第三十七章『ヒロキ、岸和田生活始めました!』
平成十一年という新たな年を迎え、三が日がゆっくりと経過し、また平常通りの穏和な日々が始まり出した頃、瀬尾はようやくマウ二から巣立ち、マウ二から極めて近所ではあるが、自身の生活する住居を手に入れた。
オレは新たな女性との出会いがあり、マウ二では当然の如く、オレの一人暮らしと共にその女性とラブラブな時間が始まろうとしていた……のも束の間、
「おめでとうございます!」
と新年の挨拶をする聴きなれた声が玄関から聞こえた。
「おぉ、ヒロキやんけぇ~、おめでとさん。わざわざ新年の挨拶に来てくれたんか?」
「いえいえ、マウ二に越して来ました!」
右手には大きな旅行カバンと左手には大きなスポーツバッグを持ち、ヒロキの後方には、ヒロキを神戸から乗せて来た彼女まで控えていた。
「えっ……」
オレは目が点になり言葉を失った。
「いやいや、前に言いましたやん。岸和田に越して来たらお世話になりますって」
「はっ……」
「武くんも、おう。そうか、よっしゃしょっしゃ! って言うてましたやん」
「いやっ、それは確かに言うたけどぉ~、まさかっ、そういう意味やとは……」
オレは夜警の最後にヒロキと交わした言葉を、一語一句違わぬよう思い出してみた。
『武くん。今年の夜警は俺らもう来られへんけど、ええ年迎えて下さい。それと武くん。来年から俺岸和田に越して来よと思てんねんけど、また越して来たら色々とお世話になります』
『おう。そうか、よっしゃしょっしゃ! まあ気付けて帰れよ!』
『はい』
話の流れからいえばヒロキの言うようにも取れなくはないが、普通常識から考えて、この夜警の最後に交わした言葉の中には、武くんの所にという固有名詞が都合よく抜けていた。『岸和田に越して来よと思てんねんけど』と言う部分にしても、『岸和田に』ではなく『マウ二に』が正しい言葉の表現である。その上で『また越して来たら色々とお世話になります』というアバウトな表現で、相手に『色々』の意味を問い質す事をさせず、
「よっしゃしょっしゃ!」
と気持ちの良い返事を相手にさせた所はさすがというしかない。にしてもだッ! 普通ならオレの所に住まわせてもらいたいという旨をちゃんと伝えるのが筋である。これは明らかに弁舌巧みな舌先三寸にも似た詐欺行為に加え、いきなり荷物まで持って押しかけて来てのテロ行為である。あげくの果てに彼女を後ろに立たせて、オレがここで断ると、オレの度量を量られてしまう局面を見事に作り出し、将棋でいう所の王将が逃げ道なく、「王手」と声も掛けずにいきなり王将に詰め寄られたようなものである。
「向こうでの仕事も辞めて来たんで、休み明けにでもこちらで仕事探しますわ!」
とどめの言葉がこれである。詰将棋でもコマをぐちゃぐちゃにすれば勝負は振り出しに戻るが、この言葉はもうすでに歩で王将を奪われた後に等しかった。
「まあ、とりあえず上がれや!」
玄関で立ち話もなんだからという意味である。しかしテロ行為ならぬ押しかけ女房をしてくるような男である。上がり込んだが最後、ヒロキは早速カバンに詰め込んで来た荷物を広げ始めた。
「何やってんなヒロキ?」
「いやぁ~、実家から出て来るときバタバタしてたもんで、自分の私物一切合切カバンに詰め込んで来たんで、とりあえず仕分けして要る物と要らん物別けてるんです」
「いやいや、それは見ればわかるけど……。えっ、お前本気でここに住む気?」
「はい、そのつもりですけど」
「もしかしてナリちゃんも?」
ナリちゃんとはヒロキの彼女である。
「いえいえ、ナリちゃんは大阪に部屋借りてるから、僕に会う時はそこからマウ二に通います」
