第三章『初めてのお見舞い 』 其の一 初めてのお見舞い
いつもと変わらない青空の下、朝から眠たい目を擦りながら学校に向かっていた。眠たい理由は市場の仕入れである。朝の五時から姉ちゃんと共に起こされ、市場で積み込みが終わると七時には家に帰り、そこから四十分程度が唯一ゆっくりテレビを観て寛げる時間で、七時四十分からは学校の用意をして八時には学校に登校するのだ。給料やボーナスが有るのならまだしも、お小遣いも上げてもらえないのだから、眠たい目も擦りたくなるというものだ。しかし夏季休暇のように、夏休みの期間中は仕入れの手伝いは免除されるとの事だったので、もう少しの辛抱だと頑張っていた。家の手伝いとはいっても、子供ながらになかなかハードな毎日をオイラは送っていた。そんな小さな強制労働者が学校に着き教室に入ると、先に登校していたえっちゃんが話し掛けてきた。
「先生今日も休んでるみたいやで」
「えっ、またけ?」
えっちゃんの心配そうな顔を前に、ランドセルを机に置きながらオイラが言った。
幼稚園という楽しい時間は、観戦席から眺めるF1カーのように一瞬にして過ぎて行き、ちまたでは『ピカピカの一年生』というテレビCMが流れだす頃、オイラ達もピカピカのランドセルを背負った、正真正銘のピカピカの一年生になっていた。クラスも一年一組と、一のゾロ目という幸先の良い数字になり、うめ組で一緒だったえっちゃん、そして意外性ナンバー1のリュウちゃんもまた同じクラスになっていた。
「大丈夫なんかなぁ~正木先生……?」
正木先生とは、少し歳のいった、オイラ達から見ればどちらかというとおばあちゃん世代に近い、オイラ達みんなのお母さんのようなクラスの担任である。その先生が三日前から風邪を引き休んでいたのだ。
「さあ~わかれへんけど、三日も休むんやからめっちゃ悪いんとちゃうかなぁ……」
「ほんまやなぁ、そうかもしれんなぁ~」
そういやうちのばあちゃんが話していたのを聞いた事がある。なんでも、歳が行ってからの風邪や怪我は、若い頃とは違って体に堪えるのだそうだ。
朝一番そんな会話があってから、一、二、三時間目の小学生の本分ともいうべき退屈な授業をなんとか乗り切り、四時間目の授業でうとうとしかけた頃、授業を進める代理の先生の声が子守唄に聞こえ始めた。夢に落ちるのもあっという間だった。以前に大好きなフミのばあちゃんが風邪を拗らせ、肺炎を起こして入院した時の夢を見た。そして四時間目終了のチャイムが給食のチャイムに聞こえ出した時、居眠りから引き戻された。
「やっと給食やなぁ~」
伸びをしながら目の前の席に座っているリュウちゃんに話し掛けた。
「たけし君、今日はスパゲティーらしいで」
リュウちゃんがこちらを向き言った。
「マジで!」
「しかもミートスパゲティーやて!」
「これはえっちゃんに大盛り入れてもらわなあかんなぁ~!」
この週えっちゃんは給食のおかずの当番で、リュウちゃんもオイラもミートスパゲティーは大の好物だった。
食器を持ってえっちゃんの前に並ぶと、打ち合わせなしで互いが片目を瞑った。大盛りの合図である。勿論リュウちゃんもえっちゃんの前に立つと、片目を瞑ろうと努力したが、リュウちゃんは片目を瞑ると、どうしてももう一方の目まで瞑ってしまうウインクの出来ない子だった。えっちゃんの前に立ったリュウちゃんは、必死で両目をぱちぱちしていた。
「リュウちゃん目にゴミでも入ったんか?」
えっちゃんの言葉に、リュウちゃんは口を尖らせて変顔で返した。勿論リュウちゃんの器も大盛りである。
この頃クラスの男子の間では、牛乳は最後に一気飲みという暗黙のルールが敷かれていた。オイラは牛乳以外をペロリと平らげると、牛乳の蓋を慣れた手付きで外し、ゴクゴクと飲み始めた。しかしそのタイミングで前の席に座るリュウちゃんが、
「たけし君、見て見て!」
と振り向いて、スパゲティーの麺を鼻から口に通し、だら~んとぶら下げた状態でオイラに顔を向けて来たのだ。
「プフぅ~~~~~~ッ!」
『チャラリーーー鼻から牛乳(嘉門達夫)』である。
オイラは鼻と口から牛乳を吹き出し、辺りを牛乳塗れにしてしまった。勿論リュウちゃんの顔も、牛乳で悲惨な状態になった事は言うまでもない。
そんな予期せぬ出来事を迎えながらも給食を食べ終わると、えっちゃんとリュウちゃん初め、一年一組の仲の良い友達がオイラの机の周りに集まった。
「お見舞い行こや」
言い出したのはオイラである。
「えっ、正木先生の?」
腕を組んでいたえっちゃんは驚いた顔をした。
「うん、行く行く」
「ぼくも行く」
「ボクも」
驚いた顔をしたえっちゃんを他所に、次々に期待と嬉しさの混ざった賛成の声が上がった。
余計な難しい事など一切考えず、行くか行かないか○か×で答える幼いオイラ達は、このとき誰一人として正木先生の自宅を知っている者など居なく、そしてまた幼すぎるオイラ達は、誰かが先生の自宅を知っているものだと疑う事はなかった。誰一人として正木先生が何処に住んでいるかなど聞かなかったのだ。このとき誰か一人でも、「ところで正木先生の家って誰か知ってんの?」と、常識的な当たり前の疑問に気づく者さえ居たならば、この章を語る事は無かっただろう。その当たり前の疑問に気づく者さえ居たならば……。
「ほんなら学校終わって家帰ったら、自転車乗って八幡公園集合な」
オイラの言葉に皆が目を輝かせた。
「そやけどお見舞いやったら、花とか買って行った方がええんとちゃうん?」
なるほどえっちゃんの言う事にも一理あった。
「さすがえっちゃん、ええこと言うなぁ~っ!」
リュウちゃんの言葉に、えっちゃんは照れ隠しに頭を掻いた。
「花ってなんぼくらいするんやろ?」
一人で照れているえっちゃんを他所に、そろばん君こと通称そろばんが、具体的な質問を投げ掛けてきた。小学一年生から公文教室に通うそろばんは、算数が飛び抜けて得意な事からその名が付いた。そんなそろばんの質問の答えも、誰一人として知る者などいなかった。当たり前田のクラッカーである。小学一年生が花を買う機会など、駄菓子を買う機会に比べれば格段に低いからである。
「解らへんけど、みんなでお小遣い出し合ったらいけるんとちゃうん」
花代が幾ら掛かるかという、小学一年生にしてはかなり的を突いた答えも、『お小遣い出し合ったらいけるんとちゃうん』という大雑把な返答で、
「なんやそうなんかぁ~」
と、小学一年生の脳みそは納得してしまうのである。その上お小遣いが一人当たり幾ら貰っているかなど、誰一人として聞く者はいなかった。
昼からのホームルームの後、
「ほな後で公園で」
と言ってみんなと別れた。