は二人で話しするから……」
と言って階下に下りてもらった。
どうしてそんな事をし出したのかと問い質すと、オレと付き合う以前の彼氏の保証人になっていたらしく、会社を自主退職してからというもの、その返済が出来なくなったので働き始めたのだと彼女は言った。こんな事があってもオレはまだ彼女の事が好きだった。その仕事を辞めるように言うと、彼女は表情を曇らせながら承諾してくれた。ハッゼンの件で自身に借金もあったが、彼女の事もなんとかしてやるつもりでいた。しかし事態はオレの思うような方向には進んで行かなかった。それはしばらくしてからの事である。ある時オレがマウ二に帰って明日の仕事の段取りをしていると、思い詰めた声で彼女から電話があった。その内容とは、以前送迎をしてもらっていた人の事が好きになったので、別れて欲しいというものだった。人をコケにするのもいい加減にしろと、これにはオレも激怒した。まず第一に、これまでの数々の彼女の過ちは許せても、オレを裏切りその男とデキていたのかと思うと、うつ病だからといってこれまで厳しい言葉で叱った事はなかったが、この時ばかりは怒鳴り散らした。更には電話で伝えて来た事も癇に障った。しかしオレの心の内ではどれほど裏切られてもまだ彼女の事が好きだった。頭に来ながらもこの日は返事をしなかった。
その日の夜、これまでの事についてじっくりと考えてみた。考えれば考えるほど裏切られた気持ちで憎悪すら覚えたが、その気持ちは彼女の事を真に愛しているからこその裏返しだという事にも気付いた。そしてこれまで自身が歴代の彼女にして来た事が、いかに人を傷つけて来たかという事にも気付いた。正直なところ別れたくはなかった。しかし彼女の事を本当に愛しているならば、彼女の望む幸せを応援してやるのが本当の愛情なのだと思えるようになった。
二日後、オレは、穏やかに彼女に別れを告げた。