それを聞いてひとまずは安心したが、しかし……。そんな事で安心している場合ではなかった。オレと新たな女性とのラブラブな生活が遠のいてしまうどころか、オレにとっては死活問題だった。
「おいヒロキその前に……」
オレはキッチリ話をしようと試みたが、
「武くん。いや、兄貴! ──」
と、ヒロキはオレの出端を挫き、オレのツボを突く言葉を織り交ぜながら話し始めた。思わず兄貴という言葉に耳をダンボのように傾けてしまうお茶目なオレ。ワンピースでいう所のチョッパー並みにオレは持ち上げられると弱い性格なのである。
「俺、去年の武くんが団長やった年に参加させてもらってホンマに感動して、俺も本格的に岸和田に住んで、この春木の街に根を生やそうと覚悟決めて来たんです。ほんで俺もいつか武くんみたいに、皆、引っ張って行けるような男になろ思て武くんの所に越して来ました。俺は神戸で一人兄貴て呼べる義明が居るけど、岸和田の街では武くんの事、こっちの兄貴やと思っています!」
ヒロキの思いを聞いてオレの口から出た言葉は、
「わかったヒロキ、オレの所で男磨けッ!」
山本武という男は、チョッパー以上に持ち上げられると弱かったのだ。
(アカン……。ついつい乗せられて男らしい言葉吐いてもうたぁ~っ。オレのマウ二での彼女とのラブラブな生活がぁぁぁぁ~~~~~~~~っ!)
こうして瀬尾と入れ違いに、マウ二に新しい住人がオレと共に生活を始める事になったのである。
休み明けヒロキに働き口を紹介してやった。その職場とは、三浦が以前勤めていた外壁工事のサイディング会社である。社長のノリちゃんは桜子での飲み仲間でもある、第三十四章『病気発動!』で登場した、鳥取の米子市にログハウスを共に建てに行った人物である。
それから数日が経ったある日、ヒロキが仕事から帰って来ると、車の助手席にヒロキを乗せ、これまた桜子の飲み仲間でもあり、ゆうさんの幼馴染でもあるキミちゃん(第二十八章『目差せ! 全国二年目の夏 其の四 終わりなき夏』参照)宅にヒロキを連れて行った。キミちゃん家ではQやん(第二十五章『定時制高校録 其の三 大人の報酬』参照)初めとする知った顔ぶれが、ちゃぶ台を囲みいつものように飲み会が始まっていた。
ヒロキを皆に紹介すると、饒舌なヒロキは早速輪の中に溶け込み、ビール片手に皆が盛り上がっていたのだが、時折ヒロキは喘息の吸引器を口元に当てては、辛そうに吸引器を吸っていた。時間が経つ事に吸引器を口に当てる回数が、まるでタバコをぷかぷか吸うように、十秒に一度ほど吸引器を吸い込み出したので、
「ヒロキ、そんなに頻繁に時間も空けんと吸引器吸っとって大丈夫なんか?」
オレは身体の事を気遣いヒロキに尋ねてみると、
「僕みたいな体、どないなっても構わないんでそんな心配いりませんわ」
と、オレが最も忌み嫌う自暴自棄な言葉をヒロキが吐いた。オレはヒロキを叱りつける前にオレの左裏拳がヒロキの鼻頭を直撃させていた。それを見ていたキミちゃん初めとする者達は、唖然として言葉を失い、その場は物音一つ立てる様子なく静まり返った。
「お前コラァ~ッ、仮にもオレの所に住もういう人間やろォ~~ッ! それが自分の体も大事に出来へんような中途半端な言葉吐きやがって、オレと一緒に暮らす上でそんな生半可な精神でおってもろたらオレが困るんじゃ~ッ! ええかヒロキ、今ハッキリ決めぇ~ッ! オレと暮らすんやったらその性根の曲がった心構え治す覚悟がなかったら、今すぐ神戸に帰れェ~~ッ!」
ほんの間を置いて、
「すんませんでした……」
と皆の手前ヒロキは謝って来たが、その眼の奥には納得のいっていない光が宿っていた。
その場に居た者達は、
「まあまあタケちゃんもヒロキくんもビール飲もぉ~」
と気を遣ってくれたが、オレ達はしばらくしてキミちゃん宅を後にした。その帰り道、八幡公園前にオレは車を横付けすると、
「ヒロキ、納得いってないんやろ? 公園行こやっ!」
オレはヒロキに声を掛け、
「はい、行きましょかぁ~ッ!」
と、ヒロキもまた内に秘める思いを露わにした。
八幡公園はその昔、八幡山とも呼ばれるなだらかな傾斜の付いた八幡山遺跡があった場所なので、オレ達は人気のない小高い丘の上まで二人して歩いて行くと、互いに向き合い、そしてオレから言葉を吐いた。
「お前の顔見てたら納得の行ってないのはよう解る。それと、なんで俺がこんなケンカも弱そうなヤツに殴られらなアカンねんって思てるやろ?」
「はい、思てます」
「よっしゃヒロキ、とりあえずそこからお前に教えといたるわ。掛かって来なさい!」
オレはブルースリーのように右手の甲を相手に向けて、おいでおいでするように二度指を折った。
「おう、ほな行ったらいッ!」
その気になっているヒロキは偉そうなタメ口を吐いてファイティングポーズを執ると、1・5m離れた位置から拳を振りかざしてオレに向かって来た。
オレは至って冷静だった。今こそ相手を必要以上に傷つけず、一発で仕留める場面だと踏んだ。そこでオレが瞬時に判断した戦法は、相手のガラ空きになっている鳩尾に前蹴りを入れると見せかけて、ヒロキがそれを防ごうとガードを下ろした時に、フェイントを掛けてからの上段回し蹴りを相手のこめかみに一発放ったのだ。勿論手加減してである。
もろに一発こめかみに入れられたヒロキは、呆然とその場に立ち尽くした。
「おい、まだ一発だけやぞ! 何止まってんな! 早よ掛かって来んかい!」
しかしヒロキはオレに立ち向かって来るどころか、ファイティングポーズを解き、
「レベルの違う事はよう解りました。もういいです……」
とあっさりと負けを認めてしまった。これぞまさしくオレが思い描いた展開である。
「ほんでお前自身納得は行ったんかい!」
「はい、納得いきました。最初はホンマのところ、なんなこのへぼいヤツはと思ってましたけど、武くんには勝てん事が解りました」
「ちゃうちゃう、オレの言うてるのはその事と……。お前の精一杯生きようという精神のこと言うとんやぁ~。オレの怒ってた所はそこや! ええかヒロキ、これからマウ二で住むんやったら、お前が間違った事したらその度オレは何度でも叱ったる。そやけどそれもお前の根っこの根っこが伴ってなかったら、オレの叱る意味は何の効力も持たんのや!」
「なんとなくやけど言うてる事は解ります」
「そうかぁ~、ほならそれでええわ! 徐々に解って行ったらええ! ほんでなぁ、ヒロキ!」
「はい」
「お前のその喘息あるやろぉ、オレの言うような生き方にこれからお前が替えたら、きっとお前の喘息は治る。いや、間違いなくオレが治してみせる。だから本当の意味でオレに付いて来い! 解ったなヒロキ!」
「はい」
こうしてヒロキは心を入れ替え、オレの擁護の許、マウ二に住む決意を固めたのである。
喘息はその後、半年が過ぎようとする頃、いつの間にか本人も気付かぬ内にマウ二での生活の中で完治していた。そんなヒロキだが、マウ二では一年オレの許で暮らす事になる。
それにしても、
「なんやこのへぼいヤツは」
とは、よくも言ってくれたものである。オッサンになった今、この文章を書いて改めて思い出したので、今度ヒロキとあった時に一発ドツいておこうと思う……。